《interview 2022.02.21》
株式会社土屋に新設されたばかりの経営戦略室に所属する佐々木 直巳。 バブル最晩期の凋落を目の当たりにした証券外務員時代、外資系こども向け商品の小売り、そして父親の介護を経てたどり着いた株式会社土屋。 経歴の奥には、どんなドラマがあったのでしょうか……。
株式会社土屋
経営戦略室
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株式会社土屋に新設されたばかりの経営戦略室に所属する佐々木 直巳。 バブル最晩期の凋落を目の当たりにした証券外務員時代、外資系こども向け商品の小売り、そして父親の介護を経てたどり着いた株式会社土屋。 経歴の奥には、どんなドラマがあったのでしょうか……。
CHAPTER1
新設された経営戦略室で、現在、事業計画やP/Lの作成など、経営の根幹を担う仕事に従事している佐々木 直巳。仕事一筋でここまでやってきた佐々木ですが、その素顔を知る人は社内でも多くないかもしれません。人生100年時代、折り返し地点を過ぎた今、過去を振り返ってもらうと……。
佐々木 「幼稚園、小学生時代の頃は、毎日、外に遊びに出かけてばかりの、わんぱくな子どもでした。家の目の前が埼玉県の武道館だったので、剣道を始めて、毎日通っていましたね。
小6の頃には有段者になっていましたから、それなりにいいところまでいっていたんですが、中学に入ってからは全く異なる分野?の軟式テニス部に入りまして。以来、高校までずっとテニスをしていました」
そんな佐々木の夢は、当時は航空自衛隊に入ることでした。とにかく空が好きだったと言います。
佐々木 「理由は単純で、空を飛びたかった。でも、高校から視力が一気に落ちて、パイロットの規定に届かず、夢破れました」
その後は大学の経営学部に進学。両親ともに金融関係だったことから、将来は銀行員をイメージしていましたが、証券会社に縁あって就職します。
佐々木 「バブル時代でしたから、当時は地道な銀行員より、ダイレクトにお金を扱う証券外務員に人気が出始めた頃でした。私も証券会社に入社し、そこから8年間、営業でやってきましたね」
入社当時の日経平均は約3万3,000円。年末には3万9,000円の高値をつけていました。バブル全盛期の中、佐々木は猛烈な企業戦士として朝も夜もなく奮闘します。
佐々木 「毎朝5時起き。7時にはオフィスで業界新聞を10紙ほど読み、その日の営業活動、投資方法を決めて8時から全社会議。相場が終わる15時以降は営業で外回り。20時に会社を出たらその後は、夜中の2時頃まで先輩と飲み歩きをするような生活。睡眠3~4時間はザラだった。そして週末の土日はゴルフのお供に」
これぞ、ザ・「営業部員」!しかし連日の早起き、開拓営業、夜の飲み会続きはさすがに身体に支障が出たようで、入社半年後には自律神経の失調で入院も経験。それでも激務は変わらず、その中で金融に関する犯罪も間近に見てきたと言います
佐々木 「ある日突然、段ボール箱を抱えた30人くらいの黒ずくめの集団がやってきて。国税局や証券取引等監視委員会の告発を受けて捜査しに来る、いわゆる特捜部ですね。脱税や横領、インサイダー取引といった事件が、当時は業界でよくありましたから。それこそ財産の差し押さえなども見聞きしてきましたし」
今更ながらにバブルの凄まじさを聞いてみると。
佐々木 「私がいた証券会社では、大学卒業したての新人でも運用資産は50億くらい預からせてもらいました。当時は郵便貯金、債券の金利が年利8%以上もありましたから、10年でそうした預金がほぼ倍近くになってましたので、その償還資金を株に、土地にと、資産運用ブーム真っ只中の時代でした。
けれど90年以降はバブル終息の兆しが見え始め、証券業界にも厳しい冬の時代がやってきました」
まず、日経平均は1992年3月に2万円を割り込み、高値から半値以下になる事態に。為替も異常な円高に見舞われ、1995年には1ドル=70円台の超円高になっていきます。この影響もあって大手証券会社は軒並み経営不振に。自己破産が相次ぎます。
佐々木 「当時有名だった、あの小金井カントリー倶楽部のゴルフ会員権が4億から3000万まで下がるという状況でした。株で儲けようという人も激減し、当然手数料収入も減っていき、思うような営業利益が出せず、メイン銀行、生保からの融資も無くなって……。
当時、従業員組合に居たこともあって、団体交渉の場で、経営側からの今後の見通しといった話も色々聞けたので、もう、これは次の仕事を探すしかないと。今思うのは、当時かなり精神的には鍛えられたなと思います。良くも悪くもですが。
パワハラという言葉のない時代でしたから、その日の売上やノルマ未達なら怒号と灰皿が飛び交う中で、とにかく忙しくて身体も壊しましたが、日本の金融市場の激動の時代も味わいつつ、根性も身についたと思います」
そして佐々木は8年の証券外務員人生に別れを告げ、外資系の小売業に転職します。
CHAPTER2
小さなお子様向けの玩具や自転車販売など、外資系の小売業で仕事を始めた佐々木。大きな変化は、家で食事をするようになったことだと言います。
佐々木 「証券会社の頃に結婚し、子どもも生まれたんですが、私がほとんど家に居なかったので、その頃、妻はお米を5kg以上、買ったことがなかったそうで。
小売業だと営業時間が決まっているので、家で食事ができるようになったんです。妻は初めて10kgのお米を買って、『お米って重いんだね』って言ってました(笑)」
転職し、給料が2分の1になっても、家賃の安いアパートへ移っても、愚痴一つも言わず、ついてきてくれた妻。しかし、佐々木にはぬぐい切れない思いがあると言います。
佐々木 「おもちゃは大好きだったので仕事は楽しかったですね。その年のクリスマスに売られる子どもたちに人気のヒーローものやミニチュアドール、キャラクターの新シリーズ商品などを扱ってきました。
入社してからの2年間は、まず現場の店舗マネージャーからの出発でした。3年目には新潟の店長となり、あとは各地転勤を繰り返しました。埼玉川越から始まって群馬の太田市、新潟市、岩手の北上市では新店を立ち上げたりもしました。その度に、家族も一緒に引っ越しをして。
妻は多分、諦めてたんだと思いますが……幼稚園に行く子どものために準備していた制服が使えなくなったり、せっかく築いたママ友の関係を失ったり、いろんな苦労があったと思うんですよね」
子どもに関して佐々木は、今も忘れられない場面があると言います。
佐々木 「一番苦しかったのは子どもじゃないかなと。息子は小学生の時に、新潟で仲良しの友達ができて、初めて自分の居場所が見つかったと思うんです。けれど岩手に転勤が決まりました。
それまで普通に会話をしていたんですが、引っ越しの日、車の中で黙りこくってしまいました。しくしく泣いていたんです。ミラーでそれを見た時に、すごく悪いことをしちゃったんだと思い知らされました。今も目に焼き付いています」
佐々木は家族と関係の中で、人との接し方を見つめ直します。
佐々木 「家族でも気持ちを分かり合うのは難しいです。自分の基準で大丈夫だろうと思っても、本人はそうじゃないっていうことがたくさんあるわけじゃないですか。元気づけてあげようなんて、おこがましいかもしれないし、相手にとっては厄介かもしれない。
当時転勤辞令は絶対で、家族には事後報告で進めていたわけですから、子どもには申し訳なくて、反省の日々が内心ではありましたが、そんなことを初めてじっくりと考えさせられました。
今では『寄り添い』という言葉が一般的になりました。当時は会社の決定にはNOと言えない時代でしたが、その言葉が当時の自分の中にあれば、また状況が違っていたのかもしれない。相手の立場を知らないと行動も変わらない。それぞれに立場の違う苦しみがあって、そのことを分かってなければいけなかったことを、子どもから教わりましたね」
そこから転勤の話は口に出せなくなったという佐々木。店長時代には、敗血症で集中治療室にも入りましたが、7年目からは縁あって地元埼玉に戻り、そこから約14年間、本社勤務に邁進します。
CHAPTER3
息つく暇もなく仕事に邁進する日々を送ってきた佐々木ですが、そこにあるのは常に「希望」だと言います。
佐々木 「仕事人間ではありますが、名誉やお金を求めるだけというのではなく、やりがいや希望が必要なタイプです。
証券会社への入社は、映画『ウォール街』(マイケル・ダグラス/チャーリー・シーン)も影響しています。『一発大きく転がすと、次の世界が全く違ってくる』といった世界が面白そうだなと。苦しくても、その映画の世界と同じことをしているという感覚がある意味、モチベーションでした。
その中で与えられ、職務をこなしていくと、そこにはいろんな出会いや学びがあって、それが次の世界を変えていく。常にやりがいを見出しながら没頭してやってきました」
当時の社会人の基本も証券会社で身についたという佐々木。「今ではかなり的外れな、時代遅れの作法でしょうけれど」と佐々木本人は言うものの、それこそ、ビールの注ぎ方から始まり、飲み屋の幹事としての作法、処世術に至るまで、さまざまなことを学んだのも仕事のやりがいの一つ。
そうした与えられた環境に感謝しながら、佐々木はついに、約30年のビジネスパーソン生活に別れを告げ、2018年に介護業界へとやってきます。
佐々木 「きっかけは父親の介護。認知症で、脊柱間狭窄症の持病があり、日を追うごとに歩けなくなっていきました。母も困っていたので自分が面倒見ようと同居が始まったのですが結果、大変でしたね。
その頃、次は全く違う仕事をしようと考えて、手に職を付けるのもいいかなと飲食関係に面接に行ったりもしたんですが、父の介護の経験もあって、縁あって前職の介護会社へ入社しました。
人の役に立って、かつ、まだまだ開拓が必要な、今後も成長がみられる業界。その中で果敢に挑む姿に、他の介護会社とはやや違う匂いや面白み、やりがいを感じていたと思います」
佐々木は未経験ながら重度訪問介護の門を叩き、ヘルパーとしてさまざまな障害を持つ方へのケアを始めます。3か月が経つ頃、コーディネーターに昇進。しかしそこで、ある困難を味わいます。
佐々木 「ものすごく物言いのお強いご利用者がいて、入ったヘルパーが次々と精神的にその人の介護を続けることが難しい状態になってしまうんです。半年で30人程が交代しました。
現場を切り捨てるという考えはなかったです。ご利用者のそうした性格、素養も含めて支援する責任がありますから。けれど、一方でヘルパーはどんどん辞めるし、人件費もかかる。私も新人の同行でほとんど毎日、夜勤に入っていました。
泣きながら夜中に電話を掛けてくるヘルパーもいて、そんな日の朝は、喫茶店で話を聞いてあげたりしていました」
佐々木は精神保健福祉士を招くなどして、ご家族も巻き込みながら解決策を講じていきます。
佐々木 「スタッフと話し合いを重ね、それまで3人体制だった支援を例えば7人くらいに増やして、個人に掛かる時間的、精神的負担を減らしてみるとか。いま、それが出来ない理由はあるのか、阻害要因はなんなのか。ケアのどの部分がダメなのか、利用者ご本人、ご家族の不満、不安はどこにあるのかなど、様々な角度から検証、試行錯誤を繰り返しました。
きちんと支援記録も取って、ケアマネージャーと実状、実情を話し合いながら、皆で現場を守っていきました。大変でしたが、勉強になりましたね」
入社から1年後の2019年夏、佐々木は栃木県に新規事業所を立ち上げます。その後は、その他事業所の実地指導の対応、立会いに奔走。埼玉県各所、千葉県や山梨県など、各地を飛び回ります。
そうこうするうちに、介護職を始めて2年半が過ぎた頃、佐々木は株式会社土屋に転職します。
CHAPTER4
株式会社土屋に入社した佐々木 直巳。転職には佐々木の一念も少なからずあったとのこと。
佐々木 「土屋の考え方に惹かれたのが大きいです。持続的に支援を続けていくためにも、本当の姿でのソーシャルビジネスを体現しようとする方針ですね。なので、ぜひ入社したいと」
土屋に入社した佐々木は、人事部を任され、手始めに、まずは800名程の雇用契約を引き受けます。
佐々木 「怒涛の毎日で。雇用契約含め、労務管理系の業務を社労士の先生と一緒に対応しました」
佐々木は他にも、創業開始間もない12月から年末調整の対応に奔走、1月には給与計算の引き受け、同時に雇用体系、評価制度設計などを行い、それによって得られる国からの助成金の申請も手掛けます。幸いにも、かつての職場で経験してきた人事労務関係の知識、経験が役に立っていたとのこと。
それから1年が経ち、2021年11月、佐々木は社長直属の経営戦略室に異動します。
佐々木 「人事部の上司と一緒にスタートさせ、今は新メンバーを加え3人で奮闘中です」
経営戦略室について聞いてみると……。
佐々木 「いまは中・長期期的な事業計画の策定や、社内向け財務諸表の作成を手掛けていますが、基本的には、経営に関する個別テーマ、例えばコスト削減やM&A、組織再編、マーケティングなどの戦略立案・予算策定にも取り組みます。もちろんコンプライアンス関連や労務状況の確認・改善などに関わる場合もあります。そうして必要な経営改善を行っていくことで、売上や利益に貢献していこうというセクションです。
また、次世代に事業を継承していくために、お金を残すという仕事もあります。そのためにも、事業計画を立てたら、その通りに進んでいるかをチェックする役目も果たします。営業利益率の改善ですね。例えば昨年は、これは人事を担当していた時ですが、全社的に超過労働が大きな問題となっていましたので、これを減らすことで労務環境を改善し、同時にコスト削減のお手伝いをさせて頂きました。
お陰様で、人事部を担当していた昨年度中に、超過労働対象者を50%以上削減できました。このように、攻めるだけの営業戦略だけでなく、足元の利益を確保するための改善策も計画を立てますし、利益を守るために様々なコスト削減の検証もするといった、攻守二本柱で仕事を進めています」
収益化を図るため、今後も各セクションとコミュニケーションを密に取りながら一緒に進めていきたいと言う佐々木。経営戦略という新たなやりがいの中で、佐々木は土屋のこれからについて、政治力も必要だと語ります。
佐々木 「介護の世界では2025年問題、8050問題と、危機が差し迫っています。しかし、政治的な力がないと、現状を打破するのは相当困難です。こんな時に処遇改善、賃金改定のお話以外に、国会で、より具体的な、障害福祉に関する踏み込んだ議論が全くと言っていいほど表に出て来ない。聞こえてこないのが実情です。
理由の一つには、これは推察ですが、介護業界全体にまとまりがなく、政治的な票田に結び付いていないからではないかと思うのです。
今はまだ、ばらばらの福祉業界ですが、もしここで、土屋が業界団体を1つにまとめていくことができ、政治的影響力も生まれたらと考えます。障害福祉をより社会に広めていくには、どのような手立てが必要なのか。それを探っていくのも我々の使命だと思っています」
最後に、佐々木に介護業界へ飛び込もうという人へのメッセージを聞いてみました。
佐々木 「少しでも興味をお持ちならば、まずは飛び込んでいただきたいです。若い会社の創業期、成長期をともに立ち上げていくやりがいがあります。
常に『小さな声』を探すのが使命ですので、命に対峙した使命感と、経営のバランス感覚が求められますし、企業としての社会的責任もあります。
はじめは知識がなくても、こうした目的意識さえあれば、ありとあらゆることが学べる会社です。様々な機会において、自分を見つめ直せることも多いと思うので、そう考えて飛び込んで来てくれるとありがたいですね」
景気という正体不明の数字の増減の世界から、誰かの命に伴走する介護の世界にたどり着いた佐々木の、一見穏やかな語り口の奥には、冷静に燃えるやさしさのようなものを感じます。
世の中や、自分の周りの人々の心の動きを見つめて、何を動かしていけばよい方向に導けるのか。数字のようには答えが出にくいものですが、取り組み始めたこと、それを以てすでに、0ではありません。あなたもこの日本社会が抱える難問に、一緒に取り組んでみませんか?