介護事業部

介護事業部 ホームケア土屋

新里宗隆

関西 管理者

「意見の対立」などないのではないか、方法や順序の差があるだけで。

 《interview 2025.05.22》

ホームケア土屋関西で管理者を務める新里宗隆(しんりむねたか)。
10代で飲食業を、20代でシステムエンジニアを経験した後、30代で介護の仕事に移ります。「じゃあ、40代は…?」――当時、施設で働いていた新里は、在宅介護の仕事に興味をもち、重度訪問介護の仕事と出会いました。
仕事について考える時、10代の新里に問いかけたバイト先の上司のある言葉が今も浮かぶと言います。
「ええか、新里。仕事ってなんや。なんのために仕事してるんや」――他者とのやり取りを通して、チームの中の自分、そして自分自身とも対話し続けてきた新里に介護の仕事で働くことについて尋ねました。

CHAPTER1

子どもの頃、神戸の下町で

“マイペースな性格”はこどもの時からずっと変わらない

―ご出身はどちらなんでしょうか?

生まれたのは静岡県です。
ただ、物心ついた頃には兵庫県神戸市に移っていました。

両親が離婚して、母親の実家がある神戸に行ったようです。

育ったのは神戸の下町で、私と姉と母親と3人でアパートで暮らして、近くにおじいちゃんおばあちゃんも暮らしていて。

そんな中で育ちました。

―当時はどんなお子さんでしたか。

体が大きくて、よく食べるし太っていて、周りからは「プーさん、プーさん」って言われてました(笑)。

その頃、ファミコン(ファミリーコンピューター)がすごく流行っていたんですね。
母親にせがんで買ってもらって、朝から晩までゲームばかりしてましたね。

当時は『ドラゴンクエスト』というゲームが好きで。
中学、高校になってからも夢中になってやってました。

将来は「ゲームプログラマーやエンジニアの仕事をしてみたいな」と本気で思ってましたね。

―今も変わらないところってありますか?

小さい頃は、母親から「マイペースな性格だな」ってよく言われてました。

結婚してから、やっぱり嫁さんからも言われるので、そこはこどもの時から変わらないんだろうな、と思いますね。

いいのか悪いのかはわかりませんが(笑)。
それと、失敗をしても引きずらず、原因や分析をした上で次に切り替えていく性格かなぁ、と思います。

―子どもの頃のことで印象に残っている出来事があったら教えてください。

自分のターニングポイントとしてはいくつかありますが、阪神大震災ではないでしょうか。

当時、中学2年生でした。

神戸市灘区のアパートに住んでいたんですが、地震発生時、家が全壊してしまい、目が覚めたら屋根から星空が見えたのが印象的でした。

幸い、家族は無事でしたが、周りの家で火災が発生していて、近所の人が生き埋めとなって亡くなったり、いつも笑顔だった近所のお姉さんが涙を流したり、

近くにあった駄菓子屋の食品や飲料水などが盗まれたりーー中学生ながらに現実なのかよくわからない日々を過ごしていました。

記憶が曖昧なところもありますが、ところどころで胸が締め付けられるような記憶もありました。

CHAPTER2

はじめてのアルバイトで問われた、「仕事って何のためにしてると思う?」

ファミレスのバイト先で知り合った店長に教えてもらったこと

―その後は……?

被災して神戸から大阪へ引っ越してから、環境ががらっと変わりました。
勤労体験学習という、学校で学びながら働いて単位をもらえる定時制の高校に通っていたんです。

その学習の一環としてファミレスでアルバイトを始めたんです。
働けば働くほどお金になるし、自分の授業料も払えて、学校の単位にもなるので“一石二鳥”と言いますかーー。

そこで出会った店長が仕事をする上での心構えだったり、チームとして人を束ねることだったりーー社員でもないアルバイトの僕にとても熱心に教えてくれて。

初めて、仕事をする時の考え方、楽しさや厳しさも含めて教えていただきました。

―考え方、楽しさ、厳しさーーどんなことを教わったんでしょうか。

その頃のアルバイトって、「言われたことをただただやっていればお金になる」っていう甘い考えが当時の僕にはあったんです。

他のアルバイトの子もそういう感じで働いてたと思うんですが、その店長は僕のことを気にしてくれていたのかーー「働くことに何の意味があるのか」といったことをよく聞かれました。

当時は、高校生ながらにそういうことを求められるのが苦痛で仕方がなかったんですが(笑)。

年齢関係なく、高校生の僕と真剣に接してくれた店長の存在はありがたかったな、と思いますね。

―お仕事以外のお話でも盛り上がったり。

そうですね。
学校が終わってから、夕方の5時から夜の10時までそのファミレスで働いていたんです。

今じゃあまり良くはないですけど、10時に終わってそのまま店長とご飯に行ったり(笑)。

そこで仕事のことも、いろんな考え方も教えてもらった濃い3年間だったな、と思います。

店長からよく「仕事って何のためにしてると思う?」って聞かれたんですよね。

「生活のため」「お金を稼ぐため」がいちばんかな、とはその頃の僕は思ってたんですが、それ以上に、チームがまとまって動くために「チームの一員として、自分の振る舞いがみんなにどう影響を与えていくか」とか、

そういった難しいことをいつも問われていたような気がします。

そのことで普段から、仕事の意味を常に考える癖がつきましたね。

僕が社会人になってからは疎遠になった時期もあったんですが、今は店長は定年して悠々自適に暮らしているみたいです。

たまに私が声をかけて一緒に飲みに行ったり、今でも付き合いはあるんですよ。

CHAPTER3

「自分でなんとかしないといけない」――そういう場に置かれて鍛えられたもの

自分でロジックをつくり、プログラミングし、システムをつくっていくーー思想や考え方をゼロから養っていく世界で

―その後はどんなお仕事に就かれたんですか?

子どもの頃から、「ゲームのプログラマーになりたい」「ゲームに関する仕事がしたいな」という思いもあって、

高校を卒業してからゲームデザイナーの専門学校に行ってみたんですがーーあまりのレベルの高さについていけなくて、1、2ヶ月ぐらいで辞めてしまって。

母に前払いで払っていた授業料も含め、母親からはだいぶ怒られました(笑)。

それで「もう働きなさい」、と。

ただ働くにしても、「やっぱり自分がやりたい仕事をしたい」と、システム開発の分野で未経験で雇ってくれる会社をハローワークで片っ端から探して、県内の小さいソフト開発の会社が僕を拾ってくれました。

 

そこで5年ぐらいかな、お世話になりました。

―未経験で入社されて、実際の仕事はいかがでしたか?

自分は新人だからなんでも教えてもらえると思ってたんですよね。

「わからないことがあったらなんでも聞いてな」って最初のうちは上司から言われたので、本当にパソコンのパの字から何でもしつこく聞きまくってたんです。

そしたら上司から「ここは学校じゃないから自分で調べてください」と言われ、「そらそうだろうな」、と。

当時はインターネットもなかったので、そこからは参考書を買ってひたすら調べましたね。

今であれば、「わからんことあったら言ってね」と僕も言う方なので、自分が持ってる知識を丁寧に伝えられるんですが、エンジニアの世界というのは、

自分でロジックをつくっていって、プログラミングして、システムをつくっていくーーそういった思想や考え方をゼロから自分で養っていかないといけないんですね。

なので、上司もストレートに答えを教えてはくれなくて。
当時は「知ってるのに、教えてくれないなんて意地悪やな」とか思ってました。

「自分でなんとかしないといけない」――そういう場に置かれて、思考力がだいぶ鍛えられたかなと思いますね。

物事を考える前に、なんでも聞いていた自分もいたので、今思うと「あえてそう言ってくれたんだな」と。
その上司に感謝しています。

―できあがっていくシステムや体系と、その人の思想はやはり重なる部分が多いんですね。新里さんは、その部分を養っていくのに、当時どういうものをインプットされていたんですか?例えば、本だったり、モデルのような何かがあったんでしょうか。

やっぱり高校生のアルバイトの時に教えてくれた店長とのやり取りが根っこにあるかもしれません。
「他力本願ではいけない」「自分で動かないといけない」っていうところは、その当時から考えさせられました。

いい意味でも悪い意味でも、人に期待しすぎて自分が動かなくなったら、それは意味がないんですよね。

プログラミングにしても、自分の頭で論理的に考えていくことが基本にあるので、問題が出てくる度に「どう改善したらいいんだろう」と考えて実践していくことを積み重ねながらやっていましたね。

CHAPTER4

システムエンジニアから、介護の仕事へ

生身の人間が相手になった時に知った、正解か不正解かはなく、その方に寄り添い、笑顔で過ごしてもらうことの醍醐味

―その後、システムエンジニア(S E)のお仕事から、介護業界に移られます。

当時、母親が家で祖母を介護していたんです。

「母の手助けになれば」と、エンジニアの仕事をしながら土日にホームヘルパー2級(当時/現在の介護職員初任者研修)の資格を取りに行きました。

ただ、仕事をしながら通うのはなかなか難しくて、結局資格を取るのに半年ぐらい時間がかかってしまったんですね。

資格を取り終わった頃には、祖母は亡くなってしまっていて。
活かすこともできず、モヤモヤしていました。

その時、S Eの仕事をしていた場所が病院だったんです。

その病院は規模の大きい医療法人で、病院だけでなく訪問看護の事業所やデイサービスもあったんですよね。そこで社内S Eとして、病棟や事業所にパソコンメンテナンスで行っていて。

デイサービスでメンテナンスをしていた時に、働いていたスタッフと利用者さんがリハビリで体を動かしながら、「めっちゃ動いてるじゃないですか!」なんて笑顔で喋っていたんですよ。

その瞬間を見た時、「こういう仕事もいいな」って。

せっかく資格も取れたことやし、20代はエンジニアの仕事をしたので、30代は人と接する仕事にチャレンジしてみたいな、とーーそこから有料老人ホームの仕事に転職しました。

―エンジニアから、介護。仕事の内容も全く違うかと思います。

そうですね。
エンジニアの仕事をしてる時というのは、“自分”対“パソコン”というかーー。

例えば、「こういうプログラムをして、実行したら、答えはこういうふうに返ってくる」。

自分が命令してるプログラムやから、答えは絶対にひとつなんです。
「1足す1はなんぼ?」って聞いても答えは「2です」しか返ってこない。

でも介護の仕事――特に認知症の方は、昨日同じ事をしていてうまくいっても、翌日にはうまくいかない。

そう考えると、「1足す1は?」って聞くと、今日は「2」って言ってくれるかもしれないんですが、次の日には「3」になったり、別の日は「4」になったり。

引き出しというか、回答が複数あるところが仕事として全然違うなと思いました。

でもそうやって生身の人間が相手になった時、質問に正解か不正解かを突き返すのではなくて、その方に寄り添って、納得してもらいながら、笑顔で過ごしてもらう。

昨日うまくできても、翌日にはうまくいかない。

それなら別の方法を考え対応する。

トライアンドエラーで繰り返していく。

ーーそういうところが介護の仕事の面白さなんだな、と思いましたね。

―違う業種で働かれる中で、違いや共通点などはありましたか?

有料老人ホームには介護未経験で入ったんですが、半年で「ホームのリーダーをやってほしい」と言われたんですよ。

周りは当然、10年、20年、30年のベテランの方や経験者が多い中で、いきなり未経験の若造が、入って半年で「リーダーお願いします」って言われた時にはめちゃくちゃ焦りました(笑)。

でもせっかくなので、「チャンスがあるんやったら、やります」と。

実際の現場業務はもちろんわからないことばかりだったので学ぶことだらけだったんですが、リーダーとして集団をまとめていく力というのは、介護に限らず、これまでやってきた仕事にも通ずるものがあったことに気づいたんですね。

例えば、介護の仕事をしていて、「とある利用者さんのケアをどういうふうにしていくか」という課題が見つかったとします。

そこで、みんなでケアミーティングをして話し合うんですが、いろんな人の視点も含め、何通りもいろんな意見を出してくれる方ばかりなんです。

それは、「合ってるね」「いやいや、間違ってるよ」というものではないですし、いろんな選択肢を出してくれる中で、

「その中で利用者にとっていちばん最善な手はどれだろうか」「着地点をどこに落として、進めていくか」というところをみんなで考えながら進めていくーー

例えば、Aさん、Bさん、Cさんがおって、話し合った時に「じゃあ、Cさんの意見を採用しよう」ってなっても、Aさん、Bさんの意見も話し合いの過程としてすごく大事だったと思うし、

「Cさんの案がうまくいかなかったら、今度はAさんとBさんの案を第2案としてやっていきましょう」ーーっていう話もできたり。

そうやって、リーダーシップをとってチームをまとめていく、という意味では介護もエンジニアも飲食も、業界が違うだけで通ずるところがありましたし、「これまでの経験を活かせるな」といろいろ思い出しながら働いていましたね。

CHAPTER5

エンジニアの20代、介護の仕事と出会った30代。じゃあ、40代はーー

40代、はじめての“医療的ケア”。「クライアントさんに喀痰吸引をさせていただいた時は、手が震えました」

―そこから、土屋に転職をされたのは、どんなきっかけがあったんでしょうか。

有料老人ホームには9年ほど勤務していたんですが、未経験から施設の管理者までさまざまな仕事をさせていただいて、すごく幸せやったし、人にも恵まれていたなと思います。

でも40代になってーー「じゃあ次、何するか」を考えた時に施設の介護を経験したら、「在宅の介護ってどんな感じなのかな」とはちょっとずつ思っていたんですね。

有料老人ホームの施設長をしている時、面接に来る方の中には、在宅で訪問介護を利用してた人もいらっしゃいましたし、訪問介護のいい面もよくない面も聞いたことはありました。

その中で、「じゃあ、どんな感じだったら、自分が訪問介護で働くイメージが持てるだろう」と考えてみたんです。

例えば、施設であれば、複数の利用者さんに対して同時に対応しますよね。

Aさんのトイレ介助をしながら、ナースコールで呼ばれて、Bさんのところに行かなきゃいけないーーとか。

でも訪問介護やったら、時間に追われず1対1で仕事ができる。

そんなイメージをしながら訪問介護の求人情報を検索していたら、“介護の仕事でも、年収1000万が叶えられる組織”というキャッチフレーズを見つけて、それが土屋だったんです。

「すごいなぁ」と、そこから興味を持って。

「自分のこれまでのキャリアも含めて活かせるかもしれないな」とチャレンジしようと思って、応募したのがきっかけでした。

―初めての重度訪問介護の現場。最初はどんなことを感じられましたか?

そうですね。
最初の半年ぐらいは1アテンダントとして現場の方に入らせていただきましたね。

やはり、目まぐるしくナースコールで呼ばれるようなことはなかったですし、1対1で長時間携われるところは施設と大きく違いましたね。

クライアントからしても見知らぬヘルパーと何時間も過ごさないといけない中で、アテンダントのコミュニケーションの取り方ひとつで、その場の雰囲気がガラッと変わってしまう。

だからこそ関わり方には気を付けないといけないんだな、とも感じましたし、その方と関われる時間そのものがすごく大切な時間なんだな、ということは支援を通して教えてもらいました。

それから、これまで僕自身の経験としてなかったのが医療的ケアだったんです。

施設では医療的ケアは看護師さんがやってくれるので、土屋に入って、実地研修をしてーー。

支援現場で初めてクライアントさんに喀痰吸引をさせていただいた時は、手が震えました。

でも、こちら側の緊張感も伝わりつつも、一生懸命やってる姿が伝わると、「ありがとう」だったり、アイコンタクトで感謝の気持ちを伝えてくれて。

「クライアントに対して誠実にケアを行うことがすごく大切なんだ」ということを学びましたね。

CHAPTER6

「自分ひとりの力って、ちっぽけなんやな」。介護って、チームで動かないとできない仕事

お互いに人の話をよく聞き、対話を重ねていくことーーこの仕事を続けていく中で自分の身を引きしめながらも、理解し、変わってきたところです

―仕事や生活の中で人と関わる時、新里さんはどんなことを大切にしていますか。

施設で働いていた時からそうでしたが、「人の話をよく聞くこと」ーーあたりまえの話なんですが、「しっかり傾聴して話をすること」ですね。

意見というのはそれぞれにあるわけですよね。

相手の意見を聞く前から、話を遮断して、「違うねん、これをこういうふうにやってほしいねん」って言われたら、誰も話を続けたくなくなると思います。

逆に自分の意見を言った時に、「そうなんや」「ほかに、こういうやり方もあるからやってみない?」なんてお互いに意見を言いあえる場をしっかりつくって、納得して進んでいくこと。

そこは今でも大切にしているところです。

―これまで介護や福祉の仕事を続けてきた中で見えてきたものーーそれから、ご自身が変わってきた部分があったら伺えたらなと思います。

20代のエンジニアの頃は自分の頭の中で論理的に考えて、コーディングして、結果を出してーー「自分がいかに動くかを考える」というところばかりやってきました。

でも30代で介護の仕事を始めた時に、自分の力じゃどうすることもできないことがたくさん出てきたんです。

「自分ひとりの力って、ちっぽけなんやな」っていうことがわかって、複数で、チームで動かないとできない仕事なんだなと思いました。

有料老人ホームで働いていた時、入居者さんと話をする中で、認知症の方でうまく言葉を発せられない方でも表情を見てやり取りをし、傾聴していくことも学びました。

チームで動くためにも、お互いに人の話をよく聞き、対話を重ねていくーーそれは自分の身を引きしめながらも理解して、変わってきたところです。

―支援現場から入られて、今は管理者になられています。見える景色も変わってくるのかな、と思うんですが、その辺はいかがですか?

実際に管理者になると、現場に入ることもだいぶ少なくはなります。
でも、この仕事はクライアントがいないと成り立たないんですね。

クライアントのニーズに応えて、そこでいただいた売り上げが、僕らのお給料になっている。

だからこそ、クライアントのいちばん近くで接しているアテンダントが一生懸命やってる姿を、僕ら管理者はしっかり評価していきたいと思ってます。

その中で、アテンダントが「土屋に入ってよかったな」と思ってもらえるような組織体制ーー働く人も笑顔で働けて、クライアントも笑顔で過ごしてもらえるような環境をつくっていきたいですね。

管理者になってからは、そういったところをよく意識するようにはなりました。

―ホームケアで働き始めてから、出会った人とか、出来事の中で印象に残ってるものがあったら伺えればなと思います。

先ほどの医療的ケアをした時の話なんですが、実際にクライアントに対して行う実地研修の手順が覚えられず、緊張して手順が飛んでしまったんですよ。

まわりの方は大体スムーズにできていたんですが、僕だけ合格できなくて。ちょっとへこんでた時に、上司に相談をしたらーーみなさん、お忙しかったと思うんです。

でも、「いいよ」って言ってくださって、実地研修の手順を何度も何度も繰り返し教えてくれました。

それがきっかけで、次の実地研修は1発で通りましたし、その後の実地研修も合格できました。

その時感じた、ホームケアの、チームの仲間意識というかーー困った時に相談したら、嫌な顔ひとつせずに親身になって相談にのってくれる。

そんな安心できるやり取りが本当にありがたかったです。

―お仕事や普段の生活の中で日々感じてる、嬉しさや喜びについても伺いたいです。

介護の現場の仕事ではクライアントや入居者さんから「ありがとう」って言われることが多かったですね。

エンジニアの仕事をしていた時は「ありがとう」なんて言われることはほぼなかったし、「やってて当たり前やろ」って言われる世界だったので(笑)。

生身の人間にケアをして、目の前で笑顔で「ありがとう」と言われることはすごく嬉しかったし、それが「この仕事ならではなんかな」って。

人と人との間で誠実に関わり、感謝の言葉をいただけることで、喜びややりがいを強く感じられています。

CHAPTER7

声を聞き合うことで、自分も会社も、一緒に成長していける

まずは自分自身が自分らしく働かないと。“土屋らしさ”は、ひとりひとりが自分らしく働くことできっと見えてくる

―ここまでお仕事の話をたくさん伺ったのでーーお休みの日は、どんなふうに過ごしてますか?

休みの日は大体、家族でドライブに行ったり、出かけたりですね。

小学5年生の娘がいるんですが、娘からよく「公園に行こう」って言われるので、一緒に公園に行って、ドッヂボールをしたり、体を動かしたり。

低学年の時は、ボールを投げる力も弱々しかったんですが、高学年になるにつれて受けると痛いぐらいのボールを投げてくれて。

こどもの成長を見ながら、楽しませてもらって過ごしてますね。

―今はゲームはいかがですか(笑)?

ゲームは……たまにです(笑)。

逆に娘がゲーム好きになってきていて、僕が10代、20代の時に持っていたnintendo DSの初代のものや、Nintendo wiiで今、娘がゲームをしてますね。

僕以上にすり減るぐらいやってますよ。

「宿題して、やることやってからやりなさーい」って嫁さんから言われながら、合間を盗んで娘はやってます(笑)。

―これからのところも伺いたいです。ホームケア土屋で、これからどんなところに関わっていきたいですか?

働く中で自分が大事にしているところでもあるんですが、自分の意見がしっかりと言えるような職場、風通しのよい組織にしていきたいですね。

何かあった時、「会社の方針だから」っていうひとことで終わるような組織じゃなくて、いいことも悪いこともしっかりと話ができて、相談しやすい環境というかーー。

アテンダントが、笑顔で、やりがいを感じて働いてもらえるような環境づくりをしていきたいです。

それから、重度訪問介護のサービスが広く認知され、障害のある方も施設という一択ではなく、在宅でも暮らせるという選択肢を持つことに希望を持てるような社会になっていけたらいいな、と思います。

―新里さんご自身はいかがですか?

「こんなふうにやっていきましょう」と同じ方向を見ながら、チームで動いていけるようなーー。

人に影響力を与えられる、と言ったら、少し大袈裟かもしれませんが、自分と関わる中で「一緒に仕事をしてよかったな」と少しでも思ってもらえるような仕事をしていきたいな、と思ってます。

―“自分らしく働くこと”や、“土屋らしさ”について、今みなさんに伺っています。新里さんにとっての“土屋らしさ”ってどんなところにありますか?

“土屋らしさ”についてはーーまずは自分自身が自分らしく働かないといけないかなとは思ってるんです。

自分にとっての“自分らしさ”って、「自分の気持ちに嘘はつかないことかな」と思ってるんですよね。
どんな仕事でも、いやいやする仕事ほど苦痛なことはないんじゃないか、と思っていて。

もちろん仕事をする上で、いろいろ思うことや、「おかしいな」と思うことは誰でもあると思います。

でも、そこに不満だけ言って話を終わらせてしまうのはすごくもったいなくてーーその中に仕事における課題や意味がちゃんとあるんじゃないか、と思うんです。

「不満としてあらわれてきた課題や問題を、どう解決していくか」にパワーを注いでいきたい。

その中で、自分ひとりの力で解決していくことが難しいのであれば、上司に相談したり、思いを聞いてもらうことはすごく大事かなと思ってるんです。

そして、現場に近いところでの課題や改善点をしっかりと上層部に伝え、耳を傾けて話し合いをしてくれるーー時に、それをきっかけに一緒に改善していき、会社も成長していける。

僕は、土屋は意見をしっかり聞いてくれる会社なんだな、と信じているし、一緒に成長していけると思ってます。

そこが“土屋らしさ”なのかな。3年働いて気付きました。

―最後にーー新里さんはなぜ、介護の仕事を続けられてきたんでしょうか?そこを伺いたいと思います。

続けていく原動力になっているのは、たくさんの笑顔や「ありがとう」と感謝の気持ちを言ってもらえたことだと思っています。

車椅子からベッドに移乗するだけだったとしても、その度に「ありがとう」ってーー入居者のおばあちゃんがよく言ってくれたのを思い出しますね。

そう思うと、ケアって“積み重ね”が大事なんだなと思います。

相手が生身の人間で、嬉しい時も辛い時も怒っている時も感情が伝わり、その状況で自分ができることは何か。

どのように接していくことがいいのかーーもちろん、「ありがとう」って言われたいから仕事がしたいわけじゃないんですが、ちょっとした関わりでもお互いを尊重できる。

そういった仕事って「介護ならでは」と思いますね。

それは、「ありがとう」っていう言葉やその時の笑顔がいつの間にか自分の中で蓄積されてきたから、今、こんなふう思えているのかもしれません。

介護の仕事を始めてもう13、4年になります。

いろんなチャンスにも恵まれましたし、目の前の仕事を一生懸命していたら、気づけば介護の仕事がキャリアとしてもいちばん長くなりました。

「きっと、この仕事が合ってたんだろうな」なんて今は感じてますね。

ここまで介護の仕事が出来ているのも周りのサポートや助けがあったからであり、人に恵まれているなと感じます。


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