介護事業部

介護事業部 ホームケア土屋

川畑梨里

佐賀 管理者

あたし?あたし、海になりたい

 《interview 2025.09.08》

「大丈夫、なんとかなる」――小さい頃から、そう信じて歩んできた川畑梨里(かわばたりり)。
病棟看護師として勤務していた時の戸惑い、重度訪問介護と出会った時の涙の日々。
人と生きるままならなさをつみ重ねながらも、人の優しさに支えられ、川畑は自分らしい道を切りひらいてきました。
そして、今、ホームケア土屋佐賀の管理者として働いています。
「海のようなリーダーになりたい」「女性が長く続けられる職場を目指したい」。そんな未来を抱きながら、泣き、笑い、落ち込みながらも乗り越えていく川畑のストーリーを訪ねます。

CHAPTER1

「きっと、なんとかなるでしょう」――小学生の頃の私

マイペースで前向きなところは今も変わってないのかな

―こどもの頃はどんなお子さんでしたか。

こどもの頃はあんまり今と性格変わってなくて。

でも今よりもっと自信満々な子だったというか、すっごく体格がよかったんですね。

男の子に混じって遊んだり、「とりご」っていう遊びのチームを分ける時にするじゃんけんでは、いつもいちばん最初に選ばれるような子でした。

―身長も高かったんですか?

今の身長は166センチなんですが、小学校6年生の時からほぼ変わってないです。

強いし、よく食べて、よく動いて。
相撲大会で優勝してましたね。

問題もよく起こすような子でしたんですけど、中学校に上がる前かな。

高学年ぐらいの時から体つきが周りと違ったので、気にしてたけどあまり気に病むとかはなかったですね。元気でした。

「なんとかなるでしょう」「大丈夫でしょう」っていうのはずっと思ってて。

女子ってーーある学年になると、派閥というか、グループに分かれるようになるんです。

それで同じグループの中でも「次はこの子の順番を抜かそう」みたいなものが順繰り順繰りである時があって。

自分の番だった時もあって、ひとりで休み時間を過ごしてる時もありました。

高いところまで登って、校庭全部を見渡せる遊具が小学校にあったんですね。

その上に登って「あー、遊んでくれる人がいなくなっちゃった」なんて思ったことも。

でも、その時は多分、悲しいとかは思わなかったはず。「悲しいことなんだ」っていう自覚がなかったのかもしれません。

だから意外とマイペースで前向きなところは今も変わってないのかな。

―大きくなったらなりたかったものとか、「こんな人に憧れてた」っていうことはありましたか?

小学校の時は「『天才テレビくん』のテレビ戦士になりたい」って本当に思ってました(笑)。

お母さんに「どうやってなったらいいの?」って聞いたこともあったけど、本当にテレビ戦士になるのはどこかで「恥ずかしい」って思っていたんでしょうね(笑)。

でも小学校の頃は、なんとなくそんなことをよく言ってたような気がします。

はちゃめちゃ幼少期

CHAPTER2

看護学校時代――見た目も、価値観も、育ってきた環境も違う他者との出会い

中学校までは自分を受け入れてくれるような子たちばっかりが周りにいた。でも高校ではこれまでの自分のままじゃやっていけないんだな、って感じました

―10代の頃はどんなふうに過ごしていたんでしょう。

中学校の時に吹奏楽部に入っていて。

その時に「高校も大学も音楽の道に進もう」って思ってたんですけど、家族に「現実的じゃない」っていう話をされて「そっか……」って。

それで高校受験も、大学受験も、就職も、考え始めたら「めんどくさいな」って思ったんですよね。

「全部1回で終わるのってないのかな」って思った時に、「5年課程の看護学校に行ったら1回じゃん!」って思いついて「よし、看護師になろう」って。

そこからは中学校の職場体験も病院にして、中学校の先生に「推薦ください」って言って、その看護学校を受験しました。

―どんなところだったんですか。

鹿児島でもマンモス校と言われるぐらい大きくて、「5年一貫の学校にいきたい」っていう生徒が全国から集まる高校だったんですよね。

中学校までの、しっかり区分けされた地域で出会う人たちとは、見た目も含めて、価値観も、育ってきた環境も違っていたので、同級生なのにすごく大人っぽく感じて。

中学校の頃までは自分を受け入れてくれるような子たちばっかりだったので、自分の意見をしっかり言ったり、「嫌なことを嫌だ」って伝えたりが通用しないことをその高校で学んだというか。

「自分をただ出すだけだと、ここではやっていけないんだな」って感じて。

もともと私は誰とでも仲良くしたいし、「みんなが仲良くすればいいじゃん」「喧嘩とかしなくていいじゃん」っていう考えだったんですよ。

だから人に対しても、「もし何かをやりたい人がいたなら、好きにやらせてあげたらいいし、もし私が何かやりたい時も自由にやったらいい」って思ってた。

でもその学校で過ごす中で、そういうやり方をいいと思わない人もいることを知って、「黙って相手の出方を伺ったり、観察することが大事だな」って思ったというか。

だから、高校の頃の記憶はあんまりないんですね。
もちろん、楽しいこともたくさんあったんですよ。

でも嫌なこととか、辛いこともいっぱいあって、8割ぐらい忘れちゃいました。

そこでガラッと変わったかもしれないですね、自分が。

その高校には病院の奨学金を借りて行っていたので、卒業後はその病院に勤めました。

一定期間、勤めると、奨学金の返済が免除される制度があったので、その病院では4年ほど働きましたね。

看護学生時代

CHAPTER3

失敗ばかりのスタートラインーー“お調子者”としてのわたし

ほんとに優等生じゃない。勉強もできたわけでもないし、すっごく頭がいいわけでもない。ただ、根性とか負けん気はありました

―看護師として働き始めてからは、いかがでしたか。どんなことを感じられましたか。

そうですね。

「人って冷たいな」ってーー「信頼がない状況で働くことってこんなに辛いんだな」って思いました(笑)。

病棟に勤めてたんですが、入社してまだ1ヶ月目か2ヶ月目ぐらいの時に、他の看護師さんがお昼休憩に入ってる間、ひとりで病棟を管理する時間ができてしまった時があって。

その時に車椅子に移乗する患者さんが8人ぐらいいたんですね。

でも、まだ入ったばかりだったのもあって、要領も悪いし、自分の技術も追いついてなくて、

患者さんーーちっちゃなおばあちゃんだったんですけどー―をうまく移乗ができずにベッドと車椅子の隙間に置いてしまったんです。

そしたら、その患者さんがパニックを起こしてしまって。

その声を聞いて看護師さんが5人ぐらい走ってきて、理由を聞かれる間もなく、一斉に責め立てられたことがありました。

もちろん私自身にも非があったんですが、当時はうまく説明することもできずに病院から逃げ出したこともあって。

振り返ると、「うまくいってないことの方が多かったかな」って思いますね。

―病院で働いてきた中で、ターニングポイントのような出来事はありましたか?

その病院には4年ほど勤めて、その後、別の病院に転職するんですがーー根本的に、“お調子者”なんですよ。

ちょっと楽観的な部分があって。
だから振り返ると、失敗談しか浮かんでこないんです。

どこを切り取っても、「あ、そういえばこんな失敗があったな」「こんなことしちゃったな」――ほんとに優等生じゃない。

勉強もできたわけでもないし、すっごく頭がいいわけでもない。

ただ、根性とか負けん気はありました。
もちろんいい話もあるんですよ。

でも自分を変えることになったターニングポイントってなると、ここまで段階的にそういう大きな失敗をして、今のこの状態に落ち着いてるところがあるんですよ。

病棟看護師時代

CHAPTER4

仕事が教えてくれた、“伝え方”、“言葉の使い方”

「コーディネーターになる」って決めた時が、自分の中で気持ちがガラッと切り替わった瞬間だった

―その後の重度訪問介護(重訪)との出会いは、川畑さんにとって大きいものだったのかな、と感じます。土屋に入社されて、実際にクライアントさんの支援に関わるようになって、いかがでしたか。

最初は正直なところ、「無理だー」って思ってしまったんです。

病棟看護師だったので、介護の部分が全くできなくて、本当にきつかった。

注射や採血、検査は得意だったんですが、おむつ交換や移乗、お風呂介助は何もできなくて。

今は違うんですが、その時のホームケア土屋鹿児島は人手が少なかった時期だったのもあって、新人アテンダントには支援の最初の段階で短時間同行した後、割とすぐ独り立ちするような流れだったんです。

もちろん看護師資格もあって、医療的ケアの経験もあったからこそ現場をすぐに任せてもらえたところもあったと思います。

でもコミュニケーションは取れない。

A L S等の難病や障害者の方と関わること自体がそもそも初めてだったので、文字盤の経験もないし、考え方もいまいちよくわからなかった。

それで支援現場で泣いてしまってーーずっと泣きながら、駐車場まで帰りました。

でもそこから、なんでかーー「この会社で働くなら、このままじゃいけないな」と思って(笑)。

もともと看護師時代から、「上にあがりたい」「看護師長になりたい」っていう意欲はあったんですよね。

理由はなく、ただ「やりたい」っていう思いがあった。

当時、ホームケア土屋鹿児島ではコーディネーターが不在だったので、「じゃあ、私がやろう」って。

そこが自分の中で、気持ちがガラッと切り替わった瞬間だったかなって思います。

―「コーディネーターになる」って決めた時。

そうですね。
「もう絶対なってやる」って思いました。

入社当初はーー看護師としての自信があったんでしょうね。

「技術はあるし、まぁ大丈夫でしょう」みたいな気持ちでいたのが、支援現場に入ったら、全部崩れたような気持ちになったんです。

その時、「全然ダメじゃん、自分」って。

それでなんでか「コーディネーターになろう」って思いました(笑)。

そこからはホームケア土屋鹿児島が受けたクライアントの現場は全部入りました。

「私は2回(の支援)で、そのクライアントの支援を全部覚えるんだ」って決めて。

自分で手順書をつくったり、メモったりしてー―「自分が全部の現場に入れるようにして、ちょっとでも次に支援に入るアテンダントのフォローができるまでにならないと」ってなったんですよね。

ーコーディネーターになられてからはどうでしたか。業務が変わってきた時、見えてきたものはありましたか。

そこでも、「まだまだダメなんだな、自分は」って思いましたね。

自分の伝え方の悪さが本当に身に染みたというかーー。

“言葉の知らなさ”があったんだと思います。
本当に経験不足だとは思うんですけど。

2年ほど、鹿児島でコーディネーターをさせていただいたんですが、最初は「なんでこの伝え方がダメなのか」がまずわからなかった。

働いてくださっているアテンダントの方が「自分より目上の方だ」という認識はあったし、

私の中では内容をしっかり伝えてるつもりでも、傍から見ると、すごく失礼な言い方をしていたり。

“私の中で使ってる言葉”が抜けきれないまま、人に伝わりづらい話し方をしていて、まわりからも注意をたくさん受けました。

支援現場に関しては、悩むというよりは「やることをやっていく」っていうふうに進められたんですが、

アテンダントとのやり取りは「私の伝え方ひとつで、こうも結果が変わってくるのか」っていうことをたくさん経験しました。

本当にいろんなことを学ばせてもらったなと思います。

土屋に入社するきっかけをつくってくれた知人がいてーーその人が、誰かのために何かをする喜びとか、覚悟を教えてくれたんですよね。

それまでは、目の前にあるものとか目標に向けて、ただただ進んでいっていたんですが、

「自分がしたいことがあったら、そこに向けて具体的にどういう努力をしたらいいのか」とか、「どんな覚悟を持てばいいのか」を考えさせてもらった。

そういうふうに考えられるようになったのは、その人との出会いがあったからだ、と思ってます。

指宿の海

CHAPTER5

先入観を持たないこと

その人がどういう生活をされていて、どうしてこんな働き方をしているのかーーで、聞いてみたら、見えてきた

―お仕事でも普段の生活の中でも、人と関わる時、どんなことを大切にされてるかっていうところを伺いたいです。

先入観を持たないことですね、相手に。

どんな悪い話を聞いても、どんないい話を聞いても、自分がこの人と実際に会った時の印象や、言葉の端に表れるその人の気持ちを汲みたいな、と思ってます。

あとは否定しないことですかね。

―それはどんなご経験から?

先入観を持たないのはーーいちばん最初に勤めた病院で、毎日表情の険しい看護師さんがいたんです。

若手からするとすごく話しづらくて、「この人と一緒に夜勤になったら嫌だな」って思うような方で。

そういう話を他の人からも聞いていたから、私も「嫌だな」って思っていたんですが、

ある本を読んだ時に、「あなたが見えてる部分以外で、この人は違う何かを抱えてるかもしれない」みたいなことが書いてあって。

「この人がいつもピリピリしているのは、もしかしたら背景に何かおっきなものがあるからなのかもしれないな」って考えたんですよ。

で、その方に直接、聞いてみようと思って。

どういう生活をされていて、どうしてこんな働き方をしているのかって。

そしたら、シングルマザーで、中学生の男の子がふたりいて。

毎朝お弁当をつくって、毎朝野球部の練習の送り迎えをしてるんだ、って。

だから「自分が動かないと、自分が動かないと」っていう思いが強くある方だった。

「お母さんとして一生懸命頑張ってるから、病院でもそういう動き方になってたんだな」ってわかって、その方のこどもの話を聞くようにしたんです。

きっと頑張ってるんだろうから、家で。

「そこに私が興味を持ったら、きっとたくさんお話してくれるだろうな」って感じて。

そしたら、ニコニコしながら「今、息子たちがこんなことを頑張ってて」「いついつ(息子の)試合があるんだ」みたいな話をしてくれるようになったんですよ。

それで「こんなにニコニコされる方なんだ」って思って。

その時に「良くなかったな」って思ったんですよ。

表面の部分だけをみんなが見て、『怖いな』『嫌いだな』って思ってしまってた。

そういうふうに関わると、こっちも損するし、相手も損しちゃう。

そこから先入観は持たないようにしようって決めたんですよね。

病棟看護師時代

CHAPTER6

あるクライアントの、その優しさがなかったら、今の仕事は続けられなかった

重訪に携わった時――自分が、その人の人生の一部になる

―介護の仕事と出会ってから、ご自身の中で気づいたことはありますか。

看護師をしてる時は、「ただ業務時間内に終わらせよう」っていうことに専念してたので、

そこまで考えられる余裕はなかったんですけど、重訪に携わった時――人生の一部になるじゃないですか、自分たちが。

関わり方ひとつでこんなに活き活きする方がいらっしゃる。

「他人の人生に踏み込んで生きるのってすごいな」って。
だから自分ができる努力は続けないとなって思ってます。

―特に重訪は、一対一の支援で、仕事だけれど、“ひとりの人”として関わらないといけない部分がありますよね。印象に残ってるクライアントさんがいらしたら、教えてください。

いちばん最初に出会った方ーー先ほど“泣きながら帰った”ってお話した方なんですがーーは、私がどれだけできなくても、笑って「あなたならできる」「大丈夫」って言ってくれて。

そのクライアントを目の前にすると、涙が出てくる時間があったんです。

自分がどうしてもできない悔しさとか、「帰りたい」とか、いろんな気持ちがあって。

その方のお家には別室に待機部屋があって、そこにファックスが置かれてたんですね。

そこで待っていると、また「大丈夫」っていう言葉がファックスで送られてきて、「なんでこんなに優しいんだろう」「なんでこんなに私を受け入れてくれるんだろう」。

なのに「なんでこんなに自分はできないんだろう」ってーーそこでまた「頑張ろう」って思えた。

その人のその優しさがなかったら、絶対に今の仕事は続けられなかったです。「大丈夫」「いいよ」って。

A L Sになって初期の方でした。その方が笑いかけてくれたから、「今、私はここにいるんだな」って思います。

CHAPTER7

海のような人になりたい

アテンダントは“鳥”です。“海”は帰りたい時に帰ってくればいいし、休みたければそこで休めばいい

―鹿児島から佐賀に異動されたり、管理者になったり、と仕事が広がってく中で、今はどんなところに喜びややりがいを感じられていますか。

その人のやりたいこととか、希望に応えられた時は嬉しいです。

ずっと気分が不安定だった方が笑ってくれたりーー誰かが喜んでくれることがやりがいですね。

―現場以外のアテンダントさんたちとやり取りをしたり、まとめたり、という役割もあるかと思います。そこでは「自分がこういうふうにできたらいいな」とか、「アテンダントがこういうところに喜んでもらえると私も嬉しいな」っていうのってありますか。

基本的には「自由に仕事をしていただけたら嬉しいな」と思ってます。

土屋には、『美声』っていう女性職員に贈る社内報があるんですが、その中で「自分が目指すリーダー像とは?」っていう質問があったんです。

その時に、「リーダーって“太陽みたいな人”ってイメージがあるな」「前を歩くみんなの道を示すことがかっこいいな」って私は思ったんです。

でもーー私はまだ生まれてたった29年なんですけど、その中での経験として、

「太陽みたいなリーダーもかっこいいけど、私がなりたいのは、そこにいることで安心してくれるような人だ」って思って。

それを“海”って表現したんですよね。

「海のような人になりたいです」って書きました。

“海”って落ち着く場所だったり、「行きたいな」って思う場所だったり。

だから、アテンダントは“鳥”です。

帰りたい時に帰ってくればいいし、休みたければ休めばいい。

そこにいつでも私が待ってるから、「好きにして〜」って思ってます。

一見、冷たく感じられてしまうかもしれないですが、土屋って、自分のできるパフォーマンスを発揮できる、すごいいい場所だと思うんですね。

技術面にしても何にしても、在宅で、一対一という重訪の支援だからこそ、その人ができることが率直に表れやすいと思うんです。

だから、「みんな自信持って頑張ってきてね」って思ってます。

―“海みたいな人”――川畑さんの海のイメージってどんなところから来てるんでしょうね。

私は生まれも育ちも鹿児島の指宿なんです。
指宿って、海が近くて、海がめっちゃ綺麗。

私は海で育った子なんですよ。

小学校からも海が見えて、家からちょっとチャリで行けば、海があってーー「海で遊ぼう」「その後、温泉行こう」とか、そういう環境で育ちました。

ホームケアで働くようになって鹿児島に住んでいた時も、毎日、海と桜島を見てました。

自分の中では、やっぱりそれが落ち着く風景だった。

だからアテンダントと関わる中でーー威厳高く、ドーンとしてるのもかっこいいし、素敵だなって思うんですけど、「多分、私はそういうリーダーにはなれないな」って思って。

なんでかおちゃらけてしまうし、ふざけちゃう(笑)。

だから考えたわけでもないんです。

「海になりたい」「海のような人になりたい」って、ポッと出てきた感じですね。

佐賀に異動になって、ふらっと寄った海沿い

CHAPTER8

20代の私が介護業界で働き続けることが、きっとこの後を歩く誰かの道筋になる

私自身は、「楽しい」とか「悲しい」をちゃんとずっと言える人でいたいな

―これからのところをお聞きしたいです。「ホームケアでこんなことに関わっていきたいな」っていう仕事としての部分。それから川畑さん自身がこれからこんなふうに働いていきたいな、生きていきたいな、っていう、その両方を聞かせてください。

ホームケアでやりたいことはーークライアントさんの声にもっと応えたいっていう思いがあります。

私はもともと小児ケアに興味があったんです。

土屋として、訪問看護や居宅介護として医療的ケア児のサポートから関わって、その後、18歳で重訪に切り替えて利用してもらうーーそんな流れをもっともっとつくっていきたいんですよね。

まずは重訪のことをもっとたくさんの方に知ってもらいたいなと思ってます。

私個人としてはーー女性が「もっと働きたいな」「働き続けたいな」って思うような会社にしたいなと思ってて。

介護職はもともと20代、30代の割合が少なくて、40代から50代の方がメインで働かれている業界なんです。

ただ、どの仕事にも「若い力が必要な瞬間があるな」って感じてて。

―それは本当にそう思います。

40代、50代の方が必要じゃないということではないんです。

「この仕事を、長く続けてもらうための道筋をもっと示す必要があるな」って感じることがあるんです。

だから今、20代の私が働き続けることで、「20代、30代が介護の仕事でこんなふうに働くことができるんだよ」っていうーー同世代の方にとっての指標になれたらいいなと思ってますね。

私自身もーーいつするかわからないけどーー結婚したり、こどもをつくるとなった時が来るかもしれない。

でもそういう時、「ホームケアでの仕事を続けるのは厳しい」って判断される女性アテンダントは多いと思うんですよね。

夜勤があったり、緊急対応があったり、勤務が不規則な部分はありますし、これは女性に限らないんですが、

こどもの世話やご家庭のことを優先させないといけない時期は、年齢や生活環境によってどんどん変わってくる。

働き続けてもらうために、そこをサポートできるような形をつくりたいって思ってます。

具体的にどうしたらいいかはまだわからないんですが――女性が長く続けられる職場を目指したいです。

―川畑さん自身は「こういうふうに生きていきたい」ってありますか?

素直でいたいです(笑)。

「楽しい」とか「悲しい」をちゃんとずっと言える人でいたいなって思います。

2025年の6月にホームケア土屋佐賀に異動して、誰かの優しさを「しんどいな」って感じる瞬間があるんですよ。

それは、正直なところ、私の方が人の優しさを受け取れる余裕がない状況というかーー。

でもそうなってしまったら、そもそもの目標だった「海みたいな人になりたい」っていうところにも届かない。

だから素直でいるために、自分に余裕を持ちたいですね。

わたしはいつでも笑って、「いいよ〜」って言えるようなスタンスの人でいたいです。

「大丈夫だよ、オッケー」って。

CHAPTER9

受け入れる、見守る。そのまなざしはめぐっていく

めっちゃ落ち込むし、何回泣いたかわからないくらい泣いてるんですけど、それでも「いいや、大丈夫」って思えるのは、変な不思議な自信がどこかにあるんです

―今までお仕事のところを聞いてきたので、「お休みの日はこんなことして過ごしてます」とか、「こういう習慣があります」みたいなものがあったら聞かせてください。

休みの日はーー結構アウトドアでも、インドアでもあるタイプで。

多趣味なんですけど、何かを突き詰める趣味はなくて(笑)。
ライブを見に行くのも好きだし、フェスに行ったり。

あとは家でガジュマルの樹を育ててるんですよね。
鹿児島から持ってきました。

そういう自然も好きだし、かと思えば、まるまる1日、アニメを全シーズン見たりとか(笑)。

あと、おしゃれしたり、美味しいご飯を食べるのも好きです。

休みの日はその日の気分でやりたいことをやったり。
そう思うと意外と活発かもしれないですね。

―川畑さんにとって“自分らしく”働く、というところはどうでしょうか。お話を伺っていると、「素直でいること」って本当に大事だなと感じます。

自分らしさ……なんだろうな。
常に前を向いてるところーーですかね。

「終わった」とか「もうだめだー」とかならないです、あんまり。

もちろん落ち込みますよ。

めっちゃ落ち込むし、何回泣いたかわからないくらい泣いてるんですけど、それでも「いいや、大丈夫」って思えるのは、変な不思議な自信がどこかにあるんです。

お調子者なんですよ、ほんと。

だから乗り越えてこれたこともいっぱいある。
多分、そこが自分らしさかな(笑)。

―寝て起きるとリセットされてたり?

いえ、寝て忘れるタイプじゃないんです。

全然引きずってるんですけど、だからと言って立ち止まったりはしない。

「もうこの人と喋りたくない」って思っても、電話する。

出なくても電話するし、連絡も絶対する。
こっちが待つことは絶対しない。

―そういう意味での前向きさ。常に進んでいくっていう。

そうですね。

―“土屋らしさ”も聞かせてください。川畑さんが思う。

“土屋らしさ”はーー「自分の力量次第で何にでもなれること」って思います。

自分が頑張れば頑張るだけ、結果を見てくれる。

多分、土屋にしかないところなんじゃないかなぁ。

最近の他の企業を知らないですけど、「すごいなぁ」って思います。

―土屋に入社されて、3年ほど。なぜここまで、介護の仕事を続けられてきたのかを最後に伺いたいです。

そうですね。

なんで続けてきたのかは、ほんっとに周りの方がいい人たちばっかりだったので。

どこで仕事をしていても、私より何倍も何十倍も心が広くって、受け止めてくれる人がいるから今がある。

もちろん、うまくいかなくてぶつかってしまった方もいましたけど、でも数えると受け入れてくれた人の方が多かったと思います。

「川畑さんがこう思うんだったらこれでいいと思うよ」「川畑さんが決めたことをやってみよう」って言ってくれたアテンダントの方がすごく多かった。

だから続けてこれたんだと思います。
みんなが幼い私を受け入れてくれて、見守ってくれた。

ほんと、人に恵まれてたんだろうな、って思いますね。

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