介護事業部

介護事業部 デイホーム土屋

佐々木聖羅

土屋たいわ 支援員

できない・嫌い・やれない……即ダメ! ではなく「じゃあ、それで働くにはどうするか」を一緒に考えてくれる、簡単に同僚をヤメない人々

 《interview 2025.01.09》

共生型のデイサービス(スペース)デイホーム土屋たいわで支援員として働く佐々木聖羅(ささきせら)。
「子どもの頃から福祉の仕事に就きたいと思っていた」と言います。
その後、机の上で学んだ“福祉”から、現場に入って体で知った驚きの日々、そして出会った“心の扉がふとひらいた瞬間”――さまざまな経験を経て、2022年、デイホーム土屋たいわへ。
佐々木の今をつくるきっかけとなったたいわの当時の管理者であり、同じ石巻出身であり、佐々木を傍らで見守ってきた織田由加(おだゆか)を交えてのインタビュー。
書面でのやり取りを加え、東北の大地でゆっくり育んできた“あったかさ”を訪ねます。

CHAPTER1

優しい父と母、ふたりの背中を見て育って

かけがえのない人たちのために生きていけるところが自分の好きなところ

【ご出身・育ってきたところ/子どもの頃のこと】

宮城県石巻市で生まれました。自然豊かで海も山もあり、自然と共に育った感じです。

小さいころは引っ込み思案で人前に立つのは大の苦手でした。
しかし、母曰く、「困ってる人には手を差し伸べるし、思いやりがある子だったよ。」と教えてくれます。

私の父と母は本当に優しくて、2人の背中を見て来たからこそ、幼稚園時代から障害の方や困ってる人、体の不自由な方には戸惑いなく手を差し伸べることが出来ていたんだと思います。

子供の頃から福祉の仕事に就きたいと思っていて、小学校の卒業文集にも書いていました。

外でよく遊んでいたこともあり、小さい頃からゲームをしたことがなく、流行りに乗れないところはありましたが、走ることだけは得意で、足の速さだけが自慢ですね(笑)。

【ご自身の性格で好きなところ、今も変わらないところ】

誰かのために尽くせるところ。家族や夫のことをとても大切に思っています。

かけがえのない人たちのために生きていけるところが自分の好きなところです。

―ご出身の宮城県石巻市はどんなところだったのでしょうか。

佐々木 母の実家が海が多いところで――漁師の町っていうんですかね。
私も母の実家に行く機会が多かったんです。

曽祖父母が漁師をやっていて船に乗ってたので、休みの日はよく船に乗せてもらって、ウニを取って食べたり自然の中で遊ぶことが多かったです。

今、思うと「なんて贅沢なことをさせてもらっていたんだ」と思います。

小さい時はあんまり喋らない子でした。
その頃の写真を見ると全然笑ってなくて、“作り笑顔”というか――。

頑張って口角をあげてるような写真が多くて。両親もいろんなところへ連れて行ってくれました。

今から思うと、一生懸命、楽しい思いをさせようとしてくれていたんだなと思います。

―お父様とお母様はどんな方だったんでしょうか?もし、当時のエピソードなどあったら聞かせてください。

佐々木 父は――車で通勤している時に、1人、荷物を持って歩いてるおばあちゃんを見かけると、「どこまで行くの」って聞いて。

田舎ということもあるんですが、自分も会社に行かなきゃいけないのに、そういうおばあちゃんを目的地まで送り届けたり。

自然とそういうことをやっちゃう人なんですよね。
母は、私と同じ介護職をやっています。

お年寄りに対する優しさというか、思いやりがある人です。困ってる人を見捨てられないタイプ、尽くしちゃう人ですね。

印象的なエピソードがある――というよりは、2人とも日常的に、自然に周りの人への思いやりを持って接していました。
その姿を見て育ったんだと思います。

―「介護の仕事をやりたいな」という思いも、そんな日常の中で自然と芽生えてきたんでしょうか。

佐々木 私が小さい時に母が介護の資格を取ったんです。
母のおばあちゃんが癌で入院していて、毎週のように私も病院にお見舞いに行っていました。

おばあちゃんを母がケアする姿を見ていて、「いいな」と思ったのが最初ですね。

―ご自身の好きなところに、「誰かのために尽くせるところ」と書かれていますね。

佐々木 小さい頃から自分より先に相手のことを考えることが多かったかなと思います。

小さい頃に、お菓子をみんなで分けるとなったら、全部、みんなに配っちゃって、「私は余ったのでいい」って――。

友達が最初、みんなが最初、自分は最後――そんな感じでした。

CHAPTER2

「あんだど居るの楽しいなぁ、ありがとう。あんだでいがったぁ〜」

それでも、ゆっくり、時間をかけて。

【介護の仕事へ】

学生時代から介護の仕事をすることを決めていたので、高校生の時に資格を取りました。

休みの日に介護の勉強、実習を行いました。1番初めの就職先は特別養護老人ホームに勤めました。
介護の基本を学べると思い決めました。

勉強してきた内容と現実は違い、ショックを受けたことを覚えています。

楽しいだけではなく、辛いこともあるし、うまくいかなくて落ち込むことばかりでした。

―最初に勤められた特養では、「勉強してきた内容と現実は違い、ショックを受けた」と書かれています。

佐々木 「学校で習ってきた内容のままではないだろうな」とは思ってはいたんですが、現場に出てみたら、「こんなに大変なんだ」――って。

「あぁ、介護やらなきゃよかったな」とも思いました。

私は18歳から働いていて、周りの同級生はみんな大学生だったんですよね。

介護の現場に入った時に、認知症のおばあちゃんに夜間に便を投げられたり、50代の男性の入居者さんに怒鳴られたり――最初はそんなことばかりだったので、

「周りはみんなキラキラしてるのに、私は便をつけられてて嫌だなぁ」って……。

最初はショックが大きかったです。

―そんな中で、今も印象に残っている利用者の方はいますか?

佐々木 そうですね。
最初にユニット型の特養で働き始めたんですが、10人の入居者の方のうちの1人、担当を持ってみようっていうことになったんです。

一番最初に担当した利用者様は、生まれは日本の方なんですが、ソ連で育って、大きくなってから日本に帰ってきたということをアセスメントシートで知りました。

ソ連時代の怖い記憶が残っていて、「ブーン」という音が苦手だったり、ドアに自分の影が映ると「父親がいる」と怖がっていました。

最初はなかなか喋ってくれないし、顔も合わせられないくらいだったんです。

スタッフの方たちにも慣れていないところがあって、「あまり喋らない方なので、ちょっと難しいけど優しい人だよ」と言われました。

お風呂一緒に入ってみることになったけど、拒否があって、「服をぬぎたくない」「お風呂も入りたくない」「誰かが入ってくる」って――。

それでも、ゆっくり時間をかけて、話しながらお風呂に入るようにしたり、車椅子で散歩する時に一緒に手を繋いできたり。

夜、寝れない人だったので、私が夜勤の時は起きてきてはいつも2人で喋ってる――そんなふうにいろいろコミュニケーションを取っていたんですね。

3ヶ月ぐらい経って急に「あんだど居るの楽しいなぁ、ありがとう。あんだでいがったぁ〜」って言ってくれて。

「少しずつ時間かけて関わっていけてよかったな」って、その時は泣きましたね、2人で(笑)。

CHAPTER3

命の近くで――「誰かの助けになる仕事から、私は離れられないんだ」

「もう介護なんてやめてやる」なんて一度は辞めてはみたものの、結局、こうして戻ってきてる私がいる

【介護士から看護助手へ】

母が医療機関で働いたこともあり、「医療の現場に携わってみたいな。」という興味から始まりました。

初めはバタバタと動く看護師さんの邪魔にならないように、ご迷惑にならないようにと、必死でした。
慣れない環境、看護師さんに怒られることもありました。

医療用語、医療器具の名前、覚えることが多かったですが、私は覚えていくこと、自分が成長していくことが楽しかったですし、やりがいを感じました。

処置をサポートするため、テキパキ次の使うものを予測して準備するのが、好きでスピードだけはありましたね(笑)。
看護師さんは誰でもなれる仕事ではないので、とても尊敬しています。

医療に携われた経験は、今の土屋にも繋がることができたと思います。

―その後、病院で看護助手として働かれます。病院ではこれまでの介護と違う面から人や仕事と出会っていったんでしょうか。

佐々木 そうですね。私がいたのは循環器科で、手術をする人や亡くなる人も多かったんです。

医療機器をつけている人がほとんどだったので、介護施設のような感覚で普通に喋ったり、交流があったわけではありませんでした。

看護助手の仕事というのは、看護師さんに付いて動くんです。
一緒に処置に入ったり、手術室に行ったり、とにかく看護師さんの動きに付いて歩く――。

「医療の現場ってすごいな」と、看護師さんの仕事にものすごく感動しました。

―先ほど、特養では最初は大変な時期もあったと仰っていました。それでも、病院に移られたり、命に関わる仕事を続けられてきたのは、聖羅さんの中で、医療や介護の仕事に対する強い思いがあったんでしょうか?

佐々木 やっぱり、人に何かをするというか、誰かの助けになる仕事から私は離れられないんだ、と思うんです。
実は、1度、介護の仕事から離れた時期がありました。

当時、仕事の内容もハードで、給料もそんなによくなくて、1人暮らしやっていくのもやっと――「もう介護なんてやめてやる」となって、辞めてはみたんですが、結局、こうして戻ってきてる。

多分、「誰かに何かをしてあげたい」という気持ちが私は強いんだと思います。

CHAPTER4

「これは行くしかない!」――重度訪問介護との出会い

小さいボタン押したり、ものを取ったり。そういう支援を1つ1つやっていく中で、「これもサポートになってるんだな」と思えて頑張れた

【土屋へ転職したきっかけ】

看護助手や介護の仕事を続けてきて、一人ひとりに時間を掛けることが難しく、少ない人数で慌ただしく1日が終わるような毎日を過ごしていて、

「どうにかして時間を作れないかなぁ?」と考え悩んでいる時に、たまたまYouTubeで重度訪問介護の仕事をされている方、介護を受けている方のYouTubeを観ました。

その時に重度訪問介護という仕事や制度があることを知りました。

すぐに仕事内容を調べて、ハローワークの求人を見たら、土屋の求人が前日に出ていて、「これは行くしかない!」と思い応募しました。

―「1人1人に時間かけられなくて」っていう思いがきっかけにあったと書かれていますが、重度訪問介護(重訪)の仕事はいかがでしたか?

佐々木 最初、私は日勤だと思って応募したんですが、私が住んでいた地域には「夜のサポートしかないですよ」と言われて(笑)。

でも、「何かやれることはあるんだろう」と思って働き始めました。

最初に関わったクライアントは、脊椎損傷の方で、医療的ケアよりは介護がメインだったんです。

クライアントに呼ばれたら行く。「車椅子に移乗したい」って言われたら、機械で移動して。

ご飯の準備をして――「介護感があるなぁ」なんて思いながら、やっていましたね。
そのクライアントは、手が不自由で、小さいボタンを押せなかったり、取れなかったり。

はさみも使えなかったので、そういう支援を1つ1つやっていく中で、「これもサポートになってるんだな」「この人のためにいられてるんだな」と思えて頑張れましたね。

―施設と違って、クライアントから求められることが変わり、佐々木さんは戸惑うことはありましたか?

佐々木 戸惑いました。「動かずにじっとしてていいよ」って言われた時に、私、じっとしてられないタイプで(笑)。

「掃除やりますか?」って聞いてみても、「ずっと座ってていいよ」「待機してて」「何かあったら呼ぶから」なんて言われて、その環境に慣れなかったですね、最初は。

とにかくじっとしていられなかったです。

―重訪にはどれくらい関わっていたんですか?

佐々木 重訪には1年ほど関わっていたんですが、白鳥さん(白鳥美香子;しらとりみかこ/ホームケア土屋東北エリアマネージャー)から「カレッジのお手伝いをしてくれないか」とお声かけをいただいて、

重訪をやりながら週1回、土屋ケアカレッジで統合課程のお手伝いをしていた期間がありました。
その時に、織田さんと出会っているんです。

―そうなんですね。織田さんもその時のことは覚えてますか?

織田 私が土屋に入社する時、統合課程を受講しました。その時、教室で出会ったのが聖羅さんで。
「なんて可愛い人がいるんだ!」と思って――。

休憩時間に聖羅さんの方からから「織田さんも石巻の出身なんですか?」って声をかけてくれたのがすごく嬉しかったんです。

そういえば、それが最初の会話ですね。

―そこが、今のたいわにまで続く道の始まりだったんですね。

織田 統合課程の後、私はホームケア土屋仙台に配属されて。
聖羅さんはその時コーディネーターをしていたので、最初は聖羅さんの方が上司だったんですけどね(笑)。

そういえば入社してから一緒に歩んでますね。ちょっと長い付き合いになりました(笑)。

CHAPTER5

デイホーム土屋たいわの“ほんわかとした”雰囲気の中で

介護の仕事に就いて、人の温かさや、相手を思いあえる気持ちに出会えた

【介護の仕事に就いて出会ったもの、続ける中で変わってきたところ】

介護の仕事に就いて、人の温かさや、相手を思いあえる気持ちに出会えた。

変わったところは、昔は人前で話すのが苦手で話さなかった私が、介護の仕事をしてから、誰ともでも話せるようになりましたね。

―2022年にたいわに異動されて、今度はデイサービス――と、また違うお仕事だったと思います。最初はいかがでした?

佐々木 実は……私、デイサービスが苦手で。最初は「行きたくない」って思ってたんです(笑)。

デイサービスには、1度、最初に勤めた特養の時に研修で行ったことがあったんですが、利用者さんの前に立って口の体操をしたり、

訓練で「1、2、3!」なんて大きな声を出さないといけなくて――「あぁ、これは私はすごく苦手だな」って(笑)。

ただ、重訪に入っていた時、体調を崩して働き続けるのが難しくなってしまったんです。

その時、織田さんがデイホームたいわにいたので、体調や仕事のことを相談していました。

その時も「デイサービスは嫌なんです」って言ってはいたんですが(笑)。

でも織田さんが「聖羅さんが思ってるデイサービスと違うから、大丈夫だよ」って言ってくださって、週に2回ぐらいからたいわでの勤務が始まって。

そこから、たいわに行く決意をしたんです。

たいわは、“織田さんカラー”というか、織田さんが得意な音楽療法を取り入れていたり、会話や雰囲気もほっこりした感じだったんですが、知的障害の人たちの中に入ると聞いた時は、

全然知識もなかったので、「私が話しかけてパニックを起こさせてしまったらどうしよう」なんて戸惑いもありました。

でも「やったことないから、もう見て覚えるしかないな」って。最初は織田さんの動きを全部真似してましたね(笑)。

―小さい頃は「人前で話すのが苦手だった」とも仰っていました。そこも介護の仕事してく中で、徐々に変わっていきましたか?

佐々木 それは――たいわに来てからだと思います。

―たいわで、新たな魅力が引き出されてしまったんですね(笑)。

佐々木 実は……重訪はクライアントのご希望に沿う仕事だったので、「こちらから過度に喋らなくていい」という部分も私にとっては良かったんです。

1対1で対応ができると聞いて、「焦って、喋らなくていいんだ」「だったら自分のペースで伝えられるかな」って。

でも、たいわに来たら、必然的に喋らなきゃいけなくなりましたね(笑)。

―環境って不思議ですよね、本当に。聖羅さんにとっても、たいわでいろんな人に囲まれ、ほんわかした雰囲気の中で働かれていく中で、知らない自分が出てきた――そんな感じだったんですか?

佐々木 そうですね。「あ、自分、意外に喋れるんだ」って(笑)。

―人前に立つのもそうでしたか?

佐々木 嫌でしたよー、最初は(笑)。でも、最初の頃ってスタッフの人数が少なかったんです。

だから、織田さんにも頼ってられないし、「もうやるしかない」「やらなきゃダメだ!」って切り替えて。

そこからですかね。人前で喋れるようになってきたのは。

―織田さんは、そんな聖羅さんの姿を隣で見てきていかがですか?

織田 頼もしくなりましたよね(笑)。
たいわは、聖羅さんがたいわに来て下さった当初と比べたら利用者さんが急に増えたんです。

共生型ならではで、いろんな個性ある利用者さんがいらっしゃり、時には急に「ギャーッ」と大きい声をあげたり、興奮して誰かを叩こうとしたり、蹴ろうとする利用者さんもいらっしゃるんです。

そんな時、聖羅さんが果敢に前に出て、間に入ってくれたりします。
成長したなぁ……と思うと同時に、純粋にすごいなぁ、と思います。

入浴介助や食事介助といった介護技術は、基本がきちんとできていましたので、安心して任せられます。
「聖羅さんがいるから大丈夫」と思うほど、頑張ってくれていますね。

【体調不良について、デイホームへの異動】

重度訪問介護をしていた時に体調を崩し、呼吸困難になり酸素投与。2度の救急搬送を経験しました。

心も体もボロボロで落ち込む日々でした。私生活も仕事も今までのようには行かず、悩みました。
支えになったのは夫の存在です。

私の体と心と向き合ってくれ支えてくれました。
重度訪問介護は1対1の仕事。

私に何かあった時、体の動かない利用者様の命に関わる、ご迷惑になる。と思い、重度訪問介護を離れることを決めました。

今は注射器(エピペン)、吸入機を常に持ち歩き、毎日、薬を飲みながら生活しています。

重度訪問介護でお世話になっていた織田さんに仕事と体調面のご相談をして、たくさん話し合い、デイサービスへ異動させて頂く運びとなりました。

デイサービスのスタッフに、私の体調について理解して頂き、皆さんに助けて頂きながら働いています。

CHAPTER6

人と関わる時は笑顔を忘れないこと。

たいわには、朝から夕方まで、小さい子・若い世代から高齢者までが入り混じっていて……なんか不思議な光景です

【仕事や生活、人と関わる中で大切にされていること】

人と関わる時は笑顔を忘れないこと。

【ご自身にとっての「幸せ」、仕事や生活の中での喜び】

デイホーム土屋たいわは共生型で、小さい子からお年寄りまで色々な方が居ます。

みんなの笑顔を見る事が嬉しいですし、私の姿を見て、「いがったぁ〜あんだ居て良かったぁ〜」と言ってくれたり、

放デイの子供たちが「せらちゃーん!!」と抱きついて来てくれたり、「自分はここに居て良いんだ!誰かのためになってるのかな。」と思えて幸せを感じます。

―佐々木さんは、なぜ「笑顔を忘れないこと」を大切にされているんですか?

佐々木 私は普段からも明るい方というか、あんまり喋らないですけど(笑)、暗くはない。
家でも笑いが絶えないっていうのもあって――。

重訪の支援をしていた時に1番感じたのは、「クライアントは私の表情をよく見てらっしゃるんだな」ということでした。
「このアテンダントはどういう人なのか」。

私の顔の表情を含めて、指先の感じだったり、触れる感じを常によく観察されているんだなと思いました。

アテンダントが暗い顔をしてたり、目つきが悪いと、“ケアされる側”のクライアントはすごく不安になるし、嫌な思いを持たれると思うんです。

たいわに来てからもですが、知的障害を持つ人たちは、その場にいる人たちの気持ちや思いを敏感に感じながら過ごされているように思います。

だからこそ、よく目を見てるし、表情を見てる。
笑ったら笑い返してくれたり、むっとしてたら向こうもガーってなったり。

目や表情で会話をしてるところがあるんです。
重訪でも、たいわでも、「笑顔は忘れないように」。相手に伝わるので、そこだけは心がけてますね。

―土屋の中で、共生型のデイサービスを営んでいるのは、今のところ、たいわだけですよね。

佐々木 そうですね。
たいわは通所介護(デイサービス)、生活介護と放課後等デイサービスを行う共生型デイホームで、1日ごとのサービスです。

最初に放デイに来てくれたお子さんはよく私に懐いてくれました。

学校に迎えに行くと、「せらちゃん!」と言って抱きついてくれたり、お家に迎えに行ったらダッシュで階段から降りてきてくれたり、「せらちゃんだー」と言って足バタバタさせてくれたり。

そういう姿を見て、なんていうんですかね……。

自分の気持ちをあまり上手く出せない子たちが、行動で表してくれたり、名前を呼んでくれたり、求めてくれたり――子どもたちの成長を見ていけるのは嬉しいです。

―たいわに伺ったことのない身としては、なかなか想像ができないんですが、実際には、どんな場になってるんでしょう?

佐々木 最近まで夏休みだったんですが、朝から夕方まで、小さい子・若い世代から高齢者までが入り混じっていて……「なんか不思議な光景だな」って(笑)。

95歳のおばあちゃんと、7歳の子が肩を組み――7歳の子がアンパンマンのパズルを始めると、高齢者組もパズルを楽しむんです。

やってることはバラバラなんですが、なんだかワイワイ楽しそうにされています。
高齢者の人たちは小さい子を見ると喜ぶんですよね。

―織田さんからはいかがですか?聖羅さんの関わりの中で「素敵だな」って思う部分や、「聖羅さんだからできる関わり」はどんなところにあるんでしょうか。

織田 最初は不安いっぱいでデイサービスに来て――先ほどのお話にあった通り、「人前でレクなんて……」みたいな感じだったんですが、

試行錯誤しながらも、レクリェーションをしたり、一人一人が楽しめる工夫も取り入れてくれています。

ホームケアでのコーディネーターの経験やカレッジでの講師の経験がありますので、

新しいスタッフが入ってきた時の介護技術指導や生活相談員としての書類の仕事もお願いしていますが、安心して任せられます。

あと、笑顔を絶やさないところは素敵ですね。たいわを見学に来てくれる外部の方にも笑顔で対応してくれています。

体調のことがあり、正社員から非常勤となり、体に負荷をかけないようにとデイサービスの仕事を選んでくれたので、聖羅さんの負担が過剰にならないように気をつけています。

それは、他のスタッフさんに対しても同じですが、やろうと思えば仕事はいくらでも増えていってしまいます。

業務が過多にならないよう、一人一人の負担が増えないように、仕事の割り振りを考えるようにしています。

【今、たいわで感じること】

重度知的障害ある方たち、言葉を出すまで時間がかかります。
スタッフに慣れるまでも時間がかかります。慣れてもらうまで時間をかけ、距離を近付けていきます。

私は毎回会うたびに名前を伝えていました。
ふと、私の顔を見て、「せらちゃん!」と言ってくれた時は嬉しくて泣くのを我慢するのに必死でした。

高齢者組は個性豊かな方が多く面白いです。中にはろう者の方も居ます。
独学で手話を中学1年生の時からやっていて、少しですが今役に立っています。

「佐々木さん今日居て良かったー、居るか心配だったー」と言ってくれる方も居ます。
デイサービスが始まったころ、私が女性のお風呂を毎日やっていたので、皆さんとよく語り良いお風呂時間を過ごさせていただきました。

じっとしていられない方、ずっとお話をしている方、自分のやりたい事がある方、みんなの動きを止めて注目をしてもらうのは難しいですが、興味を沸かせ、一人一人に合ったやり方で、みんなと同じことをする。

共生型はその時に合ったやり方でみんなを楽しませるのが良いなと思いながら日々思考錯誤しながら行っています。

CHAPTER7

人のあったかさ、今の関わりをこの場所で維持していくこと

今やっていることや関わりの質の部分を崩さず、維持していく。誰がきても、焦らずに、みんなを迎え入れられるような状況をつくっていけたらいいな

【一緒に働くスタッフたち】

デイホーム土屋たいわ管理者の増子大介(ましこだいすけ)さんはパワフルで障害支援に何十年と関わって来た方で、勉強になることばかりです。

私はよく増子さんの声の掛け方や聴き方、話す内容など、聞きながら盗んでいます。
また、織田さんとは長い付き合いになりました。

織田さんは本当に引き出しが多く、アイディアの天才ですね。
織田さんの介護力やみんなを楽しませよう、みんなを惹きつけるところ、尊敬することばかりです。

2人を初め、スタッフみんなが経験豊富で、学ぶことが本当に多いです。
何より、デイホーム土屋たいわのスタッフがみんな優しいです。優しさの塊ですね。

―最後に、これからのことを伺いたいです。「たいわでこれからこんなふうに働いていきたい」「こんなことができたらいいな」があったら聞かせてください。

たいわでは――“現状維持”ですね。というのも、今後、利用者さんが増えていくと思うんです。

いろんな方たちが来るのが予想されていて、それに対応ができるように、今やっていることや関わりの質の部分を崩さず、維持していく。

誰がきても、焦らずに迎え入れられるような状況をつくっていけたらなって思います。
そういう意味での、“現状維持”です。

―聖羅さん自身、家族の存在をすごく大切にされてるというふうに書かれていました。介護という「人」を真ん中に置いた仕事の中で、ご自身や家族の存在が鏡になっているような部分があるのでは、と思います。聖羅さんにとっての家族ってどんな存在なんでしょうか。

家族があってこその自分だと思うんです。
大切な人たちがいるから、自分も頑張って日々生活もできてるのかなって思っていて。

「その人たちに会いたいな」って思う分、仕事も頑張れる。次、会いに行くために頑張る。

旦那さんも、仕事の相談に乗ってくれたり、私がしている介護の仕事を理解してくれているので、そういうところですかね。

―介護の仕事を10年近く続けられてきて――なぜ今もこの仕事を続けていると思いますか?

18歳から介護の仕事を始めて、「介護やってて偉いね」「よくやってるね」なんて、たくさん言われてきました。
でもいつも、「若いから偉いのかな?」って思っていて――。

「介護が大変だから、やってて偉いね」っていう感覚が、私自身はあんまりわからないんです。
「私にとっては、全然、“大変”なんてことないのになぁ」って。

介護の現場は、人と接するからこそ、人のあったかさ、喜びや悲しみ、その人の人生に寄り添っているというやりがいを感じられて――だから頑張れるんです。

日々、人のあったかさを感じられているから、自分も人に優しくできるし、誰かをサポートしていきたいなって思えるんですよね。

だから私は頑張れるし、この仕事を続けていけてるんだと思います。

【震災】

東日本大震災
私が中学3年生の時です。
海の町、石巻市出身の私も被災した中の1人です。

あの日のことは今でもよく覚えていて、映像を見ると吐き気や頭痛がします。辛い記憶です。

あの時、大切な人も失いましたし、
あの一瞬で世界が変わりました。

私は後悔しない人生を歩むこと、日々笑顔を忘れないこと。
伝えたい気持ちは言葉をして伝える。

毎日を大切に過ごすこと。
家族、周りの大切な人へ連絡を取ろう。

そんなことを思いながら生活しています。
どんなことがいつ起きるか分からないので、今生きているこの人生を大切にしたいと思って生きています。


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