介護事業部

介護事業部 ホームケア土屋

古川善広

郡山 アテンダント

「自分の好きな人に会いにいく」ーー重度訪問介護って、そう言える仕事。

 《interview 2025.10.28》

ホームケア土屋郡山でアテンダントとして働く古川善広(ふるかわよしひろ)。
自然に囲まれた中で育ち、ボクシング、建築、介護…と興味を持ったことには「思ったらすぐ行動」の精神で飛び込み、さまざま経験を重ねてきました。
2024年、重度訪問介護の仕事と出会い、クライアントの暮らしを支えてきた彼のまなざしに映るのは、幼い頃から憧れてきたという“やさしい父と祖父の姿”。
「いちばん大事なのは、目の前の人が笑顔でいること」――そう語る古川の日々を追いかけました。

CHAPTER1

「父親みたいな人になりたい」

お兄ちゃんと木にのぼったり、秘密基地をつくったり。よく怪我をして遊んでました

―古川さんはどちらで生まれ育ったのでしょうか。

高校卒業までは福島県の須賀川(すかがわ)で生まれ育ちました。

―小さい頃はどんなお子さんでしたか?

わんぱくだったと思います(笑)。
田舎なので外で遊ぶことが多かったですね。

生まれた育った家も目の前が川だったので、“ザ・田舎”の景色というか。
小さい頃はよくおじいちゃんと河原や川に行って、石で水切りをしたり。

兄弟が男3人なんですが、僕はいちばん下なんです。

お兄ちゃんと木にのぼったり、秘密基地をつくったりしていたので、怪我も多かったですね。

―小さい頃にこんなものになりたかったとかっていうのってあります。

僕は父や祖父が憧れなので、よく「父親みたいになりたい」「おじいちゃんみたいになりたい」と思ってました。

―お父様とお祖父様は、どんな方だったんですか。

おじいちゃんの場合はとにかく「やさしい」のひとことにつきます。

怒られた記憶もないですし、自分と同じ目線に立って、よく遊んでくれました。

父親の場合も同じで、優しいのと、仕事をしてる姿もかっこよかった。

そういうふたりの姿を近くで見ていて、「自分もこんな人間になりたいな」って思っていました。

―古川さん自身はどんな性格だったんでしょう。

ポジティブで明るい性格でした。
「思ったらすぐ行動」っていうところは今も変わらないですね。

CHAPTER2

思ったら、すぐ行動――ボクシング、建築の仕事、そして介護との出会い

そこにいる人が、本当は何を求めているのか

その後、中学校では野球部に入って、10代は野球に夢中になっていました。
高校を卒業して18歳になった頃、世の中で格闘技ブームがあって。

当時、人気のあった山本“KID”徳郁(やまもと“キッド”のりふみ)選手に僕は強い憧れを持っていて、「格闘技をやりたい」という思いがありました。

ボクシングに興味を持ち出したのはそこからですね。

「だったら地元にいるよりも、当時、兄が住んでいた関東に行った方が、練習環境がいいんじゃないか」ーーそう思って、卒業してすぐに千葉にいた兄のアパートの近くに移り住んだんです。

そこからはボクシングに夢中になりました。

アルバイトをしながら、ボクシングジムに通って。

ただ、20歳になった時に、「アルバイトだけでは食べていけない」となったんです。

もともと僕の家は、おじいちゃんの代からの瓦屋なんです。

家業としても建築業をやっていて、自分も建築が好きだったのもあって、「勉強しながら生計を立てて、なおかつ好きなこともやろう」と、「建築業で働きながら格闘技を続ける」という選択をしました。

その後、プロボクサーにはなったんですが、ボクシングの試合中に脱臼をしてしまって。

ちょっと考えて、ボクシングを引退することになったんです。
引退した後、残ったのが建築業の仕事だった。

ただ自分としては、「建築業だけやっていくのは面白くないな」と思ってしまって。

いつか自分で会社を立ち上げて、建築業でやっていこうと思っていたんですよね。

自分はもともと、じいちゃん、ばあちゃん子だったんですよ。

じいちゃんばあちゃんが足が悪くなって車椅子生活になった時に、ふたりが住む家の住宅改修を自分がして、その時の経験から「そこに住む人が本当は何を求めてるのかをもっと勉強しなくちゃダメだ」と思った。

そうやって何か自分の好きなことを追求して、「“おじいちゃんおばあちゃん”と“住宅”がつながることって何だろう」と考えた先に、「住宅改修を強みとした建築の仕事をやっていきたいな」とーーその流れの中で、介護の仕事にも興味を持つようになりました。

それも「思ったらすぐ行動」。

「それならいっそのこと介護施設で働いてみよう」と思って、初任者研修を取得して、特別養護老人ホーム(以下、特養)に勤めました。

その時は「その家に住んでいる人に寄り添える家づくりがしたいな」という思いでした。

CHAPTER3

試合という「非日常」を過ごして

練習と試合をかさねていく中で、何事にもチャレンジするマインドを育ててきた

―お話が戻ってしまうんですが、ボクシングはどれぐらいされていたんですか?

ボクシングのプロライセンスを取ったのは20歳です。

その後、僕はデビュー戦で負けてしまって、そこで1回ボクシングから離れたことがあったんですがー―ちょっと時間が空いて、また戻ったんですよね。

なので、ボクシングをしていたのは計6年ぐらいです。

最後の試合が25、6歳だったので。引退を決めた時の試合の対戦相手は後にチャンピオンにもなっていて、「やれてよかったな」って思ってます。

ボクシングから学んだことはたくさんあります。

強い選手や先輩と出会う中で、いろんな考え方や練習に向き合う姿勢を間近で感じてきました。

それから、試合に向けて、普段の生活から気をつけなくちゃいけないこともたくさんあった。

試合が近づいてくるとーー言葉が合っているかわからないんですがーー「死が迫る」みたいな感じがあるんです。

試合というのは“非日常”の部分が大きいんです。
それくらいの緊張感や恐怖感を持ちながら、普段の日々を過ごすことになる。

そういう日々を経験してきたので、たとえば何かにチャレンジする時に、「ボクシングでできたんだから、○○もできるだろう」って今も思えるんですよ。

「試合もできたんだったら何も怖くない」。

ボクシングを通じて、自分の中に、恐れることなく何事にも挑戦していくようなマインドが育ちました。

「自分の憧れていた選手に近づける」ーーそんな思いで続けていたところもあると思います。

強い選手とのスパークリングや、練習、試合を重ねていくうちに、「自分が強くなっていってる」っていう実感が持てるようになるんです。

自分のマインドを鍛えていく上でも、ボクシングは大きな影響がありましたね。

CHAPTER4

からだと住環境の関係をみつめた先に

「住む人に合った家づくりに特化した仕事がしたい」という思いから介護の仕事へ

その後、特養に入社してからはーー同時に理学療法士(以下、P T)の学校に入学しました。

日中帯は介護の仕事をして、夜間はP Tの学校に通って。

―建築もそうですが、介護も体の構造や使い方から知るところが古川さんにとって大事なところなんですね、きっと。

そうですね。
P Tの資格を取ったのは、住宅コーディネーターという仕事にも興味を持っていたことも大きいんです。

その人の身体機能と住環境はあたりまえですが、関係しているんですよね。
高齢者や障害を持つ人にとっては特に。

体の機能を見ながら、「住む人に合った家づくりに特化した仕事がしたいな」と思っていました。

僕自身もボクシングの現役時代から怪我も多かったので、「自分がP Tだったら、どうしていたか」っていうところも自分自身も勉強したかったので。

―実際に介護の仕事を始められて、どんな印象を受けましたか?

最初は介護について無知だったので、わからないまま続けていたんですが、働いていく中で「特養には閉鎖的なところがある」っていうふうに僕自身は感じました。

施設自体がどうしても時間に追われてる感じがあって、入居者の方と関わる時間も少なかった。

入居者に面会に来られないご家族もいらっしゃいました。

もちろんいいところもあったんです。
でも、僕は少なからずそういった印象を感じてしまいました。

特養は1年目は常勤で働いていたんですが、学業が疎かになってしまって、アルバイトにシフトすることになって。

「別の特養も見てみよう」と思って移ったふたつめの特養は、「ひとりを大切にする」っていうことを理念であげている会社で、その理念に興味があり入社しました。

その時点で、学校は残り2年。

「じゃあ、あとの2年はお家に訪問して、実際に住んでいる人やお家を見ながら介護をしてみたい」と思って、そこから仕事を訪問介護に移したんです。

CHAPTER5

重度訪問介護という仕事の、僕にとっての必要性

いちばん大事なのは、いつも目の前の人が笑っていること。

そこから始めた訪問介護の仕事は、最初から「自分に合ってるな」っていう印象でしたね。

マンツーマンでクライアントとコミュニケーションが取れる素晴らしさ。

より一層、その人のことを考えて、その人の笑顔を追求して、「この人だったらこうした方がいい」「どうしたら笑顔を見せてくれるかな」とか、その時々で考えながら関わることができる。

それが僕の中ですごくマッチしたというか。訪問介護の仕事は2年ほど続けました。

その後、学校を卒業してP Tと介護福祉士の資格を取って、地元の福島に戻ったんですよね。

最初に言った通り、「住宅改修の会社をやりたいな」って思ってて。
資金をつくるために帰ってきたんです。

その時は親戚がやっている建設業の会社で働きながら仕事をしていました。

当時から重度訪問介護(以下、重訪)の存在はずっと知っていて、興味がありました。

その中で「訪問介護を極めたい」という思いはあったので、「じゃあ、金曜日の夜とか、土曜日の夜だけでもいいので、働いて勉強したいな」と思って、ホームケア土屋に入社をしたんです。

最初はアルバイトでした。

ちょうど1年くらい経った頃、父親が仕事中に怪我をして、脊髄損傷を負ってしまって。

そこからですね。

重訪の仕事に必要性を感じたというか。宿命、じゃないですけどー―「全力で重訪に取り組もう」と思い、管理者の方に相談をして、今、常勤として働いています。

―重訪の仕事はいかがでしたか?

そうですね。

難病の方や障害を持ってる方とは今まで接したことがなかったので、初めての経験でした。

僕はそれまで高齢者と関わることが多かったのと、関わる時間も短かったので、ギャップはありました。

―重訪に関わられた当初は、そのギャップに戸惑いもあった、というふうに仰っていました。どんなところに戸惑いを感じられたんですか?

そうですね。

たとえば……僕たちが言うことは理解してくださってるんですが、ご自身の思いを言葉で伝えることが難しいクライアントの方がいらしたんです。

その時、「どうやって関係をつくっていったらいいんだろう」、と。

でも、そのクライアントがふと笑う時に、「なんで笑ったのかな」って観察してみることにしたんです。

何度も観察を重ねて、だんだん深掘りしていくと、「あぁ、○○が好きだったからあの時、笑ってくれたんだな」ってわかるようになる。

そうやってクライアントの好きなことを探りながら、距離を縮めていきました。

それから、クライアントとご家族のコミュニケーションを通して、ご家族がどういうふうに接しているのかも観察しました。

「なるべくご家族が接する感じに近いかたちで関わろう」と、伺う度に学びながら、いろいろ工夫をしてますね。

―ちなみにそのクライアントさんはどんな時に笑ったり、喜ばれる方だったんですか?

そのクライアントは、いたずらがすごく好きな方だったんですよ(笑)。
僕とかアテンダントのちょっとした失敗を見るのが好きなんです。

なので、自分が失敗したところをわざと見せたり(笑)。
あとは車とか、その方が興味を持っているものからアプローチしましたね。

―(笑)。緊張する関係の中では、ユーモアって大事ですよね。

本当にそうですね。
やっぱりユーモアを大事にしてますね。

目の前の人が笑っているのがやっぱりいちばんなので。

「どうやったらこの方を笑顔にできるかな」っていうことは、介護の仕事を始めた時から考えてきました。

―古川さん自身は、どんなところに嬉しさとか、やりがいみたいなものを感じられていますか。

そうですね。

やりがいも嬉しさも多分、同じでーークライアントの笑顔もそうなんですが、ご家族からも「古川さんが来るとすごく安心して、笑顔も笑い声も聞こえる」なんて言ってもらえると、「よかったな」って思いますね。

CHAPTER6

訪問介護って、“その人と過ごす時間”。

自分が素でいることは、クライアントのいる環境に馴染むこと

―人と関わる中で、古川さんが大切にされていることはどんなことですか。

みんながみんなではないですが、どうしても大人数の施設とかだと、クライアントとのやり取りも流れ作業――という印象を持ってしまいます。

僕自身はいわゆる“お仕事”的な関わりかたが苦手で、「その人を観る」ということを大事にしてきました。

僕はーー「裏表がない」っていう言い方でよいのかな。

素の自分をさらけ出してしまうようなところがあるんです。

クライアントにも「この人はこういう人なんだな」ってわかってもらうことで、クライアントがより心が開きやすくなるんじゃないか、っていう経験もあって。

そうすれば自ずとその人の笑顔に繋がってくのかな、って。

―「自分には訪問介護が合ってた」と仰ってましたが、それはどんなところだったんですか?

自分が向いていたと思うのは、マンツーマンでその人のことを考えられるところですね。

施設だと介助の時間も決まっているし、もっと喋りたくても、業務に追われて、「ひとりの人とゆっくり会話ができない」ことがある。

でも訪問介護というのは、“その人と過ごす時間”なのでーー。

より一層、その方のことを考えられることができるようになりましたね。

―介護の仕事に就かれてから、ご自身が変わってきた部分があったら聞かせてください。

「思ってることって言葉にしなくても伝わるんだな」っていう印象があります。

それは介護をずっとやってきて感じていることですね。

今関わっているクライアントだけでなく、認知症の方ともそういう感じはありましたね。

重訪の仕事をするようになってから、自分の思いだけを伝えてもうまくいかない時があったんです。

その経験は勉強になりましたね。相手のペースに合わせること。

その時の気持ちを尊重すること。

自分の思いが強いだけではコミュニケーションはうまくいかないことを学びました。

―そうなんですね。そのクライアントさんとのやり取りではどんなことがあったんでしょうか。

その方は気分の波がある方で、どちらかというと、「なるべくならあまり頑張りたくない」という感じで日々を過ごされている方でした。

でも当時の僕にはそういう感覚がなかったんです。

どちらかというと僕は「頑張りましょう」というタイプで、クライアントとの間に思いの違いがあった。

「早く関係を築きたい」という気持ちが先走ってしまったんです。

相手のことを知ろうと積極的に話しかけたり、様々な提案をしたりする中で、肝心の傾聴の姿勢が疎かになってしまってーー

そのクライアントから何か言われたことはなかったんですが、コミュニケーションが減ってしまった。

「嫌な思いをさせてしまったな」っていうことがありました。

そこからは顔の表情だったり、声のトーンだったりを感じて、合わせるようにしてます。

「今日は調子が良さそうだな」と思ったら、自分もちょっとあげたり。

「今日はあんまりかな」と思ったら、声かけもあまり積極的には行なわず、最低限のやり取りを心がけるようにはなりました。

古川さんがご自身で自宅を改造してつくったトレーニング室

CHAPTER7

クライアントの存在が、働く僕の原動力

アテンダントとして、そして、第2の家族として

―古川さんはお休みの日はどんなふうに過ごされているんですか?

体を動かすことやD I Yが好きなので、自宅を自分で改造してつくったトレーニング室があるんです。

そこでトレーニングをしたり。

あとは、バイクに乗ったり、youtubeで自分の興味のあることを勉強したりしてますかね、休日は。

―そうなんですね。
では最後に、「これから」について伺いたいです。

そうですね。

僕自身、介護を“仕事”っていう感覚でやっていなくてーーなんというか、自分の好きな人に会いに行くっていう感覚なんです。

好きな人に会いに行って、その人のお手伝いをさせていただいてるーー

これまで、そんな感覚でやってきたので、「仕事だから行きたくないな」と思ったことって今まで一度もなくて。

だからこれから、僕みたいな感覚を持っている人と一緒に働いていけたらいいな、と思ってます。

重訪は、そういう思いで仕事ができる。
そんな感じにしたいですね。

―「土屋らしさってなんだろう」ということについても、みなさんと一緒に考えています。重訪という仕事を通して、上司とのやり取りを通して、古川さんが思う「土屋らしさ」について聞かせてください。

そうですね。

思い出すのは、父が怪我した時――その時は僕はアルバイトだったんですがーー父を看ることになったので、出勤ができない時期があったんです。

でも上司の方は、その時もずっと待っていてくださった。

「お父様が安定して落ち着いたらまた戻ってきてください」っていう言葉を言ってくださって、すごくありがたかったですね。

父は、その後、気管切開をしたんです。

その時、同僚や先輩方が「脊髄損傷の方とも僕は接したことがあるよ」とアドバイスをくださったり、声が出なくなった時のコミュニケーションの仕方を教えてくれて。

それは勉強になりました。

―みなさんが介護の仕事を続けていく原動力になってるものを伺っています。古川さんにとってはどんなこと、どんなものですか?

続けていける原動力はやっぱり、家族の存在がいちばんですね。

それから、本当にクライアントに恵まれてる。
クライアントの存在が原動力です。

僕はーークライアントやご家族に、アテンダントというのは単なる介護士ではなく、「第2の家族のような存在」として感じてもらえるよう心がけているんです。

伺う際には明るい笑顔で挨拶をし、帰る時には「また会えるのを楽しみにしてます」とお声がけしていて。

その言葉に「あなたとの時間を大切に思っている」「次会う時も、良い支援をしたい」という気持ちを込めてます。

ホームケア土屋が提供する重訪という仕事はーー命そのものに関わる仕事なんですよね。

世の中になくてはならない仕事だな、って。
そう思います。

 

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