介護事業部

介護事業部 ホームケア土屋

奥永孔太郎

関西 ブロックマネージャー

社内の評価軸、もっと多様化できるんじゃないだろうか…

 《interview 2024.6.28》

ホームケア土屋で関西ブロックマネージャーを務める奥永孔太郎。2023年、生まれ育った福岡から一歩飛び出し(それまで福岡を出たことがなかったと言います)、初めての地でブロックマネージャーに就いた奥永は、その先々で出会う土屋という会社の大きさ、働く人のさまざまさ、事業の幅の広さに「今はますます介護や福祉の仕事が好きになってる」と話します。会社を編むひとりひとりの“人”という存在、そして奥永が心の奥深くであたためてきた“声”を訪ねました。

CHAPTER1

誰がつくったのかわからないカテゴライズに、子どものころから反発があった

自分は自分、その人はその人。分けて考えもしたけれど、そもそも人を分ける必要もないんじゃないか

小学生の頃を尋ねると、「友達をつくるのが苦手で一匹狼みたいなふりをしていたんですよ」と話す奥永。

奥永「実は『みんなと仲良くしたい』っていう気持ちをずっと持っていたんです。すぐに喧嘩したり、ドライに見せて本当はめちゃくちゃみんなに混ざりたい、ひねくれ小僧みたいな性格でした(笑)。

『なんでもやってみたい』というタイプだったんですよね。ただ、色々手を出すんですが、結局どれにもハマらない。中学生になると友達もそれなりにできて、その時、その時で色々とやってはいたんですが、自分の中で学内の“スクールカースト”みたいなものへの反発がものすごくありました。

スクールカーストって、 “イケてる人”、“イケてない人”みたいな、誰がつくったかわからないヒエラルキーで人を測るもの。そういった偏見に対して、大きな反発が自分の中にありましたね。

『このグループとこのグループは一緒に遊ばない』とか、『あいつはおとなしくて“陰キャ”だから、もう誘うのやめよう』とか――そういうカテゴライズが本当に嫌で、自分は誰とでも仲良くなれると思うし、仲良くしないといけないっていう感覚だけがあったんです。

たとえば、いわゆる“陰キャと言われてる人たち”と“陽キャと言われる人たち”がいたとしたら、自分はどちらとも仲良くしていたつもりでした。でも今になってみると、そのスクールカーストに自分を当てはめた時に、自分が下層にはいなかったことがこうやって俯瞰的に当時のことを言える一つの要因だとも思います。

自分自身も『いじめられてた』『相手にされない』といったコンプレックスがあったわけではないからこそ、『誰とでも仲良く』なんて、どこか他人事みたいな感じで言っていたんだと思います」

「自分の中には“陰キャ”的な部分も“陽キャ”的な部分もある」と話す奥永。そういった自分自身を、当時から自覚していたのでしょうか。

奥永「そうですね。内面的な性質を見た時、自分は“隠キャ”だと思ってるんです。今もそう。

でも当時は体が大きかったり、友達もいたせいか、見た目で“陽キャ”に分類されてしまうことに反発があって、『いやいや、俺はそんな人間じゃない』って―― “分ける”ということも違うし、自分は自分だし、その人はその人だし。

だから『もし分けるとしたら、自分はそう考える』っていうことですかね。もちろん、『そもそも分ける必要もない』という思いも自分の中にありました」

CHAPTER2

『誠(まこと)を貫く強い子に』――祖父が孫へ贈ったメッセージ

本当の強さってなんだろう?

奥永のその思いや考えはどこからやってきたのか。これまでの話を聞いていく中でふと気になり、奥永に“影響を受けた大人や友達の存在”を尋ねてみました。

奥永「自分が影響を受けたのは祖父なんです。もう亡くなっているんですが、祖父は地域の公民館の館長をしていました。祖父がいたのは、江戸時代につくられた被差別部落がもともとあった地域で、その流れを汲んでいる土地だったんです。

そういう背景もあって、祖父はその地区の公民館で『部落差別はいけないんだ』といった勉強会を、自分も含めた子どもたちや地域の人たちを対象に開いたり、部落差別を解消する同和運動をしていたんですよ。

そもそも自分の中で『正しいことをしないといけない』と思ったきっかけに、祖父がくれたメッセージがありました。赤ちゃんが生まれたら手形と足型を取って贈る記念プレートみたいなものがありますよね。

自分が生まれた時に祖父母が贈ってくれたプレートに、祖父が『誠(まこと)を貫く強い子に』というメッセージを書いてくれたんです。それがずっと心に残っていて、『本当に正しいことをするには自分が強くあるべきだ』という思いが子どもの時からずっとありました」

とはいえ、小学生の奥永は祖父からのメッセージを“履き違えていた”時期もあったと言います。

奥永「小学生の時には『正しい=喧嘩が強い』と受け取ってしまった時期もあって――それで一匹狼みたいなところがあったんだと思います。当時は、『誰も相手にしてくれない』なんて。自分から働きかけていなかっただけなんですが。

育ったのがガラの悪い地域でもあったので、いろんなグループがあったけど、どこにも属さない。でも喧嘩を売られたら引かない――そんな、みんなから避けられるようなタイプの人間だったんです。祖父は背も低くて体も細くて、その当時、自分が思っていた“強さ”というところからは本当に遠い存在でした。

でも、同和運動に関わっていたり、教育関係の先生たちや役所の方たちとのつながりもあって、毎年、お祭りの時期になると、みんながおじいちゃんの周りに集まって、ご飯を食べたりして――いつも周りに人がたくさんいる人だったんですよ。

後になって思ったのは、正しいことをやってるから、みんなが導かれたり、そこに惹かれていろんな人が集まる。そういう“カリスマ性”みたいなものが、本当の強さなんじゃないかな、って。今回の質問をいただいて、自分が20歳を超えたぐらいからそんなふうに考えるようになったことを思い出しました。

祖父からもらった『誠を貫く強い子に』という言葉を、そこからさらに深く自分の中で噛み砕くようになって、強さというのは暴力や肉体的な強さだけではなく、精神的な部分――いろんな人に平等に、公平に接するということは本当に強くないとできない。そういった祖父の影響が今の自分の根本にあるのかな、と思います」

CHAPTER3

『少しでもこの人たちの力にならないといけない』――医療的ケア児・重症心身障害児との出会い

困っている人たちを前に自分は何ができるか。アテンダントはどんな思いでクライアントと向き合っているのか。

高校卒業後は、保育士を目指し、保育の短大に入学した奥永。短大卒業後は友人から声をかけられ、介護の道へ。高齢者のグループホームで8年ほど働きます。

「人と関わる仕事、自分が人の助けになればいいな、とは漠然と思っていた」という奥永にとって、目の前の人が子どもから高齢者に変わっただけで違和感はなかったと言います。

その後、医療的ケア児や重症心身障害者を対象とした放課後等デイサービス(放デイ)へ。
放デイと生活介護を併設した子どもたちのための居場所で、奥永は障害をもつ子どもたちと出会いました。

奥永「統括責任者として管理職を初めて経験したんですが、対象が重症心身障害児の方で、そこで自分の福祉に対する思いが爆発してしまって――。

それまでも福祉や高齢者介護に携わってきたんですが、医療的ケア児や重症心身障害児の方々やご家族と初めて接して。もちろん『こういう暮らしをしているんだろう』って頭でわかってはいたんですよ。でもその時、初めて、当事者とそのご家族の現状を自分の目で見て、知ったんです。

目の前に医療的ケアが必要なお子さんと夜寝てないお母さんがいて、『この方たちこそ、本当に困っている人たちなんじゃないか』って。その時に自分の中で、『少しでも力にならないといけない』っていう使命感みたいなものが自然と生まれたのかなと思うんですよね。

もちろん、当時いたのは通所施設だったので、自分ができることは限られていたんですが、その中でできること――当時から『もっと近くで何かできないか』という思いを持ち続けてきたことが、今、医療的ケア児に関する活動や、重度訪問介護(重訪)の仕事にたどり着いているんじゃないかと思います」

「利用してくれる子どもたちのために自分たちは何ができるか」を毎日、考えていたという当時の奥永。その強い思いと行動に、周りのスタッフから反感を買ってしまったこともあったと言います。

奥永「本来だったら、いろんな人が関わって、その方を広く知ってもらうための仕組みをつくって、みんなで支えるのが一番いいと思うんです。

でもその時は、自分しかできないようなケアの方法を突き詰めてしまったり、周りからも『みんなが奥永さんと同じようなことはできないよ』とも言われていたのに、『受けれる人がここにいるんだから、自分がいる限り受けますよ』って無理矢理、支援を受けちゃったり。

『自分ができることをすることがクライアントのためなんだ』というところを勘違いしてしまったんでしょうね。

結果、クライアント寄りのチームビルド・事業所運営をしてしまって――自分がその事業所から離れたら、スタッフの誰も支援ができなくなって、クライアント本人が困ったこともあったと思います。『“クライアント寄り”なつもりでいて、実際はクライアントに寄り添ってはなかったんだな』って今でも思うんです」

「でも今は、受ける側のことも考えたケアが必要なんだな、と感じます」と話します。

奥永「その時は、一人一人のアテンダント、スタッフの思いを無視していたところがありました。一人一人がどんな思いでクライアントと向き合ってるか。もし不安があるならそこは解消していかないといけないし、“まずは話を聞く”ということを、それからは意識するようになりました。

自分だけじゃなくて、クライアントと関わるすべての人に、それぞれいろんな思いがあっていろんな状況がある。だから、それを知った上で、自分の最善を尽くすこと。

反面教師じゃないですけど、これまで自分の中で勝手に決めてきた部分を、まずは周りの意見や思いを聞いて、本当に自分の判断が正しいかどうかを常々考えないといけないと思ってます。慎重になった、というところも含めて、今はいろんな人の話を聞くようになりましたね」

CHAPTER4

重度訪問介護との出会い。そしてマネージャーへ

未知と出会うことは、より大きな問いを運んでくる

奥永の重訪の仕事との出会いは、放デイで働いていた2020年。当初は、非常勤スタッフとして、ダブルワークで関わりはじめます。

奥永「重訪と出会って、まず一番に思ったのは、在宅で暮らしていた重症心身障害児の方々のことです。放デイで働いていた時、『この子たちの行く末はどうなるんだろう』と思っていた方たちのこれからを、在宅での暮らしを、叶えられるサービスが重訪なんだ、ということは一番に感じたんですよ。

当時、ホームケア土屋九州の管理者だった古嶋航太さん(当時)の車のボンネットで雇用契約書を書いていた時に、これまでの仕事のこと等いろいろ話していたら、『それは奥永さん、正社員になった方がいい。いや、ならないとダメだ』ぐらいの感じで言ってくださって。その時が初対面だったんですけどね(笑)」

その後、正社員となり、生まれ育った福岡事業所でエリアマネージャーを経験。2023年より大阪・兵庫・京都・滋賀・奈良・和歌山の2府4県をまたぐ関西ブロックのブロックマネージャーとなります。

奥永「マネジメントする立場になって今思うのは、どんどんどんどんいろんな方と関われる。人と関わっていくことで、自分もプラスになっていることを今、痛感しているんです。

もともと福岡の方でエリアマネージャーさせていただいていた時から多くの方と関わっていたんですけれども、今は立場も場所も変わって、関西ブロックの方たちとも関わる中で『この会社にはこんなすごい人がいたのか』『この人のこの点は、もっと評価されるべきだ』って――。

一人一人と関わる中で、自分も経験とか知識がどんどんプラスされてるような感覚があって、ここ最近は、特に楽しさを感じているんですよ」

現在は、福岡を拠点に、関西事業所のある大阪と行ったり来たりの生活。

生まれ育った場所や背景から飛び出し、関西ブロックの仲間たちと初めて出会った時に感じたいちばんの違いを、奥永は「自身の考えや思いを素直に伝え合えているところ」だと言います。

奥永「考えていることを伝え合って、その中で生まれてくることがあるんだなと思うんです。ただ不満を伝えるんじゃなくて、『こうしたらいいんじゃないか』といった建設的な意見がその中にたくさんあって――

それは自分自身も考えるきっかけにもなりますし、やるべきことをそれぞれがしっかりわかっていて、それをした上で意見を言われてるんだなっていうのはすごく感じました。

今期、事業部全体としてやってるのが、それぞれがやるべきことの明確化であったり、仕組みづくりなんです。今は、ブロックだけでなく、会社全体としても、一人一人がやるべきことに率直に向き合える、誰もが働きやすいような環境づくりが必要かなと思っています」

CHAPTER5

小さな場所から、大きな海へ

介護の仕事の価値とは一体なんだろう

非常勤スタッフから正社員、そしてマネージャーへと立場を変えていく中で、奥永はどんな景色の移り変わりを見てきたのでしょうか。

奥永「そうですね。『一人でも多くの人の助けになれたらいいな』というところは、根本的な介護観として大きくあったんですが、小さい事業所で働いていると、どうしても目の前にいる数名の方々の支援で精一杯で、その方々の生活を完璧に守れているかといわれても、そういかない現状もあって――。

『より多くの人に関わりたい』という思いはあってもなかなか叶わない。『結局、全員に関わって、全員の支援をすることは無理なんだな』って、介護に関わったことのある多くの方はおそらくそう思われた経験があると思うんです。

でも土屋であれば――全国に拠点もあって、従業員数も多くて、会社の規模も大きくて――『無理だ』と諦めていたところに近づけるんじゃないか。土屋だったらできることがたくさんあるって思うんですよ。

これが今、自分が土屋で働いている根本のモチベーションになっています。『一人でも関われる未来があるならば、この土屋でずっと働いていたいな』って思ってるんです。

それこそ役職が上がっていって、範囲も広がっていけば、直接じゃなくても、より多くの人に関われるし、より困っている人の助けや支えになれるんじゃないか――そう思っていたので、入社した頃からは、その思いを原動力に、『キャリアアップしていきたい』という思いはあったかなと思います」

そして、働く人や労働環境といった面からのまなざしも。

奥永「介護や福祉の仕事が、実際の労働に対価が見合っていないというのは、グループホームで働いてる時から思っていました。介護は絶対に必要な、大事な仕事のはずなのに、社会的にあまり日の目を見ないというか――

『他に仕事がないから介護をするしかない』というような目線ではなく、『やりがいがある仕事なんだ』ということを社会全体が認めることがまず大事なんじゃないかともずっと思っていて。

たとえば、地域の一施設で働いていると、なれて主任だったり、なれたとしても施設長は身内が継いだり、身内以外の人がなれない状況がまだまだあって、今後の生き方や働き方、思いを持っていたとしても、実際にキャリアを重ねていく希望が持ちづらい。

でも土屋では事業もどんどん展開していってますし、その中で新しい役職もどんどん生まれている……それは、自分が持っていた『介護職の価値を認めるべきだ』『働く環境が改善されるべきだ』っていう介護・福祉の働き方、あり方に一つ寄与できる存在なんじゃないかなっていうことも感じています」

CHAPTER6

土屋という会社で働いて――自然と周りが自分のことを押し上げてくれたから今の自分がいる

多くの人の声に応えるにはどうしたらいいのかーー今いる場所から

重度訪問介護と出会って4年という速さで今の場所にいる奥永。『キャリアアップしたい』という思いは入社当初からあったのでしょうか。

奥永「もともと、『こっちに行こう』という強い思いがあったというよりは、自分が働いていく中で自然と周りの方が自分を認めてくださって、導いてくださったと思うんです。

僕はいつも“皆さんが思ってる自分”と、“自分が思う自分”にかなり乖離がある。『自分はそんなに大それた人間じゃないのに』って思うんですけど、本当に皆さん、よく言ってくださったり、コメントくださって。だから、それに応えないといけない――という思いはあったんだと思います。

でもそれはプレッシャーとはまた違って、皆さんに認めてもらったことで、自然とキャリアを重ねていく方に自分が向いていったのかな、って。『任されたことは何でもやりたい』という思いは今も持っているんですが、一度、『奥永にやらせてみよう』と思っていただいたなら、できる限り一回やってみて。

駄目だったら『できません』って言うかもしれない。そうやって『もっと勉強しよう』とか『しっかりできるようにどうしたらいいのか』って求められたことにひとつひとつ答えてきた結果、今のチームにさせてくださったのかなって思う。

自然と周りが自分のことを押し上げてくださって、その中でどんどん見える景色も変わっていって『多くの人に応えるにはどうしたらいいんだろう』っていうふうに、立ち位置とともに考えも変わってきた――今はそう思います」

現在は、2023年に発足した医療的ケア児地域生活推進委員会での副委員長を務めるなど、奥永の話を聞いていると、これまで関わってきた人や仕事、自身の思いが、自然と今の奥永の仕事に集約されています。

個人の中にある社会や現状への憤りが“出口”を見つけた時、それは社会とつながるものになっていく――本来、仕事とはそのようなものであったと思うのです。
奥永にとって、その“出口”とはどんなものだったのでしょうか?

奥永「これをこの場で言うのも、どうなのかなって思うんですが……正直、自分にとって出口になったものは、土屋の存在だと思っていて――。今まで自分が思ってきたことや、やってきたことを『それでよかったんだ』と思わせてくれたのは、土屋の理念や高浜代表の考えと出会えたことなのかなと思うんです。

医療的ケア児に対する思いや方向性も代表が話を聞いてくださって、受け取ってもらったことで『これまでやってきたことは正しかったんだ』とも思うし、『もっとやらないといけない』っていう原動力になった。

そんな話から今は実際に、医療的ケア児地域生活推進委員会に携わらせてもらっていたり、『自分はこういうことを考えてる』『今後こういうことをやっていくべきだ』と思っていたことが、会社の方向性と合っていれば『一緒にやろう』って言ってくださる会社だなって思うんです。

どんどん仕事への思いも大きくなっていますし、現状としても実際に役職もいただけてますし、自分の思いを形にしていくような環境をいただけてる――そこは本当にありがたいです。今、この立場になってますます介護や福祉の仕事が好きになってる――そんな感覚があります。」

CHAPTER7

「自分だけの人生じゃない」。それを教えてくれる、子どもの存在

家族も仕事もどっちも考えていきたいし、どっちも大切にしたい。選ぶのではなく、応え続けていく

最後に、お休みの日の過ごし方について尋ねました。

奥永「そうですね。趣味に関してはその時々でいろいろ変わるんですが、ドライブをしていた時期もあれば、釣りをしてた時期もあって。でもずっと続けているのは将棋とソフトバレーボールですね。

将棋は結構長くやっていてですね。将棋連盟公式アプリで一応、今、一級まではいってるんですが、なかなか段は取れずっていうところにいます(笑)。ソフトバレーボールは、4人チームでやる球技なんですが、社会人になってから始めました。これだけはなぜかずっと続けられていますね。今も週末は毎週、練習に行ってますよ」

家では、4歳の双子の女の子のお父さん。
「双子の娘がイオンが大好きなんですよ。なので、土日はいつも『イオンに行く!イオンに行って!』と言われて、イオンに行ってます」と笑います。

奥永「自分は仕事をしているのが好きなタイプというか、もともと仕事とプライベートの境目をはっきりできないタイプだったんですよ。でも最近は子どもも大きくなってきて、土日やお休みの日をできる限り休むように心掛けてるんです。その時には家族といる時間って

仕事してる時ももちろん幸せですし、すごいやりがいあるし、楽しいと思うんですけど、今はそこのメリハリを頑張ってつけようとしてるところなんです。

例えば『今週は月から金までめちゃくちゃ働いたー、でも土日はしっかり子供とも遊べた!』みたいに、メリハリがうまく付けられた1週間はすごい幸せを感じるんですよね」

「今」という時を超え、まだ見ぬ未来をつくっていく子どもたちの存在。
奥永さんにとって、子どもってどんな存在ですか?

奥永「子どもがいるっていうことは、自分だけの人生じゃないんですよね。もちろん自分の中には、大勢の方々の声に応えたいというところと、身近にいる自分の子どもや家族のことは幸せにしないといけないという思いがあります。

そこは絶対に、どちらも捨てられないというのかな……。どっちも考えていきたいし、どっちも大切にしながら、がむしゃらにやってきた結果が今感じているようなところなのかもしれません」


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