定期巡回

定期巡回サービス土屋

城谷領

粕屋 管理者

真心を抑え込まなきゃこなせない、その場しのぎの「効率」にさよなら

 《interview 2026.02.03》

定期巡回サービス土屋粕屋で管理者として働く城谷領(しろたにりょう)。
こどもの頃、「人の役に立つ仕事をしたい」と願った少年は、ひょんなきっかけから高齢者介護の世界に足を踏みいれます。
そして施設での経験を経て出会った、訪問介護の仕事。
ひとりひとりとしっかり関わり、家族や地域、他業種のスタッフとチームになってクライアントの暮らしを守っていく在宅の現場に城谷は「これが本当の“介護”なんだ」と気付いたといいます。
“なんとなく“を重ねながらも、振り返れば偶然ではなかった城谷の選択。「地域で生きる人の力になりたい」と福岡県粕屋町を今日も飛び回る城谷の日常を訪ねました。

CHAPTER1

こどもの頃は田んぼや畑に行ったり、庭で焚き火して遊んだり

高校に入ってはじめたハンドボールは、今も続けています。ときには母校の高校生を呼んで、試合しながら教えたり。

―こどもの頃からお話を伺ってます。城谷さんが生まれ育ったのは、どんなところだったんでしょう。

生まれたのは長崎県島原半島のーー今だと携帯の電波も届かないぐらいの山奥です。

1991年に噴火した雲仙普賢岳の、ちょっと下ぐらいのところに住んでいました。

3歳ぐらいまではそこで祖父母に育てられて。
田んぼに行ったり、畑に行ったり、庭で焚き火して遊んだりしてましたね。

―どんなお子さんでしたか?

そうですね。
間の抜けたこどもというかーーヘラヘラしていて、すぐ転んで、鼻を怪我したりするような(笑)。

小学生の時は田んぼで野球したり、友達の家に上がり込んで、よく父親に怒られてました。

中学生になると、塾に行って、友達と一緒に勉強して点数を競ってーー陸上部に入っていたんですが、途中で顧問の先生が変わってしまって、その先生が厳しくてーーきっと若かったんでしょうね。

やる気を削がれて辞めちゃいました(笑)。

高校に入ってからは部活でハンドボールをはじめたんです。

最初は真面目に行ってなかったんですが、2年生の時に顧問の先生が変わって、その先生がしっかり指導してくれた。

ポジションも変えてもらって、そこから、「ハンドボール楽しいな」と思えて。

そのハンドボールを今も続けてます。

―今も続けてらっしゃるんですか!

先月は長崎の県民体育大会に出ました。

地元のチームに所属して、月1回、体育館の予約が取れれば、母校の高校生を呼んで、試合しながら教えたりーーを今も続けてます。

―ポジションはどちらだったんですか?

ポストというポジションでした。

ディフェンスの中に入って、そこで相手をブロックしてシュートの道筋をつくったり、パスを落としてもらって、近くからゴールを決めるんです。

私はとろいところがあるので、攻める方でシャカシャカ動ききれないんですね。

なので、裏でパスをもらって動く方が自分に合っていたのかな、と思います。

―こどもの頃と今と、変わらないところってありますか。

そうですね。多分、やさしいんでしょうねーー。

もちろん、反省とかはしますが、必要以上に落ち込んだりすることはなくて。

どちらかというと、ポジティブな方なのかな、と思います。

―「自分ってやさしいのかも……」と城谷さんが自覚したのっていつ頃でしたか。誰かから言われたり、ってことがあったんでしょうか。

あまり綺麗な話ではないんですがーー小学生の時に同じクラスの子が、急にバァーって嘔吐しちゃったんです。

で、気づいたら雑巾持って、「大丈夫?」と声をかけていて。
誰よりも先に動いていたことがありました。

特に意識はしてなかったと思いますが、そのあたりから言われ始めたのもありますし、女性の友達からも言われていましたね。

CHAPTER2

ずっと、先生になりたかった

保育短大に行ったけれど、保育園に就職する踏ん切りがつかずーー介護の仕事へ

私は元々教師になりたかったんです。

小さい頃は、「医者になりたい」「声優になりたい」と思ってもいましたが、中学、高校に入った時には「教師になろう」と思った。

その頃に“幼児教育”というものに出会って、先生に聞いたら「保育園の先生のことだよ」と教えてもらって、「それだ!」と。こどもが好きだったんですね。

保育短大に入学が決まってからは、高校を卒業するまでの3、4ヶ月間、ピアノを習いに行っていました。

それまでピアノに触れたこともなかったんですが。

保育では主に童謡を弾くので、楽譜を見て、何度も練習するんです。

こどもたちのことを想像しながら弾いていると没頭しちゃってーー放課後も練習して、家に帰っても練習して。

すごく楽しかったですね。
だから短大の2年間は、ピアノの記憶しかないです(笑)。

―音大だったんじゃないでしょうか(笑)。

(笑)。
その後、保育実習にも行って、地元の保育園からも求人があったんですがーー。

当時、保育の仕事って驚くほど給料が安かったんですね。
それでどうしても就職の踏ん切りがつかなかった。

高校を卒業してからは、福岡に出て暮らしていたんです。
ひとり暮らしして、仕送りしてもらって、ちょこちょこバイトしながら。

「就職しても福岡に残りたいな」って思ってた。
“就職決まってない組”で、福岡にそのまま残ってる友達が3人ぐらいいたんですよ。

いつも3人でつるんで「どうしよう、どうしよう」ってーー(笑)。いよいよ2月。

卒業間近で、就職課の先生に「どこかないですか?」って聞いて、教えてくれたのが、特別養護老人ホーム(以下、特養)の求人だったんです。

「じゃあ、そこを受けます」って受けたのが、介護の世界に入ったきっかけでした。

CHAPTER3

保育から介護へ、こどもから高齢者へ

高齢者との関わりーー今まで、それぞれに紆余曲折の人生があって、生活があって、今ここにおられるんだろうな、って

―実際に高齢者介護の世界に行ってみて、いかがでしたか?

そうですね。あまり抵抗はなかったですね。
多少、「おぉ」と思うこともありましたが(笑)。

最初の就職だったので、「そういうものだよね」って思えたところもあって。

―保育の勉強をされてきたところから、関わりが高齢者に移ったことはいかがでしたか?違うところがあるかとも思います。

「保育から介護へ」ってなった時は、特に思いというのはなかったんですね。

逆に、保育の時に、実習先のこどもたちがすごく可愛くて。

ただ、私はこどもたちの将来を勝手に心配してしまってーー「この子が大きくなって、悲しい思いをしたら嫌だな」なんて悲観的になってしまう部分があったんですよ。

今思うと、こどもを思うあまり、だったのかもしれません。
そういった意味でも、保育に行かなかった、というのはあるんです。

介護ではそういう思いを持つことはなかった。

今まで、それぞれに紆余曲折の人生があって、生活があって、今ここにおられるんだろうな、ってー―。

認知症の方とはその時、初めて関わりました。

―高齢者の方や施設運営に関わっていく中で、どんなところにやりがいを持っていましたか。

その特養は、300人規模の施設だったので、6フロアほどあったんです。

7年半働いていたんですが、その6フロアを異動してーーフロアごとに独特の風潮があるので、担当している間にそのフロアをいい方向に持っていけたところもあったり、持っていけなかったところがあったり。

そういったところにやりがいを感じていたのかな、とは思います。

それから、役職もさせてもらってたので、リスクマネジメント委員やレクリエーション支援委員といった委員会活動で、フロアのために貢献できたことはよかったなと思いますね。

役職者として、一般職との間に立って調整をするという経験もよかったと思います。

講義で伺った専門学校生のみなさんと。

CHAPTER4

自分を変えるには、環境ごと変えるしかーー営業の仕事へ

営業の仕事を通して培った言葉と接遇をもって、ふたたび介護の仕事へ

その7年半の間に、結婚をして、こどもも3人できました。
ただ、「人として自分には足りないところもあるな」っていうのもあって、「転職しよう」と思ったんですね。

福祉用具レンタルの営業の仕事をはじめたんですが、そこは給料が低くて、「生活が厳しい」となってーーそこから遊技機メーカーの営業に転職しました。

―ユウギキ?

「何?」ってなるでしょう。パチスロのメーカーです。
そこは1年弱ぐらいだったかな。

それから食品会社の営業をしていた時期もあります。

ただ、そこでも九州管内をずっと回っていて、楽しくはあったんですが、これまた「家族に迷惑がかかるな」と。

―単身赴任のような形で働かれてたんですか。

そうですね。
週末だけ家族が暮らす家に帰る生活をしていました。

それもあって、住宅型優良老人ホーム(以下、住宅型)の施設スタッフにーーまた福祉の世界に戻るんです。

それが2017年、32歳の時でした。

―営業の方に行かれて、また介護に戻ってくる経歴がユニークですね。特養から営業職に行った流れ、それから営業職をされてからふたたび福祉に戻ってきたところをちょっと伺えたらなと思うんですが。

そうですね。
まず、なぜ特養から営業に行ったかというとーー私はその頃、言葉遣いがすごく悪かったんです。

仕事はできていた方かとは思うんですが、利用者やスタッフとの接遇の部分ですね。

ずっと「敬語を使いなさい」と怒られてきて、ある時に「このままじゃいけないな」、とーー人として自分を「嫌だな」と思ったんですよ。

それなら、自分を変えればいい話なんですが、正直、「今さら変えられない」ところもあって。

「自分のいる環境ごと変えるしかない」と転職を決意したんですね。営業職となると、完全に異業種になりますから。

で、営業職をして、なぜまた介護の仕事に戻ってきたかというとーーここは20歳の時に特養に就職した時のように、“なんとなく”なんです。

―なんとなく……。

そうなんです。
当時、すでに介護福祉士の資格は持っていたし、「資格さえあれば、どこでも働ける」っていう思いもあって。

福祉系の人材紹介の会社に登録をして、紹介をされたのが住宅型のスタッフだったんですね。

―“なんとなく”というところが肝ですね。たとえば営業職をされている中で、城谷さんが「接遇の部分はしっかり学べたな」といった感触もあったんですか?

あったと思います。

福祉用具の営業の時は、ケアマネジャーさん向けに営業をしていたのでどこか業種的にも近しいものがありましたが、

その後の一般企業――遊技機メーカーもですし、特に食品のメーカーは上級職の方々とお話させてもらったり、めちゃくちゃ厳しいバイヤーの方を前に商品提案をする機会もありました。

それこそーー私ひとりでパスタを調理して、60名ほどのバイヤーの方に説明をしながら、試食をしてもらう、なんてこともありました。

それはめちゃくちゃ緊張しましたね(笑)。
言葉を選ばないと、「何言ってんだ、こいつ」ってなる。

言葉を短絡的に発してしまわないようにーーそこは営業の仕事を通して、すごく勉強させてもらいました。

専門学校での講義の様子

CHAPTER5

「これが本当の“介護”なんだな」――在宅介護と出会って

訪問介護を知った時、「こんなにしっかり関われるんだ」って思えたんですよ

―住宅型で働かれた後、訪問介護の仕事に移られたと伺ってます。何か変化があったのか、それとも“なんとなく”だったのかーーそこを伺いたいです。

住宅型で働いていた時、施設運営の観点から管理者をひとりだけ置いて、他の住宅型で働いていたスタッフは、同じグループ内の小規模多機能居宅介護か、定期巡回に異動をすることになって。

そこで初めて定期巡回――訪問介護を選びました。

―施設から訪問介護。きっと見えてきたものも違ったのでは。そちらはいかがでしたか?

最初は正直なところ、「訪問はやりたくないな」と思っていたんです。

グループ内で異動になったのは、入社して2年目が過ぎたあたりで、「まだこの会社で頑張ろう」と決めた矢先だった。

でも、訪問介護を始めてみたらーー正直な話、「これだけでいいの?」って思ったんですね。

というのも、私は最初に大型施設で働いたので、そこでは大部屋に4人の利用者がいらっしゃって、その4名のケアをひとりで、10分ほどで終わらせないといけなかったんです。

ある意味、流れ作業でやっていたところもあったので、訪問介護を知った時に、「こんなにしっかり関われるんだ」って思えたんですよ。

「ひとりに20分も使えるんだ」、って。

「利用者のベッドの高さを変えていい」という点も衝撃でした。

施設だと、利用者のベッドの高さを変えていると時間内に終えられないので、低いベッドはそのまま、ヘルパー側が膝をついて、オムツを変えるのが日常だったんです。

でもちゃんと、ヘルパー側が介助しやすい高さまでベッドの高さをあげられる時間がある。

慣れてきた時に、「これが本当の“介護”なんだな」ってーーそれは思いましたね。

もちろん、今までやってたきたのも“介護”だったんです。
でも、どちらかというと、“業務”だった。

そこに利用者の意志はなかったですし、私自身も思いを汲み取れてなかったところがありました。

訪問介護になると、1対1の関わりだったり、ご家族がいらっしゃるお家もあるので、そこでお話もできる。

シーツのしわもしっかり伸ばせる。
もちろんそれは施設でもやってたことなんです。

でも、ヘルパーも利用者も無言でやっていくことばかりだった。

だから「声をかけながらできるのが訪問介護なんだ」ってーーそこで初めて、「これが介護なんだな」って思えたんですね。

CHAPTER6

施設ではなく、地域に出て、地域の力になりたかった

「施設の管理者なら、私じゃなくてもできるよな」――かつての縁から土屋へ、そして定期巡回へ

―その後、土屋へはどんな流れで転職をされたんでしょうか。

土屋に転職する前に、別の訪問介護の事業所をもうひとつ経験してまして。

ただ、そこで在宅向けの訪問介護事業を閉鎖することになって、グループ内の別施設に異動するか、退職するか、という選択を迫られたんです。

住宅型での訪問介護事業は残すことになっていたので、会社の方からは引き続き住宅型での訪問介護の管理者をやってくれないか、という打診はあったんですが、正直なところ、「施設内での訪問介護の管理者なら、私じゃなくてもできるよな」、とーー。

「地域の力になりたい」という思いがその時には強くあって、やっぱり在宅に行きたかった。

それで、退職をすることにしました。

その時にーー住宅型で勤務していた時、今、定期巡回サービス土屋福岡の管理者をされている神﨑洋(かんざき ひろし)さんと出会っていたんですよ。

そこからずっと連絡は取り合っていたので、「粕屋事業所が管理者を募集してるよ」と教えてもらって、リファラルで土屋に入社したんです。

しかも、定期巡回事業だったので、そこはありがたかったですね。

訪問介護のみだと、やはり訪問介護の制度の限界があるんです。

たとえば週2回、水曜と木曜の朝の9時半から10時しか訪問介護を利用できなくて、他の日はデイサービスに行くけれど、夜は認知症のご夫婦2人だけで過ごすーー。

デイサービスのスタッフは家の中に入れてもらえない状況だったので、お2人がどんなふうに暮らしてるのか、知ることができない。

1週間経って、訪問するとーー部屋の中が散乱していて、どう生活してるのか、伺ってもわからない。

あざができてるので「転んだんですか?」と聞いても、ご本人も「わからない」と――。

訪問介護そのものはいいサービスだとは思うんですが、やはり縛りが強い分、そういう点で無力さを感じていました。

そこに定期巡回で声をかけてもらったので、本当に「渡りに船」みたいなタイミングだったんです。

―定期巡回はいかがでした?もともと関わっていらしたとは思うんですが。

そうですね。
業務自体は同じ定期巡回なので、大きく変わりません。

ただ、私がいちばん勉強になったというか、今、「楽しいな」と思えてるものに、事業所が主催する認知症カフェや専門学校に伺っての講義があります。

今、こういった活動をアクティブにやらせてもらえてるのは、土屋という会社の風土のおかげかな、と思いますね。

自由に、柔軟に、寛容に。

―そうなんですね。専門学校での講義はどんな繋がりから、できることになったんですか?

学校での講義は、前職で実習生を受け入れていたんですね。

転職をしてからも、その学校の先生との関係は繋がっていたので、「定期巡回サービス土屋粕屋でも次年度から実習生を受け入れられるように」と話を進めてもらっていた中でのお話でした。

専門学校の授業や教科書では、地域密着型サービスや定期巡回などの訪問介護系の仕事については、1ページぐらいしか触れられていないんです。

それもあって、やはり学生さんたちは介護施設や障害者施設に就職する子が多い。

学校の先生からも「訪問介護への就職は去年もゼロでした」と伺ったので、「まずは、学生たちに訪問介護の仕事を知ってもらえたら」ということで、今回、講義が実現しました。

―定期巡回のクライアントさんとはいかがですか。伺う中でのやり取りやエピソードなどがあったら、伺いたいなと思います。

そうですね。
先日、ご逝去されたクライアントがいらっしゃいました。

ご訪問の度に、深々と頭を下げてご挨拶をしてくださるようなご家族だったんですね。

ご逝去された後、なかなか連絡しにくいところもあったんですが、事業所の物品を回収する時に立ち会いをしていただいて。

そこでお話ししてくださったのが「土屋さんに来てもらってよかった」、とーー。

そのクライアントは、ご家族が在宅介護に不安があり、ホスピスに行かれるか、定期巡回で伺うかの選択を迷われていたんですね。

ただ、ご家族は「本人が『家に帰りたい』と言うので、最後にその願いを叶えたい」と仰って。

「一旦は在宅で。その後はホスピスへ」という方向で進めていたのですが、ご自宅にいらした時に容体が急変してしまって、ご自宅で最期を迎えました。

でも「その決断は良かった」って仰っていただけた。

お孫さん10人、ご家族みなさんが集まって、みんなでクライアントの最期を見送ることができたのは、土屋さんのおかげだ、とーー。

そう言っていただけたのは、本当に嬉しかったですね。

CHAPTER7

私がしてきた仕事は“ソーシャルビジネス”だったんだ

「社会課題にアプローチしていきたい」という思いは土屋に入って強くなりました

―ここからは城谷さんの価値観について、伺いたいです。この仕事は、人と関わるところが常にまんなかにありますよね。その中で城谷さんが大事にされてることを教えてください。

「相手を否定しない」っていうところは常に軸にあるかな、と思います。

相手の存在もですし、言葉や思いを否定しない、というところは根底にありますね。

「そういう考えもあるよね」ってーーもちろん、納得いかない部分も多少あったとしても。

それは意識してやっている部分もありますし、意識せずにやってる部分もあります。

―介護もそうですが、営業職も人に鍛えられる部分があるのでは、と思います。この仕事を続けられてきてる中で、ご自身が変わってきたところってどんなところでしょう。

そうですね。
思いはずっと変わらないんですがーー「家族のために働く」というところがいちばんなんです。

でも土屋という会社に入って、それと同じくらい「社会課題にアプローチしていきたい」という思いが強くなりました。

元々、「地域の力に」という思いはありました。

ただそれは、「地域に出ていくことが自分が好きだから」と思っていただけで、「働くとなったら家族がいちばん」だった。

―城谷さんの中で、社会課題への興味が進んでいったのにはどんな経緯があったんですか?たとえば、スタッフ間でそういう話を共有したり、研修を受ける中で、とかーー。

代表の高浜敏之さんが仰られた、“ソーシャルビジネス”という言葉は大きかったですね。

その話があったのが創業5周年記念イベントの時です。
「我々がやっている仕事はソーシャルビジネスなんだ」とーー。

その言葉は心に残りましたし、今まで漠然と「地域が、地域が」って言ってたところが結びついて、「これが自分がやりたいことなんだな」って理解ができたんですね。

昨日も認知症カフェがあったんですが、その中でも地域の課題が出てきたんですね。

たとえば「施設等でヘルパーが不足している」という課題があったとしたら、「選択肢のひとつに訪問介護を」ということも課題解決のひとつとして伝えられる。

そんな思いもあってのカフェでした。

プラス、大きかったのは三ツ橋直人さん(みつはしなおと/定期巡回サービス土屋サブゼネラルマネジャー)の存在でした。

私が粕屋事業所に来た当時は、三ツ橋さんがまだいらっしゃって、彼からいろいろ教えてもらったんです。

すごく人を認めてくださる方でした。

土屋に入って思ったのは、「相手に対する敬意がすごくある会社だな」ということでした。今まで感じたこともないぐらい。

私はもともと「アクティブには動きたいな」っていう思いがあるんです。

お互いに敬意があって、認めてもらえている環境があるからこそ、「今、自分らしく、フットワーク軽く働けているのかな」と感じますね。

2025年10月に粕屋町で行われた、認知症カフェ『おれんじカフェかすや』に集ったみなさんと。

CHAPTER8

これからーー“永遠にtry”することができる会社であるように

今、私が経験させてもらってる、この会社のフレキシブルさ、柔軟さはこの先もずっとなくしてもらいたくないんです

―ここまで、お仕事の話を伺ってきたので、別の話を。お休みの日はどんなふうに過ごされているのか、伺いたいなと思います。

そうですね。
直近までは休日となると、中学生の息子のサッカーの試合の応援に出かけていたんですね。

でも受験で引退をしてからは、今度は娘が中学でソフトボールをやってるので、そちらの応援に行ける時は行ってます。

土日は夫婦揃って、応援に行くか、あとはハンドボールをやったりーー自分の余暇活動はそんな感じですね。

―スポーツ一家なんですね。

そうですね。
長男はバスケをやってたんですが、途中で辞めてますが。

割とボールは好きな家族かな(笑)。
丸いものが好きなんでしょうね。

丸いものを追いかけるタイプの家族かな、と思います(笑)。

―これからのところも伺えたらと思います。「こういうことをやっていきたいな」とか「地域や社会の中でこんな役割を担っていけたらいいな」といったところを教えてください。

今、粕屋での認知症カフェは私がメインとなって動いているので、それは引き続き継続していきたいですね。

もともと、認知症カフェを始めるきっかけを作っていただけたのは三ツ橋さんでした。

このきっかけを大事にして、私はしっかり土台をつくって、事業所のスタッフと、これから入ってくるであろう人に繋げていけるような活動をやりたいなって思ってます。

今は「粕屋の城谷さん」でいいんですが、ゆくゆくは「粕屋の土屋さん」に育てていけるような。

―城谷さんのお話を伺ってると、言葉の先に大きいものを感じます。地域の話を伺ってきましたが、土屋という会社そのものも、10年、20年すると変わっていくと思うんですね。そこを今、それぞれの場所でつくってるところだと思うのですが、「こんな会社になっていったらいいな」「こんな社会になっていったらいいな」という思いはありますか?

会社ってーー長くなってくると、会社自体のルーティンができてしまうと思うんです。

もちろん、バックオフィスはそういうルーティンがあっていいと思いますが、事業所運営に関してはルーティンができてしまうと、「これはいいです/ダメです」とガチっと決まってきてしまうところがある。

でも今、私が経験させてもらってる、この会社のフレキシブルさ、柔軟さはこの先もずっとなくしてもらいたくないんですよね。

ずっと挑戦ができる会社――“永遠にtry”することができる会社であったらいいなと思います。

10年、20年先だろうと。

余談になるんですが、私の後輩が農家をやってるんですね。

祖父の時代から農家をやっていて、祖父の代はもともと稲をやっていたところに新しくブドウを始めました。

そして父の代では胡蝶蘭を始めましたーーそして、今、代替わりして、その後輩が何を始めたかと言ったらーー「国産のバニラビーンズの栽培」なんです。

―バニラビーンズって日本でも育てられるんですね…。すごい。

すごいですよね。他にやってるところがないんですよ。
先日、私もハウス栽培の様子を見せてもらって、感心しました。

その後輩は「自分の家系は、代が変わる時、常に新しいものに挑戦するんだ」、と。

それって“永遠にtry”ですよね。

その彼もこどもがいて、「代替わりした時は、こどもにも新しいものを見つけさせたい」、と。

こどもに「あれしろ」「これしろ」と言うのではなく、自分で見つけてもらいたい。

“try”って、人から指示されてやるものではなく、自発的にすることだと思うのでーー。

会社に対してはそんな思いでいますね。

社会に対してはーー団塊の世代の方たちが80歳を過ぎ、介護保険の利用者が多くなってきます。

ケアマネージャーやヘルパーの不足が言われていますが、私は在宅に関わってきているので、根底には「クライアントに、住み慣れた家で安心して過ごしてもらいたい」という思いは変わりません。

その思いをひとりでも多く叶えられるように、介護業界が賑わえばいいな、とーー。

もちろん、その見通しは楽観的なものではないと思いますが、そういう思いで続けていきたいですね。

CHAPTER9

後悔をゼロにすることはできない。でも「ここまでやってよかった」ってクライアントもご家族も誰もが思えるように

粕屋町という地域で、このサービスを提供できるのは私たちだけしかいない。だからこそ。

―福祉や介護の仕事をされてきて、それが“なんとなく”だったとしても、続けているということは体に向いていたり、自然に選んでたりっていうことがあると思うんです。城谷さんにとってこの仕事を続けている理由、原動力になってるものを最後に伺えればと思います。

そうですね。私は一旦、「好き」となったら、ずーっと「好き」なんです。飽きがこない、というか。

14歳の頃にB’zに出会ってから、今までずっとB’z一筋で来ました。もう26年になるんですが、B’zの曲は1日も欠かさず聞くぐらい大好きなんです。

先月末もライブに行ってきて。それが自分の原動力なんです。

聞いていると感銘を受けるというか、勇気づけられるところがあってーー。

先ほどから何度も口にしてる「永遠にtry!」という言葉も、実はB’zの『R E D』という曲の歌詞にあるんです。

私はやりがいという言葉はあまり使いたくはないんですが、営業職時代に「家族を養うために働く」と決めたところがあります。

だから、家族が原動力であり、その家族を超える原動力はB‘zである、という(笑)。

―B’zが超えちゃうんですか(笑)。

超えてます、もちろんそうです(笑)。
じゃあ、なぜ福祉なのかー―。

それは、自分がそうやって日々、元気をもらって生活してる分、誰かの役に立てないといけないよね、と思うところがあるからです。

元々、人と関わる仕事がしたかった。

小さい頃、「医者になりたい」と思ったのも、「人の役に立ちたい」という思いが強かったんだと思います。

これも余談ですが、私の父親は運送業をやってるんですよ。

だからなのか、車を運転する時、人を乗せていてもモノを運ぶみたいな運転をしていたように感じていたんです。

なので私は父の運転が苦手で、すぐ酔っていました(笑)。

そういうことがあって、小さい頃から「私はモノと関わるんじゃなくて、人と関わる仕事がしたい」と単純に思っていた。

その最たるものが、福祉、なのかな。

結局、どう頑張っても人にはかならず最期が来るわけでーー。

在宅介護を始めて、思いの部分としてずっとあるのは、「いかに後悔を少なくするか」だと思ってるんです。

もちろん亡くなってしまうのは悲しいことだし、生きている以上、仕方がないことではある。

でも「あの時、ああしておけばよかった」という後悔はクライアントにも、ご家族にも持ってもらいたくないし、私も持ちたくないんですね。

後悔をゼロにすることはできない。

でも「ここまでやってよかった」って思えることで、クライアントも、ご家族も、満足した最期を迎えることができるんだ、とーー。

そこが介護の仕事における役割かな、と私は思ってます。

特に在宅においては。
だからこの仕事を続けていけてるのかな、っていうことはありますね。

特に定期巡回は、他になかなかないサービスですし、粕屋町でも一事業所しかありません。

粕屋郡として見ても、粕屋町と、もう1事業所しかない。
粕屋町という地域で、このサービスを提供できるのは私たちだけしかいない。

だからこそ、住んでいる人たちのことを思って、いつも頑張れているのかな、と思いますね。

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