介護事業部

土屋ケアカレッジ

金居祥太郎

中四国運営 マネージャー

「わからない自分」、「できない自分」という固定観念の横を通り過ぎていけ

 《interview 2025.12.02》

広島の自然に囲まれた場所で、好奇心いっぱいに育った金居祥太郎(かねいしょうたろう)。
16歳で父を亡くした経験から、「患者や家族の救いになる存在になれたら」という思いを胸に、ケアの世界へ足を踏み入れました。
介護の仕事を10年ほど続けますが、その後、たまたま出会った土屋での重度訪問介護の仕事を経て、現在は土屋ケアカレッジで中四国運営マネージャーとして新たな領域で働いています。
「いつでもその人が近くにいることを、あたりまえだと思わないように」――そう思わせてくれた父の存在、そして彼のもとに訪れたあたらしい出会い。
ささやかな挑戦と思いを重ね、歩んできた道のりを訪ねます。

CHAPTER1

「いつか、患者や家族を救えるような看護師に」

怖いもの知らずで、なんでも興味を持っちゃうこどもでした

―金居さんはどんなところでお育ちになったんですか?

生まれ育ったのは、山と川しかないような、広島の田舎の中の田舎――みたいなところでしたね。

こどもの頃は、魚釣りばかりして遊んでいました。

―どんなお子さんだったんでしょう。

とにかく好奇心旺盛というか。

どちらかというと怖いもの知らずで、なんでも興味を持っちゃうようなこどもだったかな、と思います。

服のまま川に入って泳いだり、潜って魚取ろうとしたり――それで大人からよく怒られていましたね。

泳いでいたら気づかないうちに“流れてる”みたいになったこともあって。

溺れてはいなかったんですが、その姿を見た人が通報をして、警察に保護されたこともありました(笑)。

―今と変わらない部分ってどんなところですか?

なんでしょうね……新しいものが出たら、すぐに買っちゃいますね。
好奇心が強いところは今も変わらないかもしれないです。

―中高生、10代の頃に熱中していたことってありましたか。

今思えば、10代になってからはあまり真面目な方ではなかったですね。
自分が16歳の時に父親が癌になって他界したんです。

父親のお見舞いに行く中で出会った、父の担当をしていた看護師の方がすごくいい人で。

その出会いをきっかけに、「将来的に自分も看護とか介護の世界に行きたいな」という気持ちが芽生えました。

―その看護師の方はどんな方だったんでしょう。

自分たち家族が面会に行っても父親は元気がなかったんですが、その看護師が来ると父は笑顔になるんです。

今思えば、コミュニケーション能力がすごく高い方だったように思います。

自分自身もその看護師の声掛けによって助けられた部分もあったので、「患者や家族の救いになる看護師になりたい」と思うようになりました。

―ご病気をされたお父様と接する中で、見えてくる世界が変わったようなところもありましたか。

そうですね。

ただ、変わったというよりは――早くに両親を亡くしたり、両親が別れられて片親だったり、という人って世の中にいっぱいいらっしゃると思うんです。

当時の自分にとっては、父が他界したことは特別なことでした。
「それってみんながあまり経験しないことじゃないのかな」って。

自分のまわりにいる人――それは家族だけじゃなく、友人も含めて――へのありがたみは、人一倍、感じられるようになったんじゃないかな、と思います。

CHAPTER2

看護のしごと、介護のしごと

看護学校へ行くも、途中で辞めることに。その後、介護のしごと”へ

高校卒業後は正看護師の資格を取る看護学校に入学しました。
僕が行っていた学校はすこし特殊で、昼間定時制と言って、講義が昼の1時から夕方の4時までしかなかったんですよ。

それ以外の朝の9時から昼の12時までは、学校が提携している病院で看護補助として働くんです。
で、昼になると学校に行って、4時に学校が終わったら、夕方から夜まで病院に戻ってまた働く――そんな学校でした。

―看護の仕事を、学びながら働くのってどんな感じでしたか?

看護師は人の命を扱う仕事なので、とにかく勉強が大変だったのを覚えてます。

今でこそ、男性の看護師はそんなにめずらしくないと思うんですが、当時は1クラス約40人の中で男子は1、2人とか、多くても3人ぐらい。

クラスのほとんどが女性だったので、その辺りはなかなか難しいものがありました。

ただその後、学校は卒業できなかったんです。
学校に行きながら働いてもいたので、毎月、ちゃんとお給料がもらえた。

それと、奨学金も借りていたので、“奨学金+自分で稼いだお金”っていう、それまでだとありえない金額が毎月手元に入るんです。

そしたら、遊ぶ方にお金を使うようになってしまって――卒業するのに単位が足りなくなってしまったんですよね。

最初の一年目は、留年して頑張ろうと思ったんですが、その後も遊ぶ方にシフトしてしまって。
結局、学校は辞めることになり、資格は取らずに地元に帰ってきました。

戻ってきてからは、「他の業種に行って、また1から学ぶのもめんどくさいな」って思ってしまって。
病院で働いていた経験があったので、「看護は無理でも介護はできるかな」と地元の病院に勤めて介護職をしていました。

―病院の中の介護職というと、どんな仕事をされるんですか?

施設とあまり変わらないんですが、入浴介助をしたり、シーツ交換をしたり。
食事や排泄介助、それからフロアを綺麗にする等の環境整備ですね。

月に1回、レクリエーションがあるので、患者さんを何人か乗せて、車で外出することもありました。

―社会人になって、スタートした仕事はいかがでしたか?

楽しかったですね。

「ありがとう」「あんたがおってくれてよかったよ」って言ってもらえるのはやりがいがありました。

CHAPTER3

“全ての選択において、クライアントが主体になる”重度訪問介護へ

「自分の仕事が、目の前の人のためになっている」――“介護の仕事”で感じた実感

―その後は……?

高齢者施設等で介護の仕事を続けていたんですが、一度、介護職を辞めたことがありました。

知人から「ガス屋さんの仕事をしないか」と紹介をされて。

社会に出てから介護以外の業種を知らなかったので、「1回やってみよう」と思ってはじめたんですが、“対人”ではない仕事だったんです。

配属されたのが、ガスがなくなった家に行ってボンベを変える仕事だったんですよ。

「全然、やりがいを感じないな」って思ってしまって。
営業や、対人の仕事だったらまた違ったかもしれませんが。

そこはすぐ辞めて、また介護の業界に戻りました。

―そうなんですね。金居さんにとって介護の仕事が“向いていた”のは、どんなところだったんでしょう。

自分の関わりに対して、その場で「ありがとう」と言ってもらえたり、直接目の前で成果が出ることで、「自分の仕事が人のためになっている」「人の助けになっている」と実感できるところがいちばん大きかったですね。

だからまた介護職に戻って、そこからはずっと介護の仕事を続けていけたんだと思います。

―その後、2023年にホームケア土屋広島に入社されます。入社のきっかけは?

きっかけは――本当にシンプルな理由なんですが、「お給料がいい」っていうところだったんです。

当時、僕は独身だったんですが、「もしこれから、パートナーとかができて結婚するってなった時、この給料のままだとしんどいな」「ずっとこの給料のままでいいのかな」と思うようになった頃でした。

正直なところ、「遊ぶお金もちゃんとほしいな」って。

そんな時に職場で夜勤をしながら求人を見ていたら、土屋の求人が出てきたんです。

―はじめての重度訪問介護。いかがでしたか?

めちゃくちゃ難しいなと思いましたね。

土屋に来る前の時点で、高齢者施設での介護経験を10年以上していたので、「どこに行っても通用するだろう」と思ってたんです。

でも逆にそれが固定観念になってしまっていて――。

重度訪問介護の現場に入った時にそれが全部、覆された。
大勢と一対一では対応が全然違っていて、その違いの難しさを感じました。

病院や施設の中の介護というのは職員のペースで進みます。

食事の時間、排泄介助の時間、レクの時間……全て職員側が主体になって決めるので、患者目線に立っていないのが正直なところです。

一方で重度訪問介護は、もともとあるクライアントの生活の一部に職員が入ることになるので、主体は必ずクライアントになります。

その点が良いところでもあり、難しいと感じたところです。

例えば12時になったら、病院や施設では必ず食事が出ます。

重度訪問介護はそうとは限りません。

おおよその時間の目安はありますが、もしその時にクライアントが食事を望まなければ食事の開始時間が大幅にズレることもある。

施設介護だけを経験してきた自分にとって、「全ての選択において、クライアントが主体で、クライアントの都合で、その時々で変更になる」という点が、当初、難しさを感じたところでした。

ただその分、「クライアントが本当に望む支援を行えている」と思える部分もあったので、そこは良い点だったな、と思います。

―クライアントさんとの関わりはいかがでしたか?

僕はそれまでずっと、高齢者施設で認知症の方たちと関わってきたんです。

高齢者介護の現場では、「ご本人は理解できないだろうから」とおじいさんやおばあさんと対等に関わろうとしない人たちを僕は見てきました。

同じ“介護”でも、重訪に携わるようになって知ったのは――僕が関わっていたクライアントさんはみなさんALSの方だったんですが、体が動かないだけなんですよね。

僕たちと変わらない。

もちろん高齢者介護でも入居者の方を同じ立場だと思って接していましたが、重訪はより強く「同じ立場の方なんだな」と思うようになって。

普通に会話してましたね。

―印象に残ってるクライアントさんっていらっしゃいましたか。

みなさん、印象に残ってますね。

その中でも――「N G」をよく出されるクライアントがおひとり、いらっしゃったんです。

その現場はアテンダントがよく変わるんですが、そのクライアントの方から、「毎日、金居くんに来てほしい」と言ってもらえた時はちょっと嬉しかったですね。

―そのクライアントさんには、金居さんのどんなところを受け取ってもらえたんだと思われます?

おそらく――僕がズバズバ言うタイプだったからだと思います(笑)。

僕はできないことは「できない」とはっきりお伝えしますし、支援内容を超えたようなお願いをされた時も「それは決まりなので、できません」とお伝えしていました。

ただ、できることに関しては、「支援時間内だったら精一杯やらせてもらいます」と、そんな感じでその方とは関わっていましたね。

CHAPTER4

支援現場から、グループ内の別会社・ケアカレッジへ

広島から、関西へ。10ヶ月ほど、運営マネージャーを担当

現場支援に入って半年くらいですかね。
僕はもともと腰痛を持っていたんですよ。

あるクライアントの支援に入っていた時――毎日、浣腸して摘便をする方だったんですが、横を向いてもらって体の角度を調整していたら、急に下半身に力が入らなくなっちゃって。

そのクライアントさんの家で立てなくなってしまったんです。
すぐ上司に迎えに来てもらって、そこで現場支援はギブアップしてしまいました。

現場支援に入るのは難しくなってしまったので、上司に相談をして。
「どこか別の部署に移れないでしょうか」、と。

ただ、その当時は土屋が重度訪問介護の他にどんな事業をしているのか、どんな部署があるのかをわかってなかった。

もちろん、今も全部はわかってない部分も多いんですが。

その後、ケアカレッジに異動をさせてもらえることになったんです。

当時、カレッジの関西エリアでスタッフが不足していたので、「関西に行かないか」と声をかけていただいて、「すぐ行きます」と。

―ケアカレッジ関西に異動されて、どんな仕事をされていたんでしょうか。

関西エリアの運営マネージャーを担当して、研修事業の運営に関する知識や経験を学ばせていただきました。

当時、担当されてた方から引き継ぎを受けて、約10か月ほど、関西の運営業務に携わりました。

CHAPTER5

仕事なんて、生活をしていくための必要手段としか思っていなかった

「その人に追いつきたい」――仕事と生活は分けられているのではなく

―これまで長く介護の仕事を続けられてきて――金居さんの中で「今の自分をつくってくれたな」と思うような出会いや人がいらしたら教えてください。

実は土屋に入ってからはそういう経験はあるんですが――今までの職場で、気づかされることってあまりなかったかもしれないですね。

―働き方や仕事に対する姿勢が金居さんの中で変わったんでしょうか?

土屋に入るまでは、「仕事なんて、生活をしていくための必要手段」としか思っていなかったんです。

プライベートで仕事の連絡が来ることや休みの日に仕事のことを考えるなんてことは今までの仕事ではありえなかった。

でも、今となっては仕事も生活の一部として考えられるようになったかもしれません。

―土屋に入ってからの出会いというのは、どんな出会いだったんでしょうか。

大きかったのが――今、ケアカレッジの法務課で課長として働く伊塚健太郎(いづかけんたろう)さんと出会えたことですね。

当時、伊塚さんは今の僕と同じ立場で、カレッジの関西や中四国の運営マネージャーをされていました。

伊塚さんの仕事を近くで見ていて、「僕と2歳しか変わらないのに、こんなに仕事ができるんだ」という驚きがありました。

カレッジに所属していた期間もあまり変わらないのに、知識の量が半端じゃないんですよ。

その知識量は、きっと勤務時間外のところでも自分で学ばないと習得できない。

それは今、自分が働きながら気づいた部分でもあるので、「ものすごく勉強をされたり、努力をされて今があるんだろうな」と思います。

それもあって、「その人に追いつきたい」――っていう思いを、唯一、自分が感じた人なんです。

―きっと伊塚さんの“人としての魅力”の部分も大きいのでは、と思います。金居さんにとっては、例えばどんなところにそれを感じますか?

そうですね。

僕は全部ストレートにスパッと言っちゃうタイプなんですが、伊塚さんは伝え方も上手なんです。

誰かに何かを伝える時に、僕はストレートしか投げられない。
でも伊塚さんは変化球がいっぱい投げられるんです。

僕が伝えると、相手が嫌な気持ちになってしまうような内容を、その人が伝えればきっと嫌な気持ちにならない――例えば、ですがそんなことがあります。

そういう伝え方のバリエーションを、いっしょに仕事をする中で、近くで見て学ばせてもらってるというか。そんなところがありますね。

CHAPTER6

「いつでもその人が近くにいる」っていうことをあたりまえだと思わないように

家族だって、職場の仲間だって、いつ誰がいなくなるかなんてわからない

―介護の仕事や生活をする中で、人と関わる時に大切にされてることをお聞かせください。

人と関わる時、気をつけてること――難しいですね。
僕はめちゃくちゃ喋っちゃうタイプなんです。

こう見えて結構お喋りで、全くと言っていいほど人見知りもしない。
だからこそ、気を付けてることってあまりないかもしれないですね。

「考えすぎちゃって、何喋ったらいいんだろう」っていうことは全くないんですよ。

―介護の仕事を続けていく中ではいかがですか?続けていく中で、もし金居さん自身が変わってきた部分があったら教えていただきたいです。

その質問の回答として合ってるかわからないんですが――「父のことがあったからこそ、まわりにいる人を大事にしようって思う気持ちが強くなった」って先ほどお伝えしたんですが、逆もまたしかり、で。

いつ、誰がいなくなるかなんて、わからないじゃないですか。
家族に限らず、同じ職場の仲間もそうです。

僕はそういう経験があるので、今は「いつでもその人が近くにいる」「何かあったら誰かに助けてもらえる」っていうことをあたりまえだと思わないようにしてます。

近くにいる人が困っていれば助けますし、何か力になれることがあればなんでもしてあげたいと思います。

もちろんできること、できないことはありますが、自分ができうる範囲内ですこしでも近くにいる人の役に立ちたいという気持ちは人一倍あると思います。

それは、「近くにいる人を裏切らない」ことだとも思うんです。

例えば、困って上司に相談して助けてもらったり、同僚に愚痴を聞いてもらったり。

そういうこともあたりまえだと思わないようにしよう、っていうことはいつも考えるようになりましたね。

―先ほど、介護の仕事の「対人のところにやりがいを感じられていた」と仰っていました。その後、カレッジで働かれるようになりましたが、働き方や内容を途中で変える時――例えば、仕事に対する考え方の変化や、直接的な関わりから間接的な業務に変わること等――どんな思いの中で働かれてきたんでしょうか。

カレッジに移った時、全部が新しかったんです。本当に。
最初は楽しみながらやってましたけどね。

僕はもともとパソコンや機械がすごく苦手で。

例えば、キーボードで使う「Ctrl C」とか「Ctrl V」とか――コピーやペーストをショートカットでできますよね。

ああいうこともわからないレベルだったし、パソコンのキーボードを打つのもすごく苦手でした。

そこからスタートしたんです。

でも、僕は負けず嫌いでもあるので、「ここ、わからないです」「教えてください」ってどんどん先輩に聞いて。

同じ運営マネージャーの人たちに「追いつけ、追い越せ」じゃないですけど――とにかく頑張って、わからないことを恥ずかしがらずに、同じエリアの上司や仲間に聞いて、知識を深めていきました。

そこは、自分の中では「ちょっとだけ頑張ったのかな」って思います。

―そうだったんですね。今のカレッジのお仕事の中では、どんなところにやりがいや嬉しさを感じられていますか。

基本的に、今は事務作業がメインなんです。

なので、現場と違って、やりがいといってもパッと思い浮かばないんですが――ただ、別のエリアの人から相談を受けたり、仕事の悩みを聞かせてもらえるのは嬉しいかもしれないです。

あとは、上司から、自分に「この仕事を頼むよ」と仕事を選んでもらえたり、任せてもらえることは嬉しいですね。

―土屋で働いていく中で、大きな出会いや働き方の変化があったと伺ってきました。金居さんが今、思う「土屋らしさ」ってどんなところだと思いますか?

そうですね。多様性を認めてくれる会社だと思います。

「誰が」とかではないんですが、この会社に入社するまで、それぞれにいろいろな背景がある。

土屋に入ってから、「こんな業界の人が介護業界に来たの?」って驚くことが多いんです。

どんな人でも受け入れる会社というか――もちろん僕を含めて。

CHAPTER7

これから――「判断力と、決断力と行動力を磨いていきたい」

5年後、10年後ってなると想像できないですが――「一皮も二皮も剥けた人になっていたいな」

―今までお仕事のところをいろいろ伺ってきたのですが、お休みの日の過ごし方や趣味についてお聞きしたいです。

趣味はゴルフです。

―以前、伊塚さん(前述)へのインタビューでカレッジにはゴルフ好きな方が何人かいらっしゃると聞いたことがあります。機会があれば、みなさんで集まって……ということが今もあるんですか?

そうですね。

お互い熱がある時とない時があるんですが、お盆とお正月はカレッジの一部メンバーでゴルフに行ってますね。

―ゴルフはどういうきっかけで始められたんでしょう。

妻の母がゴルフをしていたんですよ。

その時はまだ妻と結婚はしてなかったんですが、「共通の話題で話せたらいいな」という思いと、かつ、身長や体重関係なくできる競技なので「ゴルフだったら女性でも始められるな」とも思って、その後、妻と一緒に始めました。

今は、妻はしていないんですが。

―最後に――これからのところを伺えれば、と思います。ケアカレッジでどんなところに関わられていきたいか、どんなところに力を入れていきたいか、お聞かせください。

僕に今足りないのが、判断力と、決断力と行動力。
この3つは自分が成長するために確実に磨いていきたいですね。

ケアカレッジは研修機関として見られているかと思いますが、今後、カレッジは「ケアカレッジカンパニー」として土屋グループ内で独立した経営をしていきます。

カレッジ単体でしっかり営業をして、受講生を増やしていって、黒字化に向かっていかないといけない。

その時、今言った行動力や判断力等が必要になってくると思います。

ひとりの力じゃ絶対無理です。

でも、みんなが同じ方向を向いて、カレッジとして利益を上げていくことを頑張っていきたいなと思ってますね。

―目標や方向性というのは、カレッジのみなさんと話をしたり、共有したりをされているんですか。

ありますが、みんなそれぞれ、カレッジに来た背景が違うんですよね。

例えば僕みたいに「カレッジの売り上げを第一に考える」ようなタイプの人もいれば、「研修の内容をもっとよくして、受講生の満足度を上げていく」といった考えの方もいらっしゃいます。

みんなそれぞれに思ってることや働いている背景も違います。

ただひとつだけ方向があるとしたら――黒字化していかないと、会社は継続できない。

それもあって、僕は今は「カレッジにとっていちばん大事なのは売り上げを上げていくこと」だと思ってますね。

今、カレッジでは毎週、運営ミーティングが開かれているんですが、僕はそこでファシリテーターをしています。

その中で、今言ったようなことを発信しているつもりです。
大事にしてるのはそこですかね。

―「10年後、20年後、ケアカレッジがこんなふうになっていたらいいな」、もしくは「ご自身がこんなふうになっていたいな」というところがあったら聞かせてください。

5年後、10年後ってなると、僕も想像できないですが――“会社が”というよりは、「自分が一皮も二皮も剥けた人になっていたいな」っていう思いが強いですね。

僕は今、中四国の運営マネージャーとしてマネジメント業務をしてるんですが、そう言いながらも、今も近くに伊塚さんがいて、助言をいただきながら業務を進めているところも大きいんです。

「自分ひとりの力でしっかりマネジメントできるようになっていたい」。
いや、ならないといけない、と思ってますね。

―そこが、先ほど仰ってた「判断力と決断力と行動力」なんですね。

そうですね。

―最後に伺いたいです。これまで10年ほど、金居さんが介護の仕事を続けられてきたのは……なぜだと思いますか?

シンプルに「困ってる人がいたら助けるのが当然」っていうところですかね。

中には、障害を抱えた人だったり、年齢をかさねて認知機能が落ちてきた方もいらっしゃると思うんです。

その中で、ご本人がしんどいのはもちろんなんですが、ご家族の方も大変な部分があると思うんですよね。

ご本人、そしてご家族を含めた方々が使える制度やサービスがあって、そういうサービスを提供できる場として、病院や施設や訪問介護があるわけで――だからこそ、「そこで困ってる人を助けたい」から。

そこだけかなと思います。

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