顧客創造部

土屋ケアサービスカンパニー

大野隼人

顧客創造部

山下清のような覚悟ある「自由」。あなたの中に眠っていませんか?

 《interview 2025.08.26》

土屋ケアサービスカンパニー・顧客創造部で働く大野隼人(おおのはやと)。
小さな頃から自由奔放さに憧れていた大野は、10代で料理の楽しさに目覚め、やがて料理人の道へ。
京都の老舗料亭の板前さんからはじまったその道で、お店の在り方や食材への関心に導かれ、料理人だけでなく店舗のマネジメント等、幅広い仕事を経験してきました。
そして2021年、介護の仕事と出会います。
その後、アテンダントから営業職へと転身した大野は、「『何のためにしているのか』に意味を持たせることで、その仕事がやっと活きてくる」と言います。
人が活き活きといること、仕事そのものが活きること――命あるものと関わり続けてきた大野の今を訪ねます。

CHAPTER1

こどもの頃、「将来は山下清のような絵描きになりたかった」

一方で、几帳面なところも。石橋を叩き割るぐらい慎重にいかないと気が済まないところがありました

―お子さんの頃のお話を最初に伺ってます。大野さんはどんなところで生まれ育ったんでしょうか。

福岡の、自然の多いところで生まれまして。小さい頃は山とか川で遊び回ってましたね。
よくも悪くも、怖いもの知らずで。よく海や川に飛び込んで泳いでました。

3歳上に姉がいるんですが、その姉の弟教育がなかなかスパルタで(笑)。
「人に優しくしないとダメだ」ということを口酸っぱく言われてきたんです。

ちょっと反旗を翻そうものなら、ゲンコツが飛んできて――それもあって姉の前ではおとなしかったですね(笑)。

―「こんな性格だったな」「ここは今も変わらないな」といったところはどんなところでしょう。

これはウィークポイントにもなるかもしれないんですが――几帳面なところがあるんです。

石橋を叩いて叩いて、叩き割るぐらい慎重にいかないと気が済まないところがあったり、理屈っぽい性格もあって、物事を進めるのが遅いところはあります。

そこはあまり変わらないですね。

―「こんな人になりたいな」「こんな仕事に就きたいな」という思いはありましたか。

うちは、父親が自営業だったんです。そういう父親の姿を見ていたので、いずれは自分自身も自営で仕事をするのかなと小さい頃から思っていました。

それから、細かい作業が大好きで、プラモデルをよくつくっていたんです。「将来は絵描きになりたいな」っていう夢があって――。

当時、『裸の大将』という画家の山下清を題材にしたドラマがありました。各地を放浪しながら、その土地の人と仲良くなって、ちぎり絵を描いては、その絵を土地の人に置き土産として渡して、次の土地へ――っていう彼の生き方がすごく好きで。

「あの自由奔放さがいいなぁ」と思っていました。

保育園の時、親御さんの前で自分の将来の夢を発表することがあったんですが、「将来は山下清のようになりたいです」と言ったら大笑いをされて。

自分の中で恥ずかしいことでもなんでもなかったので、「なんで笑われたんだろう」と感じたことがありましたね。

―10代になってからは、どんなことに熱中されていたんでしょう。

小学校の高学年から剣道を始めました。そこから中学、高校とずっと剣道に熱中していて。
剣道部のキャプテンをさせていただいてからは考え方が大きく変わったところがありましたね。

部内にはキャプテンと副キャプテンがいたんですが、自分はキャプテンとして「上に立った人間が、全員を引っ張っていかなければ」と思っていたんです。

でもその当時の顧問から「キャプテンは何も言わなくていい」、と。

むしろ副キャプテンがそういう役割を担うポジションで、キャプテンはチーム全体を見ることに注意する。「キャプテンは大きい視野を持つことが必要だ」ということを言われたんですね。

もし副キャプテンが声を荒げたり、何かトラブルがあった時はキャプテンが落ち着いて話を聞いて、全体の問題を把握する。その上で「じゃあ、こうしよう」と提案をしていく。

そんなふうに考えられるようになったところが大きく変わりましたね。

CHAPTER2

とにかく見たことないこと、やったことないことをして、出会った“日本料理”

京都のミシュラン三ツ星の料亭に就職。日本料理の“引き算”の思想に惹かれて

高校を卒業して大学に進学したんですが、大学の期間はとにかく友達と自由に遊び回っていました。

ようやく剣道から解放された、ということだったのか――(笑)。

とにかく見たことないこと、やったことないことをして、アルバイトもガンガンしていました。

その中で飲食店で働いた時に、料理の楽しさを知ったんです。

もともと細かい作業が好きだったのもあって、大学を中退して大阪の料理の学校に進学をしました。

―大野さんはその頃、どんなお料理に関心があったんですか。

料理学校に在学中に、どの料理の分野に進もうか悩んではいたんですが、肚の中では“日本料理”と決まっていました。

日本料理は、料理はもちろん、お客様を迎える部屋のしつらえも含め、とにかく多種多様に繊細なところが好きで。

ただ日本料理を選ぶのに、ひとつだけ悩んでたところがあって――。

実は、椎茸が大嫌いだったんですよ(笑)。

―たしかに椎茸は、日本料理の中ではなかなか重要なポジションにいますね(笑)。

椎茸だけがどうしても苦手で、「どうしようかな」と。
でも就職先で、面接してくださった総料理長さんに尋ねたら「大丈夫」と教えていただいて。

それで日本料理のお店に就職をしました。

―どんなお店で働かれたんでしょうか。

京都の、俗に言うミシュラン三ツ星の料亭に就職をしました。そのお店はすごく人気があって、「入りたい」と言って簡単に入れるお店ではなかったんですね。

当時、私は大阪に住んでいたんですが、学校が終わった後や休みの日は、京都まで行って料亭のお手伝いをさせていただくのを1年間続けて――。

なんとかその料亭に入ることができたんですが、競争率が55倍。
そこからの修行が人生でいちばんきつかったですね。いい経験をさせていただきました。

職人の世界だったので、理不尽なことがいっぱいありましたね。
当時はもちろんコンプライアンスのようなものもなかったですし、パンチが飛んでくるような。

根性だけはあったのでどうにかこうにか続けていたんですが、3ヶ月過ぎた頃には体重が20キロ落ちて。
同期がふたりいたんですが、入って1週間で、朝起きたらいなくなっていました。

そこからは完全にひとりで、厨房にいた18人の料理人が用意をしながら散らかしていった後を片付ける――ということを1年間やっていました。

細かい作業が好きだったので、料理長にも認めてもらって。

1年目の見習い料理人のことを“追い回し”と言うんですが、追い回しをしていた時期に、外部の企業とコラボするイベントに一緒に連れていっていただいたり、料理講習で人前で話をするような機会もたくさん与えていただきましたね。

―大野さんにとって、和食の魅力はどんなところにあったんですか。

本当にいっぱいあるんですが――。
たとえば、通常、中国料理や西洋料理というのは、臭みがある食材に対して調味料を足して臭みを消すという技法で料理が構成されるんです。

俗に“足し算の料理”と言われる所以ですね。
でも日本料理は、さまざまな料理の中で唯一、“引き算”なんですよ。

たとえば、食材を茹でて、アクを取って臭みを消す。
無駄を省いて、食材そのものの良さをしっかり出していくところが日本料理の特徴なんです。

そういった料理の奥にある思想に魅了されたところがありましたね。

CHAPTER3

お客さんと話をしながら、目の前で料理をつくっていくような気さくなお店に憧れて

料理店で実績を積み、「そろそろ準備ができてきたな」っていうところの――コロナ禍でした

その後はできることも広がっていって、任せてもらえる仕事も増えてきて――ただ、料亭での仕事は、実はもともと自分がやりたい料理や仕事ではなかったんです。

本当はいらしたお客さんと話をしながら、目の前で料理をつくっていくようなお店に憧れていて、「自分で店を持つなら、そういった店にしたいな」という気持ちがありました。

料亭というのはお客さんと隔絶されているので、話ができないんです。

できても料理長がちょっと話をするぐらい。「料亭の最高峰が見てみたいな」っていう気持ちで三つ星料亭に行ったので、1年間働いて「もういいかな」、と(笑)。そこからガラッと変わって、焼き鳥屋に転身しました。

その焼き鳥屋さんはオープンキッチンで、お客さんの目の前で料理をして――そういうスタイルが自分の中でしっかりハマりました。

大阪のお店で店長を経験してから、東京にも店舗があったので「東京で店長をしてみないか」という話があって、東京に行きました。
東京ではお店に立ちながら、5店舗のシフトを管理して、店舗の売り上げを見るポジションに就かせていただいて。

新店舗の立ち上げも経験しました。

その後、「自分でお店を持とう」という思いもあって、東京から長崎県に移り住みました。

「まだ触ったことない食材を触りたい」と焼肉屋さんに就職して、店長になって、「そろそろ準備ができてきたな」っていうところの――コロナ禍でした。

料理仲間たちと話していても「今の時期、飲食は厳しい」という話もあって、「このタイミングで自分でお店を始めるのは無理だな」と――。

そこで「一旦、料理から離れよう」と。

ただ、コロナで飲食業界は無理だったとしても、第一次産業にはすごく興味があって、魚市場に就職をしたんです。
そこで魚のいろいろな理(ことわり)を覚えたんですが――なにぶん力仕事で、肩を負傷してしまって。

手術をして、1年間リハビリしたんですが、結局治らず、「どうしようかな」と思ってた時――長崎にはおじいちゃんおばあちゃんがいっぱいいらっしゃるんです。

その様子を見て、「介護って100年企業だよな」なんて思っていたら、偶然知り合いが声をかけてくれて。そんな流れで、土屋に入社しました。

CHAPTER4

料理から介護へ。違う仕事だけど、場所が変わっただけで何も抵抗がなかった

クライアントとの出会いがあったからこそ、今も人に優しく接することができるな、って思います

―料理から介護の世界に入られて、最初の印象はどんなものを持ちましたか。

正直、全然抵抗がなかったんです。
もともと接客業で、お喋りもするような仕事だったので、場所がクライアントのご自宅に変わっただけ、というか――。

入社後に「どうですか」と聞かれたんですが、できないことの手助けをするのも人としてあたりまえの話ですし。
他業種から転職してくるとオムツ替えに抵抗感がある、という話は聞いていたんですが、これまで育児にも積極的に参加をしてきたので、「どこに抵抗があるのか、全然わからないな」と感じましたね。

ただ、ご利用者さんの側ですね。僕は身長が180ちょこっとあるんですけれども、こんな大柄の男が来ると、ちょっとかしこまられてしまうんです。

でも最初の印象をどう切り崩して、仲良くなっていけるか、それもまた楽しかった。コミュニケーションも全く抵抗なく、入職できたかなって思います。

―記憶に残ってる支援現場やクライアントの方はいらっしゃいますか。

長崎県の現場に入らせていただいた時ですね。
それこそ、「この方に仕事の全てを教わったな」と言っても過言ではないんですが、ALSの70代のおじいさまでした。

発語はなく、口文字でお話をされるんですが、「まだまだいっぱいやりたいことがある」ってすごく一生懸命に語ってくれて。
支援に入った時には、よく夜中まで一緒に話をしましたね。

「(介護職は)どうあったらいいか」とか、逆に僕から「◯◯さんから見て、介護職ってどう思う?」とか。
土屋の他にもいろいろな事業所が入っていたので、その方はヘルパーさんからお話や悩みを聞いたりもされていたんです。

その中で、「介護は横との繋がりを大切にするべきだ」「一企業で成り立つものではないから、コミュニケーションをとって、みんなで手を取り合っていかないと難しい」、と。

「そうすれば外部にも積極的に繋がれるし、“一企業がひとり勝ち“といった状況があってはならない」――そんなことを教えていただきました。

その後、福岡に移ったので、長崎はその方の現場が最後になったんですが、支援の最終日はご家族さんもクライアントさんも、泣いて送り出してくれて。

「本当にありがとう」「お前が来てくれてよかった」って、こっちももうボロボロで「ほんっとありがとうございます」ってお伝えして(笑)。

そんな経験があったからこそ、今も人に優しく接することができるな、って思います。

CHAPTER5

「この会社に言えば、必ずなんとかしてくれるから」――営業の仕事で見つけた、ひとつの正解

営業って正解がない。何が正解かは、その時と場合によって変わってくるんです

―その後、顧客創造部の前身となる営業推進室に移られます。どんな経緯で営業に移られることになったんでしょうか。

現場が楽しかったので、ずっと現場にいるつもりだったんですが――ただ現場でも、事務所に伺った時もよう喋るもので(笑)。
営業推進室が立ち上がる話があった時に当時のオフィスマネージャーの方から「やってみませんか」っていう話があったんです。

それで二つ返事で「ぜひ」と。

営業は、これまでの人生の中で経験がありませんでした。

最初は「どうしたらいいもんやら」と思ってはいたんですが、マナーやエチケットっていうところから全くもって知らなかったので、営業職をしてる友人に話を聞いて、基本の「き」から勉強させてもらって。

0から1をつくる仕事だったので、最初は大変でしたね。

―営業の仕事を続けていく中で、やり方や自分の心持ちが変わったような出会いはありましたか。

営業って正解がないんですよ。
何が正解かは、その時と場合によって変わってくるんです。

以前、ずっと関わりのあった会社での集まりがあって、伺ったことがありました。
その会社の社長さんがたくさんいる方々の前で、大きな声で紹介してくださったんです。

「土屋さんって言うんやけど、ここに言えば必ずなんとかしてくれるから」って――。

「この会社は絶対に二つ返事で断るようなことしない。『どうにかならないか』と一緒に模索してくれるところが土屋さんやから、なんかあったらみんな土屋さんに連絡しい」って言ってくれて。

その時は、「これがひとつの正解だったのかな」と思えたことがありましたね。

―その後、営業推進室は名称が変わり、現在の顧客創造部となります。顧客創造部での、普段のお仕事内容を教えてください。

今、顧客創造部は全員で7名います。そのうち6名が関西圏に集中しておりまして、九州に私がひとりポツンといるような配置です(笑)。

顧客創造部には、全国各地のホームケア土屋の事業所から依頼が来ます。

「制度の説明会をやってほしい」といった依頼や、マネージャーさんご自身が担当されるエリアの「事業所での周知活動をどうしたらいいか」「人材確保をどうしたらいいか」といった相談です。

そういった多種多様の相談に対してお答えをしていきます。
基本的にはリモートからスタートしますが、必要であれば現地まで赴いて、仕事をさせていただいてます。

―どんなところにやりがいや喜びを感じられていますか。

いちばんは、周知活動をしている中で、何か困りごとを持ってる方と出会って、その方が土屋を通して制度を利用し、あたりまえの生活が送れるようになったというご報告をいただいた時に喜びを感じますね。

それから、事業部の方々は最前線で、日々、ものすごく頑張っていらっしゃるんです。
その中で「努力がなかなかかたちにならない」といった相談を各事業部の管理者の方たちからいただくことも顧客創造部では多いんですね。

お話を伺った後、やり取りをする中で事業部の方が「これでいこう」と別の方法でトライしてみて、成功事例ができた――そんな報告をいただいた時は何よりも嬉しかったですね。

CHAPTER6

介護の世界に入ってびっくりしたのは、みなさんがとにかく優しいこと

自分もそこに感化されて、人に優しくなったかな

―人と関わる時に、大野さんが大切にされていることはどんなことですか。

最初の関わりを持つ段階では、どちらも腹の探り合いというか――そういったところはみなさん共通してあるのでは、と思います。

ただ、その後は「親しき中にも礼儀あり」。

これは母からずっと言われてきたことなんです。
「仲良くなったからといって、超えていい一線、超えてはいけない一線がある」ということは大切にしてますね。

支援現場に行く時も、業者の方とやり取りをする時も、いちばん大切にしてきました。
過度なタメ口や、冗談でも相手を蔑むような発言は、どんなに周りの空気がそれを求めていようがしない、と注意をしてます。

―介護の仕事に関わるようになってから気づいたもの、ご自身が変わってきたところがあったら聞かせてください。

介護の世界に入っていちばんびっくりしたのは――介護に従事されてる方々が、みなさん優しいんですね、ものすごく。

とにかく優しい。

「なんでこんなに優しいのかな」っていうぐらい優しくて。
それまでが荒んだ人間関係だったのかもしれないですけれども(笑)。

「こんなにあたたかいんだ」っていうことがいちばんの衝撃でしたね。
そこに感化されて――自分で言うのもなんですが――人に優しくなったかな、とはすごく感じます。

自分は、何か考えだすと、ぐるぐる頭が回り出して次から次にものを言ってしまうような人間だったんですが、この仕事に就いてからは、伺った話をまずは「なるほど、そうなんだね」って聞いて飲み込む。

そうなりました。

―これまで出会った人の中で、“今の大野さん”をつくってくれた人との出会いがあったら教えてください。

トータルで言うと――自分の父かな、と思います。
自分はちょっと困ったことや悩みがあっても、基本的に人に相談をしない節があって。

でも、唯一、相談できてたのが父親だったんですね。

でも“父親”と“息子”という立場で話をする、というよりは、一成人として話をしてくれて。
自営業者だったので、経営者としての目線でいろんな話をしてくれました。

昔からずっと何かあれば相談を父にしてたんですよね。
そういったところでは、僕にとっては父親がキーパーソンになってくるのかなと思います。

CHAPTER7

自分は何のために仕事をしているのか?――そこに意味を持たせることで、仕事が活きてくる

目の前で人に喜んでもらえる、目の前でありがとうって言ってもらえる――「こんな楽しい仕事、いい仕事があったのか!」

―お休みの日はどんな風に過ごされているんでしょうか。

休みの日は――魚釣り一択です(笑)。
今住んでいるところが海にものすごく近いんです。

船での釣りもしますし、船で離島に渡って磯の上でもやります。
でもそれは時間かかるので、普段の週末は海岸や防波堤で釣ってますね。

―魚釣り、どんなところが魅力なんでしょう。

そうですね。
自然相手というところが釣りのいちばんの魅力かなと思います。

あとは魚との駆け引きですね。餌をつけて、海に出れば釣れるわけではないんです。

いかに自然体に餌を泳がせて、魚を釣るか――自分の存在を消すようなイメージで(笑)。
そういったところがすごく楽しいです。

釣りは、保育園の頃から父親と一緒にやってましたね。
小学3年生の時には船に乗って、長崎の五島列島に父親と行って。

夜の真っ暗の海で、畳二畳分ぐらいしかない海上の岩の上に「飛べ」って言われて。釣りもなかなかスパルタでした(笑)。

―これからのこと、そして大野さんがなぜ介護の仕事を続けてこられたのかを聞かせてください。

そうですね。

もうすでに会社としても動いているところではあるんですが、日本で生まれた介護技術――これを海外にも発信をしていけたら、と思います。

いろんな障壁があるかもしれませんが、それでも困った人たちの役に立つならば、頑張っていきたいですね。

なぜ介護の仕事を続けてきたのかといえば――“仕事”というのは、ただの言葉であって、「何のためにしているのか」というところに意味を持たせることで、仕事がやっと活きてくるのかな、と考えています。

自分にとって仕事というのは、やはり人に喜んでもらうことです。
これからももっと広く、あまねく、たくさんの人に喜んでいただけるようにやっていきたいですね。

それは介護に従事している理由とも繋がっているんです。

「もっと喜ばせられるかな」「もっと喜んでいただける方がいるんじゃないかな」――そういう仕事に出会っていくには時間もかかりますし、まだまだ従事していかないといけないな、と思って仕事に取り組んでおります。

一大野さんを仕事に向かわせてくれる原動力は、どんなところにありますか。

そうですね。

これは私事でもあるんですが、介護の仕事に従事させていただいて、「ものすごく誇らしい仕事だな」っていう思いがあるんです。

ひと昔前は“3K”なんて心ない言葉もあったんですが、僕自身はそう感じたことはありません。目の前で人に喜んでもらえる、目の前でありがとうって言ってもらえる。

「こんな楽しい仕事、いい仕事があったのか!」って。
その姿を我が子たちにもメッセージとして伝えてるんですよ。

今の子たちにも、介護職のそういったイメージを培ってもらいたいんですよね。

―最後に、4年ほど、土屋で働かれてきた中で、「こういうところは土屋らしいな」っていうところがあったら、最後に聞かせていただいてもいいですか。

自由、ですね――。
自由っていう言葉だけで聞けば、「開放的」「楽ちん」といったイメージがあるかもしれません。

でも自由っていうのは縛りがない分、逆にきついこともある。

でも自由な環境に置かれる中で――人って「これはダメだ」「こうしなければいけない」と、自分自身でルールをつくっていくと思うんです。

自分で敷いたルールでやっていくことは、実は楽しさがあって、その楽しさが滲み出てる人は人を寄せつけます。
人に喜びを与えますし、楽しさを与えられる人間にもなっていけるんじゃないかなと思うんです。

たとえば、ご自宅で過ごすことが多いクライアントにも、単なる“仕事”として支援をするだけではなくて、土屋がもつ“自由らしさ”を身につけることで楽しい雰囲気も一緒にお届けできるんじゃないか――“自由”という言葉から、そんなことを考えますね。

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