―学校を卒業されてからどんなことをされてきたのか、聞かせてください。
それこそ、こどもの頃から「将来、なりたいものはサッカー選手」、一択だったんです。
ただ、いいところまでは行ったものの、高校3年の時に怪我をしてサッカーの第一線からは離れているんです。
大怪我をして、膝の手術をして半年ぐらい歩けなかった時期がありました。
その後、大学はサッカーの経歴があったものですから、選手兼コーチ枠のような形で、またスポーツ推薦にて入学することはできたんです。
運動にまつわる学びができたところはあったんですが――ただ、いちばん大きな転期はその辺りでありました。
「これからはサッカーと別のことをやらなければいけない」。
「夢がなくなったあと、どうするの?」――っていうところを、どうやって前向きに捉えていくか、というか。
大学は体育学部に入るつもりでいましたが、怪我のこともあって体育学部ではない学部を選びました。
「これから、どう切り替えていくか」という準備をしてたんでしょうね。
建築士過程の製図設計やCADなどを勉強したり、建造物やインテリアデザイン、ウェブコンテンツ、空間プロデュースなど、学ぶコースを変化させていってました。
そんな中、卒業後は会社に就職する方が多かったんですが、「自分でやりたい」っていう思いが出てきて。
あの時はいろいろ思うところがあったんだろうと思います。
時代を見ても、I T系の会社が起業して盛り上がっていたり、景気が下がってきたり、就職難だったり、そういう時期でもありました。
―会社を立ち上げられたんですか?
そうですね。
大学時代、ダイニングバーでアルバイトをしていた時に、オーナーから開業についての話を伺って。
卒業後は就職をせずに個人事業主として飲食店をオープンし、社会人生活をスタートしました。
もともと交友関係が広かったので、そこから飲食店をしている2、3名で集まって合同で会社を立ち上げて、事業を拡大して――。
最終的には、名古屋の都心部で他事業含めて6店ほど経営をしていました。
―お店に立つのではなく、経営者として関わられていたんでしょうか。
少数店舗の頃は店長やマネージャーとして現場を担い、店舗数の拡大に伴い、若くして、いきなりですが経営者として事業全体の運営にも携わっていました。
とはいえ、経営陣が現場から遠ざかるにつれて、現場との乖離が生まれ、組織のバランスが崩れていったんです。
そのため、事業拡大後は一旦基盤を安定させる必要があると考え、「現場に近い立場で関わる」ことを意識して取り組んでた頃でしたね。
ただ――上昇したものの、結局うまくいかなかったんですよ。
不景気が訪れるんです。
リーマンショックの影響を受けて。
飲食業というのは思いきり不景気に左右されるので、20代で最終的にはすべての飲食業を閉めることになりました。
人生の中でもいちばん大変な時期でしたね。
―平松さんの中で、「自分で事業を起こしてやっていくこと」がその時必要なことだったようにも感じます。
そうですね。
漠然と大きなことを何か目指したかったんだと思います。
今と昔では、時代も背景も自分自身も違ってますから、なんとも言えないんですが――。
自分の中にあったんですよ、事業を立ち上げることで「大きなものを変えたい、世の中を変えたい」といった思いが。
今は緩やかになってきましたが、もっと自分も硬かったですからね。
いろんな思いが含まれてたんだと思います。
事業を立ち上げることを、ひとつの“夢”として捉えてみると、何か大きいことをやってる感覚になっていたのかもしれません。
ただ、ここから第2のターニングポイントが訪れるんです。
もともと会社をやっていたので、いろんな知り合いはいました。
その知り合いの紹介で、30代になってはじめて、全国展開している規模の人材派遣会社に入社をしたんです。
将来への不安を抱えながら、改めての再出発でした。
その会社では7年ほど働いたんですが、比較的早期にキャリアアップのお話をいただき、事業所の派遣元責任者などの管理職を務めさせていただきました。
その後、40代前に土屋へ転職し、新たにキャリアアップの機会をいただいて、現在に至っています。