生活介護

本社 / 土屋ケアカレッジ

青木健太

SDGs推進部 / 統合課程登壇

障害を持つ人が自分のことを発信する重要性。
言葉で伝えられる場がもっとあれば、障害の理解はもっと深まっていく――。

 《interview 2023.11.16》

土屋の社員でもありながら、土屋の重度訪問介護サービスの利用者でもある青木 健太。2021年に入社し、ホームケア土屋 三重でスタートを切った彼は現在、SDGs推進部に所属し、土屋ケアカレッジの統合課程にも登壇。活躍の場をゆっくりと広げてきました。頚髄損傷という自身の障害への理解、障害者雇用、当事者が声をあげることの大切さ――青木の奏でるリズムに耳をすませながら、インタビューははじまります

CHAPTER1

明るくて元気で、ちょっとシャイな少年

幼少期から社会人になるまで――

―子どもの頃はどんなお子さんでしたか?

明るくて元気。本当にそんな感じだったんです。勉強よりスポーツが好きで、でもちょっとシャイかなっていう少年。柔道と野球ばかりやってましたね、小学生の頃は。
野球に関して言うと、本当はピッチャーをやりたかったけれどできなくて、セカンドを守っていました。お兄ちゃんも一緒に野球をやっていて。でも6年生になるタイミングで僕は野球をやめちゃったんです。「もうちょっと野球やりたかったなぁ」っていう思いが今もあります。

―ご兄弟はお兄さんとお2人ですか?

そうです。一個上の兄がいて。兄はずっと野球一本で、僕は野球と柔道両方でした。
野球をやめたのは僕の意思がほとんどなくて――柔道で県大会があって、5年生の時にたまたま2位になっちゃって。6年生に上がる時には「野球をやめて、柔道でいこう」と。それは多分、父親が決めたことで、気づいたらもうやめていたんです。

中学生の時は部活とは別に週2,3回、夜遅くまで練習があって結構、厳しくやっていました。野球は比較的、楽しかったんですが、柔道はきつかったですね。柔道はやらされていた感じで、野球は強制的にやめさせられたような感じでした。

―学校を卒業されてからはどんなふうに過ごされていたんですか。

高校生の頃に僕は障害をおって、高校をギリギリ卒業して。そこからは家族に介護してもらいながら家で生活をしていました。体がほぼ動かないので、特に何もできることがなかった期間が3年ぐらいあったかな。そこからなんとか就職までたどり着けて、特例子会社で5年ほど働きました。
その仕事はちょっと変わっていて、シフトの勤怠を入力していたんです。きっとそれが何かにつながってるんでしょうけど、何につながっているかは知らなくて……あとはホームページを作ったり、ページの内容を変更したり、そんなことをやっていましたね。

仕事を探し始めた当初は、口でパソコン入力するやり方なんて知らないし、できるとも思っていなかったんです。とりあえず就労支援センターという、地域の障害者就労窓口に行って「お仕事ないですか」って聞いたんですが、在宅ワークで、重たい障害を持ってて――となると、受け入れてくれるところがなくて。「もう何もできないのかな」なんて落ち込んでいた時期が1年ぐらいありました。その後、急に「面接があるんですが、よかったら来ませんか」と話がきて。「面接なんて行ったことないけど、“記念”に受けてみよう」……で、履歴書を持っていったら、その会社から採用をもらえたんです。

5年間勤めた会社は、以前に僕と同じような障害を持った人が働いていたみたいで、重度障害を持った人の働き方を知っていました。それで「君だったらできるよ」と、入力の仕方から姿勢の整え方、「キーボードやパソコンの位置はこうしたらいい」等、全部教えてもらったんです。

―入力というのは、今、青木さんが口元につけてらっしゃるマウススティックでキーボードを触って、文字や数字を入力していくんですか?

そうなんです、もう地道な作業で。首と肩が痛くて、こりゃ長いことできないですね。

―先ほど、「高校生の頃に障害をおって」と仰っていましたが、その時の状況を聞かせてください。

はい。高校2年生の9月に、柔道の部活中に首の骨を折って、そこで頚髄損傷になっちゃったんです。そこから2年間、病院生活があって。学校の先生が病院まで来て授業をやってくれて、高校卒業に必要な単位はギリギリ取らせてくれました。テストはどんなふうにやったかちょっと覚えてないですけど(笑)、なんとか卒業させてもらいました。

 

CHAPTER2

重訪との出会い――「僕はこんなことで困っています」

重度訪問介護という制度を知った経緯と就労と両立の壁――
「こんなことで困ってます」をいろんな人に伝えることの重要性とは――

―重訪という制度を知ったのには、どんな経緯があったんでしょうか。

そもそも重度訪問介護(重訪)という制度があるなんて、当時の僕は知らなかったんです。それを知ったのは同じ障害を持っている子と出会ったことがきっかけです。年下で、たしか柔道関係者が繋げてくれたのかな。同じ柔道というスポーツで頚髄損傷になって、僕の1年後ぐらいに障害をおった子でした。

僕が退院して家にいる時に、その子が重訪を使ってヘルパーさんと2人で家まで会いに来てくれたんですよ。その時に「同じ障害を持っていて、ここまでできるんだ」「ヘルパーを長時間使える制度があるんだ」っていうことを知ったんです。

「じゃあ、すぐに僕が住んでいる四日市市で重訪を使えるのか」――と調べたら当時はまだ事業所がなくて。実際に使えるようになったのは5、6年経ってからですね。でもそもそもは、その子がいたからです。「自分もこんなふうに生きたい」っていう気持ちの動きがありました。

―重訪の利用をされるまでは、どんなふうに過ごされてきたんですか。

「なんとか家族と離れる時間をつくらなきゃ」と思っていましたね。ずっと一緒だと家族も僕も疲れてくるんです。介護する側の気持ちを考えたら、「それも無理ないなぁ」なんて思いつつ、「なんとか現状を変えたい」と思っていたけれど、事業所もなかったので我慢しながら――我慢って言ったら変ですけど――何もできない期間が5年ほど続きました。「なんとかならないかな」となったところに、株式会社土屋の前会社の事業所が四日市市にできて、今に繋がります。

実家にいる時は、特例子会社での仕事もしていて、ほぼ家族の介護という状況でした。ヘルパーさんは1日の中で1、2時間しか利用していなかったんじゃないかな。

―利用前は、「重訪を利用しながら一人暮らしをして、就労をして…」という生活を想定されていたんですよね。

そうなんです。事業所ができて、「重訪が使えるよ」ってなって、一人暮らしの家も決まって。1、2週間後から一人暮らしがスタートするっていう時に、「重訪と就労は両立して使えないよ」と行政の方から言われちゃった。担当の相談員さんもそこがタブーだってことを知らずに話を進めていたので、皆で「どうする?」ってなりました。

僕は家を出たくて仕方がなかったので、家を出る選択をして。でも一人暮らしをしても就労中はヘルパーさんが使えないので、僕の仕事中だけ母親が来てくれることになって、2、3年その状態が続きました。

重訪と就労って、行政の仕組みにおいては「タブー(禁則事項、口にしてはいけない)」になってるんです。当時は、「なんとかしてもらえませんか?」っていろんなところに頼んだり、話をしたり、とにかく発信していました。そしたらある時、役所の人から「来月から重訪と就労、両方使ってオッケーになりました」ってお知らせが来て。急だったので「なんでだろう?」って(笑)。

―青木さんはその間ずっと、行政に対して声をあげ続けていたんですか。

そうですね。大きかったのが僕の主治医の先生が親身になって行政の方にかけあってくれたみたいです。知り合いの人に「市長に手紙を書け、そしたら絶対に気持ちが伝わるから」って言われて、手紙を書いて、渡してもらったり。そういうことを重ねて、変わったところもあるんじゃないかな。

―当時を振り返って、障害当事者になった時、どんなことをしていくことが青木さんは大事だと思いますか。

とにかくこの現状――「こんなことで困ってます」って――いろんな人に伝えること。自分のまわりの方に伝えるのが一番大事かなと思っています。

この状況自体を知らない人がほとんどだし、重訪という制度も浸透してない中で、就労と両立できないこともほとんどの人が知らない。なので、まずは知ってもらう。相談員さんや社協さん(社会福祉協議会)にも相談してみたり、携わっている人にまずは伝えていくことをしていました。

でも――それぐらいしか言えないですね。就労と重訪を両立させる僕の利用パターンは、全国でもまだ数少ない事例なので。「具体的にこういうことするといいよ」とかは、正直なところ、わからないです。

―きっと地道な種まきがあって、何年か経った頃、青木さんの声がしかるべきところに届いたんでしょうね。

そうですね。やっぱり何年っていう年月をかけて変わっていった感じですね。

CHAPTER3

できるだけ、自分で壁をつくらないように。

障害を理解していく過程――

―以前、取締役 兼 最高文化責任者の古本聡さんと話していて、「障害の受容」という言葉を私が使った時、「障害の受容は、一生できないんだよ」と仰られたことがあります。「できる時もあればできない時もあって、それが波みたいにあって、そうやってずっと生きていくんだ」――という話を聞いた時に「私は障害を受容できるものだと思い込んでいたんだ」と気づきました。
青木さんのコラムの中には、“(自身が持つ)障害への理解”という言葉が書かれていますが、ご自身や障害を理解していく過程をどんなふうに考えてきましたか。

そうですね。古本さんの仰る通りで、今も波があって、「なんか調子いいなぁ」っていう時と「すごく落ち込んでるなぁ」っていう時が両方あります。

“障害への理解”って――なんで僕がそんな言葉を使ったのかわからないですが――やっぱり最初、「体が動かない」っていう状態を理解するまでに必要だったのは時間です。時間が経つと、その状態が当たり前になってくるから、「これが自分の現状なんだ」っていうことがわかってくる。

最初は、車椅子に乗るのも、オムツを履くことももちろん抵抗があるわけで、でもずっとベッドで寝ていたら頭がおかしくなっちゃう。だから「ベッドから離れて、少しでも動く方が快適だな。じゃあ車椅子に乗ろう」と思えるようになるし、身のまわりの環境にも慣れていく。自分の体は動かないけれど、車椅子に乗ったらいろんなところに行けることもちょっとずつわかってくる。そうやって少しずつ自分の体と向き合って、できることとできないことを理解していく――そういう過程が大事なのかなと思って、コラムでは“理解”という言葉を使ったんだと思います。

壁をつくっちゃわないように――。できるだけ自分で壁をつくらないように、1回はやってみて。できなかったら、「なんでできなかったんだろう?」って振り返って、それでまたやってみて。できなかったことで諦めちゃうこともあるけど、ただでさえできないことが多いので、できることを増やしていこう。それが、自分の障害の理解に繋がるのかなと思います。

―その後、重訪を利用して一人暮らしをされて、変わってきたこと、青木さんの中で育ってきたものはありますか?

そうですね。これはずっと考えていて、なかなか思いつかなかったんですが――最近、大切だなと思ったのは、基本的なことですが、“ほうれんそう”ですかね。報告と連絡と、いつも相談すること。
重訪の生活はまだまだ健常者と同じように生活できない点がたくさんあります。例えば急な時間変更も、ヘルパーさん側の都合もあって「その時間は無理です」なんて言われることもある。

だから事前に「○○へ行きます」「ここからこの時間まで外出します」と言った連絡はすごく重要で。でも、重なる連絡がきっかけで「時間変更が多い」なんて言われたり、事業所が変わっちゃうことも最近あって。「自分一人が身勝手な行動をすると、多方面に迷惑かけちゃうんだな」っていうのは、最近学んだことです。

―やってもらうのではなくて、青木さんから「こういう変更があります」「この時間大丈夫ですか?」っていう連絡や相談を積極的に……

言っていかないとだめなんですよね。正直なところ、隠したいこともあるけれど、言っとかないと、後々「聞いてないです」「そう言われても困ります」なんて言われても僕も困るので。事前に伝えておくことが大事だと思ってますね。特に遠出する時は。

―最近はどのあたりまで外出されるんですか?

めちゃめちゃ遠くには行かないですよ。家族の送迎だし、近場です。最近だと、電車に乗って、三重県から名古屋に行きましたね。

CHAPTER4

しんどい時は「しんどい」って伝えられた方がいい

今の青木さんにとって、「自立」とは――

―今の青木さんにとって、「自立」とはどんなことですか。

そうですね。僕が思うのは、自分自身のことを相手に伝えられる。しんどい時に「ちょっと助けて」って言える。これは障害者の僕の生活の中で、ですが、僕にとってはそんな状態が自立なのかなと思います。

―逆に以前は――怪我をされた当初は、ご自分のことを伝えることが難しい時期もあったんでしょうか。

それこそ心の面での受容的なものもあって、自分のことを喋るのが嫌だったし、相手に気を遣っちゃって「迷惑かけちゃうかもしれない。なら言わん方がいい」と自分の中にストレスを溜めてしまっていました。

もちろん相手を気遣うことは必要なんですが、今となっては(気を遣うことは)あんまりいらないかなと思ってるところもあります。例えば、しんどい時は「しんどい」って伝えられた方がいいし、自分のこの体を理解してもらうのはとても難しいことでもあるので、“きちっと相手に伝える”のはすごく大事なのかなって。

―土屋の中でも、青木さんが所属されているSDGs推進部は、上司の古本さんや、旅企画を担当されている櫻井純さん等、青木さんお一人でなく、障害や難病をお持ちの方が複数いる部署でもあります。働きやすさについては、以前と比べていかがですか。

そうですね。やっぱり上司が古本さんなので、障害への理解がすごくあって、僕はすごく働きやすいです。「このしんどさをわかってくれる人がいる」――というか。ただ、その優しさに甘えちゃう時もあって、「これはだめだよな」って思うこともあるんですけれど(笑)。でもすごく働きやすい。こんな職場ってそんなにないと思います。

―プロジェクトを進めていく上で、「こういうところで助かった」と思えたことはありますか?

なんて言うんですかね……僕に合った仕事を振ってくれるというか。それも、甘えっちゃあ甘えなんですけれど(笑)。でも、自分がキャパオーバーになっちゃうことが今はないので、僕の状況や体調をしっかり理解してくれた上で、合った仕事を振ってくれる。それはもうありがたいとしか言いようがないです。

―青木さんご自身に向いている仕事というのはどんなものなんですか?

「期日はここまで」と言った短期的な仕事はあまり向いていないですね。僕自身が物理的にもどうしても入力速度が遅いので。なので、長期的なスパンで進める仕事――例えば、「1ヶ月ぐらいかけて資料をつくりましょう」とか「ホームページに載せる文章をつくってください」とか、ページの内容を変える時に「(顧問の)影山摩子弥先生と密に連絡を取って進めてください」とか。内容自体が1日、2日でやれることではないので、数週間かけてやれる仕事を振ってもらっています。

―やれる時はやるけど、ゆっくりの時もあって、そういう時間の余裕があることが青木さんにとっては……

そうなんですよ。日々体調が良かったり悪かったり、血圧がすごく低かったりすると仕事ができない時もあって。そういうのもちゃんとわかってくれた上で、仕事を振ってくれることがとてもありがたいですね。

CHAPTER5

自分の経験を言葉にする「統合課程」という場

関わる仕事の中でも、「特に大切にしている」こと――

―青木さんが今、関わる仕事の中でも、「特に大切にしている」と仰っていたのが統合課程で講義をされる時間でした。どんなことをお話しされているんですか?

いつも話しているのは「頚髄損傷とはこんな障害です」「日常生活を送る上でこんなことが大変なんですよ」といった内容で、残り半分はヘルパーさんに求めるもの、「支援の際は、こんな点に気をつけてほしい」ということを話しています。

その中でも一番熱が入るのは人工呼吸器の話ですかね。呼吸器の経験をしてる人ってめったにいないので。

―受講生には、どんなふうにお伝えしてるんですか?

いつもやっていることは2秒で吸って、3秒で吐く。この2秒と3秒を、5回繰り返して、「皆さん一緒にやってみましょう」って言ってやっています。

2秒で吸って、3秒で吐く――というのは、呼吸器は吸うペースも吐くペースも、呼吸の回数も吐く量も決められているんです。自力で呼吸をしているというより、“呼吸させられている”という感覚に近いんですよ。だから「快適っていう感覚じゃないです。結構、苦しいと感じる場面があって、呼吸器をつけて生きていくことは大変なんですよ」と伝えていますし、毎回、資料は変えても、その部分だけは絶対に残していますね。

―受講生も、“青木さんの状況“を実際に体験してみるんですね。

そうです。もう、強制的に。「皆さん、一緒にやってください。ではいきます」って(笑)。

―講師をはじめた当初は人前で話すことに抵抗はありましたか。

統合課程の講師の話をいただいた時は、人前でしゃべるのは得意じゃないし、好きでもなかったので、乗り気じゃなかったんです。でも「やってみようかな」って。やってみて、あかんかったら次の依頼はないだろうし。「内容はあかんくても仕方ないか」って思いながら、チャレンジはしてみようと思って。チームのメンバーに一緒に講義内容を考えてもらって、やってみたのが最初です。

―その後、講師を続けていく中で、自分のことを喋るのに抵抗がなくなったと仰っていました。今まで印象に残っている受講生の声があったら聞かせてください。

ついこの間、「元気出ました」「ポジティブになれました、青木さんの話を聞いて」と言ってくれた方がいらっしゃいました。

僕と同い歳ぐらいの大学生の息子がいるお母さんが受講されて、「話を聞いて感動しました。自分の家庭で同じことがあったら……と想像すると、大変だなと思うところもあって。前向きに頑張ってる青木さんを見てすごく元気をもらいました」って。そういう声を聞くと「自分の人生を語ることで感動してもらえるんだ」と思えて、しゃべりがいがあります。涙されている方も時々いて。その姿を見た時は「響いたのかな」って思いますね。

というのは、こんなこと言ったら失礼なんですが、受講生の中にはどうしたってやる気のなさそうな人もいるので――でもだからこそ、興味なさそうにしてる人もこっちを向いてもらえる話が大事だなって思って、ちょくちょく資料も内容も変化させていくことはやってますね。

―(笑)。画面越しでも、やる気があるかどうかは伝わっちゃいますね。

リアクションがいい人は、しょっちゅうはいないですね。聞いてるふりをしてる人も多いでしょうし。だって普通に、“1時間、人の話を聞く“ってきついじゃないですか。それでも真面目に聞いてくれて、「しっかり聞いてくれたんだな」と思える感想を言ってくれる人ってなかなかいないので。「手応えがあった!」という時は滅多にないですよ。それでも「もっとこっちを向かせてやろう」と思いながら、頑張ってやってます(笑)。

CHAPTER6

失ったものではなく、残ったもの。変えられるものと、変わらないもの。

ネガティブな考え方をちょっと変えたら気づく「幸せ」――

―青木さんのコラムの中では「障害とか、病気になった時、失ったことばかりに目がついて数えてしまうけど、逆に残ったものには意外と目が向かないんだ」ということが書かれています。青木さんにとっての“残ったもの”とはどんなことだったんでしょうか。

これもすごく究極で、シンプルなんですけど、目が見えて、耳が聞こえて。味が分かって、匂いが分かる。こういうことが当たり前すぎてわかんなくなっちゃうんですよね。
そんなことより「手が動かない」とか「足が動かん」とかネガティブな方にいっちゃいがちなんですが、ちょっと考え方を変えてみれば、目が見えるってすごく幸せだよな。言葉を喋れて、ご飯が食べられて。これがすごく幸せなことに気がつかない。

家族がいて。両親がいて。お兄ちゃんがいて、お兄ちゃんも結婚してて家族がいて。仲良くしてくれる友達がいて。幸せなことがいっぱいあるのに、ないものばかり数えちゃって悩んでるって、これはダメだよなー、なんて思いながら。

でも、僕自身もなかなか考え方を変えられない時期が長かったんです。それこそ波があるので。ポジティブに考えられる時もあれば、しんどいなぁって思う時もありました。

―今後、「社会がこんなふうに変わっていったらいいな」と考えることはありますか。

そうですね、社会の側をどうしていくか……っていう難しい話は僕はできないんですけど、はい(笑)。でも、障害を持つ人が自分のことを発信できる場――僕だったら、統合課程という場がある。言葉で伝えられる場がもっとあれば、障害の理解はもっと深まっていくんじゃないかなって思います。

―まずは自分のことを伝える。重訪をスタートされるまでの話と重なりますね。

そうですね。本当にそれだけで違うと思うんですよね。

―障害や難病をお持ちの方に伝えたいことはありますか。

僕自身は……おっとりタイプというか、マイペースタイプなんです。それこそ障害を持ってまだ浅い人には、ゆっくり、マイペースでいいので、自分のペースで障害を受け入れていったらいいということは伝えたいですね。

あとは、できないことにチャレンジしてみること。できることはなるべくやった方がいいと思います。やってみて、できなかったらやめればいいし。できたんだったら、そこを伸ばしていけばいい。マイペースでいいと思うんですよ。無理しなくていい。「同じ障害を持っていて、○○さんは社会に出て仕事もしてて……自分も頑張らなくちゃ」となると、精神的に参っちゃうことがあると思うんですよね。

実際、僕が重訪を知ったきっかけは、自分と同じ障害を持っている子がヘルパーさんと家に遊びに来てくれたからで、そこで必要な情報も得られたし、「障害をおってもここまでできるんだ」っていう目標にもなりました。でも情報を得るほど、他人と比較しちゃった時期もあったので。

―たしかに、まわりが動いているのを見ると焦りを感じますね。それで自分じゃないペースで動いてしまった結果、体調を崩したり……

僕がそうだったので。「あの人、あれだけできてるよ」ってまわりから言われて。「でも、そんなん言われても」って今は思えます(笑)。
人と出会うことで、いい情報を知れる一方で、比較してしまう一面もあるのは良くないことかもしれません。特に重い障害を持ってる人にとっては。そこは、他人がやーやー言うことじゃないと思います。

―最後の質問です。最初の質問と重なる部分もあるんですが、青木さんの中で怪我をする前と後で、自分の中で変わらないものってありますか?

これは、結構考えたんですけれど、例えばどんなものですか?変わらないものってなんだろう。

―そうですね。インタビューでは、まず最初に子どもの頃の話を皆さんにお聞きしてるんです。それは、大人になると「私はインタビュアーです」とかって、肩書きややってきた仕事で自分を見せようとしたり、そこから他人を判断してしまうことがあります。でも、子どもの頃の話を聞くと、誰の中にも“まだ何者でもないその人”がいて、「“その人”と出会うインタビューにしたいな」と毎回思って、お話を伺っているんです。
質問の意図としては――“障害を持っている青木さん”や“社会によってつくられた青木さん“だけではなくて、青木さんの中に小さい頃からある“変わらない部分”についてお聞きしたいです。

はい、ちょっと答えになってるかわからないですけれど……
僕はずっと勝負ごとが好きですね。それこそ柔道も勝負だし、今だったら競馬です。あと、時々やってる「ボッチャ」っていうスポーツも障害者スポーツの勝負ごとです。勝負ごとって、競馬も含めてギャンブルなイメージもありますけれど。「勝負ごとが好き」っていう部分と、すごくマイペースな部分はずっと変わらないですね。

マイペースな部分は、まぁ、悪くいえば自己中(笑)。ちっちゃい頃から、買い物に行って自分の好きなものを買ったら「もう帰ろう」ってなります。で、家族にめちゃ怒られる。「まだやん!我慢せい!」って。今もですけど(笑)。

―今もですか(笑)。

ご飯を食べに行っても、自分の分が食べ終わったらもう帰りたいんです。さすがにもう言わないですけどね、大人なので(笑)。


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