本社管理部

株式会社土屋 本社

菊池貴之

企画制度部 部長

教科書的な言葉を飾って誤魔化すのではなく、本当に実現させようと動く人たちとの合流

 《interview 2026.01.07》

「かつて介護業界に絶望した自分だからこそ、話せることがある」――本社・企画制度部で部長として働く菊池貴之(きくちたかゆき)には、自ら“社会不適合時代”と振り返る、働くことを遠ざけていた時期がありました。
そんな20代の頃、偶然手に取った一枚のチラシをきっかけに介護の仕事と出会い、さまざまな思いや痛みを抱えながらも、時間をかけて“働くことの意味”を取り戻していきます。
そして今、彼がようやく辿りついた“理にかなった働き方”とは――。
菊池とともに、介護という仕事の現在地と、介護業界の未来を展望します。

CHAPTER1

普通に学校に行って、たまにズル休みして。学校から帰ってきたら家でゲームして――そんな、こどもの頃

内向的なタイプで、大人数が苦手。学校に行ってもすぐ帰りたくなってました

―生まれ育ったのはどちらですか?

福岡県の福岡市です。

近くに博多駅があり、天神があり――比較的、都会と言われるようなところで育ちましたね。

小、中学校はみんなとほとんど変わらないです。

ドッジボールをしたり、“じどり”とかケイドロをしたり。
学校でよくみんながやるような遊びをやっていました。

中学校は――当時は昭和で、携帯電話もスマートフォンもない時代で、その頃に流行ってたのはポケベルでした。

でも僕は持ってなかったから、みんなでどこかに集まって、遊園地に行ってみたり、ゲームセンターに行ったり。

そんなもんです。
いたって普通な10代だったと思います。

もともと僕は、生まれた家が貧乏だったんですよ。

当時住んでいた家は覚えてはいるんですが――そうですね、普通のこどもだったと思います(笑)。

普通に学校に行って、たまにズル休みして。

勉強もそんなにやってたわけでもないし、部活もやってなかったので、学校から帰ってきたら家でゲームして――をひたすら繰り返してた、そんなこども時代でした。

―当時の菊池さんはどんなお子さんだったんでしょう。

内向的な方だったのかな、とは思いますね。

そんなに友達をいっぱいつくるようなタイプでもなかったですし。

―今も変わらない部分ってどんなところですか。

僕は基本的に――大人数が苦手なんです。
少人数、もしくは単独行動を好みます。

そういうところは、今も変わってないんじゃないかな。
だから学校に行ってもすぐ帰りたくなってましたね。

あとは、熱しやすく冷めやすいっていうところがあるんです。仕事もそうでした。

これまでも仕事を結構転々としてるんですよね。
1年半ぐらい勤めると、飽きちゃう。

そういうところがあると思います。

CHAPTER2

「働く」ということ、「社会」というものへの違和感

定職についていなかった20代の6、7年間。僕の中ではその時期を“社会不適合者時代”と位置付けてます

高校は、福岡市内の工業高校を卒業しました。

進学組と就職組に分かれているんですが、工業高校はほとんど100%に近い確率で就職をするんです。

僕もそれにならう形で就職をしました。

最初に就職したのはビルの管理会社でしたね。

作業着を着て、ビルやホテルのメンテナンス――例えば空調機やボイラー、電球の付け替えとか電気の取り替え――をする会社に入ったんです。

福岡市内のとある場所に配属されたのがちょうど19歳ぐらい。

その仕事は、今だったら考えられないぐらい、労働時間が長くて、連続勤務も多くて。

そういう理由もあって、給与は高卒の初任給にしたらいい方だったと思います。

ただ、1年半ぐらい働いてさすがに体力の限界を迎えて、退職――それがいちばん最初の就業のエピソードです。

その後は――26、7歳で職業訓練校に入るまではずっと無職だったんです。

僕の人生の中では、いわゆる“社会不適合者時代”と位置付けているんですが、定職に就いていない状態で、プラプラしてました。

なので、6年か7年くらい、履歴書の職歴欄に間が空くんですよ。

そうすると面接の時に必ず面接官に聞かれるんです。「この間、何をされていたんですか?」って。

それには「人生を見つめ直してました」、もしくは「体調不良で自宅で療養してました」なんて答えてきました。

と言いながら、その時期は麻雀やパチンコしかしてなかったのが本当なんですが。

―「働くこと」そのものに、菊池さんの中で疑問があったんですか?

ありましたね。
当時は、働くこと自体に後ろ向きだったような気がします。

社会というものに対してすごく批判的だったんでしょうね、きっと。

「ひとりでいることが好き」というところもありましたし。

基本、その後も職場を転々としました。
職場に馴染まないわけじゃないんですが、集団でいるのがどうも苦手なんですね。

あと、先ほどもお伝えしたように「飽きやすい」というところもあって、就職しても続かない。

自分の中で続ける気もないし、働く気もない――そんな感じで過ごしていた20代でした。

好きな時に起きていいし、好きな時に寝ていい。誰にも文句を言われないし、誰にも怒られない。

そんな環境だったので尚更ですよね。
「なんで働かないといかんの?」って――それが20代のど真ん中。

卑屈になってた時代かなと思います。

だから僕、20代のエピソードがほとんどないんです。

あるといえばあるんですが、いわゆる“ギャンブル”のようなことをしていたり、当時は夜になると飲みに行ったり。

今、考えると結構コンプレックスになっていて、「もうちょっと勉強しときゃよかったな」「真面目に生きてりゃよかったな」なんていうことは、40歳過ぎぐらいになって思いましたね。

CHAPTER3

「自分は、このままの生活でいいのかな」――“働かない自由”の先にみえたもの

生活を改めたものの、「今までやってきたことをやめたら、何もやることがない」日々があった

―そこから職業訓練校に通おうと思われたのには、菊池さんの中で変化があったんですか。

僕はお酒は飲まないんですが、パチンコだったり、麻雀だったり――当時はいわゆる“ギャンブル”をずっと繰り返す生活が続いてたんですが、幸いなことに収支はプラスだったんです。

だから生活していけてたんですよね。

「働きたくない」と思っていたのは――もしくは働かなくてもよかったのは――おそらく生活自体ができていたからですね。

その生活で収支がちゃんと成立していたんです。
ただ――とある日に、パチンコ店に赴きました。

みんなが会社に出勤してる中、朝からお店に並んで、店に入って。

その日はそんなにお客さんが多くなくて、普通に遊戯をしてたんです。

その時に、何人かいるお客さんの中に、60か70代ぐらいの年配の男性がいて。

その人と朝から同じ空間にいた。

見た感じ、あまり裕福そうには見えなかったんですが、その時に――それまでは「一生、この生活ができれば、働かずにお金が稼げてこんなにいいことない」と自分の中では思ってた。

でもふと、隣のおっちゃんを見た時に「あれ、俺がもし60代、70代になったらこんな感じになるんかな」と思ったんです。

「ひょっとして、このままいったら」――。

その頃は、友達も知り合いもほとんどみんな働いていたし、そういった生活をしてるのは僕だけだったんですよね。

でも、そのことでむしろ優越感に浸ってたんですよ。

正直なところ、「みんな、なんでそんなに一生懸命働いてるの?」と思ってた。

それに、働いていても、みんな仕事の不平不満ばかり言って――その一方で僕は働かずして一定程度の生活が成り立っていました。

どちらかというと、そんな人は少数派です。

みんな真面目に働いて、結婚して、こどもが生まれて、家庭を持って――いわゆる“人生”を歩んでいく人たちが、ある時期を過ぎると大半になってくるんですよね。

そういった生活が、最初のうちは良かったんですけど、「このままでいいのかな」っていう気持ちがすこしずつ芽生えてきたのがその時期だったんですよ。

そんな時に、朝、隣に座った年配の男性を見て、「これが50年後の自分の姿なのか」って――で、「やばい、この生活をやめよう」って思ったんです。

―そうでしたか。

その日から一切、ギャンブルには行かなくなりましたね。

なぜそう思ったのかはよくわかってないんです、未だに。

でも自分が今までやってきたことが、その一瞬ですべて否定されたような――。

「お前、何やってんだ?」というツッコミというか、どこかからお示しがあったかのような、そんな瞬間でした。

それが職業訓練校に行く直前のことです。

でも――いくら今までの生活を否定したところで、やりたいことも、できることもないんですよ。

運転免許は持っていたけど、車は持ってない。

「やりたいことはあるのか」と聞かれても何もない。

自由気ままに今まで生きてきたので。

「今までやってきたことをやめたら、何もやることがない」というジレンマに陥りまして、そこからはあてもなく、ただただ町を歩き回る日々を送りました(笑)。

CHAPTER4

「なんとなく」「とりあえず」から出会った、介護という仕事

「とりあえず、何か始めた方がいいんじゃないかな」と思った時にたまたま目に飛び込んできたのが介護の仕事でした

そうやって街をフラフラ歩いていた時に、ティッシュ配りの人とすれ違ったんです。

そこでなんとなしにもらったティッシュのチラシを見たら、「資格が取れる」「説明会がある」なんて書いてあって、「へぇー、資格か」と。

「俺にもできるのかな」なんて思いながら、そのチラシをあてに会場に行って、そこで「こんな資格が取れますよ」といった説明を受けました。

そこで筆頭に上がったのが介護系の資格だったんです。

「介護系の資格ならすぐに取れます」なんてセールストークにまんまとハマって、入学を決めて。

それが介護に関わることになったきっかけですね。

―その時は職種や業界は全然構わず……だったんですか?

まったく気にしてなかったですね。

介護の仕事に対しても、「情熱があったか」と言われたら、まったくなかった。

「とりあえず、何か始めた方がいいんじゃないかな」と思った時にたまたま目に飛び込んできたのが介護だった――最初はそんな感じでした。

―そこからは……

在学中にヘルパー2級(現在の初任者研修)を取りました。

それで7、8年ぶりぐらいに正社員として、とある老人ホームで働き始めました。

当時通っていた専門学校の担任の先生が働いていた職場に就職したんです、先生の勧めもあって。

その頃は貯金が底をついていたので、老人ホームで働く傍ら、居酒屋でバイトもしながら学校に通って授業を受けて――そんな生活を1年ぐらいしました。

めちゃくちゃきつかったですね。

それでもやっぱり「熱しやすく、冷めやすい」というところは変わらずあって、その老人ホームには1年半ぐらいしかいなかったですね。

結果的に、ですが。

でもそれが介護業界に足を踏み入れた最初の一歩でした。

そのあとは、1年か、1年半単位で、さまざまな介護の仕事を転々としていきました。

CHAPTER5

介護という仕事を続けていても、未来が見えなかった

お金持ちになりたいわけじゃない。でも仕事を続けているのに生活水準が一向に上がらない。このまま一生が終わるんだろうか

―そこからはずっと介護の仕事を続けていらしたんですか?

そうですね。基本的にはずっと介護です。

ただ、「介護をやりたくてやってるわけじゃない」という思いも根底にあって、一度、「介護以外の仕事をしたい」と思ったこともあったんです。

というのは、介護施設を1か所、2か所、3か所……と勤めていくうちに――介護の仕事って、とにかく給料が安い。

はじめて正社員で介護職に就いたのが28歳頃だったんですが、当時、30代になっても手取りで月給が25万円を超えたことがなかったんですよ。

10代だったらそれでもいいけど、20代後半、30代前半、そこから30代後半になっても、その額だったら……。

源泉徴収票が来ると、その年の年収を職場の同僚と見せ合うんです。

その時に衝撃的だったのが、「菊池さん、結構もらってますね。俺より多いじゃないですか」なんて言われて、「……そうなのか?」と。

それが、30代前半のことでした。

その頃、同僚たちとよく言っていたのは――「同窓会に行けない」っていう“あるある”の話があって。

「介護職をしてる」って恥ずかしくて言えないんですよ。

同窓会に行くと、「今、何の仕事をしてるの?」っていう話の流れになる。

そこまではいいんですが、収入の話をされると困るんです。

「ボーナスがいくらだった」「こどもができて車を買った」「ついに家を買った」――そんな話をされると非常に困るわけです。

「何やってるの?」って聞かれるので、「介護やってるよ」と僕が返すと、大体はみんな気を遣って、「介護、大変だよね」「すごいね、よくやってるね。偉いよ」なんて言うんですけど――言うんですけど、実際、介護やってる人っていないんですよ。

みんな、「自分がやるか」というと、やらないんです。

なぜかと言ったら、生活が成り立たないから。

僕はそんな現実を抱えながら、介護業界の中でそれまで生活してきた。

もともと貯金も底をついたところから仕事を始めて、でも貯金をしようと思ってもなかなかできる環境でもなかった。

家も裕福ではなかったので、なけなしの給料で親に仕送りしながら――そういう生活をひたすら続けても、未来が見えないんですよ。

一時的な話ならそれでいいんですが、「こういう生活をあと何年続けないといけないんだ?」「このまま一生が終わるのか」って――。

結局、パチンコやっていた時と一緒なんです。

10年後、20年後、50年後、「この状態がまた続くのか」と思った時に、「介護業界にいるのはこれ以上は無理だ」っていう結論に行き着きました。

決して、お金持ちになりたいわけじゃないんです。

でも、一定程度、生活水準というものがあって、せめて人様に話せるぐらいの生活レベルでありたい。

でも、その水準すら保たれないのであれば、この業界にいる意味ってあるのかな――と。

そもそも介護を選んだ理由って、たまたま町を歩いていて、ティッシュ配りの人からティッシュをもらっただけ。

そういう面でも、介護職を続ける根拠が弱かった。介護業界を離れたかったんです。

でもこれもまた一緒で、「できることが介護しかない」から、他の職業を選べないんですよ、結局。

持ってる資格も全部、介護福祉系が占めてるから、他の業種に転職しようと思ってもなかなかうまくいかない。

そんなに突出したスキルがあるわけでもない。パソコンなんてほとんどできなかったですから、当時は。

一度、別業界に転職はしたんですが、職業が馴染まなかった。

30代を過ぎて、新しいことを覚えるのもそんなに得手ではなかったような気がします。

1か所だけですね、介護業界以外で働いたのは。

不動産業だったんですが、老人ホームの入居者を募集して集める営業の仕事でした。

だから、介護とまったく関係ない仕事ではなかった。

でもその仕事も1年半ぐらいで辞めて、その後また、老人ホームの勤務に戻るんです。

結局、職探しをしても介護系しか目に留まらなくて。

ズラーっと並んだ何百件っていう求人を見るんだけど、「こっちの老人ホームの方が働きやすそうだな」ぐらいの感じで選ぶしかない。

―選択肢が限られちゃうってことですか。

そうですね。
そういう流れの中で、土屋の前会社に入社をするんです。

CHAPTER6

“ソーシャルビジネス”という事業の方法との出会い

それまで、給与の話を堂々とできる環境がなかった。はじめて「こんなにはっきりお金の話をしていいんだ」と思えたんです

そんな中の転職だったので――これは本音と建前の部分でいうと、本音の部分の話なんですが――前会社に入社したいちばんの理由は給与面でした。

僕はそれまで介護業界で13年間働いていて、1回しかボーナスをもらったことがなかったんですよ。

でも当時、前会社が出していた求人広告には「月収30万円」と書いてあった。

30万なんてもらったことないんですよ。

「本当かな」なんて思いながら、当時、介護福祉士とケアマネージャーの資格を持っていたこともあって、管理職候補の募集に惹かれて応募しました。

その時の面接官が現・土屋の高浜敏之代表(たかはまとしゆき/兼 CEO最高経営責任者)と小黒昭洋副代表(おぐろあきひろ/兼COO最高執行責任者)だったんですが、福岡のマンションの一室で面接をしました。

他の会社の内定をいただいた状態で面接を受けていたんですが、即断即決、その場で内定を出してくれた。

他の内定は断って、前会社に入社を決めました。

もし、あの時、お二人の面接を断ってたら――今の僕はいないので、そこはターニングポイントになったひとつかな、と思います。

その時に学んだのが“ソーシャルビジネス”だったんです。

単に利益のみを追求するのではなく、貧困、医療・介護、教育、環境問題、雇用の不安定さといった社会的な課題に向き合い、事業活動を通じてその解決を目指すビジネスの形態です。

介護業界の課題の一つに介護職員の低賃金、離職率の高さ、過酷な労働環境――といった課題があります。

会社であげた利益を再投資し、従業員の待遇や処遇を改善していくことに使うことが、将来的には社会全体を良くしていくことにもつながる。

「介護職員の給料が安い」ということは僕もこれまでずっと考えてはきたけれど、介護業界はお金の話があまり好まれないので、お給料の話を堂々とできる環境が今までなかったんです。

でも、おふたりと話をした時、はじめて「こんなにはっきりお金の話をしていいんだ」と思えたんですよ。

その点にものすごく支持、共感をしたんだと思います。

―最初は重度訪問介護の現場からスタートされています。

そうですね。
僕はもともと管理職を希望していました。

土屋は現場至上主義なので、管理職であったとしても、マネージャーであっても、最初は支援の現場からスタートします。

ただ、それまではずっと施設系をメインに働いてきたので、在宅介護も、重度訪問介護も初めてでした。

でも逆に、自分の中のハードルってそれぐらいしかなかったんです、やってみたら。

重訪の現場支援に3ヶ月ほど関わって、そこから転勤になるんですよね。各地の事業所開設で、全国を飛び回ることになりました。

CHAPTER7

「働きやすさ」からかんがえよう――理にかなう働き方、多様な働き方

介護という仕事に挫折したとしても。土屋という会社では、考え方次第でいかようにもなる

2022年、当時、東北ブロックのエリアマネージャーをしていた時に、「本社勤務をしませんか」と声をかけていただきました。

土屋が創立して数年が経ち、ホールディングス体制の話が活発化してきた頃のことです。

本社体制を整備するために、総務、法務、人事労務といった課をつくり始めた時期でした。

今の本社管理部を立てるために、第4期から岡山県井原市にある本社に転勤して1年間ほど働きました。

―先ほど仰っていたソーシャルビジネスとしての課題を、本社側から支援するという視点も菊池さんの中で生まれてきたんでしょうか。

「ソーシャルビジネスに共感したからか」と言われると、どうだったんだろう……そうですね、したんだと思います、きっと。

介護業界の中でも他とは異なる考え方で事業をしていたので、“今後の土屋”というものに将来性を感じてました。

ソーシャルビジネスや永続化の事業を支持し、共感をして本社勤務に移ったんだと思います。

―その後、現在に至るまで、制度企画部や内部監査室として、後方支援を続けられてます。

介護業界歴が今、19年目ぐらい、もうすこしで20年になります。

ようやく自分の居場所を見つけたような気はしてますね。

何度も言っていますが、僕は“熱しやすく冷めやすい”というところがあって、これまでは就職しても1年半以上同じ職場での勤務が続いたことがなかったんです。

でも土屋だけは、少なくとも5年、前会社まで含めると7、8年経ってる。

勤続の過去最長記録を更新してるんです。
「これが答えなのかな」と思ってますね。

―働く環境といった面ではいかがですか。

そうですね。
例えば、制度企画部は今2人だけなんです。

こういう体制も、「少人数を好む」という僕自身の性質に合った労働環境なんですね。

ある種、合理的と言ったらいいのかな――いろんなことが、「理に適ってる」と思います。

もともと僕が“社会不適合者”と言われる所以は、まず通勤が苦手なんです。

満員電車も苦手で、朝の渋滞も苦手です。

それもあって、この在宅勤務の状態が僕自身、すごく助かっています。

「自分のペースで仕事ができる」という労働環境そのものが自分の特性に馴染んでる。

これまではそういう環境が合っている、と自分ではわかっていても、選ぶことができなかった。

土屋で働きはじめてからそのことがわかりました。
それが土屋の仕事を続けられている理由だと思いますね。

土屋ではいろんな働き方ができる。
そのことを僕はすごくポジティブに捉えてます。

土屋グループという大きな組織の中では、介護という仕事にもさまざまな仕事があり、さまざまな考え方や働き方があります。

「介護業界に挫折した」と絶望した人でも、考え方次第でこの会社ではいかようにもなる。

それは今、痛感しています。

土屋の“働きやすさの文化”は今後も、みなさんに伝えていきたいと思いますね。

あとは――出会いじゃないでしょうか。

高浜さんと小黒さんの面接がおそらく僕にとっての、ターニングポイントだったと思うので。

そういった人との出会いを大切にできたらいいですよね。

CHAPTER8

ひょっとして、この会社だったら介護の未来を刷新していけるんじゃないか

「介護業界の未来は決して暗くはない」。かつて介護業界に絶望した僕が言うんだから間違いないです(笑)

―最後に、これからのところを伺えたら、と思います。制度企画部で行っていきたいこと、それから、土屋という会社や介護業界全体が「こういう感じになっていけたらいいな」という思いについて聞かせてください。

そうですね。
やはりこれから力を入れていきたいのは待遇改善ですね。

給与面の話はもちろんあるんですが、「介護職の社会的地位の向上」や「認知度アップ」もまた別のテーマとしてあるんです。

それは介護職だけでなく、医療職もそうです。

ただ、どちらかと言えば医療職は花型職業と位置付けられている部分はあるように思います。

労働環境は過酷だと聞いていますが、メディアで取り上げられることも多く、比較的、憧れとして捉えられることも多いですよね。

一方で、介護職はどうも日の目を浴びにくい。

どちらかというと、「きつい」「大変」、それから「お給料が安い」「生活水準が低い」。

そんなイメージがまだまだあるのかな、と思います。

そういったイメージの払拭は自らの課題でもありますし、これから業界全体に対してもそのようなメッセージを強めていかないといけないと感じてます。

とはいえ、僕自身は、直接売上げを上げたり、事業所を増やしたりする仕事はできません。

その中で何ができるかというと――「介護業界って未来は明るいんだよ」「決して暗くはないんだよ」と言い続けたいですね。

かつて介護業界に絶望した僕が言うんだから間違いないです(笑)。

何よりも、こうして僕自身が介護業界に今も残って働き続けていますから。

なんとかしてね。
本当に絶望していたら、この仕事をやってないと思うんですよね、きっと。

―そうですね。

その未来を感じたのが――そうなんです、土屋だったんですよ。

「ひょっとしたら、この会社のこの考え方だったら、介護の未来を刷新していけるんじゃないか」と思ったのが、ソーシャルビジネスの考え方であり、高浜代表の方針だった。

そこから僕の今の労働観は想起されてきたんです。「ここならいけるかも」、みたいな感じ。

8割ぐらいは直感ですけどね。

そういった考え方やあり方を、業界にいいメッセージとして発信し続けていきたいですね。

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