介護事業部

介護事業部 ホームケア土屋

佐藤あい子

関東 管理者

人間に生まれたから、人間を労い、人生を憩う、東京が生んだビッグマザー

 《interview 2024.11.26》

ホームケア土屋関東で管理者として働く佐藤あい子(さとうあいこ)。
高校から介護の仕事に興味を持っていた佐藤はその後、20年ほど介護職を経験し、2022年、重度訪問介護の世界へ――「同じ介護の仕事でも、全く違う世界があった」と個別ケアの楽しさに目覚めたと言います。
これまでも、ひとりひとりの生と死にふれ、そのはざまを生きるいのちに寄り添ってきた佐藤。
今、医療的ケア児を取り巻く環境に胸を痛めながら、母として、介護士として、ひとりの人として、“子ども”という未来を見つめます。

CHAPTER1

“その人らしさ”を活かす仕事へ

学校では、ターミナルケアを学びたかった。人生の最期をともに歩む

―子どもの頃はどんなことをして遊んでいました?

小さい頃は……“ビックリマンチョコ”っていうお菓子があって、そのおまけについていたシールカードを集めていましたね。

当時、すごく流行っていて、缶にいっぱい集めていて。あの頃ってみんな、ビックリマンチョコのシールだけを集めて、一緒に入っているお菓子のウエハースを捨てていたんですよ。

私はそのウエハースをひたすら食べてました(笑)。
他にもリカちゃん人形やったり、ゴムだんが流行っていたので、ゴムだんをひたすらやったり……。

小学校5年生からサッカーを始めたんです。
親から言われて習い始めたんですが、女子サッカーの元日本代表だった澤穂希選手が同じ世代で、澤選手が活躍していた府中が近かったのも大きかったのかな。

他にも書道教室だったり、そろばんをやってみたり――習い事三昧でしたね。

―その後の10代は?

中学校にはサッカー部があったので、サッカー部に入ってました。中学生の時に1番下の妹が生まれたんです。

その妹とは12歳離れていて。今、私は子どもが4人いるんですが、私自身も4兄妹なんです。

すぐ下の妹は年子だったので、よく一緒に遊んでいました。その頃は思春期だったし、親に暴言を吐く――なんてこともしょっちゅうでしたね(笑)。

―高校は?

その後、進学した高校には普通科の中に看護医療コースがあって、私はそこに通っていたんです。

当時から、看護や医療といった分野よりも、“その人らしさ”を活かす介護の仕事に興味を惹かれていて。

実際に妹は看護師になり、私は介護士になりました。

―その後、介護の仕事とはどんなふうに出会ったんですか。

介護の専門学校で介護を学びました。
学校では、当時でいう「ターミナルケア」、今でいう終末期医療を学びたくて。

将来的にはホスピスとかそういう場所で働きたいなと思っていたんですが、卒業してから、介護老人保健施設(老健)に勤めました。

―小さい頃、佐藤さんの身近におじいちゃんやおばあちゃんの存在はありましたか?

祖父が特別養護老人ホーム(特養)に入っていて、毎週末、会いに行ってましたね。
特養が新設されることになって、そこに祖父母が入居したんです。

当時は、祖父母の実家に住んでいて。祖父が、よく特養を抜け出して、家に帰って来ちゃった――ということがよくありましたね(笑)。

家族で買い物に行って帰ってくると、特養にいるはずのおじいちゃんが家の前で待ってる。

しかも、近くに公園があったので、公園のベンチに座って、不良の子たちに混ざっておじいちゃんがタバコを吸っていて。

びっくりしたことがよくありましたね(笑)。

―何回もあったんですか?

ええ。祖父はタバコが吸いたかったみたいです。
特養ではタバコは吸えたんですが、許可が必要で。

それで不良の子たちと仲良くなって、その子たちにタバコをもらって公園で吸っていたんですよ(笑)。

―そういうおじいちゃんの姿を見てらしたんですね。

私はあまり覚えてはいないんですが――実家は狭かったのに、おじいちゃんが泊まって、母親が一生懸命お風呂介助してたり、ご飯食べさせていた姿をいろいろと見ていました。

母や母の兄弟にとっては、祖父を引き取れない事情がいろいろとあって施設に入ることになったんです。
でもおじいちゃんとしては、やっぱりね。

家で数日過ごして、特養に戻っていくんですが、気づいたらまた家の前にいる――そんなことがよくありました。

CHAPTER2

家族になった、“あの人”のこと

特養で出会った“あの人”。息子さんから「あなたはもう家族です」と言われた時を想う

専門学校を出てからは最初は老健に、そのあと、従来型の特養に勤めました。
そこから有料老人ホーム(有老)へ。

ユニット型の施設だったので、そこで初めて個別ケアを体験してます。
有老には10年ほど勤めたんですが、回復期の人も終末期の人もいらして。

入居者の、“その人らしさをつくる”という関わり方ができたので、その10年間はとても勉強になりました。

―10年間の中で、「あの人のことは忘れられないな」という出会いはありましたか。

その有老にレビー小体型認知症の方がいらしたんです。
その方は幻覚や幻聴があって、大声を出すこともあって――。

私がその方の担当になってからは病院の付き添いもよくしていました。
家族の方からも「ここにいさせてください」って懇願されて、できる限りのケアをしました。

その中で――なんて言うんだろう……まわりに迷惑をかけないように、スタッフ一同が輪になって、みんなで協力してその方のケアをしたんです。

その方は、幻覚や幻聴があったので、「(自分のものを)盗まれた」と思われることが度々あったんですよね。
当時、食事となる炊飯器やお味噌汁の鍋は、ユニットの共用スペースにあった。

でも、お昼ご飯が見えてしまうと「盗まれた」なんて思われてしまうので、炊飯器や鍋を持って「これはみんなのご飯だからね」ってその方の目の届かないところに移したり、

「これをひっくり返してしまったら全員のご飯がなくなっちゃうから」なんて、私たちもみんなのご飯を守るためにあたふた逃げ回ったりして(笑)。

―(笑)。

なかなか大変な思いはしたんですが、認知症の方には否定的な言葉遣いをしてはいけないし、その方に落ち着いてもらえるように、みんなで試行錯誤しながらいろんな関わり方をしてきました。

でもその方が亡くなった時、息子さんやお嫁さんからすごく感謝をされたんです。
亡くなってしまったのに――。

「本当にあい子さんが担当で良かったです」って頭を下げてくださって、「もうあなたは家族です」なんて言われて、写真を一緒に撮ったりして――。

最期に棺に入って施設から出ていく時に、その方が大好きだった『炭鉱節』をみんなで歌って、送り出したんですよ。

スタッフ一同、玄関の前に立って、誰が音頭を取ったか忘れちゃったんですが――その風景は今も忘れられないですね。

そこでは息子さんが深々と頭を下げて、男泣きしてて。
玄関出ても、駐車場でまた一礼して自宅に帰られたんですが、最後の最後まで本当に感動的でした。

その方からは、グリーフケアから何から何まで、本当にたくさんのことを教わりました。

CHAPTER3

重度訪問介護――同じ仕事でも、同じ介護でも、そこには全く違う世界があった

言葉を発せなかったとしても、目や表情でやり取りができる世界があった。「すごい世界に来たなぁ、私」。


<クライアントとの外出、その1>

 

―その後、土屋にはどんな流れで入社されたんでしょうか。

それまでずっと、いわゆる“箱物”で働いてきたんですが、有料老人ホームに勤めていた時の友達に誘われたのが転職のきっかけなんですよ。

なので、土屋がどんなことをやっている会社なのか、全くわからないまま入ってきちゃったんです(笑)。

有料老人ホームの後、私は再度、特養の従来型で2年半ほど働いていたんですが、「このまま、私はここで永遠に働くんだろうな」なんて思っていたところに、

夜勤中に友達から「助けてほしい」って連絡が来て、「じゃあ、行くか」と(笑)。

そんな感じで土屋に入社したら、重度訪問介護っていう、訪問介護とも違う、施設介護とも違う仕事で――「あれ?あれ?!」って。

最初は非常勤アテンダントとして、1ヶ月ほど特養と兼務して働いて、その後、正社員になったんですが、私自身、介護の経験もスキルもあったので、重訪の現場に入った時、すごくシンプルな仕事に思えました。

たとえば、眼鏡をかけ直すのに30分かける。おむつ交換するだけで、クライアントから感謝される――そんなこと、これまで私が経験してきた施設介護では考えられないことでした。

「でも、こういう介助の方法でお金もらっていいの?!」って戸惑ってしまうくらい。
「個別ケアってこんなに楽しいんだ!」「もう30人を見なくていいんだ」って肩の荷が降りたんです。

―今までたくさんの人数に向けて関わられていたところから、目の前のひとりの方に向けての関わりになったんですね。

“おむつ交換をするのが当たり前だった世界”が、“おむつ交換をしたら感謝をされる世界”に変わったんですよね。「こんなに上手にやってくれてありがとう」って――それは私にとって、別世界に来たような感じでした。

「こんなふうにクライアントと関わっていいんだ!」って目から鱗でした。
同じ仕事でも、同じ介護でも、全く違う世界があった。本当に驚いたんです。

―最初に関わられたクライアントとは、どんなふうに過ごされたんですか。

ご主人と奥様のふたり暮らしで、その奥様がALS疾患のある方だったんです。
先ほど話をした「眼鏡のかけ直しに30分かける」という世界に、その時、初めて触れたんです。

最初は戸惑いもあったんですが、それができた時の喜び、オッケーをもらった時の喜びは感動的でしたね。

それに、クライアントの方が言葉を発せなかったとしても、「目で“ありがとう”って言ってくださってるな」って、表情からわかったんですよ。

「すごい世界に来たなぁ、私」「こんな世界があるんだ」――って。

もう「驚き、桃の木、21世紀!」って感じですよ(笑)。だからすごく楽しかったんです、1日が。

CHAPTER4

対等な関係の中で、ひとりのクライアントを支える

「医療的ケアも行なえる上に、1冊のノートで、看護師さんと対等に申し送りをしている自分が今、ここにいる!」


<クライアントとの外出、その2。「時期をずらして、同じ場所で撮影しました」>

―佐藤さんにとって、これまでの介護の仕事と重訪にはどんな違いがあったんでしょうか。

行なってる支援の内容は、施設も在宅もほぼ一緒なんです。
でも施設だと、介護士は医療的ケアを行えません。

その代わり、必ずその施設には看護師さんがいて、医療の部分のケアをやってくださる。

それぞれにできることがしっかり分かれていたので、施設では看護師さんが来るまで医療的ケアを待たないといけなかったし、行なったことは看護師さんに必ず報告をする。

でもだからこそ、どこかで医療と介護という分野の線引きがあったような――重訪に出会うまで、私自身、そんなふうに感じていたところがあったと思います。

でも在宅介護では看護師さんもリハビリさんもヘルパーも、みんな一緒に仕事をするんです、協力し合って。

看護師さんのヘルプに立ち会ってクライアントの体を支えたり、看護師さんができなかったことを手伝ったり。

「ヘルパーが医療的ケアも行なえる上に、1冊のノートで、看護師さんと対等に申し送りをしている自分が今、いる!」って――最初はそのことが驚きでしたね。

連携という部分で、「今日のクライアントはこんな様子でした」「こうしてみたらどうでしょうか」等、報告をし合いながら、同じ立場で話し合うことができることってすごいことだなぁ、と感じました。

―ケアに関わるみんなで、対等な立場で意見を交換したり、一緒に考えたりしながら――

そうなんです。対等な関係で連携が取れるんですよね。
それは、“クライアントのためにみんなが動く”っていうことが真ん中にあるからこそなんです。

例えば、クライアントにアザができてしまったとしたら、施設では「アザができないためにどうするか」「体を起こすしかない」というふうに考えがちなんですが、

重訪では視点が違って、「その方の行動制限をしない中で、褥瘡をつくらないようにするにはどうしたらいいか」を考えるんです。

もしかしたら、クライアントは寝ていたいかもしれない。

だったら「寝たい」というクライアントの希望を何よりも優先した上で、「じゃあ、その上で褥瘡をつくらないためにどうしましょう」っていう話し合いができるんですよ。

“クライアントのために“というところでは、今の仕事にやりがいを感じていますね。

CHAPTER5

その人の“人生”にふれる仕事だから

ひとりひとりと関わって、まるでドラマを見てるような感覚でその人の人生の中に入っていく――「介護の仕事ってなんて面白いんだ!」

―佐藤さんが仕事や日々の中で大切にしていることはありますか?

そうですね。大切にしていること……。仕事で大切にしてるのは距離感です。
人には、パーソナルスペースがありますよね。だから、近すぎない。

かつ遠すぎない距離感を大切にしてます。それは昔からです。

―それはクライアントさんに対してですか?それともスタッフ同士でも同じですか?

全員に対して、その部分は大切にしてますね。
人と関わることが仕事なので、“その人を尊重する”ところがいちばんです。

その人の立ち入らない区域を感じ取ることは大切にしてます。
かと言って、壁をつくってると思われないような雰囲気をつくる。

そういう非言語のコミュニケーションを大切にすることが、実際のコミュニケーションにつながっていくんですよね。

―佐藤さんは学校を卒業されてから、これまで介護の仕事を続けてきています。それはどうしてだと思われますか?

介護の仕事って――その人その人の“人生”を見てるじゃないですか。それが楽しくてずっとこの仕事を続けているんですよね、私。

最初の特養に勤めた時、病院が併設されていて、その院長に「この仕事を始めたら、もう他の仕事に行けないよ」と言われたのが記憶に残ってます(笑)。

実は私、介護職から離れて、歯医者さんの歯医者さんの受付と助手をやっていた時期があったんです。

歯医者の匂いと音が好きすぎてーーもちろん、まだ子どもが小さかったので介護職の夜勤がきつかった、という理由もあったんですが。

でも、歯医者さんの仕事は実際やってみたら、楽しさは半分でした。
介護の方がずっと楽しかった。

ひとりひとりと関わって、まるでドラマを見てるような感覚でその人の人生の中に入っていく――その人の人生、価値観、すべて見れて。

「介護の仕事ってなんて面白いんだ!」って、改めて思ったんです。

―学校で介護を学ばれていた時から「ターミナルケアに関心があった」とも仰っていました。

私は若い頃から、「回復期よりも、緩和ケアや終末期をみていきたい」という思いがありました。
介護の仕事は生と同時に死を近くに感じることもできると思うんです。

人って死が怖いじゃないですか――。
普通の感覚だと怖いですよね。それをいかに軽減するか。

クライアントには楽しかったことをたくさん思い出してもらって、「最期を笑顔で迎えてほしい」。

これまでのアルバムを見返して、「家族でこんなことあったよね」という振り返り等、有料老人ホームでも行なってきたグリーフケアを今後もずっと続けていきたい。

それでいて、苦痛がないように――もちろんご本人は苦しいんだけれど、苦しくない時間を過ごしてもらうにはどうしたらいいか。

みんなで考えながら、そういう仕事にこれからも関わっていきたいなと思ってます。

CHAPTER6

“長男のつくったチャーハンを食べる私“の幸せ

「長男がつくったチャーハンを私が食べてる〜」「その優しさが沁みる〜」。そんな幸せ。

―今、佐藤さんはどんな時に “幸せ”を感じますか?

そうですね、私の幸せは子どもの笑顔を見ることです。子どもが好きすぎて、もうダメですね(笑)。

―そうなんですね。お子さんはおいくつなんですか?

うちは子どもが4人いるんですが、1番上が19歳なんです。
彼が昨日、私の仕事が遅くなって帰ったら、長男が末っ子にチャーハンをつくって食べさせてくれていたんですよ。

私が疲れて帰った時もチャーハンをつくってくれるんです。卵入りのチャーハンです。
でも次男に言わせると、この間つくってくれたチャーハンはめちゃめちゃしょっぱかったらしいです(笑)。

長男はそういう優しいところがふとした時にあるんですよね。
もちろん、「うるせぇ、ババア」なんて言われることもありますが(笑)。

そんな時が幸せ時間っていうんですかね……。
「長男がつくったチャーハンを私が食べてる〜」「その優しさが沁みる〜、幸せ〜」って(笑)。

―お子さんたちと仕事のお話をすることもありますか?

末っ子と、私が支援で関わっている中学生のクライアントの石橋美宙(いしばしみそら)さんの話(*1)はしていました。

―ふたりで絵本をつくられていましたもんね。どんな流れで絵本をつくるようになったんですか?

末っ子が絵が好きで、当時、絵を毎日描いてたんです。
自由帳が何冊も何冊もたまっていくぐらい。

たまたま私が支援に入った時に、美宙さんがポケモンを主人公にした物語を考えていたんです。

お母さんから「(美宙さんは)物語を作るのが好き」という話を聞いて「じゃあ、うちの末っ子に絵を描いてもらって、美宙ちゃん、物語を考えてみる?」っていう話になった時に、

末っ子が描いた“くりボウ“というキャラクターの絵を持っていったんですよね。

そしたら、すぐにお母さんと美宙さんで話を書いてくれて――ただのコピー用紙なんですけどね(笑)。

―美宙さんと末っ子さんの、直接的ではないけれど、“つくること”を通したコミュニケーションを「素敵だな」と私は感じました。

末っ子は図工クラブにも入っていて、作品をつくるのが大好き。
私はその子を溺愛しちゃってます(笑)。

施設に勤めていた頃は夏祭り等のイベントがあったので、子どもたちをよく施設に連れて行っていたんですよね。なので、お年寄りと接することには抵抗がないです。

ただ、私が障害福祉に関わるようになってからは、まだ重度訪問介護の現場には連れていっていません。
どんなことを感じてくれるかな、と思います。

<ホームケア土屋関東のクライアント・石橋美宙さんと、佐藤さんの息子さん、
ふたりでつくった物語絵本「くりボウ 今日なにしたボウ」>

CHAPTER7

お茶をたて、季節を感じる――その場の情緒を味わう喜び

「着物を着て、掛け軸の話をして、薄茶を立てて飲んで」ーーその時、その瞬間との出会い

―お休みの日はどんなふうに過ごされているんでしょうか。

私は趣味があって――茶道をやっているんです。
今はお茶にのめり込んでいて、この間、大徳寺にある千利休さんのお茶室を見たくて、1人旅で京都に行ってきました。

―お茶はもう長くされてるんですか?

そんなに長くはないですね。土屋入ってからかな。
茶道の侘び寂びの世界観に感動したんです。今はお茶をやっているお友達と、仕事以外の時間を過ごせています。

お茶と向き合っている時間は仕事を忘れて、お友達に会えるのが、もう楽しくて。
お茶のお稽古も、今、増やしているんですよね。

―お休みの日は過ごし方がガラッと変わりますね。

そうなんです。着物を着て、掛け軸のお話をして、「今日のお花は……」っていうところから薄茶を立てて飲んで――お菓子や季節の話をしたり。

いい時間を過ごしてます。

―いいですね。今の仕事の中でも、ちょっと違った楽しみ方をしていることってありますか?

今、私がハマってるのが――ホームケア土屋関東・オフィスマネージャーの玉井慶一郎さんが、その地域に古くからあるレトロな喫茶店をインテイクの打ち合わせの場所として用意しておいてくれるんです。

訪問介護の良さは、クライアントが住むその地域、その土地に伺えること。

今、私は東京・浅草のクライアントのご自宅に伺っているんですが、毎日、スカイツリーと浅草寺を眺めながら、支援に向かっています。

初めてのクライアントのお家に行く前のインテイクとして、==マネージャーは、その地域に古くからある喫茶店を探しておいてくれて、その場所を待ち合わせにしてくださるんです。

そうすると、クライアントのお話を聞きながら、その地域にはどんな人たちが住んでいて、どんな雰囲気が流れてて、どんな会話や情緒があって――

商店街もそうなんですが、古くからある飲食店ってその土地の地域性が垣間見れるんですよね。

「この街には、こんな人間が住んでるんだ」――って。クライアントのご自宅に伺う前に、クライアントの住んでいる街の雰囲気や空気感を感じ取ることは大事なことなんじゃないかと思います。

先日、三社祭(*毎年5月に行なわれる浅草神社の例大祭)の当日が夜勤明けだったんです。
夜勤明けのその日は、朝から街の雰囲気がいつもと違っていました。

いつもは静かなのに、あちこちからお祭りの掛け声が聞こえたり、はっぴ姿の人がたくさんいたり――そうそう、クライアント宅にもはっぴが飾ってあったんですよ。

CHAPTER8

私には夢がある

医療的ケア児のいるお母さんやお父さんたちが少しでも休めて、安らぎのある生活ができたらいいな――って思うんです。

―「これからこんなふうに生きていきたい」「土屋でこんなことに関わっていきたい」という思いがあったら聞かせていただけますか。

これから――私は土屋でやりたいことがあるんです。

今、社会的に見ても、美宙さんのお母さんが仰っていた通り、医療的ケアが必要な子たちが利用できる施設やサービスが本当に足りてない状況があります。

実は今度、2歳になる医療的ケア児のお家に支援に入ることになりました。

そのお子さんは普段は入院しているんですが、退院して、1週間自宅に帰ってきた時に「子どもをどうケアしたらいいかわからない。

疲れすぎて夜中まで面倒がみれない。
呼吸器が鳴って、行かなきゃいけないのに体が動かなかった」――先日、親御さんからそんな話を聞きました。

そんな時に私たちヘルパーが支援に行くことで、子どもが自分の家で、親御さんと暮らしていけるんだったら、いくらでも手助けをしていきたい。

子どもが家に帰れる環境を、お母さんの手の温もりで子どもが育つ環境を、つくっていきたいと思うんです。

“子どもを育てる”というだけでもすっごく大変なことですよね。
それが医療的ケアが必要なら、もっと大変になる。

だったら、もっと気軽に人の手を借りていいんじゃないのかな、自分たちでなんとかしようなんて思わなくていいんじゃないかな――。

そうやっていつか、医療的ケア児を持つ親御さんたちのコミュニティができたらいいですよね。
土屋から輪が広がっていけるような地域づくりをこれからしていきたいなと思ってます。

―そのような思いを持たれたのは、美宙さんとの出会いが大きいですか?

そうですね。でもどちらかというと、美宙さんのお母さんのお話が大きかったですね。

―佐藤さんご自身の、“母”としての経験のところで重なったんでしょうか。

私自身も子どもを4人育ててきたので、いろんなことがありました。

有老で働いていた頃は、30分の距離に勤務先があったのに、近くの保育園に入れなくて、毎朝、民間の保育園を3か所回って子どもを預けて、1時間半かけて通勤してたとか――。

もちろん、医療的ケア児のいるご家庭との経験と比べられるものではないんですが。
周りからも“サーカス乗り”なんて言われてましたよ(笑)。

子どもを4人乗せて、ひとりで自転車漕いで、保育園を回って、そこからの介護の仕事――もう、涙流した時期もあったんです。

「今だったら絶対できないだろうな」ってことが、なぜかあの時はできた。子育てって、そういうがむしゃらな時期があるんですよね。

でも――これは医療的ケア児のいる別の親御さんから聞いた話ですが、「ちょっと目を離しただけで呼吸が止まってしまう。だから子どもから片時も目が離せない」

――それは親御さんにとって常に心身が休まらない状況ですよね。

私も子どもが小さかった時、家の中でほんの少し目離した隙に、末っ子が勝手に外に出て、踏切を渡っていたことがあったんです。

「え?玄関開けられた?!」「あれ、踏み切りわたってる?!」って――ベランダで洗濯物を干している間に、末っ子がいなくなっていた。

もちろん、医療的ケア児のいる親御さんの「目が離せない」とは全く状況が違います。
でも、その子の命に関わること。

「子どもから目を離すなんて、誰でもありますよ」「むしろ、目を離したい時ってありますよ」「だからこそ、目が離せないって大変ですよね」って――。

多分、親ってみんなどこかでそんな思いを抱えながら子どもを育てていると思うんです。
だからこそ少しでもお母さんやお父さんたちが休めて、安らぎのある生活ができたらいいな――って。

―そこは、社会の側が変わらないといけない部分ですね。

もともと医療的ケア児やその親御さんにとって行きやすいコミュニティーが少ないこともありますが、「医療的ケアが必要」というだけで、

たくさんの“できないこと”を強いられるような今の社会があるんだ――とも思います。

「医療的ケアが必要ない子はいろんな遊びができるのに、医療的ケアが必要な子は別のグループにいなきゃいけない?じっとしてないといけない?」――それっておかしい。

どんな子にも、その子が望んでいることをやらせてあげたいじゃないですか。

先ほど話をした、これから支援に入る2歳のクライアントのお家では、今度、赤ちゃんが生まれるんだそうです。
その子はお兄ちゃんになる。

そのお家にはお姉ちゃんがいるので、今度、親御さんは、赤ちゃんとお兄ちゃん、お姉ちゃんの3人を育てていく。

でも「医療的ケア児のいるお家は、第2子は考えられない」なんて話を聞くこともあるんです――「そりゃないよな」って思いませんか?

誰だって安心して、親御さんや家族が望むなら、兄弟・姉妹をつくれるような環境をつくっていけたらいいなって、私はやっぱり思うんです。

私たちがみんなで知識を出し合って、手の足りないご家庭を支えていって、子どもたちが在宅で、安心して過ごしていける環境づくりを手伝えたらいいな、って。

そんなあたたかな社会をつくっていきたい、と私は思います。

<<インタビュー後記>>

今回、掲載した写真は、佐藤あい子さんが関わる
ホームケア土屋関東のクライアント・太田一幸(おおたかずゆき)さんとの外出時に撮影されました。

「月に2日間ほど近くに買い物に行ったり美術館や植物園に行ってます。太田さんは、『俺』という新聞をご自身で発行してます。

介入しているアテンダントは、皆、楽しみにしています。時に『あの記事は面白いね』などアテンダント同士で話したりもしてます」(佐藤)

*1 ……佐藤あい子さんが、医療的ケア児について深く考える出会いとなった
クライアント・石橋美宙さんとお母様の石橋和美さんのインタビューはこちらから


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