障害者グループホーム土屋の里

障害者グループホーム

阿曽豊

土屋の里 ゼネラルマネージャー

誰もが自身を脅かされずに生きていけるように。

 《interview 2026.03.23》

ホームケア土屋に入社後、2025年からは障害者グループホーム 土屋の里・ゼネラルマネージャーとして全国の拠点に関わる阿曽豊(あそゆたか)。
自転車でどこまでも走り回っていた少年時代、陸上競技に打ち込んだ10代。
その後、聴覚障害を持つ友人との出会いをきっかけに芽生えた「誰かの助けになる仕事がしたい」という思い――人を支え、人に支えられる関係の中で、”小さな声に応えていくこと“の土壌を培ってきた阿曽の今を訪ねます。

CHAPTER1

自転車でどこまでも行っちゃうような。フットワークの軽いこどもでした

「ショベルカーのおじさんになりたい」と思っていたこどもの頃

―こどもの頃のお話から伺ってます。阿曽さんは、どんなことをして過ごしていましたか?

埼玉県の自然豊かな町でのびのび育ちました。
小さい頃は――友達とよく秘密基地のようなものをつくって、そこにお菓子やゲームを持って行って遊んだり、ハンモックをつくったり。

ゴールデンレトリバーを飼っていたので、そいつを連れてったりもしましたね。

それから、当時、神社の空き地みたいなところにみんなで集まってよく野球をしてました。

打ったボールが神社の境内にあたったり――今考えると、バチ当たりなことをよくやってたなと思います(笑)。

―どんなお子さんだったんでしょう。

そうですね。
今考えると「フットワークが軽かったな」って思います。

自転車でどこまでも行っちゃう、というか(笑)。
友達の家まで――近い家も遠い家でも――自転車でよく行っていました。

田舎なので山道も多いんですが、近所の人から「どこどこで豊くんを見たよ」っていう目撃情報があちこちで出るぐらい、いろんなところに出没していましたね(笑)。

日が暮れても帰ってこなかったので、親はよく心配してましたね。

野宿するようなことはありませんでしたけれども(笑)、半分は呆れられていたというか、諦められてたようなところがあったのかもしれないです。

―その頃、なりたかったもの、「将来、こんな仕事をしたいな」という夢はありましたか?

ちっちゃい頃、家の近くで大きな工事をよくしていたんです。

おそらく護岸工事だったのかな、と思うんですが、母親と一緒にその工事現場を見に行ってましたね。

そこでショベルカーやダンプカーに乗ってるおじさんたちが僕にはやたらかっこよく見えて。

毎日のように行っていた記憶があるので、「重機に乗れる人」への憧れが強くあって、「ショベルカーのおじさんになりたい」、それと「ダンプのおじさんになりたい」と思ってました。

CHAPTER2

陸上競技との出会い――お互いに支え合いながらチームとしても成長していくこと

陸上は個人競技ではありながら、チームの結束力がすごく強くなる瞬間がある。チームメイトに支えられてきたからこそ続けられたのかな

―その後、10代の頃、どんなことに熱中したり、どんなふうに過ごしていたんでしょうか。

そうですね。
中学生から陸上競技をはじめて、100メートル走、200メートル走、あとは走り幅飛び、そしてリレーの4種目をメインに熱中していました。

2004年になるんですが――当時、開催されたアテネオリンピックで100メートル走に出ていたアメリカの選手がやたらかっこよく見えて。

黒人選手の足の速いこと、速いこと。
その表情も自信に満ち溢れていて、国の誇りをかけて走ってるのがすごくかっこよく見えたんですよね。

それで「自分もあんなふうになりたい」という思いが強くなって、陸上がどんどん好きになっていきました。

―陸上という競技は……個人競技になるんですか?

部活動でもあるので、ある程度の協調性は求められますが、主には個人競技の部分が大きいです。

僕はもともと学力がそんなに高くなかったので(笑)、その後も陸上で入れそうな高校に進学して、陸上は中学から大学までの10年間、やっていました。

高校に入学した時の話なんですが、陸上部の顧問の先生が、突然、僕に声をかけてくださったことがありました。

その方が実は「私、豊くんが保育園に通っていた時の園長の旦那なんです」、って教えてくださって。

もともと陸上を続けたかったので、その先生にお世話になることになって。

ひとりひとりに寄り添って練習メニューを考えてくれたり、自由にやらせていただいて。

高校では埼玉県の関東選抜の代表選手に選ばれるような実績も残すことができて、その先生には今でも感謝しています。

今は連絡を取ることはないのですが、10代の頃に、ご縁を強く感じた瞬間ではありました。

―陸上というスポーツのどんなところに魅力を感じられていたんですか?

そうですね。

自分の成長を感じやすいというか――たとえば、タイムが縮められればそれだけ自分の成長を感じられるところもありますし、自分だけじゃなく、チームメイトが同じようにタイムを縮められた時にも、練習を一緒にしている仲間の成果として共に成長や喜びを感じられやすい。

そこが大きな魅力のひとつですね。

言葉ではちょっと言い表しづらいんですが――個人競技ではあるんですが、チームの結束力がすごく強くなる瞬間ってあるんです。

お互いに支え合いながらチームとしても成長していく、というか。チームメイトに支えられてきたからこそ続けられたのかな、とも自分では感じてます。

全員が大会に出たくて頑張っているけれども、全員が出ることはできない――スポーツにはそういった残酷さもあるんですが、一方でその中で他者への思いやりも生まれたり。

たとえば、ある競技に出られる人数というのは限られているわけで――タイムを競った中の上位2人か3人しか選ばれないんです。

あるその数名が“代表”として市や県の大会、全国大会に出場する。

そして、練習を続ける中で、時に体調を崩す選手もいれば、モチベーションが続かなくて部活を辞めてしまう人もいたり、陸上を辞めなければいけないような怪我をする選手もいて――それもあって、「あいつのためにも」みたいな思いはありましたし、個々の人間ドラマを強く感じる部活でしたね。

休日に妻、友人と行ったドライブ先で。

CHAPTER3

きっかけは、聴覚障害のある友人のノートテイク――「障害のある方の何か、助けになりたい」

最初は「単位を取るため」という目的だった。でも、その中で「障害のある方の何か、助けになりたい」っていう思いが固まってきたんです

―阿曽さんは、働くことに関しては、どんなことに、それからどんなふうに携わられてきたんですか?

その後、大学に入学して――「卒業したら何をしようかな」ってずっと考えていたんですが、もともとなりたい職業もないし、「なんだったら働きたくない」なんて思ってるような人間だったんです(笑)。

それでも大学3年生ぐらいになってくると、みんなが就職セミナーに参加し始めたり、新卒採用が始まったり。

そんな中で、僕の大学の同期に聴覚障害のある陸上部の仲間がいたんです。

当時、僕は卒業のために単位を取るのに必死で(笑)。

聴覚障害のあるその友人の授業に一緒に参加をして、彼のノートテイクをすることで単位がもらえるという大学のシステムがあったんです。

それを積極的に活用させてもらって、彼の隣でノートテイクを続けていく中で、「もしかすると僕には、障害のある人や困ってる人の助けになるような仕事をしたい気持ちがあるのかもしれない」と思うようになりました。

ただ、その友人から後から言われたんですが――「お前がやってたのはノートテイクじゃなくて、板書だぞ」と(笑)。

僕は先生が書いた黒板の文字をノートに写していただけだったんですよ。
それはそうですよね。「俺は目は見える」と言われました(笑)。

―(笑)。

その友人からは「耳が聞こえないから、教授の言っていることをノートに書いて教えてほしい」と言われたんですが、「それは俺にもわからんなぁ」と(笑)。

友人とは、そんな冗談半分な関係でワイワイやっていたんです。

その友人は、耳は聞こえないけれども、口の動きでコミュニケーションをとることができました。

僕もそういったところに助けられましたし、最初は「単位を取るため」という目的があってやってはいたんですが、だんだんと「障害のある方の何か、助けになりたい」っていう仕事への思いが固まってきたんですよね。

それで、福祉の業界を調べた時――高齢者の介護職がメインの求人として出てきたんですが、当時の僕としては「その分野は自分がやりたいこととはちょっと違うのかな」と。

そこからさらに求人を絞っていった時に、障害のある方の就職のサポート、それから障害者雇用という制度があることを知って。

障害のある方が職場に長く勤めるためのサポートや、例えば会社勤めをされていた方がある時うつ病になられて、そこから社会復帰を目指した時のサポート、企業と交渉をしてその方が再就職する前に実習ができる企業を開拓していく――そんな就労移行・定着支援を行う仕事に就くことができました。

こちらもドライブ途中に。今住んでいる山梨県南アルプス市の夜景

CHAPTER4

「人」と「仕事」をつなぐしごとへ

就労支援の仕事に8年ほど。その後、「視野を広げていきたくて」、人材派遣事業へ

―就労支援のお仕事ではどんな方のサポートをされていたんですか?

そうですね。
身体、知的、精神、難病の方のサポートをさせていただいていました。

今振り返ってみて、ご本人にとっても、障害者雇用としても大きな事例だったんじゃないかな、と思ったのが――うつ病をお持ちの方で、家電メーカーに勤めていた方がいらしたんです。

一度、うつ病を理由に退職をされた後、主治医連携や就労のサポートを受けることで、もともと勤めていた会社に復帰をされて、その後会社の運営にも関わるようになって。

環境を調整することによって、こんなふうに働き続けられるんだな、と強く感じましたね。

―環境調整というのは、実際にはどんなことをされるんですか?

採用の段階でよくお話をするのは、まず私自身が、その企業さんの特徴や環境を知ることが大事になってくるんです。

それから、私とは別に、利用者の生活状況や心身の状況等、支援に必要な情報を集めてくださる方が事業所にはいるので、そういった情報をもとに、実際の企業で一定期間働く体験をするプログラムを行なったり、実際に働く環境や仕事内容を肌で感じることで、自分に合う働き方や仕事の適性を知ることができます。

その後も、双方に認識や環境の面でズレがないかどうかといったところも調整をしていました。

他にも――障害者雇用というと、どうしても「給与や時給が低い」というイメージが多いと思うのですが、支援をさせていただいていた方が、当時僕がもらってた年収の2倍ほどの給与をもらってらして。就労となるとお金の話にも当然なるので時に「どっちが支援されているんだろう」なんて冗談を言い合っていたこともありましたね(笑)。

その仕事には、新卒で入社をして8年ほど携わっていました。

その後、30歳になる頃、自分の中でのステップアップを考えて、「視野を広げていく」という意味で、障害に特化せず、老若男女すべての人に関われる仕事にキャリアチェンジをしよう、と。そこから人材紹介や人材派遣を行なう会社に転職をしました。

―仕事が変わって、いかがでしたか?また見えるものが変わってきたんじゃないかな、と思います。

そうですね――ちょうどコロナ禍の時期だったこともありまして、個人にとっても、企業にとっても非常に大きな変化があった中での転職でした。

その中で、僕が関わることになったのが外国籍の方の人材紹介・派遣事業だったんです。

主にブラジル国籍の方を中心に、日本で働く外国籍の方と、人材を必要としている企業さんとのマッチングをしていく仕事でした。

なんですが、当時、コロナ禍の影響で日本政府が “水際対策”と位置付けて、国外からの入国を制限し始めたんです。

それもあって、「日本で働きたい」という外国籍の方の入国ができなくなってしまい、自分が携わっていた事業を継続していくかどうか――そんな岐路に立たされました。

そこからは、国内で外国籍の方の求人を募って、企業に就労していただく方向にシフトしていったんですけれども、人材が普段以上に不足している状況もあって、なかなか企業の方のお力になれず――需要はあるけれども供給ができないような状況になってしまって。

ただ、大変な思いはしたんですが、大きな企業さんに400名ほどの人材を継続して派遣することができ、最低限の仕事は果たせたかなとは思ってはいました。

ただ――1年半ほどそこに勤めてはいたんですが、一向にコロナは収束することもなく、業界を含めて先行きが見えなくなってきたんですよね。

「いずれは福祉業界に戻れたらいいな」と思ってはいたんですが、そのタイミングではまだ戻る予定はなかった。

でも「先行きが見えないのであれば、早めに職を変えるのもひとつかな」と――今考えると、決断としては正しかったのかな、と思います。

そこで次の仕事を探し始めた時に出会ったのが土屋だったんです。

CHAPTER5

土屋へ――「小さな声に応えるために、より自分が成長しなければいけない時が来たんだな」

ホームケア土屋から、障害者グループホーム土屋の里ゼネラルマネージャーへ

―土屋と出会った、最初のきっかけは何だったんでしょうか?

実は「介護」、もっと限定していくと「重度訪問介護」(重訪)というカテゴリーでは探さず、「福祉業界」「人材業界」といった広い視野で仕事を調べ始めたんです。

その時に、たまたま出てきたのが土屋でした。
ホームケア土屋山梨に入社をしたのが2022年12月。

今から3年ちょっと前になります。たくさんのクライアントの現場に入らせていただいて、とても充実した日々を送らせてもらっていました。

重訪には初めて携わったのですが、目の前のクライアントさんに貢献できることがすごく嬉しくて。

日々、楽しく過ごしておりました。

支援現場に入って感じたのは――以前の仕事を批判するわけではないんですが――それまで携わってきた仕事は、僕がいなくても成り立つ仕事だったんだな、ということでした。

一方で重訪は、生命に直接的に関わる仕事でした。

アテンダントがクライアントのご自宅に訪問できないことは、その方の命に関わる――そういう仕事に携わることに非常に魅力を感じましたし、「この仕事を通して、介護という仕事においてのより高い専門性を身につけたい」と思ったところはあるかもしれません。

―今現在は、阿曽さんは障害者グループホーム「土屋の里」ゼネラルマネージャー(GM)として活躍されています。重訪から、土屋の里に移られたのはどんな流れがあったんでしょうか。

その後、私はホームケア土屋 山梨の管理者をさせていただいていた中で、2025年1月に土屋の里 品川が事業譲渡という形で土屋グループにグループインすることになったんです。

そのタイミングで、土屋ケアサービスカンパニー 副代表の星敬太郎(ほしけいたろう/兼ホームケア土屋スーパーバイザー)さんから「ミーティングを通じて、土屋の里 品川の状況把握をしてほしい」というご依頼とお誘いをいただいたことが土屋の里と関わるようになった最初のきっかけでした。

そこからホームケアと土屋の里の業務を少しずつ兼務するようになり、半年ほど過ぎた頃に、星さんからGMのお話を直々にいただいて。

正直なところ、「グループホームに関わり始めて半年でGMの役割を期待通り果たすことができるのか……」――最初はそんなことを考えたりもしました。

でも、自分にとってなかなかないチャンスでもあり、そして星さんは僕にとってものすごく尊敬している方でもあったので、シンプルに嬉しかったですし、より頑張りたいと思うようになりました。

僕は、これまで出会った土屋の方全員に感じているんですが、みなさん尊敬できる方ばかりなんです。

その中でもここまで存在感があり、尊敬できる――社会人生活を送る中で、星さんのような人に出会ったことがありませんでした。

星さんには、たとえば――リーダーシップはもちろん、その中で生まれる決断力、それから「背中にも目がついてるんじゃないか?!」っていうぐらいの様々な角度からの視点に、いつも驚かされるんです。

今でも電話したり、お会いすると嬉しさよりも緊張が勝つんですけどね(笑)。

でも、星さんは僕にとって、本当にそれぐらい尊敬できる方でもあったし、自分の成長も含め、全国の土屋の里ひとつひとつがこれから発展していき、たくさんの方のお力になれるように動いていける部門でもあると思ったので。

土屋に入社をして、「小さな声に応える」というミッションを自分の中で持っている以上は、「その声に応えるために、より自分が成長しなければいけない時が来たのかな」と思って、お受けさせていただきました。

土屋の里のG Mとしてスタートしてまだ3ヶ月なので――思いや言葉の方が先に出てくるばかりで、そんなに立派なことを言える立場でもないんですが(笑)。

CHAPTER6

ゼネラルマネージャーの仕事って……?――「各グループホームの備品発注から事業譲渡の手続きまでなんでもやってます」

みなさんが生き生きと働いている姿を見れること、会社の方向性と自分が進んでいる道が合った時――“小さな声”に応えていく力になっている、と感じるので

―実はこのインタビューで、「グループホーム土屋の里」の方にお話を伺うのは初めてなんです。土屋の里について、それから今、どんな状況の中で阿曽さんはマネージャーとして関わられているのか、そんなところから教えてください。

障害者グループホームの土屋の里は今、東京・品川に4カ所、和歌山に2カ所、それから神奈川・横須賀に1カ所、福岡に1カ所、合わせて4拠点でグループホームを運営しています。

今ある4つの拠点はすべて事業譲渡という形で土屋にグループインをしていただいた背景があります。

グループホームには、主に精神障害をお持ちの方が入居されているという点が4つの事業所の共通点です。

それもあって、比較的、自立度が高いグループホームであることも特徴ですね。

また、横須賀は2025年11月から、福岡は2026年1月からグループインとなりました。

前会社からそのまま従業員の方が残ってくださっていますので、クライアントさんや従業員さんみなさんの状況を把握できるよう、また環境変化によって起こるトラブルを事前に防げるよう、今は広域マネージャーさんと連携して従業員さんが運営に困らないように心がけています。

各グループホームとの打ち合わせについては、ほぼオンラインで行なっていますが、たとえば福岡だったら月1回ほど足を運んで、現場の状況をしっかり確認した上で、スムーズな運営ができるよう、極力、サポートをさせていただきたいなと思っているところです。

―具体的にはどんなお仕事をされているのか、伺ってもいいですか? 幅広くて、きっと答えづらいかとは思うのですが……

はい、各グループホームの備品発注から事業譲渡の手続きまで、なんでもやってますね(笑)。

今ですと――2026年5月に、別の障害者グループホームが土屋にグループインをする計画があるので、今は主にその事業所の方々と関わっています。

事業譲渡という面では、仲介会社さんを通じて売り手側の方とグループインの時期を調整したり、それに伴う行政への各種申請作業だったり。

中でも大事でもあり難しい部分なのは、その事業所でずっと働いてらした従業員さんと面談をして、まず土屋がどんな会社なのかを知ってもらうことです。

事業譲渡によって環境がどんなふうに変わるか、そして変わらない部分は何かを丁寧にお伝えするところです。

それから日常のマネジメントでは売上げ管理や法令遵守ができているかのチェック、そして人材育成になります。

―阿曽さん自身のことも聞かせていただきたいです。仕事の中で、それから日々の中で、人と関わる時に大切にされていることはどんなことですか?

そうですね。
人と関わる上では、その人が自信を失うような言葉選びや声かけをしないように気を付けていますね。

誰もが業務上、苦手なことってありますよね。

数字や時間管理が苦手だったり、タスクが漏れてしまったり――でも、そこをお互いにカバーし合いながら進んでいくこと、それぞれの強みを活かしていくことが大切なんじゃないかな、と僕は思ってます。

それもあって、人の悪口や愚痴に繋がるようなネガティブな発言はなるべくしないように心がけていますね。

―今、現場からは少し離れてお仕事するようになっているかと思いますが、「今、こんな場面に出会えると嬉しいな」「喜びだな」と思えるものってどんなことですか?

そうですね。
やはりスタッフの方が生き生きと働かれている場面を見ると嬉しいなって思いますし、管理者さんの笑顔が見られることも嬉しいです。

それから、会社の方々とのミーティングなどで、方向性がバチッと定まった時も嬉しいですね。

会社の方向性と自分が進んでいる道、それからそれぞれの事業所に依頼をするとき――ひとつひとつの決断が会社の方向性と合った時、それは小さな声に応えていくための一歩になっていってる、と感じるので。そこが個人的な喜びでもありますし、仕事をする上での安心感もありますしね。

CHAPTER7

先生やM-1出演者、格闘家、ミュージシャン――介護の仕事を、多様な背景を持つ人が集まる場に

「クライアントにより良い生活を送ってもらうために」という思いを持っている方だったら、きっとどんな方でも。

―お休みの日はいかがですか?阿曽さんはどんなふうに過ごしているのか、「実はこんな趣味があります」みたいなことがあったら聞かせてください。

そうですね。

お休みの日は――中学生ぐらいから、ギターをちょろちょろっと弾いたりしているので、バンドでギターの演奏をしたり、車の運転もすごく好きなので、ドライブをしたり。

あとは、お酒も好きなので、お酒を飲んだりしてますね。

―今もバンドは続けられてるんですか?

そうですね。
今も「◯◯のイベントに向けて、この曲を演奏してくれない?」なんて友人から頼まれたりもするんです。

毎年、福島に行って演奏したり、北海道や関西エリアに演奏しに行った時もありました。

演奏が目的ではあるんですが、旅そのものも、さまざまな友人との出会いも楽しみながら――昔からそんな感じでよく演奏をさせてもらってます。

そこはありがたいですね。

―今も次のお披露目に向けて練習は?

そうですね。今度は3月に演奏する機会がありますね。

―最後にこれからのことを伺いたいです。今後、土屋の里も少しずつ拠点が増えていったり、土屋グループの中での役割も変わっていくんじゃないかな、と思います。「今後、こんなところに関わっていきたい」「土屋がこんな会社になってたらいいな」という思いについて聞かせてください。

土屋の里としてこれから関わっていくところとしては――全国的に、重度障害をお持ちの方の受け入れができるグループホームが非常に少ない、という背景があるんですね。

なので、そういったグループホームの立ち上げや受け入れの体制を少しずつ広げ、ひとつ、ふたつと増やしていくことです。

ただ、決して「立ち上げればいい」というものではないんですね。

それぞれのグループホームを運営していくために多くの仲間が必要になってきますし、運営の足元をしっかりと固めながら、長期的に携わっていくところになってくるかなと特に最近強く感じます。

土屋の里は、本当に多様な仲間が集まっているなって感じているんですよ。

もともと先生だった方や、「昔、M-1グランプリに出たことがあります」っていう方もいらっしゃったり、格闘家の方もいらしたり――。

それから、非常勤の方がステップアップをして、今管理者をされているっていうケースもあるんです。

多様な背景を持った方に入社していただくことで、それはチームとしてとても大きな力になっていくんじゃないかな、と僕は思ってます。

「クライアントにより良い生活を送ってもらうために」という思いを持っている方だったら、きっとどんな方でも働くことができる――。

そして、「『土屋で働きたい』と思ってくださる人がもっと増えるといいな」と感じているので、土屋の里がその“先駆け”になっていけたらいいな、とも思っていますし、リファラル入社はもちろん、未経験の方やこういったインタビューをご覧になって興味を持った方も――土屋がそういった多様な背景を持った方が活躍していけるような会社になっていけたらいいな、と思いますね。

―いいですね。阿曽さん自身が「こんなふうに生きていきたいな」というところはありますか?

僕は――健康で生きていきたいですね(笑)。
というのも、新卒で入社した会社の話に戻るんですが、入社して1ヶ月が経った頃、僕は潰瘍性大腸炎という難病になったんです。

それでなかなか体調が安定せず、「大腸を全摘出するかどうか」という話も病院との間であって――今は幸い、安定した生活はできてはいるんですけれども、安定期と再燃期を繰り返す病気なので体調の波があります。

それもあって、「体調はいちばんに気をつけて生きていきたいな」という思いはあって。

やっぱり健康であることが何よりも大事だな、と思いますね。

―そういったお話は一緒に働く仲間と共有はされているんですか?もちろん、全員じゃなくていいと思うんですが、必要な範囲で。

僕に関しては、オープンにしています。ただ、いろいろな価値観があるので、こういったことをオープンにする人もいれば、クローズにする人もいていいと思っているんですが、僕は自分の立場もあって。

体調が悪くなったときに、一緒に働く仲間に余計な心配をかけないように、できる限り業務に支障が出ないように、という思いがあるのと、僕は性格的にも隠す必要はないかな、と――。

なので、できる限りオープンにしてますし、その日の体調によっては「今日、お腹痛いな」みたいに言ってたりもしますしね(笑)。

CHAPTER8

一緒に働く人の存在が、僕にとってはとっても大事。

『だれと働くか』――そこを大事にできなかったら、僕は仕事を続けていけない

―阿曽さんは一度、介護の仕事を離れてから、「いつか戻りたいな」という思いもあって、今、ふたたびこの仕事に携わっているというお話の流れがありました。その時――この仕事をなぜ続けられてきたのか、別の言い方だと「この仕事を続けている原動力になっているものって?」というところを最後に伺いたいです。

そうですね。“原動力”と聞いて――今、パッと思いついたのが2つあります。

福祉の業界に長く携わることができているのは――ひとつは、もともと重訪から携わらせていただいたこともあるんですが、支援の終わりに「ありがとうございました」と感謝していただけることがとても多い仕事なんだな、と感じたんですね。

これが他の仕事――たとえば、営業をやっていた時は必ずしもそうではなかった。時にいやな顔をされることもありましたしね(笑)。

その日のさまざまな関わりが、相手の人生に、そして自分の人生にとっても有益になってる。「いいことができてるんだな」って確認できる部分も大きいです。

もうひとつは、土屋もそうですし、これまで働いてきた中でもそうなんですが、「人にとても恵まれてるな」と思うことが多いんです。

僕は自分がそんなにすごい仕事ができるなんて思いませんし、土屋に入社する時、「最後は人で決めよう」と思っていたんですが、当時面接をしてくださったのが、寺内勝(てらうちまさる/ホームケア土屋 北海道・東北ブロックマネージャーの)さんで。

寺内さんも土屋に入社する前は人材紹介の仕事をやっていらしたり、山梨にいたこともあって、これまでのところで共通点も多かったんですよ。

―そうでしたね。寺内さん、このインタビューでも語ってくださいました。

一次面接をしてもらって、「この方の下で働けるのって嬉しいな」って。

そのあと、2次面接で面接をさせていただいた(当時の)管理者の方もとてもいい方でした。

入社させていただいてからも、出会う人出会う人、みなさんとても優しいし、思いやりがあって僕自身をも気遣ってくれて。そこに感謝の気持ちを持ちながら、今、仕事させてもらってるところです。

本当に思うんですよね――僕自身、そんなに抜き出たスキルがあるわけでもないし、「運と縁で生きてるんじゃないかな」って(笑)。

人に恵まれていること。

それ自体が働く原動力というか。
『だれと働くか』――そこを大事にできなかったら、僕は仕事を続けていけない。

一緒に働く人の存在って、僕にとってはとっても大事なので。

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