―その後、どんなことを学んだり、どんなお仕事をされてきたんでしょうか。
大学で東京に出て、法律を学んでいました。
もともと、私はおばあちゃん子だったんですよね。
小学生の頃は父も母も働いていたので、よく祖母の家に行って面倒を見てもらっていました。
その時によく祖母と「将来何になろうかな」なんて話をして——いつも冗談で「医者」「弁護士」なんて言っていたんですよ(笑)。
当時は「祖母が喜ぶ仕事に就きたいな」と思っていたところがあったんです。
今思えば、「(自分以外の)◯◯が喜ぶから」っていうのがその頃の自分の考え方だったんですね。
でも、祖母はその後、白血病になり、自分が16歳の時に亡くなってしまって——「喜ぶ人がいなくなるな」っていう思いがありました。
そんなこともあって、「おばあちゃんが喜ぶかな」「じゃあ、弁護士を目指そうかな」なんて最初は冗談で言ってはいたんですがーー法学部に進むことになりました。
でも心理学の授業を受けた時に「自分は法学ではなく、こっち(心理学)だな」と思ったこともあって。
その頃から児童福祉に興味が出てきて、たくさん本を読んだり——その後、最初に就職したのは特別養護老人ホームだったんですが、もともとは児童福祉や保育に興味を持っていて、若輩者ながら「お母さんたちが働きやすい環境を整えたい」「そのためにどうしたらいいのかな」をずっと考えていました。
それもあって、東京にいる時はさまざまな研修に参加していましたね。
自分自身も20歳前後でこどもなのに、“子育てアドバイザー”とか“チャイルドマインダー”の研修に参加したり。
参加者の中では最年少でしたし、“男性は私だけ”。
そんな状況でした。
―学校では学べないいろいろな分野の勉強をしていたというか——
当時は勉強だとも思っていなかったんです。
とにかく本を読むのが好きで、当時は電車に乗ってる時に、岩波新書や中公新書といった「新書」を読むことが習慣づいていたんです。
新書の中の知識って、実は最新の知識だったりするんです。
専門書は1万円ぐらいしますが、新書は700円ぐらいで気軽に手に入れられる。
そういった最新の情報を得ながら、自分にいちばん合致したものを見つけていく——そんなことをしていたんだと思います。
運よく保育士の資格も取得できました。
基本独学で、筆記試験はなんとかなったんですが、実技試験は大変でしたね。
楽器を弾く実技試験があって……私は音楽が苦手なので、絵を描く造形の試験と読み聞かせをする言語の試験でなんとか及第点ギリギリで合格できました。
試験官が3人ぐらいいたんですが、試験中、首をひねっていたので——「もうダメかもしれない」と思ったんですが(笑)。
―福祉の仕事ともその頃出会われたそうですね。
大学で東京に出たんですが、その時に自立支援センターで、重度訪問介護(重訪)のヘルパーとして関わり、そこで初めて障害福祉に携わりました。
当時はたくさん支援に入ってましたね。脳性麻痺や頚椎損傷の方だったり、ALSの方にも携わらせていただいて。
すごくいい出会いだったなと思ってます。
例えば——当時、関わっていたある脳性麻痺の方は政治活動をされていました。
その方は中央線沿いに住んでらしたので、そこから都心部までなど、よく介助しながら電車で行きましたね。
住まわれている地域の市長さんとも直接、よく話もしてましたし、講演会に参加されて国会議員さんと話す場にも携わらせていただきました。
「すごく精力的だな」と思いながら。
都心部で、車椅子で電車に乗って出かけるのはなかなか大変なんですが、その方とはいろんなところに行きました。
脳性麻痺の方の中には言語麻痺がある方もいらして、最初はこちらが聞き取れないこともあるんですが、ずっとやりとりをしていると聞き取れるようになるんですよね。
そういう関わりや関係を深めていった時間は、自分のその後の礎を築いていただいたな、と思います。
それから、頚椎損傷の方との関わりも印象に残っています。
当時、自分がものすごく若かったこともあるんですが、後天的に障害を持った方は、ヘルパーにも厳しいところがあったんです。
「シャツにシワをつけずに服を着させてほしい」と言われて、「どうやってすればいいんだろう」「もしかして嫌がらせでそんなふうに仰ってるのかな」——なんて悩みながらも、一生懸命取り組みました。
でも一生懸命やってるとなぜかできちゃうんですよね。
ものすごく勉強になりましたが、すごく難しかった。
そこで学んだ厳しさは、今の仕事にも繋がってます。
今もその方の顔が思い浮かぶことがあるので。
先天的に障害を持つ方と比べると、後天的に障害を持った方が持つ厳しさは障害受容の面の影響もあるのでは、と思います。
そこも含めて「慎重に対応すること」。
それから「軽はずみな言動はしないこと」。
いろいろ頭を張り巡らせながら対応していく、という行動が染み付いたのが自立支援センターでの経験でした。