介護事業部

介護事業部 ホームケア土屋

二上大佑

広島 管理者

「生きる」って「仕事」の前にある。生きるのを支える、仕事じゃない仕事

 《interview 2025.01.24》

ホームケア土屋広島で管理者として働く二上大佑(にかみだいすけ)。
未経験から介護の仕事をスタートした二上ですが、はじめて重度訪問介護の現場に入った時、そこに“普通さ”を感じたといいます。
彼が子どもの頃からみてきた景色の中には、障害や健常といった境目なくあそぶ自分たちの姿がありました。
障害福祉の歴史を知った時の価値観の転換、そして「こうあるべきだ」という固定概念から自由になった時に見えてくる、クライアントの未来――その広がりは、働く私たちにも自由を教えてくれるのかもしれません。
そんな二上の、“仕事だけど、仕事ではない”日常を訪ねます。

CHAPTER1

引っ込み思案で、おとなしい子でした

“戦隊ヒーローのような格好”で。アイスホッケーに夢中だった子どもの頃

―二上さんは、どちらで生まれ育ったんでしょうか。

生まれは広島で――何歳ぐらいまでだったかな……たしか、小学1年生まで父が勤めていた会社の社宅に住んでいました。

―当時はどんなお子さんでしたか。

引っ込み思案でおとなしい子だった、と母から聞いたことがあります。

小学校低学年ぐらいの時にファミコンが発売になって、家庭用ゲームが流行り出して――そんな時代だったんですが、私自身はどちらかと言うと公園とか学校とか、外で遊び回ってた記憶が強いですね。

―体を動かすのがお好きだったんですね。

いつも鬼ごっことか、ケイドロをしてましたね。
実はスポーツを小学校1年生から習ってまして。社宅の隣にスケートリンクがあったんですよ。

父の会社の上司や同僚の方が、元々そのスケート場でアイスホッケーのチームを組んでいたんです。

父が「最近、子どもが少ないからお前の子どもを連れてこい」と言われたところから始まって――アイスホッケーを小学校1年生から始めたんです。

―何歳ぐらいまでされてたんですか。

ずっとやっていたんですよ。30歳ぐらいまで。

―えー?!そもそもアイスホッケーを習うこと自体めずらしかったのでは……

そうですよね。冬季のスポーツなので、北海道や東北の寒い地域だとメジャーなのかもしれないんですが、まさか広島で(笑)。

ただ、そこは室内のスケートリンクだったので、1年中スケートができたんですよ。
遊び感覚なところもあって、その頃はアイスホッケーに夢中でしたね。

―アイスホッケーには、どんな魅力があったんですか?

そうですね。

幼なながらに思っていたのが、誰もやってない、非常にめずらしいスポーツだっていうのと――剣道みたいな防具を一式、全身につけてプレーするんです。

頭はヘルメット、肩はアメフトの選手みたいなパッドをつけて、肘にも膝にもつけて。

で、おっきいグローブをつけて、お尻と腰を守るパンツをつけて、スケート靴履いてスティックを持つんですが――これって、めちゃめちゃかっこよくないですか?(笑)

―たしかに(笑)。しかもその格好で滑るんですもんね。

そうなんです。

ボールのことをパックって言うんですけど、滑って、パックをパチンと打った時の爽快感だったり、見た目も戦隊ヒーローとか、仮面ライダーみたいで(笑)。

そういう、「ちょっとめずらしいことをやってるんだよ」っていう特別感もありましたね。

―チームでプレーする楽しさもありましたか?

そうですね。小学校の時に初めてチームのキャプテンっていうまとめ役をやりました。

そこから大学生ぐらいまでずっとチームの中のまとめ役をやっていたんですが、やっぱりひとりじゃ何もできないんです。
ひとりで頑張っても点も取れないし、ひとりで頑張っても守れないし。

何をするにしても、みんなで協力し合って、連携してやっていくチームワークの大切さを学びましたね。

CHAPTER2

働きながら続けたアイスホッケー

「何かチャレンジするんだったら、もうこれが最後のタイミングかな」――動いた先で、出会ったもの

―その後はどんな仕事をされてきたのでしょうか。

大学卒業のタイミングがちょうど就職氷河期で――非常に苦労して、なかなか思うところに就職ができなかったことを覚えてます。

もちろん、高望みしてしまったところもあったんだと思いますが。
時期ははずれたんですが、卒業して最初に働き始めたのは、幼児・児童向けの体操教室の講師でした。

―二上さんは体育の学校を出てるんですか?

いえ、普通の大学を出てるんですが、アイスホッケーを続けていたので運動には自信がありました(笑)。

幼児体育をメインで教えている会社で、幼稚園や保育園で体育の授業をする講師をしていました。

幼稚園のお子さんに、マット運動や鉄棒、あとは運動会のプログラムを先生と一緒に考えたり。

運動会の競技の中に組体操があった時代だったので「こんなふうにやるんだよ」っていう指導をしたりしていました。

―当時、二上さんは、どんな先生だったんですか。

幼稚園や保育園というのは働く女性の割合が多い社会なんです。

男性がいたとしても、おじいちゃんの園長先生だったりするので、子どもたちも「遊んでー!」となった時に、大人に手加減をして遊んでくれてるんですよ。

そんな中で、20代の若い男を見つけた時には――もちろん授業中は子どもたちもきちんと礼儀正しくしているんですが、「休憩だよ」となった途端――「うわ――ー!」っとやって来て(笑)。

「高い高いしてー!」と。しかも、体を持ち上げるだけでなく、普段できないような、投げてキャッチする方の“高い高い”。
そういうことをひたすらやってた記憶がありますね(笑)。

体育教室で働いていたのには、実はちょっと下心もあって――。
当時、私はアイスホッケーのチームの広島県代表として、毎年、国体に参加していたんです。

国体には高校生の頃から参加していたんですが、社会人になっても参加ができるんですよ。

ただ開催期間が1週間ほどなので、その間、休みが取れる会社でないと参加が難しいんですよね。

でも“体育”を教えてる教室だったら、国体に出る時に休みをもらえそうだな、なんて思っていたところもありました(笑)。

―その後も、働きながらアイスホッケーを続けてらしたんですね。

そうですね。

その後、これも出会いと言いますか――たまたま国体に出ていた時に知り合った地元の企業さんが「うちの会社に来たらいいよ」って誘ってくれたんです。

「仕事をしながら、アイスホッケーも続けていいし、国体にも出てもいいから」って。

地元でガソリンの卸しやガソリンスタンド等を多角的に経営されていた会社で、私はそこで色々と経験させてもらいました。

同じようにアイスホッケーをやりながら仕事もして――っていう選手がその会社には何人かいたんです。

―その会社には長く勤められていたんですか?

その会社は――長かったですね。
20代中頃に入社して、退職をしたのがちょうど40代に入ったぐらい。

退職をしたのは「何かチャレンジするんだったら、もうこれが最後のタイミングかな」って思って――。

当時、たまたま縁があって、「不動産事業の新規立ち上げをするから」と声をかけていただいて不動産事業に転職をしたんです。

……だったんですが、不動産事業の立ち上げの最中にコロナが本格的に流行してしまって。

当初予定していた回収期間内での回収ができず、その事業をたたむことになり、無職を経験しました。

CHAPTER3

障害福祉や介護ってこんなにポジティブな仕事だったんだ

どんな人が働いていて、利用者にはどんな人がいるのか――“人”を見て、「あ、ここで働きたい」って思った

その後、「仕事を探そう」となって、求人サイトの登録をしてすぐ、ホームケア土屋からスカウトの連絡がきたんです。

その時はまだ土屋のことも、介護業界のことも何も知らなかったんですが――メールの中身を見て初めて、「こういう会社があるんだな」ってことを知りました。

仕事を探し始める前に、ある会社の情報がポンって飛んでくることって今まで経験がなかった。

だから「ぜひ話を聞いてみよう」と、入社説明会に参加させていただいたのが最初だったんですが――そこで聞いた話が“目から鱗”の話ばかりでした。

ーどんなお話だったんですか?

当時、「土屋=介護の仕事をしてる会社」「介護=高齢者だろう」くらいのぼんやりした情報だけで説明会に参加したんですが――その中で、「ホームケア土屋は障害のある人の介護をする会社なんだ」とか、

「障害のある人たちが今、介護のサービスを受けるにあたって障害者運動にはこんな歴史があったんだ」っていう話がありました。

60年代から70年代の学生運動が盛んだった時代の雰囲気の中で、

「障害のある人たちが、自分たちで権利やサービスを勝ち取ってきたからこそ、今、国の制度としての福祉サービスがある」という話を聞いた時に、

自分の中で持っていた障害や福祉、介護っていう概念がガラッと変わったんですよ。

「なんだ、みんなすごくポジティブじゃん」って。「前を向いて主張してるな」って。

その説明会で話をされていた方からも「この仕事を通して、社会全体を変えていくんだ」「そういう誇りのある仕事なんだ」という想いがすごく伝わってきた。

私は今まで営業や店舗での仕事をしてきたので、介護の経験は全くなかったんですが、この時初めて、介護の仕事を自分の選択肢のひとつに入れました。

「いい仕事なんだな」って素直に思いましたね。

―その中で、入社する決め手になったのはどんなところでしたか?

もちろん、土屋に入社した決め手はいくつもあるんですが――最後はやっぱり、担当の方のリアクションがすごく早かったことが大きかったですね。

あたりまえですが、入社してから実際に関わっていくのはその会社の“人”たちなので。

働いている“人”たちがどんな繋がりの中で働いていて、土屋と契約をしてる利用者さんにはどんな“人”たちがいて――そういう“人”を見て、「あ、ここで働きたい」って思ったんですよね。

CHAPTER4

支援現場で、学校で、バイト先で見ていた“あたりまえ”の風景

重度訪問介護の現場に行って思い出したのは、友達と遊んで過ごした楽しさだった

―土屋に入社されて、重度訪問介護の現場でクライアントの方と実際に関わるようになって、最初はどんなことを感じましたか?

そうですね。実は、「普通じゃん」――ぐらいの感じだったんです。

小学生の時に同じクラスに障害がある子がひとりいたんですね。

今思えばきっと脳性麻痺だったんじゃないかなと思うんですが――たしか5、6年生が同じクラスで、よく一緒に遊んでいたんですよ。

彼は手と足に補助器具をつけて歩いていて。
いつも口が開いたままで、そうするとよだれが垂れるじゃないですか。それをね、僕につけてくるんです(笑)。

―(笑)。

それで僕も自分のよだれを彼に付け返したりして(笑)。そうやってごく普通に遊んでましたね。

僕は小学生の頃、成長が早くて、体が大きい方だったんです。
だから教室から移動する時は、みんなで彼を肩車して移動したりして。

障害を持ってる、っていうことへのネガティブなものって何もなくて――その時の経験があったから「あの時はすごく楽しかったなぁ」なんて、記憶を思い出しながら、現場に入っていました。

幼少期の体験がベースにあったのかなとは思います。

学生時代に出会った方たちのことも思い出しましたね。
その頃、地域の公共体育施設でアルバイトをしていたんですが、そこに冬季だけ開業するスケートリンクがあったんですよ。

僕はアイスホッケーをやっていたので、そこでたまたま「今度、子どもたちがスケート体験をしに来るんだよ」っていう話を聞いて。

今思えば、障害のあるお子さんが行く学校だったんだと思うんですが、その課外授業の一環でスケート場に来ていたんです。

それで「じゃあ、一緒に滑りましょう」ってなって――。

同じところで学校の先輩も働いていたので、車椅子ごと氷の上に移動をさせて、先輩と一緒に押したり。

今から思うと人工呼吸器をつけてる方だったのかな――そんな方がいたり、リクライニング式の車椅子の方もいたり。

その車椅子もスケートリンクの上に下ろして、みんなで滑りましたね。
脳性麻痺のお子さんとは、両脇と、後ろからも支えて滑って――10代の頃にもそんな場面を経験したことが多々ありました。

―介護の仕事に就いた時に、そういういくつもの記憶が二上さんの中で思い出されたんですね。

そうですね。そういった記憶が蘇ってきて、現場にも抵抗感なく、すんなり入れた状況でした。

CHAPTER5

点と点をつないで、線を描いていく――その先に

クライアントの未来を真ん中に、会社の未来も、社会の未来も見つめて

―仕事の面でも、生活の中でも、人と関わる時に二上さんが大事にしていることを教えてください。

言葉にしようとすると、難しいですよね……。

若いうちって結構、漠然と働くというか――目の前のことを日々タスクとしてこなす、そんな日々を送ってたな、と思います。

ただ、現時点から考えると、目の前の仕事をこなしていくことはもちろん大事だし、基本的なことでもあるんですが、そこにはストーリーがあって、点と点だけではダメで。

必ず線につないで先を見据えるというか、未来の方に向いていくと言いますか――。
「いろんな未来を想像して、1歩先を見ながら、仕事しないといけないな」とは感じてますね。

それは仕事だけじゃなくて、自分自身の生活もそうだし、仕事の中でも、自分たちがする事務作業的な会社側の仕事だけではなくて、

クライアントの未来も会社の未来も含めて、いろんな方向から一歩先を見つめることかな――と思います。

もちろん、自分自身で実践できているかと言われたら、決してそうではないですよ。
でも、時を見据えてやっていくことそのものはすごく大事なことだな、と思ってます。

―介護という仕事を続けていく中ではいかがですか?ご自身の中で、でもいいですし、介護の仕事を始めて発見した部分があったら聞かせてください。

そうですね。
先ほども話した内容にはなるんですが、基本的に「みんな、一緒だな」って思うんです。

障害があっても、健常者って言われていたとしても――たとえば、同じように欲するものや考え方がそれぞれにあって、いい人もいれば、悪い人もいる(笑)。

優しい人もいれば、怖い人もいる。それは一緒、っていうことは改めて思ってますね。

CHAPTER6

いろんな「ありがとう」、特別な「ありがとう」

あの時の「ありがとう」は、今までとすごく質が違う「ありがとう」だった

―仕事の中で喜びを感じる瞬間や「嬉しいな」と思うのはどんなところですか。

これはもう、昔からずっとそうなんですが――多分皆さんもそうだと思いますが、「ありがとう」っていう感謝の気持ちないし、意思表示をしてもらえた時にすごく喜びを感じますね。

私が思う“コミュニケーション”という枠の中では、障害がある方も健常者もやっぱり変わらないんですよね。

ただ唯一、何かを行なって、「ありがとう」という言葉をいただく場合には、アプローチの仕方や手段、方法がそれぞれに違ってくる――そこは今、すごく感じています。

コミュニケーションって相手によって変えていくものだと思うんです。

たとえばお子さんと話をしたり、やり取りをする時には、片ひざをついて目線を合わせて、優しくゆっくりな口調で話してあげれば警戒せずにお子さんも話をしてくれるって思ってて。

でもそれが友達だったら――逆にかしこまるんじゃなくて、ある程度、くだけた感じで関わる方が相手にとっても自分にとってもいいですよね。

おじいちゃんとかおばあちゃんの世代と話をする時だったら、敬意や感謝の気持ちを持って言葉遣いとか身だしなみ、立ち振る舞いに注意しながらやっていくのが大事かな、と。

―クライアントの方から「ありがとう」っていう意思表示をいただいた時の、印象に残っているエピソードがあったら聞かせてください。

いろんな「ありがとう」がある中で――以前、関わっていたクライアントの方なんですが、広島には「鵜飼い」という、鵜を使って魚を捕まえる伝統漁法を船に乗って見る有名な観光行事があるんです。

20人乗りぐらいの大きな屋形船に乗って、お酒を飲みながら、ちょっといいお弁当が出て、鵜を操る人が乗っている船がその屋形船と並行して動いて、鵜が魚を取る様子を見て楽しむ――。

そのクライアントの方は、A L Sを罹患されているんですが、罹患される前は仕事もバリバリされていて、地元のイベントにも積極的に参加される方でした。

ある時、そのクライアントの方の「また、鵜舟に乗りたいな」というひとことから、

その人が関わる医療チームや介護チーム、行政の方たちも一緒になって、「よし、じゃあ鵜飼いを観に行くサポートをしよう」ってなったんです。

主治医の先生が音頭を取ってくださって、総勢30〜40名ぐらいの人が集結して――そのクライアントの方が鵜舟に乗ったんですよ。

―それはすごいですね。

すごいですよね。ニュースにもなりました。
鵜船にも、通常は岸壁から歩いて船に乗るんですが、車椅子ごと乗るので桟橋からだとうまく乗れなくて。

桟橋から外れたところに乗り降り口をつくって、アーチ状の足場を船にかけて――船が揺れると車椅子が安定しなかったので、20人ぐらいがズボンの裾を捲って川の中に入って船を抑えました。

その方は文字盤や、“口文字”で喋られる方なんです。

その日、当時のホームケア土屋中国・四国ブロックマネージャーの長瀬賢亮(ながせけんすけ/現・法務部部長)さんが応援に来てくれていたんです。

元々、そのクライアントの方の現場を立ち上げたのが長瀬さんだったそうです。

帰り際に、その方に「長瀬さんが来ましたよ」とお伝えしたら、「わざわざ遠くから、ありがとう」って――口文字で声をかけられていました。

「お疲れ様でした」「お久しぶりですね」といったお話をされた後、私はクライアントの方と一緒にタクシーに乗って、ご自宅まで帰る付き添いをしました。

車中で、「お疲れではないかな」とご様子を伺っていたら、感動して涙を流されて「お前もありがとうの」って――。

その時の「ありがとう」は、今までとすごく質が違う「ありがとう」だったなと思いましたね。

CHAPTER7

クライアントの未来を考える時――固定観念を壊し、ほどいていく“自由”がある

介護職が長い人も、他業種から来た人も。それぞれの経験を互いに交換し、働く誰もが活躍できる会社に

―二上さんのこれからについてですが――ご自身のこれから、土屋としてのこれからについてお聞かせください。

自分自身で言うと、あと15年ぐらいで仕事が終わっちゃうので、そこまで体には気を付けて頑張りたいなとは思っているところです。

会社としては、「土屋は、これからの会社だ」と思っています。

近い将来、介護、福祉に関わるワンストップサービスを提供し「土屋にお願いすれば、なんでも叶えてくれるんだよ」っていう会社になっていくんじゃないかな、とイメージしています。

それを叶えるためには、多角的な展開がより一層、広がっていくのかな、と――。

どういうことかというと、今まで介護職を経験したことがない、他業種で活躍されている方が別の業種で経験した内容を持ってきて、その経験を活かせること。

プラスαで、すでに介護職で働いている人たちと未経験で入ってきた方とがお互いに、介護、福祉に関わる新しいものを吸収し合って働いていける――誰もが活躍できて、安心して働ける。

そういう会社になっていくし、10年後、20年後、きっとそうなってるんじゃないかな、と思います。
「めざせ100年企業」です。

―最後に――どうして今、介護の仕事を続けられているのかを教えていただければな、と思います。

そうですね……。介護の仕事って、なんて言ったらいいかな。
風塵に追われるような仕事じゃなくて。うーん、違うな……。

今、パッと「仕事だけど、仕事ではない」っていう言葉が一瞬浮かんだんです。

でもそのニュアンスだと、今から土屋に入社したいって思ってくれた人が読んだ時に、ちょっと違う形で伝わってしまうかもしれない、と思って――。

―どう読まれるかを考えるのは私たちの仕事なので――もしよかったら、二上さんご自身が思ったことをそのまま聞かせてもらえると嬉しいです。

承知しました。
うん。……「とても自由な仕事だ」、と。

ー介護の仕事のどんなところにその自由さを感じられているんでしょう。

クライアントを中心に話をしながら、その方にとってのゴールを決めていくと思うんです。
短期的、中期的、長期的な――。

当然ですが、それぞれのゴールに向けての方法やアプローチの仕方は、クライアントによって全く違います。

社会には「何かに縛られて」とか、「こうあるべきだ」っていう固定観念だとか、「絶対にこうしないといけない」という決まりごとがたくさんあります。

でも――この仕事にはないんです。

もちろん、公的な福祉サービスなので、書類申請や様々なシステムとしての“決まりごと”はたくさんありますし、それを守らなければサービスが成り立ちません。

でも、その人のゴールや未来を考える時――「こうあるべき」という固定観念を壊すこともしながら、その都度、クライアントを中心に、ご家族やまわりのメンバーと共に自由な発想で意見を出し合って、クライアントの未来をみんなでつくっていける――。

僕が感じるのは、そういう自由さです。

そこに僕は介護の仕事の魅力を感じていますね。


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