介護事業部

介護事業部 ホームケア土屋

平松哲夫

三重 管理者・東海エリア 広域マネージャー

土屋には色んな人がいる。それは、日常を支える重度訪問介護にとって、大きな強みだ。

 《interview 2026.03.02》

ホームケア土屋三重 管理者、そして三重・東海エリアの広域マネージャーとして働く平松哲夫(ひらまつてつお)。
サッカー選手を目指していた10代。
怪我によってその夢を手放した時、平松は大きな問いに向き合うことになります。
自問しながら選んだのは起業という新たな挑戦。
そして飲食店を立ち上げた先でふたたび訪れた大きな転機――歩みを止めなかった平松が40代に差し掛かる頃、出会ったのが“重度訪問介護”の仕事でした。
その思いの原風景とは。すべてが今につながる平松の「これまで」、そして「仕事と日常」の間をめぐります。

CHAPTER1

森やあぜ道、小さな洞窟、海釣り――やんちゃだった幼少期

昔から心理テストをすると「楽観的」って出るんです。そこは今も変わってないかもしれないですね(笑)

―こどもの頃はどんなことをして遊んでいましたか?

そうですね、育ったのは愛知県名古屋市外の隣接市です。

こどもの頃はまさにファミコン(ファミリーコンピュータ)世代で、ドラゴンクエストとか、ファイナルファンタジーといったゲームをやっていました。

ただ、小学校低学年には難しいんですよね、RPG系って。
なので、時には簡単なスーパーマリオブラザースなどで遊んでいましたね。

周辺には今は高速道路ができてますが、こどもの頃は自然がまだ残っていました。

森やあぜ道、小さな洞窟もあったりして。
山の中では稀にキツネやタヌキ、狼っぽい野良犬とも出会ったかな。

近所の友達とサバイバルゲームみたいなことをよくやっていました。

家からは海も近かったので、海釣りや、池ではブラックバス釣りもやっていましたね。

―当時、「こんな子だった」「こんな性格だった」という思い出はありますか?

自分ではなかなか言いにくいんですが――学校では特に目立つような感じだったと思います(笑)。

―みんなの前で発言をしたり、面白いことをやったりするような…(笑)?

そうですね、そういう方なのか問題児だったかもしれない、と言った所です(笑)。

年齢が上がるにつれて落ち着いてはきたんですけどね。活発で、かなりやんちゃな方でした。

―10代の頃はいかがでしたか。熱中していたことがあったら伺いたいです。

両親とも社会人実業団で野球やソフトボールをやっていたので、2、3歳の頃に野球をはじめたんですが、小学生低学年でサッカーに転向しました。

当時はJリーグはまだなかったですが、日本でもプロリーグが発足するというニュースで盛り上がっていた頃だと思います。

漫画『キャプテン翼』の影響もありましたね。

中学では、サッカーで県の選抜メンバーに選ばれたり、学校の部活動とは別に某プロチーム下部組織の練習に参加してたり、忙しくしていました。

それもあって体力的にも精神的にもかなり厳しい学生時代を過ごしました。

その頃の監督って鬼のような厳しさがありましたからね。

高校はスポーツ推薦で行ったんですよ。
県内で当時いちばんサッカーが強い高校でした。

試合には1年生からレギュラーで出場をしていたんですが、全国大会は夏のインターハイには出場できました。

冬の高校サッカー選手権では県大会決勝でPK戦の末に敗れ、あと一歩で出場を逃しました。

県から出場できるのは1校だけなので、この時の絶望感は強く記憶に残っています。

―そうだったんですね。平松さんのポジションはどちらだったんですか?

ゴールキーパーです。

―実は「そうかな」と思いながら質問をしました(笑)。画面越しですが、「後ろからみんなを守る」――そんな感じが伝わってきます。

そうですね、後ろから守っていたんですよ(笑)。
背は高い方だとは思います。

身長183㎝あるのでね。

―こどもの頃や10代の頃と今の平松さんと、変わらない部分はありますか?

昔から心理テストをすると「楽観的」って出るんです。そこは今も変わってないかもしれないですね(笑)。

仕事をしているとやはり厳しい場面に出会うこともありますよね。

そういう中でも、ちょっと楽観的な面を持っているというか。

そういった面は――それがいいかどうかはわからないんですが――いいようには捉えてます。

考えすぎず、適度に気晴らしもする。
バランスがいい方かなとは思ってますね。

CHAPTER2

「夢がなくなったあと、どうするの?」

こどもの頃から「将来、なりたいものはサッカー選手」一択だった。怪我をして、サッカーの夢を絶たれたあと動き出したもの

―学校を卒業されてからどんなことをされてきたのか、聞かせてください。

それこそ、こどもの頃から「将来、なりたいものはサッカー選手」、一択だったんです。

ただ、いいところまでは行ったものの、高校3年の時に怪我をしてサッカーの第一線からは離れているんです。

大怪我をして、膝の手術をして半年ぐらい歩けなかった時期がありました。

その後、大学はサッカーの経歴があったものですから、選手兼コーチ枠のような形で、またスポーツ推薦にて入学することはできたんです。

運動にまつわる学びができたところはあったんですが――ただ、いちばん大きな転期はその辺りでありました。

「これからはサッカーと別のことをやらなければいけない」。

「夢がなくなったあと、どうするの?」――っていうところを、どうやって前向きに捉えていくか、というか。

大学は体育学部に入るつもりでいましたが、怪我のこともあって体育学部ではない学部を選びました。

「これから、どう切り替えていくか」という準備をしてたんでしょうね。

建築士過程の製図設計やCADなどを勉強したり、建造物やインテリアデザイン、ウェブコンテンツ、空間プロデュースなど、学ぶコースを変化させていってました。

そんな中、卒業後は会社に就職する方が多かったんですが、「自分でやりたい」っていう思いが出てきて。

あの時はいろいろ思うところがあったんだろうと思います。

時代を見ても、I T系の会社が起業して盛り上がっていたり、景気が下がってきたり、就職難だったり、そういう時期でもありました。

―会社を立ち上げられたんですか?

そうですね。
大学時代、ダイニングバーでアルバイトをしていた時に、オーナーから開業についての話を伺って。

卒業後は就職をせずに個人事業主として飲食店をオープンし、社会人生活をスタートしました。

もともと交友関係が広かったので、そこから飲食店をしている2、3名で集まって合同で会社を立ち上げて、事業を拡大して――。

最終的には、名古屋の都心部で他事業含めて6店ほど経営をしていました。

―お店に立つのではなく、経営者として関わられていたんでしょうか。

少数店舗の頃は店長やマネージャーとして現場を担い、店舗数の拡大に伴い、若くして、いきなりですが経営者として事業全体の運営にも携わっていました。

とはいえ、経営陣が現場から遠ざかるにつれて、現場との乖離が生まれ、組織のバランスが崩れていったんです。

そのため、事業拡大後は一旦基盤を安定させる必要があると考え、「現場に近い立場で関わる」ことを意識して取り組んでた頃でしたね。

ただ――上昇したものの、結局うまくいかなかったんですよ。

不景気が訪れるんです。
リーマンショックの影響を受けて。

飲食業というのは思いきり不景気に左右されるので、20代で最終的にはすべての飲食業を閉めることになりました。

人生の中でもいちばん大変な時期でしたね。

―平松さんの中で、「自分で事業を起こしてやっていくこと」がその時必要なことだったようにも感じます。

そうですね。
漠然と大きなことを何か目指したかったんだと思います。

今と昔では、時代も背景も自分自身も違ってますから、なんとも言えないんですが――。

自分の中にあったんですよ、事業を立ち上げることで「大きなものを変えたい、世の中を変えたい」といった思いが。

今は緩やかになってきましたが、もっと自分も硬かったですからね。

いろんな思いが含まれてたんだと思います。

事業を立ち上げることを、ひとつの“夢”として捉えてみると、何か大きいことをやってる感覚になっていたのかもしれません。

ただ、ここから第2のターニングポイントが訪れるんです。

もともと会社をやっていたので、いろんな知り合いはいました。

その知り合いの紹介で、30代になってはじめて、全国展開している規模の人材派遣会社に入社をしたんです。

将来への不安を抱えながら、改めての再出発でした。

その会社では7年ほど働いたんですが、比較的早期にキャリアアップのお話をいただき、事業所の派遣元責任者などの管理職を務めさせていただきました。

その後、40代前に土屋へ転職し、新たにキャリアアップの機会をいただいて、現在に至っています。

CHAPTER3

「病院ではなく、自宅で生活をしたい」――祖父の声を叶える“重度訪問介護”という制度を探して

これはいいのか悪いのか、わからないんですけれども――年齢が上がっていくうちに「自分がこうしたい」という思いが「(仕事を通して)人助けがしたい」に変わってきたのかな

―介護業界に関心を持たれたのはどんなきっかけがあったんでしょうか。

保育園から小学生の頃にかけて、祖父の介護を身近に経験してきたんです。

おじいちゃん、おばあちゃんと同居していたんですが、おじいちゃんが難病のパーキンソン病になり、寝たきりでした。

学校から帰ると、ふたりの部屋に行って、介護をして――祖父は病院に入らず家で生活していましたから。

きっとそれがきっかけでしょうね。

―おじいさまとの記憶はふと思い浮かんだんですか?それとも「そろそろ介護の業界に行きたいな」といった思いがもともとあったんでしょうか……。

福祉業界のことを考え出したのは、何がきっかけだったんでしょうね……。

以前は、仕事や事業を展開する上で、営利目的の面が大きかったと思うんです。

でも――これはいいのか悪いのか、わからないんですけれども――年齢が上がっていくうちに「自分がこうしたい」という思いが「(仕事を通して)人助けがしたい」に変わってきたのかな。

ある意味、丸くなったのかもしれません(笑)。

福祉に関わる仕事を考え始めて、祖父のことを振り返っているうちに――当時は家族介護があたりまえの時代でしたが、今は在宅医療を支える制度が整ってきたことを知って、「いいな」と思って。

調べていくうちに出会ったのが、重度訪問介護(重訪)の仕事でした。

それで重訪に的を絞って、求人を探していたんです。

「障害や難病を持つ方を在宅で支える」ところが、こどもの頃の自分の目線と一致してる、と思えたんですね。

祖父はよく「寝たきりになっても、病院ではなく自宅で生活したい」と話していました。

今は――制度が整い、介護を必要とする方々に支援が届けられる時代になりました。

そうした制度や仕事を通して、「ひとりでも多くの方が、その人らしい生活を続けられるよう支えていきたい」「生きることへの意志を肯定したい」という思いが、介護の仕事を始めたきっかけでもありますし、今もこの仕事を続ける原動力になってます。

―おじいさまのこと少し伺ってみたいです。どんなおじいさまだったんですか。

おじいさんは――会社の社長をやっていました。

もともとおばあさんの方が地主で、海側が埋め立てられて産業地帯になった際、その土地に大手製鋼会社の大きな工場が作られて、何らかの関係で工場構内にて関連会社の社長になる権利をもらったんでしょう。

自分が4歳、5歳の頃は、おじいさんと一緒に出かけていた記憶はありますね。

パーキンソン病が進行している頃は、トイレに行く途中で倒れて、起きれなくなって、倒れたままになっていたところを発見して、ベッドまで連れて行ったり。

―今は「ヤングケアラー」という言葉もありますが、そういう認識がまわりにもまだなかった頃ですね。

そうですね。
ベッド上の生活になってからは、体を拭いたりもしていましたし。

最終的にはベッドの上での生活になったんですが、やはり手足が動かなくなってきたり、と症状の進行がある難病なので、いろいろありました。

パーキンソン病になってからは、意志を伝えることも本当に大変そうで、ずっとイライラしているような状況にありました。

当時は落ち着いて生活できる状況ではなかったと思います。

ただ、「死にたくない」と言っていたことはよく覚えています。

CHAPTER4

丁寧にコミュニケーションをかさねていく中で、「意思疎通ができたこと」「合図だけで気持ちが通じる瞬間」がふえていく

「知らないからこそ、素直にできること」――はじめての介護の仕事

―土屋に入社されてからはどちらで、どんなお仕事をされてきたんでしょうか。

2021年にホームケア土屋に入社して――もともとキャリアアップを希望してはいたんですが、第一歩から着実に進んでいきたいという思いがあって、非常勤からスタートしました。

最初は静岡で、10名ほどのクライアントの支援現場に携わり、コーディネーターも経験しました。

そこから愛知に異動して、そこでも10名ほどの支援に携わり、管理者やサービス提供責任者、オフィスマネージャーも経験しました。

今は広域マネージャーとして、愛知県、三重県の県を越えた事業所運営、ホームケア土屋三重 管理者を主に担っています。

現場支援やアテンダント対応を第一に考えながら、顧客創造活動を含め、県境など“へき地”と呼ばれる場所にいらっしゃるクライアントの開拓をし、重訪サービスのさらなる充実に取り組んでいます。

そして同時にアテンダントの方にとって働きやすい環境づくりも進めていますね。

―異業種から、はじめての介護の仕事。当初、支援に入られた時はどんな印象を持ちましたか?

障害や難病、生活の状況もさまざまなので一概には言えないのですが――ただ、介護を仕事にしたのがはじめてだったので、それがいい面に作用したのかな、と思います。

知らないからこそ素直にできることってありますよね。

深くは考えず、クライアントやスタッフに教えてもらう通りに支援を行なうことができました。

「できません」ということも、特に「お断りを受ける」といったこともなく、「仕事として支援に入ってる以上、行なうしかない」――正直なことを言えば、そんな感覚で目の前のクライアントと関わっていたと思います。

やはり“生活”に入っていく仕事ですし、短時間とはいえない時間を一緒に過ごしますから――。

コーディネーターはシフトに入って現場での介護を行ないますし、行政との折衝や、相談員さんとの間にも入りさまざまな打ち合わせをしたり、クライアントやご家族のいちばん身近なとこにいるのがコーディネーターだったので。

そういったつなぎ役としての関わりも多かったですね。

―関わる中で、印象に残っている方がいらしたらお聞きしたいです。

医療的ケア(喀痰吸引や経管栄養)が必要なクライアントの中には、コミュニケーションを取ることが難しい方もおられました。

そんな中で、透明文字盤や口文字を使ったり、PCによる視線入力やボタン入力を使った自動音声など、さまざまな方法でコミュニケーションを取られる方々の支援に携わりました。

自分は主に「喋ること」で他者とコミュニケーションを取ってきたので、正直なところ、当初は「どのように対応したらいいんだろう」と戸惑いを感じたことを覚えています。

でも、アテンダント側がそういった技術の習得ができれば、さまざまなツールを使ってクライアントとやり取りができる。

これまで経験したことのないコミュニケーション方法ばかりで、習得には時間もかかりましたが、その方に合った方法を見つけること、そして関係性を築くことには何より時間が必要なんだ、とも感じました。

ひとつひとつ丁寧にコミュニケーションを重ねていく中で、正確に意思疎通ができたことや言葉のない合図だけで気持ちが通じる瞬間も増えたり――そうやってすこしずつ信頼関係が築かれていく実感がありましたね。

アテンダントとしては“仕事”として関わっていたのですが、クライアントの“生活”に関わる仕事なので、喜怒哀楽は当然ありますし、特に重訪は、一緒に過ごす時間も長いので、“生活”と“仕事”、その両輪にまたがった関わりになる――だからこそ、過剰な依存関係にならないよう節度を大切にしながら、ポジティブな気持ちは持って支援にあたることを心がけていました。

CHAPTER5

この仕事は、「日常そのものが支援」。

クライアントと関わる中で、相手を理解しようとする姿勢や、相手の背景や思いを想像した上で行動したり――そういった柔軟性が身についたかな

―ここからは平松さんの価値観を伺えたらな、と思います。人と関わる中で、大事にしているのはどんなことですか?

そうですね。
相手を尊重することを大切にしていきたいですね。

立場や考え方の違いを否定することはせず、相手の話に耳を傾けるようにしています。

決して自分の意思だけで進めないように、聞く方をメインに進めてます。

―異業種からの転職です。介護や福祉の業界で働くようになって気づいたことや感じたことがあったら聞かせてください。

介護の業界は、やはり今までやってきた業界と比べるとみなさんあたたかみがありますね。

社内の方もそうですが、他事業所の方も、地域の方も。

みなさん受け入れてくださって、地域にて福祉に関わる方々とのつながりにより、クライアントやアテンダントをご紹介いただくこともあり、大変ありがたく感じてます。

土屋は、介護経験者だけでなく他業種からの転職者も多く、「さまざまな背景を持った人たちが自然に融合しながら働ける職場だ」と感じました。

家族介護の経験しかなかった私にとって、土屋ケアカレッジという社内で介護資格を取得できる環境や、現場で長年介護職に携わってきた先輩方から多くを学べたことは自分の成長につながっていて、そのことにも心から感謝しております。

―クライアントやスタッフとの関わりの中で、平松さんご自身が変わってきた部分ってどんなところでしょうか。

介護するにあたって、「人それぞれの生活があるんだな」「いろんな生活スタイルがあるんだな」ということは1人ひとりの支援に入ったことで実感してます。

支援方法ひとつを取っても、正解はひとつではない、ということも知りました。

もちろん基本となる知識や技術はあると思います。

ただ、1人ひとりの人生や価値観によって関わり方は変わってくるし、“日常そのものが支援である”と感じるようになりました。

クライアントと関わる中で、相手を理解しようとする姿勢や、相手の背景や思いを想像した上で行動したり――そういった柔軟性が身についたかな、と思ってます。

―仕事の中で「こんな時は嬉しいな」「こういうところがやりがいだな」と感じるのはどんな時ですか?

クライアントが安心した表情を見せてくださった時はもちろんですが、日々の関わりの中で少しずつ信頼関係が築かれていく過程にも嬉しさを感じます。

支援を通してクライアントの生活を支え、その人らしい生活が送れていると実感できることにやりがいを感じてますね。

今はアテンダントや事業所全体のマネジメント、顧客創造活動が主な仕事になっていますが、そのどれもが「支援を必要としている方へ介護サービスを届けることにつながる」ということを日々想像しながら携わっています。

もともと私は長年サービス業に携わってきたので、「必要としてる方にサービスを届けたい」という思いをずっと持っていました。

それが質の低いものでもなく、押し売りのように無理に勧めるでもなくやっぱり、その人にとっての“より良いサービス”を届けたいんですよね。

そう思うと、1周回って、またやりたいことにたどり着いてるようなところがありますね。

CHAPTER6

「この仕事を続けること」、そして 「自分の仕事を全うすること」

時間をかけて階段を上ってきたこともあって――周年を迎えるたびに会社とともに成長し歩ませてもらっているように感じてるところがあります

―お仕事の話をたくさん伺ってきたので……「お休みの日こんなことしてます」「こんな趣味があります」みたいなところを伺いたいです。

休日は旅行に出かけて気分転換をしたり、スポーツが好きなので身体を動かしてリフレッシュしています。

日々の生活の中でも、無理を溜め込まないよう意識しながら、楽しみつつ心身のバランスを整えることを大切にしています。

旅行は妻とあちこち行ってますね。
里帰り出産だったため生まれは熊本県なので、昨年は93歳の母方のおばあちゃんに会いに熊本に行ってきました。

親族が経営してる有料老人ホームに入居してますし、生活に対する安心感はありましたね。

仕事の状況もあるので、忙しい時は遠くには行けないこともありますが、そんな時は愛知周辺の滋賀や三重、静岡や岐阜に出かけたりしてます。

以前はサッカーやフットサル、草野球などにも参加していましたが、最近は運動する機会が減っているので、ゴルフの練習やフットサルへの再参加など、今後は身体を動かす時間をつくっていきたいですね。

―これからのところはいかがですか?ご自身のこれから、ホームケア土屋のこれから、10年後、20年後の社会について、もしありましたら。

今は日々の業務に集中しすぎているところもあるので――たとえば、地域と関わりを持った説明会や、アテンダントの方たちも参加できるイベントなどを開催していけたらな、と思っているところです。

それが、結果としてサービスを広げるための活動につながったらいいですよね。

それから、ホームケア土屋では2025年から過疎化が進行している地域への事業所開設プロジェクトが始まりました。

東海地方にも、サービスが届いていない、重訪を利用するクライアントがまだいない地域がありますから、今後もいろんな地域に広げたいなとも思ってます。

結果、運営面の数字も上げつつ、事業所規模もしっかり上げていきたいです。

それから、10年後、20年後については――AIやロボット、テクノロジーの進化によって、社会がさらに大きく変わっていってほしいですよね。

介護が必要な方々も、今より進化した機器を使って、行動やコミュニケーション、様々な趣味や仕事も選択肢が増えたり、社会とつながり続けられる。

そんな進化した、便利で希望のある未来になってほしいと願っています。

―さまざまなエリアを異動しながら、広域マネージャーとして関わる平松さんから見た時、東海北陸ブロックはどんな特徴がありますか?

全方位での人とのつながりが深いことが、東海北陸ブロックの特徴だと思います。

私自身もホームケア土屋に入社してから、東海北陸ブロックの中で、静岡県、愛知県、三重県――と異動をしてきました。

自分が新人アテンダントとして入社初日に支援現場に伺った時、支援に同行して教えてくださったのは、当時はコーディネーターだった竹内利文ブロックマネージャー(たけうちとしふみ/ホームケア土屋 東海北陸ブロックマネージャー)でした。

お世辞をいうわけではないですが、「いい先輩がいて良かったな」と思った入社初日勤務の記憶はありますね。

ブロックマネージャー、エリアマネージャー、各事業所のオフィスマネージャー、コーディネーター、それぞれと定期的にミーティングを行なったり、管理者同士の横のつながりによる情報共有の場もあります。

連携を取りながら業務を進め、困ったときには相談や協力ができる関係性が築けているのではないかな、と思ってます。

私は土屋が創業して間もない頃に入社しました。

2025年に土屋は5周年を迎え、その成長の過程で、さまざまな社内研修を受けてこられたと思っています。

自分は時間をかけてキャリアアップの階段を上ってきたこともあって――周年を迎えるたびに会社とともに成長し歩ませてもらっているように感じてるところがあります。

今回のインタビューを通じて、転職の機会が人生の大きなターニングポイントだったと改めて実感しましたが、個人事業主時代も含めると、1社目、2社目、土屋は3社目、もしかしたらこれで最後かな、という感覚でいるんです。

そんな私にとっては「仕事を続けること」は基本です。
“自分の仕事を全うする”――今はそこに注力しています。

これからもクライアント、そしてアテンダントからの声を反映し、より良い運営となるよう取り組んでいきたいですね。

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