介護事業部

介護事業部 ホームケア土屋

喜多徳光

名古屋 管理者

一緒に働く人と、批判を横に置き、互いの考えを深めること。

 《interview 2024.11.18》

ホームケア土屋名古屋で管理者を務める喜多徳光(きたとくみつ)。
障害を持つ人との出会いによって、自分の中の“偏見”に気づき、あらたな思いが生まれたと言います。
「今できることを、その人の領域で行なって、人生を楽しむことができるんだ」。
足元の喜びに気付き、介護の仕事に出会うまでーー喜多が歩いてきた道に伴走します。

CHAPTER1

負けず嫌いで好奇心の強かった子ども時代

季節を問わず、自然の中で毎日遊んで育ちました

―お生まれになったのはどちらですか?

出身は徳島県の徳島市です。
田んぼや山に囲まれていて、海も近いし、山も近いところでした。

夏は川で泳いだり、季節を問わず、自然の中で毎日遊んで育ったので――今の自分にも影響してるんじゃないかなというところはあります。

―その後もずっと徳島で……

いえいえ、幼稚園の時だったかな。徳島から長野県の松本に移りました。

長野も自然が豊かなところでしたね。電車が1時間に1本――なんて場所に住んでいたんですが、四季折々の美しさを感じながら育ちました。

小さい頃から体を動かすのが好きでした。
冬はスケートが盛んで、小学生の時にスピードスケートを習っていたんですよね。

―スピードスケートですか。めずらしいですね。

長野にはスケートクラブがいくつもあって、その中に元オリンピック選手の方が運営されているスケートクラブがあって。その方と出会って、始めたんです。

実は小学校3年生の時にスケートがうまくできなくて、泣いてしまったことがあったんです。

「悔しくて――」と言っていたら、親が「有名な先生がいるからやってみたら」とスケートクラブに入れてくれました。

500メートルの短距離を中心に、その後、中学まで続けていたんですが――最終的には2つ下の後輩に負けて引退をしました(笑)。

スケート以外にも、中学では並行して陸上もやっていましたね。

―「子どもの頃はこんなだったな」とか、「今も変わらないな」と思うところはどんなところですか?

負けず嫌いなところはありました。

それから好奇心が強いところですかね……あちこちに手を出しながら、興味を持ったことはとことんのめり込んでしまうタイプなんです。

今でも続いている趣味で言うと――自分は、子どもの頃にファミコン(ファミリーコンピューターというゲーム機)が大ヒットした世代なんですが、例にもれず、自分もゲームにどっぷりハマっていました。

あの頃のゲームってインターネットもなかったし、取り扱い説明書もうっすくて(笑)。

それくらいしか情報がなかったので、クリアしていくのがすごく難しかったんですよね。

今より親切じゃないというか。
でもその難しいのがまた楽しくて、何度も何度も挑戦する姿勢は子どもの頃からあったと思います。

―喜多さんはどんなゲームがお好きなんですか?

そうですね、自分はRPGが好きですね。
ファミコンで言うと、『ドラクエ』とか『ファイナルファンタジー』とか。

その後、ゲームからは離れていたんですが、最近になってまたプレイステーションを買ったんです。
そこからゲームライフが復活してます。

久しぶりで慣れない部分もあるんですが、何度負けても再挑戦するっていうところは、今も昔も変わらないんだな、とは思いますね。

CHAPTER2

「できないこと」から「できること」へ――考え方のシフトチェンジ

得意なことを見つめたとき、別の自分が見えてきた

学校を卒業してからはずっと営業畑で――15、6年ほど、法人や、個人宅に訪問する営業をやってきました。
動機は正直なところ、大したものではなくて(笑)。

最初は印刷会社で現場の仕事をやっていたんです。そこにすごくかっこいい営業の方がいたんですよ。

スーツ着て、外回りをしてるその人の姿を見て「営業、かっこいいな」「自分もスーツ着て仕事したいな」と思ったんですよね。

その人が「若い頃に営業やっといた方がいいよ」と言ってくれたのがきっかけで、他の会社の営業職に応募して働き始めました。

そこからはぱっと花開く時期もあったんですが、なかなか挫折の連続でもあって――。

基準は人によって違うと思うんですが、成果が出て認められるまでは長くかかりましたね。

5年ぐらいですかね――ずっとうだつが上がらなくて、時には泣いたこともありました。

そこを乗り越えて、ある時期から成績が出るようになり、チームを持つという経験をさせていただいたんです。

最初は法人営業からスタートして、飛び込みで営業をするスタイルの会社でした。
そこではなかなか芽が出ず――。

仕切り直して、次の会社はインターネット回線の訪問販売の会社に転職したんです。

個人宅を1軒ずつ回って契約を取る仕事だったんですが、それまで散々、挫折を経験してきたので、最初から自身の苦手なこともぶっちゃけてお伝えした上で入社をしたんですよ。

「自分は売り方がわからないので、それを知りたくて入社したいと思いました」、と。
そこで出会った上司がいい方で。

その方からいろいろ教えていただいて、やっと結果が出てきて――営業を始めて6年目ぐらいですかね。

そこでチームを持たせていただけるようになりました。

―その上司の方からは、どんなことを教わったのでしょうか。

そうですね。「営業の技術は後からついてくるから、まずは数をこなそう」ということは言われました。

「訪問数を増やして、とにかく足を運んで、泥臭い営業でいいから契約を取るようにしていったらいい」、と。

当時の自分の実力を推し量っていただいていたとは思うんですが、振り返ってみると

「当時の自分にできないことを背伸びしてやるより、今できることに焦点を当ててやれば別の道、その人なりのやり方が見つかるよ」ということを教えていただいていたんだな、と思います。

自分は元々、そんなに愛想がいい方じゃないし、“人間力”なんて言われても――という感じだったんですが、情報収集は得意でした。

「だったら、闇雲に軒数を増やすのではなく、情報戦でやってみたらどうだ?」と。
例えばデータを集めて、インターネットを使っている人が多く住んでいそうなエリアを選定して訪問するとか――。

そこからは、少しずつうまくいき始めたんです。

―転職前のご自身とでは、どんなところが変わられたんでしょうね。

そうですね。
さっきもちらっとお話したんですが、「できないところをやろうとしていた」んですね、以前は。

周りを見渡せば、いわゆる“スーパー営業マン”みたいな人がたくさんいるわけです。
トークのすごく上手い先輩を見て、当時は「そのやり方を真似しよう」と。

でも、自分にはできないわけですよね。結局できないから成果も出ない。

転職してから変わったのは、「できないことは一旦置いておいて、今、自分ができること、得意なところに焦点を当てる」というところです。

情報収集が得意なら、分析をして自分の得意な方面から攻めていく。
そういうふうに自分の考えを切り替えられたんだと思います。

―営業職を長く続けられて――印象に残ってるお客さんや出会いがありましたら聞かせてください。

そうですね。
たくさんの人と――1日どれぐらいでしたかね……訪問数でいくと300軒ぐらい訪問していました。

そのうちの100人ぐらいと実際に会えるんですが、たくさんの人に会っていく中で、たまに家にあげてくれて、ご飯をご馳走してくれたり――そんな方もいらっしゃいました。

息子のように接してくれるお客さんも中にはいらっしゃって。
そういう素敵な出会いもちらほらありましたね。

未だに連絡を取ってる方もいるんですよ。

10年くらい前に契約した方なんですが、たまに電話かかってくるんです、「喜多さん、元気?」って。

名古屋に住んでいた頃に契約をいただいた方で、「次はいつ名古屋に来るの?」なんて聞かれることもあります(笑)。

CHAPTER3

「目が見えない」って本当に“大変”?

先入観を持たずに、どんな人とも関われる自分になりたい

その後、介護職に就いたきっかけは、前職で訪問マッサージの事業をやっていたんです。

全盲のあん摩マッサージ師さんを利用者のご自宅にお連れするという仕事でした。

そこで、70歳ぐらいの男性のあん摩マッサージ師さんと出会ったんですね。
彼の生き方が本当に自由で――ひとりでブラジルに旅行したり、友達と沖縄に行ったり。

レゲエが好きな方でした。
毎日20キロ散歩をしたり、とそのアクティブさにも驚かされて。

その人と出会って生まれて初めて、「自分は、障害を持つ人に対して“かわいそう”とか“不便そう”といった偏見を無意識に持っていたんだな」っていうことに気づかされたんです。

障害者に対する自分の中の先入観を消したいというか、距離を縮めたいと強く思うようになったのが、土屋に入ったいちばんの理由ですね。

―そのマッサージ師さんと関わってきた中で、印象深かったことはありますか。

そうですね。
1日に何軒か利用者のご自宅を訪問するんですが、その途中でトイレに行きたくなった時にコンビニのトイレを借りるんです。

自分の肩につかまってもらって、彼が後ろを歩いて、自分がトイレまで先導していくわけなんですが、

その時に――そうやって歩いている姿が珍しいからだと思うんですが、周りの目線が自分たちに集まるんですよ。

「この人はただトイレに行きたいだけで、どっちにトイレがあるかわからないから自分につかまってるだけなのに、周りの人はすごく珍しそうにそんな姿を見てくる」

――そういう状況が自分には差別的に映ったし、最初の頃は「見られることが恥ずかしい」と思った自分もいたんです。

そう感じながら、まわりがじっと見てしまう気持ちもわかってしまう自分もいて――「自分もジロジロ見てくる人たちと同じ部分があるのかな」と思うと、悲しくなった。

でも、彼は人生を楽しんでる、普通の人なんですよね。
彼との出会いがあって、「先入観を持たないような自分になりたいな」と思ったんです。

自分に大きな影響を与えてくれた方です。

―そういった喜多さんの思いをご本人に相談されたことはあったんでしょうか。

そうですね……。感じたことは、当時はさすがに申し訳なくて言えなかったんです。
でも質問をしてみたことはあります。

「『かわいそう』とか、『大変だね』とか言われたことはありますか?」って。
そしたら、「あります」と。自分はストレートに「どう思いますか」って聞いたんですよ。

そしたら、「(自分のことを)全然かわいそうと思わんし、大変とも思ってないから。
そう言われても……嬉しくない」。そんなふうに仰ってましたね。

彼とやり取りを続けていくうちに、自分がずっと疑問に感じていたことのすり合わせが行われて――「やっぱりご本人もそう思ってたんだ」という確認ができたんだと思います。

CHAPTER4

僕らの役割はひとりひとりの生活に寄り添って、ちいさな幸せを見つけ出すこと

クライアントやご家族と直接関わることによって見えてきたものは「介護の仕事というのは、ただお手伝いするだけじゃないんだな」という気づきでした。

訪問マッサージの現場では、利用者の方が「ありがとう」という感謝を自分に伝えてくれたことがよくありました。

でも、実際にマッサージをやっていたのは自分ではなかったので――「自分も支援現場で、最前線で、直接クライアントと関わってみたいな」という思いもあったんです。

土屋に入社したのは2024年の2月で、まだ半年です。

最初はホームケア土屋金沢で重度訪問介護の支援現場に入り、筋ジストロフィー、遷延性意識障害の方のケアをさせていただいておりました。

半年間、アテンダントとして経験をさせていただいたあと、ホームケア土屋名古屋に移り、今は管理者として訪問介護に携わっています。

―支援の現場に関わったとき、見えてきたのはどんな風景でしたか。

クライアントやご家族と直接関わることによって見えてきたものは――「介護の仕事っていうのは、ただお手伝いするだけじゃないんだな」という気づきでした。

利用者さんひとりひとりの生活に寄り添って、その人がやりたいことをできるようにする。

そこに小さな幸せや喜びを見つけ出すのが僕たちの役割なんじゃないかな、と思うようになりましたね。

半年間いた金沢の現場では、利用者さんが自分のペースで日常を楽しんでる姿から、たくさんたくさん学ぶことがあって――。

とある筋ジストロフィーの方は、韓流ドラマを朝から晩までずっと見ていらしたんですよね。
そうやって自分がやりたいことをしながら、楽しく生きてる。

そういった生き方を自分で選んでる。「それってすごい素敵なことだな」と思ったんです。

ホームケア土屋名古屋に移ってからは訪問介護という新しい分野に取り組んでいるんですが、現場で、ケアマネさんや医療の方、そういった地域の方々と繋がりを意識しながら仕事をしています。

利用者さんが地域社会でよりスムーズに、自分らしく生活ができるようにどうサポートできるか――そんなことを考えさせられている毎日です。

―介護の仕事を始められて、ご自身の見え方や感じ方が変わってきたなってところはありますか。

そうですね。

先ほどの話とも繋がっちゃうんですが、「障害がある人は大変だ」とか「かわいそうだ」といった偏見を無意識に思っていたことに改めて気づかされました。

でも、一緒にいることで、彼らがどれだけ豊かで充実した人生を送っているのかを実際に見せられて――それまで持っていた自分の考えが完全に覆されるような出来事をたくさん経験したんです。

自分はこれまで、筋ジストロフィーやALS疾患をお持ちの方と聞くと、“寝たきりに近い状態で、ベッドからは動けない”と思い込んでいたんです。

でも、“自分らしさ”というものについて考えた時――例えば自分がALSだったら、「ゲームが好きなのに(体が動かないなら)ゲームもできないんじゃないか。

できないから大変だな」なんて思っていた。

でも支援現場で出会った人たちは、その人のできるところで、その人なりに、今を楽しんで過ごしてらっしゃる――そういう姿を目の当たりにしたんですよね。

今できることを、その人の領域で行なって、人生を楽しむこともできるんだな、と――。

そういった彼らの生活を支えることができるこの仕事はやっぱり素晴らしいなと思うようになりました。

CHAPTER5

ひとり困り、みんなを考えるとき、隣にあった“理念の言葉”

いつか、一緒に働く人同士で「私が好きな会社理念はこれです」なんて話ができる職場になったら嬉しいです

―喜多さんは土屋のバリューについて、考えられていることがあるとお聞きしました。まずは、会社理念の中でお好きな言葉があったらお聞きしたいです。

そうですね。自分はバリューの中の『対話こそ生命線』という言葉がすごく好きなんです。

人って、長所より短所に目が行きがちですが、相手を尊重して、相手の強みや能力を評価して、感謝を伝えることってなかなかできないからこそ、それをされたらすごく嬉しいと思います。

『できないを語り合おう』という言葉は――できないことを注意するといった言動が続くと職場でも不信感が出てしまうし、安心して意見が言えなくなる。

そうなってくると、建設的な話し合いもできなくなって、組織全体が衰退していってしまう――そんなふうに自分は考えています。

みんなが意見を言い合える職場をつくっていくには、この「できるを認めあい、できないを語り合う」というところはすごく大事なのかな、と。

実は、そこに気づいたきっかけがあったんです。

―聞かせてください。

自分は実は――土屋に入る前、以前の職場の引き継ぎがあったので入社を待ってもらった時期があったんです。

でも引き継ぎが早く終わったので、待機期間中の3ヶ月ほど、オンラインストアのカスタマーサービスの仕事をしていました。

その会社は、カスタマーサービスの業務についての研修はもちろんあるんですが、3ヶ月という短期間の勤務なのに、最初の1ヶ月はずっと会社理念の研修を受けていたんです。

カスタマーサービスというのはお客さんからもクレームが多く、精神的に辛い仕事でもあって、離職率は決して低くない職種なんです。

1ヶ月間、みっちりその研修を受けた後、2ヶ月目からみんなが足並み揃ってカスタマーサービスの仕事に入っていく。

みんなの根っこに会社理念という共通認識があった上で、「せーの」で仕事がスタートするんです。

例えば、その会社の理念の中のひとつに、『人を非難しない』というものがありました。

業務の中で、「今日、こういうことがあったんだ」「こんなお客さんがいて、すごい辛く当たられた」とか、そういうちょっとした話って職場ではなかなか言いづらいですよね。

でも、みんなが根っこに共通認識を持っているので、問題が起こった時や対応に迷った時に、助け合ったり、自分の意見を言ったり、相談をしたり――

その会社は「それぞれが主体性を持って仕事に取り組みましょう」という方針もあって――みんなの中で理念の言葉が根付いていたので、それに則ってみんな共通の認識を持って進んでいく。

その部分にすごく安心して、自分は仕事ができたんです。

―あぁ、なるほど。

そのことに気づいたのが、正直な話、土屋に転職してからだったんです。

というのも、入社してから、スタッフそれぞれに理解や認識の差があり、スタッフ同士で会社理念の話ができない場面が何度かあったんですよ。

現場でちょっと落ち込むようなことがあった時にも、なかなか自分から相談しづらい状況もあって――自分が困った状況になった時に初めて

「会社理念を浸透させることって、こういう場面で大事なんだな」と思ったんです。

そこから土屋の12個のバリューをひとつひとつ読んで――会社理念に興味を持つようになりました。

振り返ってみると、これまで働いてきた会社で、自分が会社理念をしっかり把握していたところってなかったんですよね。

会社理念って“上の方の話”とか“経営者の話”で、「自分たちには関係ない」なんてどこかで考えていたんでしょうね。

とはいえ、もちろんそのオンラインストアの会社のやり方が正しいというわけではないとも思いますが。
土屋はバリュー説明会に力を入れていて、それが素敵だなと思いました。

今、一緒に働くメンバーは、みんなバリュー説明会にもすごく熱心に取り組んでいて、恵まれた環境になっていくんじゃないかと感じてます。

いつか、一緒に働く人同士で――マネージャーからアテンダントまでみんな――「私が好きな会社理念はこれです」なんて話ができる職場になったら嬉しいですね。

CHAPTER6

介護の仕事を通じて非介護者と介護者の間の壁や偏見をなくしたい――それが自分自身のビジョンです

自分のいる場所を変えた時、気づきがやってくる

―喜多さんはお休みの日、どんなふうに過ごしていますか?先ほど、ゲームのお話もありましたが。

そうですね。ゲームをやってますね。

休日は自分の時間をしっかり確保して、最近はR P Gの――今は『龍が如く』っていうゲームを気づけば何時間もやってます(笑)。

裏社会を生きる桐生一馬という主人公の背景やストーリーがすごく深くて、気づくとそのキャラクターと一緒に人生を歩んでるような感覚になるんですよ。

なんだか第2の人生を歩んでるような気分になります。

―介護の仕事も、他者の人生に寄り添いつつ、どこか一緒にその人の人生を生きるような感覚もあるような……RPGにもそんなところもあるのかも、なんて思いながら聞いていました。

確かにそうですね、それはあるかもしれません。

『龍が如く』でいえば、自分にないところを主人公が持っていて、例えば普通では断れないようなこと――自分よりもずっと強い立場にいる人に意見を通すとか――を断れちゃったりするんです。

ゲームの中でよく、“筋を通す”という言い方が使われるですが、それって結構勇気のあることだし、「そんなふうになれたらいいな」なんて思います。

自分にはできないことができる主人公がちょっと羨ましい――憧れみたいなところはありますかね。

―土屋で「こういうことをやっていきたいな」という喜多さん自身のビジョンを聞かせてもらえますか。

先ほどお話しした全盲の方と出会った時に感じた自分の中の偏見もそうですが、土屋の仕事を通して、

障害や高齢者への偏見のない社会に変えていけるような、共存できるような未来が、何かできたらいいなと思います。

結構、壮大な話になっちゃうんですが――。

今は障害分野から訪問介護事業に移ってはいるんですが、要介護の方でも「できること・できなくなってしまうこと」への捉え方は、障害の理解と共通している点があるように思います。

そう考えると、障害や年齢に関係なく、介護現場全体において、社会に影響を与えるような仕事をしていきたいですね。

自分が関わる仕事を通じて非介護者、健常者との間の壁や偏見をなくしたい――それが自分自身のビジョンです。

最後になるんですが――こうやって話をしながら気づいたことがあります。
「自分って環境が変わった時に気づきを得ることが多いんだな」って――。

振り返ってみたら、転職もそうですし、環境が変わった時に気づきを得ることが今までの人生でも結構あったんだなって思いました。

それから、仕事での気づきはもちろん、障害を持つ方と出会ったことで、「できないこと」への捉え方も変わりました。

できないことを無理してやるのではなく、できる範囲で、できることを伸ばしていく――そういう姿勢で取り組んだ時に、うまくいってる。

いろいろ話していく中で、そんなことを感じましたね。


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