CSR推進室

株式会社土屋 本社

櫻井純

CSR推進室 サポート部

病名?障害?楽しめない理由になってしまうなら、さあみんなでどうにかしましょう!

 《interview 2025.04.18》

「田舎でのんびり育った」という櫻井純(さくらいじゅん)。
櫻井が10代の頃からずっと考えてきたのは、「その人にとっての幸せって?」「自分にとっての幸せって?」ということでした。
その後、リーマンショックや震災、コロナ禍、そして自身に降りかかった病気――予想できないさまざまな出来事と出会う中で櫻井は、自分以外の人の“声“に背中を押されながら、自身の道をひとつひとつ選んできました。
その道は、“安全で守られた幸せ”の道ではなく、“予想外のことが起こるし、何が起こるかわからない”方の道。
助けたり、助けられたりを行ったり来たりしながら、旅の仲間とともに歩んできた道を振り返ります。

CHAPTER1

生まれ育ったところ

田舎でのんびりと育ったので、のほほんとゆったりした性格は今も変わりません

出身は兵庫県で、今は治療のため街中に住んでいるのですが、実家から見える風景は見渡す限り山と田んぼ。
自然豊かな田舎で生まれ育ちました。

小さな頃は山や竹やぶで秘密基地をつくってみんなと遊んだり。

あとは、ちょうどポケットモンスターがゲームやアニメで出始めた頃だったので、みんなでゲーム機を持って友達の家に集まって対戦したり。

それから、田んぼのため池が家の近くにたくさんあったので、ブラックバスの魚釣りをしたりしてましたね。

引っ込み思案だったような気はしますね。
田舎でのんびりと育ったので、のほほんとゆったりした性格は今も変わりません。

田舎って――「近所のおじいちゃんおばあちゃんとか、地域の人みんなと一緒に育った」っていう感じなんです。

顔を見れば、「あぁ、○○さんちのジュンくんね」ってわかる。

みんなが周りの人のことを気にかけて、野菜持っていったりとか、協力し合って生活してるんです。

そういう感覚はまだ今も自分の中に残っているかなと思います。

CHAPTER2

“自分らしさ”を持ったひと――エビちゃん、モエちゃんに憧れて

高校生の頃から、笑顔で幸せに生活してるところやあったかい家庭――結婚関係の情報に興味を持つように

中学校に上がった頃は、モーニング娘とか嵐といったアイドルが流行っていた時期でした。

みんな、好きなアイドルの写真を生徒手帳に入れてたり、『明星』といった雑誌からの切り抜きをファイリングして、友達と見せっこしたり。

高校に行ってからは、生徒会活動を頑張ってましたね……そうそう、『CanCam』っていう雑誌にハマっていました。

当時、エビちゃん(蛯原友里)、モエちゃん(押切もえ)っていうふたりのモデルさんが『CanCam』の専属モデルとして一世を風靡していました。

僕にとっては男性目線での“好き”というより、“可愛いを極めてる”とか“自分らしさを持った人”としての憧れの対象でした。

今でこそLGBTとか、多様性とか言われるようになって、男性もメイクする時代ですが、「男やから」「男は男らしく」といった文化で育った私にとっては、

綺麗なものや華やかなものへの憧れや、「お花が好き」とか「キラキラの小物が好き」といった感性もあってすごく憧れがあったんです。

きっと、家族は戸惑ってたのかな、と思いますが。

その影響もあって、高校の終わり頃から、人がニコニコ笑顔で幸せに生活しているところやあったかい家庭に憧れて、結婚関係の情報に興味を持つようになりました。

確か、そのエビちゃん、もえちゃんのふたりがウェディングドレスをプロデュースする企画があって、いろんなドレスブランドが掲載される『ゼクシィ』も買っていました。

それまでは「いい学校に行って、いい企業に行って」――田舎って働ける場所が限られているので、公務員、郵便局、銀行で働くぐらいしか選択肢がないと思い込んでいたんです。

でも高校を出て、ウェディングプランナーの養成学校に行くことに決めました。

昼間は大学に行って、社会学の勉強をして、夜と休みの日はウェディングを勉強するっていう生活――18歳から20歳の頃はそんな感じで好きな事に夢中で頑張っていたんです。

その学校に通っていた頃は、ウェディングの勉強をするのに大学を1年休学して、海外に行ってホームステイしながら海外挙式を現地で学んで、――とプランナーになるまでいろいろあったんですが、

ちょうどリーマンショックが重なって、就職難だった頃。ウェディング関係の仕事も受けはしたんですが、残念ながら入社には至らず……。

卒業後は旅行関係のお仕事に就職しました。お医者様とか百貨店友の会といった富裕層の方の旅行の企画手配や営業の仕事でしたね。

ウェディングの会社には就職できなかったけれども、姉のハネムーンを自分が仕事で手配したのが、旅行会社での最初のお仕事だったような気がします。

<写真キャプション> ウエディングプランナー時代 手作りのブーケとブートニア

CHAPTER3

体が不自由だったら、本当にどこにも行けないの?

「難病の人=働けない」っていう状況を変えたかったし、「自分ができることで社会参加したい」っていう気持ちは強かった気がします

私は会社員として、毎日仕事に通う――そんな当たり前の生活を続けていたのですが、突然、26歳で病気を発症して救急車で運ばれてからは、長い長い、闘病生活が始まりました。

闘病を続ける中でのモチベーションだったのは「社会復帰がしたい」という思い――その当時、「1億総活躍」っていう言葉がすごく流行っていて。

「でも、自分は病室にいて何もできてない」と思ったり、医療費や社会保障費の費用がすごく上がってきていることもニュースで言われていて、

「社会から高額な医療費を補助していただいて私は生かされてるんだ」と感じたり。

家族も、私のために看病や病院にずっと付き添うようになって、「いろんな人の人生をめちゃくちゃにして、お金もかかって、いろんなことをダメにしてしまったんじゃないか」って――

「死にたいな」っていう辛さと「治らない現実から逃げたい」っていう思いがありました。

「自分は何もできない」と思っていたけれども、あるタイミングで、鹿児島県の甑島(こしきしま)という当時全然バリアフリーも何もない離島に旅行する機会がありました。

そこに行った時に、「もう自分は元気じゃなくなって、今後病気の進行で歩くことができなくなったら来られなくなるから、今ここに来ました」って地元の寿司屋の大将にお話をしたんです。

そしたら、「歩けなくなっても担いであげるからまた来たらいい」って言われて涙が止まりませんでした。「あれ? 私、病気が進行したら体が不自由になるから、どこにも行けないって思ってたのに」って――。

その夜、星を見に連れていってもらって、満点の星空を眺めました。
病院生活ではずっと閉鎖された空間で、夜は外にも出れなかったんですよ。

でもその夜は、「星がすごく綺麗だな」とか、夜、外に出られているっていう自由さにドキドキ、ワクワクを感じていました。

その時に、「担いであげるからまた来たらいい」なんて言ってくれる人の優しさを「みんなにも経験してほしいな」って思ったんですよね。

「体が不自由だから、○○できない」ではなくて、「自分にも何かできることがあって、それで社会貢献したいな」「みんなの孤独をなんとかできたらいいな」って。

当時はまだリモートという働き方もありませんでした。
私がその時、仕事を失ったのは職場に通勤しなければいけないという環境要因が大きかった。

体は不自由だったり病気の制限はあっても、「考えることはできるんだから、仕事の環境を整えれば働けるはずだ」、と。

自身で会社を立ち上げたのは、「難病の人=働けない」っていう状況を変えたかったし、「自分ができることで社会参加したい」っていう気持ちが強かった気がします。

その後、私は櫻スタートラベルという旅行会社を立ち上げるんですが、それまでは自分が難病であることやリハビリしていることを全部、人に隠していたんです。

でも仕事を始めてからは――自分の闘病生活がこれから闘病する方の参考になったり、希望になったり。

患者会でも「自分の置かれた状況を、いろんな角度から捉えることができる」ってことを教えていただいて。

障害当事者の方が講師をされている場で、私も講師をするようになって、自分の病気や障害のことを人にお伝えすることで

「障害や病気に対する理解を深めていただけたらいいな」っていう気持ちが高まってた気がします。

CHAPTER4

「今を楽しんで生きていこう」――闘病する仲間であり、旅仲間でもあった人との出会い

予想できない出来事が立ちはだかったとき、自分はどうするだろう

自分の中でターニングポイントになったのは――私は“人の幸せ”を考えて、いろいろ勉強しながら頑張ってきたこと。

資格もいろいろ取っていたんですが、それも全部ウェディングにまつわるもの。

新婚旅行に関わるかもしれないから旅行の勉強したり、結婚式で使用するからブーケやブートニアの作り方を習ったり、ドレスサロンやネイルサロンを見に行ったり――いろんな希望に溢れてたんです。

2011年の春に就職したんですけれども、その頃はリーマンショックっていう予想外の経済的な出来事があったり、入社する直前に東日本大震災が起こったり――旅行の仕事はスタートしたものの、

東日本大震災の直後だったので「旅行なんかしてる場合じゃないよ」っていう空気感や雰囲気が世の中にあって、すごく悩みました。

そういった自然災害や予想できないような出来事が立ちはだかったことは自分にとって大きかったかな、っていうのは覚えてます。

その後――これも人生の転機なのですが、旅行や外出支援に携わらせていただく中で大きかった出来事はコロナでした。

特に私がその頃、携わっていたのが、難病や障害を持つ方や高齢の方で、「コロナ禍で感染するから旅行はやめとき」と言われたり、

「そもそも施設や病院から出られず、どこにも行けない」っていう方もたくさんいらっしゃいました。

でも、その中でも「病気の進行で元気な時間が残されてないかもしれないから、今行きたいところに行くんだ」って、逆に外に出かけられた方がいて。

そういった方々の外出やご旅行に付き添わせていただいたことは大きかったですね。

旅行に行きたい気持ちを持ちながらも、世の中の風潮とか、まわりから「やめとけ」と言われて旅に出るのを諦めた方が、亡くなられてしまったこともありました。

その時思ったのは「人は元気な時にしか動けないんだ」と――。

人の意見とか、世の中の情勢とか、もちろん周りに配慮することも大事だけれども、

「進行性の難病と向き合う私達は自分が決めたタイミングで、できるだけ早く、やりたいことをやった方がいいんじゃないか」というふうに考えが変わっていったかな、と思います。

私は病気になった後、難病や障害の当事者達が運営する旅行会社を立ち上げました。
その仕事を始めてから出会った脊髄小脳変性症という難病の方のことは印象に残っていますね。

病院にいた頃に旅行会社を自分で始めたので、特段、営業活動はできなかったんです。

でもある日、突然お電話をいただいて、「○○に行きたい」と。

「なんでお電話くださったんですか?」と聞いたら、「他のところでは、病名を言っただけで断られてしまうんだ」「話も聞いてもらえないんだ」って――。

そこからお家に訪問して、環境を調整して。

でもヘルパーさんも長期で外出に付き合うのは難しかったり、外出したい気持ちを叶えるのはなかなか厳しい状況でした。

ただ、私の場合は旅行の企画だけでなく、添乗員もできたので、「私が旅行についていけば、全部できますよ」ってお伝えをして、離島で一緒に長期滞在したり、バーベキューをしたり。

食事や外出をしながら、病気の進行の過程を一緒に過ごしていく――その方とは、“旅の仲間”でもありながら、“闘病する仲間”でもありました。

その方がコロナ禍の時に、「自分はハワイに行くんだ」って言って、添乗させていただきました。

病気は進行しながらも「今を楽しんで生きていこう」っていう意志を強く持たれたお客様との出会いは今も心に残っています。

<写真キャプション> 治療を受けながら病室で働く日常

<写真キャプション> 車いすで海水浴体験の様子in沖縄

CHAPTER5

“土屋らしさ”ってなんだろう

「生活や業務における困り事を含めた配慮を、会社全体で取り組んでいくにはどうしたらいいか」をみんなで考えながら

土屋と関わるようになった頃はちょうどコロナ禍で、私は外出の支援や言語障害の方の意思疎通支援に出かけてたり、変わらず障害当事者として講師をしながら、いっぱい仕事を掛け持ちしていました。

当時は旅行業界全体がコロナで売り上げが全くないような状況でした。
それでも、闘病しながら収入を得る環境を守らないといけない状況で――。

その時に、「障害や病気を持っている人の旅行や外出する企画をしてくれる方を探してる」っていう話を友人が教えてくれて、それが土屋でした。

2021年に入社して、最初に関わったのがクライアントの外出を支援する当時SDGs推進室の旅企画『MATAたび』でした。

鳥取に『日産スカイラインG T Rという有名なスポーツカーを見たいと希望するクライアントがいる』というお話を伺いました。

3000万円ぐらいする貴重な名車なのですが、その車を保有されてる車のディーラーを鳥取エリアの中から探すべく、ひたすら電話をかけまくるところから始まりました(笑)。

当日、そのクライアントが運転席に座られた時には「カッコいい!!」と大歓声が上がって、ご本人もお母様もとても喜ばれていましたね。

その後は土屋総研の研究員やSDGs推進部として働いてきたのですが、この6期からはCSR協議会サポート部に所属し、

医療隣接行為研究会、防災委員会、知的障害者地域生活推進委員会、医療的ケア児地域生活委員会……さまざまな委員会に関わらせていただいてます。

合理的配慮推進委員会では、社内で発行予定の合理的配慮に関するハンドブックの原稿を書いたり、指針づくりをさせていただいてます。

昨年の春から合理的配慮の提供が義務化されて、今、土屋の社内でも、サービスに従事するアテンダントの方向けに合理的配慮についてのハンドブックをつくったり、社内周知をしたり、相談窓口をつくったり、

実際にお仕事されてる障害当事者の方から悩みごとを聞いて関係調整するようなところを委員会のメンバーみんなで取り組んでいます。

法律では障害者手帳を持ってる人が配慮されるようになっているんですが、手帳を持ってる持ってないに関わらず、何か生活や業務において困り事や生きづらさを持ってる方も含めた配慮を、

会社全体で取り組んでいくにはどうしたらいいか――「“土屋らしさ”ってなんだろう」ってことをみんなで考えながら、ハンドブックに記載する文言をみんなで選んでますね。

他にも、元SDGs推進部で行なっていた取り組み――最近だと「ごちそうさまチャレンジ」や、「おにぎりアクション」という発展途上国の子どもたちに給食を支援する取り組み、

ガザ・パレスチナへの社内募金の立ち上げ、環境コンテストでは3ヶ月間ほど地域の清掃に行かせていただいたり――そういった地道なSDGsに関わる行動にも関わっています。

<写真キャプション> MATAたび 実施メンバーと

CHAPTER6

“支援”や“配慮”ではない関係性

声にならない声にも、耳をすませること

私は人の気持ちや感情の変化にはすごく敏感なのかな、と個人的に思います。

プライベートでも、土屋のお仕事でもそうなんですけれども、たくさんのご病気や障害と向き合われている方のお話を聞く中で、できるだけ、どこにも拾い上げてもらってないような辛さや打ち明けられない悩みを

「すこしでも拾ってあげられたらいいな」「心を軽くしてあげられたらいいな」っていう――そこは、自分が病気を経験して生きづらかったり、強がって無理してボロボロになった経験もあるので。

“その人らしさ”を受け入れて、包み込むような感じでいたいですね。

これまでいろんなところでたくさんの方にお話を聞いていただいたり、いろんなメディアからも取材していただく機会がありました。

“バリアフリー”とか“ダイバーシティ”とか“合理的配慮”とか――その時代に求められるテーマについて経験知をお伝えすることを続けてきました。

でも、正直なところ、「世の中の多くの企業、多くの方々にお伝えをしてきたはずなのに、社会はそんなには変わってない」っていう実感もあるんです。

例えば、「辛い病気の経験をした人が、こんな活躍をした」といった華々しいニュースや流行りの情報がメディアでは飛び交ってます。

一方で、さまざまな環境や精神状態によって、自分から声を上げること自体が難しい方もまだまだいらっしゃるんです。

私自身が病気になった当初、いろんなことを隠して引きこもっていたように。

例えば事業者の方が「うちはバリアフリーですよ」「合理的配慮をしてます」と言って環境が整っていたとしても、そのサービスを受けるためには自分から障害状況や必要な配慮を伝える必要があり、

「ある程度の所得がないと、そのお店に行けない、サービスを受けられない」といった見えない制約も多々あります。

私が携わってきた旅行業界は、まさにそういった経済状況が反映されやすい業界でした。

合理的配慮という言葉が浸透して、世の中がどんどん優しくなったとしても、

「配慮が必要な方がサービスを受けられる環境や、病気や障害と上手く付き合いながら働くことができる状態にまでいくことが難しい」という課題に直面する方が今もたくさんいらっしゃいます。

私自身もやっぱり「できる限り、自分の収入で治療ができるようになりたい」「自立して生活できるようになりたい」という思いがあります。

仕事を通じて“支援”をしていただいたり、“配慮”を一方的にしてもらうよりも、自分も何かを提供して、「こんなこともできるよ」「あんなこともできるんだね」っていう働ける状態でありたい。

でも、体調管理のために病院は避けられず働いてもいるので、「ごめん、今週は病院で治療しないといけないから、この間は仕事量を調整してほしい」っていう時もあるんです。

今、私はまわりからも協力してもらいながら、治療を諦めず続けながら体調をコントロールしながら働けるようになって、生活をしていけるようになった。

そうなった時に――これから、みんなに見える形で、どんどん私のように仕事と治療を両立できる方を増やしていくことってすごく大切なんだろうなって感じてます。

CHAPTER7

ひとりでいても、仕事や地域を通して繋がりを感じられる

病気や障害を持つ方に希望を持ってもらえるように。そんな人の例として生きられたらいいな

今、リモートでお仕事をさせていただいていて――家ではひとりでいるけれど、画面にみんなが映ると「一緒にお仕事させていただいてるんだな」っていう実感をしてほっとしたり、

仕事をきっかけに社会的な繋がりを感じられるのは嬉しいですね。

お休みの日は――今言った「嬉しいこと」にもつながるのですが、家族にずっと連絡をしてる気がしますね。

家族と離れて暮らしているので、「元気してるかな」って気にかけながら、お話をする時間をたくさん取っています。

それと、先日、「体を休めましょう」っていうアドバイスをお医者さんからもいただいて。
最近は猫カフェに通ったりしていますね。

ただただ猫ちゃんに触れてぼーっと癒されたり――。

あとは、昨年1年かけて勉強したキャリアコンサルタントのカウンセリング資格の勉強会に参加したり、休日は体をケアしたり学びをプラスしてます。

これからについては――そうですね。
病気を発症した頃と比べると、できないことはどんどん増えています。

病気の治療の間隔も、半年から4ヶ月に1回だったのが、今は1週間から10日に1回に間隔が狭まっていて、それに合わせた生活に変わってきています。

でも、せっかくこうしてCSR協議会サポート部に所属することになって――各種委員会で関わっている活動内容やお話というのは、まさしく今、難病の自分自身が抱えている課題と直結することなんですよね。

これから先、長い年月を経た時に「今のように変わらず元気で働けてたらいいな」っていう希望的観測もありますし、

「体が弱って働けなくなるのは、進行性難病の私にとっては避けられない」という覚悟もあるから、「今、無理してでも頑張りたい」っていう気持ちもある。

そんな私と近い状況の方が、土屋での私の活動を見た時に、「私も病気があるけれど、働ける環境があるんだな」「そうやって社会や地域と関わってる方がいるんだな」って気付いてもらえるといいなと思いますね。

雇用の形がいろいろある中でも、「社員として働きたい」「ちゃんとお給料をいただいて、社会に貢献して、自分で生計を立てたり、家庭を持ちたい」――そういった希望を持ってもらえるように、

そんな人の例として生きられたらいいな、と思ってます。

CHAPTER8

その人が強く生きた、その人を支えていたたくさんの人がいた

配慮を受けるような“難病の人”や“障害者”っていうキャッチフレーズではなく、私は「私自身でありたい」

私は今、免疫と遺伝の2つの難病と向き合っていますが、同じ病気の方の中には病気の苦痛から解放されるために安楽死を選ぶことが話題になったり、

痛みが降りかかってくる中で、耐えることが難しくて家から出られなくなったり、

そもそも治療が必要でずっと病院にいないといけなくて、社会と接点を持つことも、意思疎通を図ることも困難な方がいるのが現状です。

そんな中で、一緒に闘病してきた仲間の死を迎える時――死と向き合う感覚や人生の儚さを感じる瞬間がたくさんあります。

「人生って、あっという間なんだな」ということに気づく機会が自分の年齢ではすごく多い気がします。

私自身は、何か配慮を受けるような“難病の人”、“障害者”っていうキャッチフレーズではなく、“櫻井純さん”、「私自身でありたいな」って思うんです。

病気になった当初は、「生きてることが申し訳ない」と考えていた時期もありました。
でも、「社会をなんとか変えていきたい」――病室からの、代弁者のような思いが強くありました。

そんなところから人前に出て、奔走してきたんですけれども、病気の進行と向き合っていく時、

自分で体調管理を徹底的にしながら、社会参加を両立させることってすごく難しい――そういう思いも実感しています。

私が付き合ってく病気は、研究や薬の開発が遅れていることもあって、「自分たちの世代では治らない病気」と言われています。

それは辛いんですけれども、でも「次の世代では治る病気であってほしいな」って。

そのために「自分たちが今できることを後世に残していきたい」とか、命を繋ぎとめてもらってきた医療関係者の方に感謝を伝えるためにも「強く生きていきたい」っていう気持ちが今、ある気がします。

私はしんどい経験があった分、家族より長く一緒の時間を過ごす医療者の方から心に残るような言葉をかけてもらったことがたくさんありました。

「死にたいな」と思った時、「生きてるってことはすごいことなんだよ」って声をかけてもらったり、辛さを溜め込んでいた時も、「嬉しい時笑って、辛い時泣いたらいいよ」って看護師さんが言ってくれたり。

病院の中では、自分の足で歩くことに挑戦せず、安全に規則正しい生活を送るのが100点満点かもしれない。

でも片や、病院の外の世界ではいろんなことが起きて、人がぶつかってくるかもしれないし、何があるかわからない。

でも私は、それでも外に出ていくことを選んだんですよね。

引きこもっていた時に「転けるのを恐れずに歩き回ってこい」「転けたら褒めてあげるよ」って言ってくれた先生にはすごく感謝をしています。

そんな中でも、いちばん心に残ってるのは――患者会で聞いた「同じ病気の仲間はいても、最後は自分との戦い」っていう言葉でした。

みなさんそう言うんですが、まだ当時20代の私にはその言葉の持つ意味がわからなかったんです。

でも、病気が進行していく中で、「辛い状況でなぜ頑張って仕事をするのか」「大変だけど一歩、外に出て人と関わるのか」――生き方を選ぶのは最後、結局は自分自身なんです。

そういうこともあって、今みたいに「笑顔が出るぐらいに、仕事を保っていけたらいいな」「辛くて何も笑えなくなったらお仕事は引退だな」とは思ってますね。

これまでも、たくさん取材をしていただいた中で、障害や病気を持つ人は、世の中では美しく見られたり、感動の対象にされがちです。

けれども、みんながみんなそういう状況ではなくて、美しい楽しいことの一瞬だけを切り取るのではなくて、その人が強く生きたとか、

その人を支えていたたくさんの医療者や家族、いろんな方がいて、社会の中で生活をして生きた、っていうこと――。

私が生まれ育った地域ではみんなが助け合って生活するのは当たり前でした。

みんなが自然と助け合いの精神を持って、何かの制度や「介護の仕事だから」とか「病気の人だから」ではなくて、人と人として一緒に助け合って生きていけるような社会になってほしい。

そういう気持ちはずっと強くあるかもしれません。


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