介護事業部

介護事業部 ホームケア土屋

矢田良

和歌山南 アテンダント

この痛みはどこに通じているのか、この喜びはどこからやってきたのか

 《interview 2026.02.13》

もし、自分がこれまで感じてきた“心の痛み”が、別のだれかを支える力になるとしたら――。
過疎化の進む地域への事業所開設プロジェクトとして2025年11月にオープンしたホームケア土屋和歌山南。
その立ち上げから関わる矢田良(やたりょう)は、「人と何かちがう」と感じてきた10代、その後、こどもの存在や介護という仕事と出会いながらも、「生きてる意味がわからない」という日々を過ごします。
自身と向き合い続けてきた彼はその後、「心の痛みに寄り添える人間でありたい」という想いを取り戻し、人と、仕事と、そして自分自身と出会いなおしてきました。そして今、波紋のように広がる矢田の「想い」。
矢田の心を灯す、記憶と出会いを訪ねます。

CHAPTER1

外で遊んで、家では工作をして

10代の頃は、ギターの演奏に熱中して。

―こどもの頃からのお話をみなさんに伺っています。矢田さんのご出身は島根なんですね。

そうなんです。
島根県出雲市の、中心部でも端っこのところで生まれ育ちました。

山もあり川もあり、当時はあちこちに空き地もありましたね。

4、5歳の頃に両親が離婚していて、父子家庭だったので祖母と過ごす時間が長かったんですね。

なので祖母と散歩したり、車で公園に行ったり。
3人男兄弟の長男だったので、兄弟でボール遊びをしたり。

それから工作もよくしていましたね。
NHKで『つくってあそぼ』という工作番組があったんですが、それを楽しみにしてました。

牛乳パックやダンボールを集めて、番組に出てくる“わくわくさん”の真似をしてつくったり、折り紙もおばあさんと一緒にやってましたね。

そんな幼少期でした。

―その頃、なりたかったものってありましたか?

小さい頃はタイヤ屋で働いていた父親の後ろ姿を見て、自動車整備士とか――その頃から、モノをつくることへの関心が強かったですね。

それから大工さんにもなりたかった。
自分たちが小さい頃の憧れの職業って、大工が上位だったんです。

小学校1年生の頃に、家を増築するので、大工さんが出入りしていたので、それを手伝ったりして。

そういった体験も影響してるかもしれないですね。

―10代や中高生になってからは、どんなことに熱中されていましたか。

10代の頃は、ギターの演奏に熱中していました。
当時はGLAYやX JAPANといったバンドが好きで、曲をコピーしたり。

弾き語りもやっていたので、ひとりで黙々とギターの練習をしてました。

バンドを組んだのは大学に入ってから。
学園祭ではバンドで演奏もしましたね。

CHAPTER2

自分を必要としてくれた、“あすちゃん”との出会い

関わりを受け入れてくれたこどもたちの存在はすごく新鮮で、驚きでした

高校生の時は、バスケットボール部に入部していたんですが、続かなくって。

楽しさをあまり見出せず、部活をやめたんですよ。
通っていたのは工業高校だったので、授業の半分は機械系の専門科目。

そんなに勉強しなくてもよかったので、正直、時間を持て余していました。

その時に――叔母が児童発達支援センター(以下、センター)で看護師として働いていたんですが、「暇してるなら手伝いに来てよ」なんて誘われて、高校1年生の冬から行き始めたんです。

叔母からしたら「もしかしたら将来、何かにつながるかもしれない」みたいな意図があったかもしれませんね。

結果、それが大きな転機になりました。

そのセンターは、障害のある子たちが通う場、ということは叔母から聞いていたんですが、障害のある方に関わったことはそれまでなくて。

だから最初は「どうしたらいいのかな」って――。
こどもと関わることもほぼ初めてだったので、おそるおそる行ったんです。

最初に関わったのはダウン症の子で――その子がめちゃくちゃ可愛くて。

“あすちゃん“って呼んでいました。
人見知りもしなくて、絵本を読んであげると、僕の膝の上に座って聞いて、懐いてくれた。

通常の保育園だったら「満遍なく、いろんなこどもたちに関わってね」なんて言われていたかもしれません。

でもそのセンターでは、基本的に「矢田さんはあすちゃんと」ってマンツーマンで関われる環境をつくってくれたんです。

それが自分にとってはすごくよかった。

「そこに行ったら“あすちゃん”に会える」――トイレに連れていったり、ご飯の介助をしたり、人にそういう関わりをすることそのものがはじめての経験でした。

こんなにも楽しさとか、喜びを――そういう感情を今まで味わったことがなかったんですね。

すごく新鮮だった。

それまでは、将来、モノを相手にする仕事を考えて工業高校に通っていたんですが、“あすちゃん”との出会いがあって、「なんかちがうかも……」と――そこから、180度進路を変えて、保育士と幼稚園の免許の取得を目指して進学することを目標にしました。

―そこから、どんなふうに進路を変更されていったんでしょう。

高校の家庭科の授業では、保育実習もありました。
なので、家庭科の先生に「夏休みの間、1ヶ月くらいボランティアに通いたい」ってお願いをして、保育園も受け入れてくださって。

他の時期も幼稚園や保育園にお願いして、ボランティアとして関わらせてもらったり。

そんな感じで、ものづくりの分野から、こどもと関わる方に振り切った高校生活でしたね。

―矢田さん自身がこどもたちとの関わりに強く惹かれたのは、どんなところだったと思いますか?

単純に心が動かされた――そんな感じだったんです。
やりがいもあるし、心がすごく喜ぶ感覚もあって。

こどもたちに引き寄せられたような感じです。

僕は、20代半ばを超えてから、自分のこれまでの人生を振り返ったことがあるんです。

その時、幼少の頃、両親が離婚していて、母親っていう大きな存在が近くにいなかったからこそ、寂しさをずっと感じてきたことに気づきました。

「人とちがう」――そういう感覚がずっとあったんですね。
当時、まわりで両親が離婚している家はあったかもしれません。

でも、こどもの頃はそれがわからなかった。

「自分の家だけ、どこか特別」「うちだけ何かが欠けてる」――そういう疎外感みたいなものをずっと感じていたんだと思います。

それから、中学校の頃、いじめを受けていたことがありました。

学校に行けば罵声が飛んできて、今まで友達だと思ってた人たちが急に離れていく――。

その頃は弟たちも荒れていた。

そんな状況の中で、「自分までおばあさんに迷惑かけれないよな」っていう思いもあって、「行きたくないけど、行かなきゃいけない」って思って学校に通っていた時期があります。

今から思えば、その頃、いろんな症状が出ていました。
当時はわからなかったですけどね。

強迫性障害とか、チックとか、緘黙(かんもく)と言って何も喋らなかったり――。

学校では「何考えてるかわからない子」って見られていたので、本当に孤独でした。

僕は割と心が繊細な方だったので、そういう感覚を感じやすかった部分もあったと思います。

だからこそ――こどもたちが自分の関わりを必要としてくれる、近寄ってきてくれる、笑顔見せてくれる。

学校での関わりとのギャップが大きかったんじゃないかな。関わりを受け入れてくれたこどもたちの存在はすごく新鮮で、驚きでした。

CHAPTER3

「人の心の痛みに寄り添える人間でありたい」――“人生の師匠”との出会い

それまで蓋をしてきた感情を感じ直した時、孤独感や疎外感といった“痛み”が自分にとってはものすごく大きいものだった

―矢田さんからは質問への回答をインタビューの前に書面でいただいたんです。「ご自身にとってのターニングポイント」について伺った欄に“人生の師匠との出会い”と書かれています。その方とはどんな出会いがあったのか、伺いたいです。

そうですね。

当時、人との関係を築くことがどうもうまくできませんでした。喋らないし、人の気持ちもわかってない部分もあったと思うし、人と打ち解けられない。

人に対して、常に壁を1枚隔てたような距離感があって、仕事もうまくいかない時期でした。

ネガティブな話になってしまうんですが――「生きていて、なんの意味があるのかな」「どうやって生きていったらいいのかわからない」。

そう感じていた時に、たまたま出会った方でした。

当時、帝王学っていうジャンルの勉強会があったんですね。

組織や人生をより良くしていくためのリーダーシップや人間性、倫理観などを身につけるための学問です。

自分がそんな状況だったので、「少しでも良くなれば」という思いで参加した会でした。

そこで講師の方から、物事の捉え方だったり、考え方や生き方――「人として、どう生きることが大事なのか」といったことを教わったんです。

僕は父親に育てられてきてはいるんですが、父親もずっと仕事で忙しかったし、愛情の注ぎ方もその世代特有というか、割と厳しかった。

「もっとこうしなきゃダメだ」「今のお前にそれはできない」――そんな言葉をかけられて育ってきたので、その頃の自分にとって父親は、父親であって、父親でないように感じていたところがありました。

でもその講師の方は、親身になって話を聞いてくれ、父親のような愛情で受け止めてくれた。

「これまで起こってきたことをどう捉えるといいのか」といったことを考えさせてくれた。

血はつながってないけれど、自分にとっては父親のような存在になりました。

―その方から学び、関わっていく中で、今までの人生を振り返ったり、起こった出来事の捉え直しをされた――ということですか?

そうです、そうです。

先ほどもお伝えしたように、それまでの人生の中で心を痛める体験がいくつかあったんですが、当時は「そういう経験をした自分は、生きていてもしょうがない」と捉えていたところがありました。

でも、その方に出会って、痛みを乗り越えるために、感情に蓋をしてきたことに気づかされたんですよね。

ずっと“感じている自分”を否定してきた。

たとえば――当時の自分って状況説明ばかりして、「本当はこういうことを感じてる」ということを一切、人に言わなかったんです。

それに、自分でも今どういう感情でいるのかがよくわからなかった。

でもその方に指摘していただいて、両親が離婚したタイミングとか、いじめを受けたタイミングで、本来の自分じゃない自分を生きてきた――そのことに気づいたんですよ。

そこから、「じゃあ、本来の自分って何がしたいんだろう?」を考えるようになりました。

そうやって、それまで蓋をしてきた感情をもう一度感じ直した時――孤独感や疎外感、寂しさっていう“痛み”が、自分にとってはものすごく大きいものだった。

その時、「そういった感情を感じている人たちは世の中にきっとたくさんいて、そういった人たちの心の痛みに寄り添える人間でありたい」と心から思ったんです。

その時、すでに介護の仕事はしていて、「自分と同じように、寂しさや孤独感を感じながら過ごされている方が多くいらっしゃるんだな」ということを感じてもいました。

「だったら、この道で『しっかりやり切った』って思えるところまでやろう」、って。

最近は通えてないのですが、年に数回はお会いしていて、私にとっては今でも、“人生の師匠”というかなんというか――どう表現したらいいかわからないですね(笑)。

でも、そんな存在です。

CHAPTER4

関係性って、自分次第でいかようにでも変えられる――母との再会が教えてくれたこと

時に出会い、離れ、さまざまな感情と関わりの中で、お互いの存在を愛おしいと思えることができたら、「それっていいよな」って――。

―ターニングポイントのところに、もうひとつ、「お母様との再会」についても書かれていますね。

母とは、4、5歳の頃から離れて暮らしていて、その後、一度も会っていませんでした。

自分はずっと「会いたい」っていう気持ちも強かった。
でも、どこにいるのかわからなくて。

先ほど話した“人生の師匠”に出会う前なんですが、ちょうど結婚するタイミングで、ある人から母親のことを尋ねられたことがありました。

そんなきっかけもあって、「このまま母親と会わずにいたら後悔するかもな」と思って、探すことにしたんです。

役所に行って、「こういう事情で、母親の居場所を探してるんです」と。

役所の方から「隣の街に移られてます」って教えてもらえたので、隣街に向かったんですね。

そしたらその途中で、めちゃくちゃ綺麗な2重の虹を見たんですよ。

「これって、『会え』って言われてるのかな」――そんな不思議な気持ちにもなりました。

その街に着いて、同じように役所に行って相談をしたら、母は元の家に戻っていることがわかりました。

教えられた住所に行ったら――小さい頃に母親と少しだけ過ごしたことのある、記憶の中のアパートとまったく同じだったんです。

「自分が育った家のすぐ近くにずっと住んでたんだ」って。

それでおそるおそるピンポンをして――。

母親が出てきたんですが、あたりまえですが、僕のことがわからず、不思議な顔をしていたので「矢田良っていいます」って言ってー。

そこでお互いに、20数年ぶりに再会しました。

これでよかったよかった、めでたしめでたし――で、終わるかと思ったんです。

その後、母親とやり取りする中でうまくいかなくなったことがあって。

人間関係もですが、経済的な面もうまくいってなかった。
結婚したばかりだったし、これからこどもも生まれてくる――。

すごく辛かったし、「こんなことになるなら、会いに行かなきゃよかった」って思いましたね、あの時期は。

その頃に先ほど話をした“人生の師匠”と出会って。
「両親に感謝を伝えに行きなさい」って言われたんですよ。

でも、それだけは絶対にしたくなかった(笑)。

「父親もハードル高いけど、母親なんて尚更、どんな顔して会いに行けばいいの?」――そんな感じだったんです。

でも、「人生がそれで少しは良くなるんだったら」――そんな希望を持って、ひとりで会いに行くのは怖かったので、生まれたばかりの長男を連れて母のところへ行きました。

母親も最初は戸惑った様子だったけど、僕の手元にはこどもがいる。

それで、「あの時はごめん、困っていてどうしようもできなかった。でも、こどもが生まれたから会いに来た」って。

「自分もだけど、この子が生まれてきたのはお母さんが産んでくれたからだから。ありがとう」って伝えたんです。

そこで、自分たちの小さい頃の話を聞いたんですね。

それまで僕はずっと、「母親に捨てられた」って思っていたんです。

でも母の話を聞いたら、当時、父方の家族との関係がうまくいかなくて、家を出て行かざるを得なかった。

「でも、こどもたちをどうにかしたかったから、一旦は連れては出たんだけど」――それが、僕の記憶にある、あのアパートだったんです。

結局は、こどもたちと別れて暮らすことになり、「会いたかったけど、ずっと会えなかった」と――。

そういう話を母の口から聞いて、自分の中の記憶が書き換わった。

僕は「母親から愛されてなかった」ってずっと思ってたんです。

でも、自分が愛されたい愛され方ではなかったかもしれないけど、「母親からも、父親からも、ちゃんと愛されてたんだな」っていうことを強く感じて。

それからは、毎年、年末に連絡して、会いに行ってます。
それで、「いつもありがとね」って伝えてます。

今年も、年末に会えそうなので会って話をしようかな、って。

母親とは、一度切れた縁が、今またつながって、こうして年に数回ではあるけど会えてるんです。

そういう経験があって、「何があっても、自分次第で関係性っていかようにでも変えられるし、いろんなことがあっても、相手を受け止めることが人との関係性をつくっていく上では大事なのかな」って思うようになったんですよね。

そういった関わりの中で、お互いの存在を愛おしいと思えることができたら、「それっていいよな」って――。

CHAPTER5

次の10年、介護のキャリアを積み上げるとしたら……

クライアントと関わる土屋のスタッフの姿を見て、可能性とか希望みたいなものを感じたんです

―介護の仕事を続けていく中で、土屋に転職することになったきっかけや流れについて、聞かせてください。

前職では、短時間の訪問介護に10年ほど携わってきました。

そこでは、知的・身体・精神等さまざまな障害をお持ちの、お子さんから終末期の高齢の方々の支援に携わってきたんです。

ALSの方の支援現場を立ち上げたり、支援の難しい現場にも関わってきましたが、印象に残っているのは――境界性パーソナリティー障害をお持ちの利用者で、地域の病院や事業所、公共交通機関から利用を断られ、孤立した生活をされていた方がいらしたんですね。

支援中に、ヘルパーに向けて厳しいことを言われたり、電話も長時間に及んだり、そんなことがありました。

利用者に寄り添うだけの支援では継続して関わることが難しく、ご本人が望む生活の実現のためには時に厳しい言葉を伝えるなど、向き合う必要があった。

でも、その先に――先ほど話をした“母との再会”で得た気づきは、仕事にもつながっていて――お互い信頼し合える関係性を築くことができたんです。

結果、相談員や行政からも「ここまで支援が継続できたことは、これまでなかった」といった声をいただけましたし、ご本人からも「矢田さんは頼もしいね」なんて言っていただけたのは嬉しかったですね。

一方で、重い障害や疾患、精神障害の影響で、感情のコントロールが難しく、攻撃的な言動が出てしまったり、要望が必要以上に細かかったり――携わるヘルパーが離脱してしまうばかりの現場もありました。

でも自分は性格上、受けた依頼は断りたくないし、「利用者やそのご家族の期待に応えたい」っていう思いがあった。

なので、ヘルパーの方たちに利用者の背景を伝えたりもしていたんですが、スタッフが離脱していく現状は止められなくて――いつしか「これってしょうがないことだよな」と無意識に諦めていたところがありました。

ある時、近所でホームケア土屋 島根が立ち上がって。

そこで当時働かれていた管理者の方が、力を尽くしてA L Sのクライアントの支援に入る――そんな姿勢で関わられていたんですよ。

訪問介護のスタッフとして関わる傍らで、その姿を見て、「こういう関わり方もあるんだ」って思った。

可能性とか、希望みたいなものを感じたんです。

その後、土屋の高浜敏之代表(たかはまとしゆき/代表取締役 兼 CEO最高経営責任者)が『異端の福祉』を出版されたので、その本もすぐ買って読みました。

「土屋っていう会社はどんな考え方なのかな」「何を大切にされてるのかな」――そういう思いで読み進めていた時、「クライアントが住み慣れた地域で、家族と安心して暮らし続けることができるように尽くしたい」といったことが本の中に書かれていて、自分の思いと共鳴する感覚があった。

「自分もこんな介護がしたい」「モヤモヤが解消されるかもしれない」。

そういう感情が内側から湧いてきたんです。

ただ、当時働いていた訪問介護事業所は6、7年ほど勤めた頃で、「中途半端に投げ出して進んでもよくないな」「やりきってから次に進もう」とは思っていたので、土屋に興味は惹かれながらも、「10年間は今の会社で一生懸命やろう」って思いながら続けてきました。

そうして10年経った時――目標にしていた役員にまでなったんですが、「次の10年は、自分の仕事観に合う働き方をしていきたい」っていうことをお伝えして、退職をして。

次の仕事を探し始めた時に、土屋のホームページを見たり、このTSUCHIYA MEMBER‘s STORYを読んだりして、「次の介護のキャリアを積み上げるとしたら、ここしかない」っていう思いでエントリーをして、土屋に入社したんです。

―土屋に入社し、訪問介護から重度訪問介護(重訪)に移られてからは、いかがでしたか。

重訪に移った時は、正直、不安もありました。
でもやってみたら、「チャレンジしてよかった」とすごく感じましたね。

今までモヤモヤしていた部分が解消されていく感じ――「自分がやりたかった介護ってこういった形だな」っていうことを日々、感じられたので。

「転職してよかったな」って思います。
土屋は、理念の部分を大事にして、その発信にも力を入れているところがある。

だから同じ気持ちで働いている仲間が全国にいるのを感じられて、「うれしいな」って思います。

CHAPTER6

和歌山へ――“へき地”と呼ばれる場所で、重度訪問介護事業所を開設するということ

重訪について、「聞いたことはあるけど、検討すらしたことがない」「提供してる事業所がないから」――現状では、そんな声が聞かれます

―土屋に入社されてから、ホームケア土屋和歌山南の開設に関わられることになります。

2025年4月に入社をしてすぐ、まずはホームケア土屋 大宮に転勤になりました。

その中で、星敬太郎さん(ほしけいたろう/土屋ケアサービスカンパニー副代表・スーパーバイザー)と小川力信さん(おがわりきのぶ/ホームケア土屋関東ブロックマネージャー)と直接、お話する機会があり、ホームケア土屋和歌山南が新設されるという話を伺いました。

その時点で、自分は高浜代表と星さんの対談記事を読んでいて、“へき地”と呼ばれる地域でホームケア土屋の事業を新しく展開することは知っていたんです。

お二人からは「島根に帰るという選択と、和歌山でチャレンジするという選択があるとしたら」というお話をいただいて。

「和歌山一択です」ってお伝えしました。

―事業所運営や関係性をゼロからつくっていかれている中で、事業所の現状や、実際にどんなふうに支援が行き届いてないか、聞かせてください。

重訪は、他の地域もそうなんですが、指定は受けていても実際にサービスを提供してない事業所がある、という状況が多いです。

現時点では、和歌山県南部も同じ状況で、サービスが提供されてる実績はほぼありません。

相談員さんたちはもちろん、利用者やご家族も、重訪についてよく知らない方が多く、「聞いたことはあるけど、検討すらしたことがない」「提供してる事業所がないから」――そんな声が聞かれます。

介護職に関わる方も60代、70代の方がほとんどで、短時間の訪問介護事業でもアテンダントの確保がとても難しい状況です。

土屋も、事業所はありますが、安定してサービス提供ができるためのスタッフがまだ揃ってはいないので、まずは人材確保に取り組んでるところです。

関係機関へ挨拶に回っていて、アテンダントが揃った時点で改めて、「サービス提供できる体制が整いました」と報告に伺いたいのですが――そこらへんは難しいですよね。

「アテンダントはいるけれど、ニーズがない」「ニーズはあるけれど、利用したい人がまだいない」っていう状況が続いてもよくないし、逆に、ニーズはあっても、アテンダントがいなければ事業所運営はうまくいかない。

アテンダントが揃いそうなタイミングと、ニーズが上がってきそうなタイミングを見計らいながら、というところです。

―アテンダントに関してはどんな形で募集をかけているんですか。

数ヶ月前からウェブで求人を出してはいますが、エントリーはありません。

他の地域だったらホームケア土屋の認知度とウェブ求人で、立ち上げから採用が叶っている地域があるんですが、和歌山南ではその方法が通用しないんだな――っていうことを痛感してます。

今は方法を変えて、地域の公民会で開催されている社会福祉協議会主催のイベントに行って話を聞いてみたり、求人チラシをポスティングしたり、「私たち、11月からこういった事業を始めました」と近隣店舗にご挨拶に伺ったり。

ハローワークのお仕事相談会の中で、ホームケア土屋の時間をつくってもらったり――何が採用につながるかわからないので、思いつくことをなんでもやってみてますね。

―ニーズそのもの、小さな声は聞こえてきていますか?

そうですね。
医療的ケア児のお母様が立ち上げた法人があって、医療的ケアを必要とされている当事者の方はいらっしゃいます。

別の当事者のお母様からお話を伺ったところ、現時点では70代のヘルパーの方が足を引き摺りながら来てくれている――といった現状だそうです。

それから、「高齢の方で重度の障害を持つ方はいらっしゃるけれど、サービスが届いていない」という声も聞きます。

切迫感を感じるのは強度行動障害をお持ちの方です。

入所施設も通所施設も定員いっぱいで、空きが出るまではご家族が大変な思いをしながら一緒に過ごされている、という話も伺いました。

「重訪は強度行動障害の方も対象ですよ」とお伝えすると、とても驚かれます。

今後、少しずつ土屋の存在、重訪という制度を知っていただいて、ご利用につながっていったらいいな、と思います。

CHAPTER7

どこに向かうかによって、今までのやり方が適さないなら別の方向に舵を切らないといけないことがある

いまだに伝えることに怖さもある。でも伝えていくことが自分のためでもあり、相手のためでもあり、ひいてはクライアントや会社のためでもあるから

―もともと矢田さんがお持ちの部分も関わってくると思うのですが、人と関わる時にどんなことを大切にされているのかを伺ってみたいです。

自分の持って生まれた性格は――今、こういう機会なので自分の話をしてますが、基本的に人の話を聞くことがほとんどです。

それから、先ほどもお話ししたんですが、自分には繊細なところがあって、だからこそ「この人は何を感じているんだろう」「何を手伝えば、この人の望みが叶うのかな」っていうところを無意識に拾ってしまうところが今もあります。

人って、何人かいれば、それぞれにちがう思いや考えがあると思うのですが、それを汲み取りながら、「自分が何をすればすべてがうまくいくのかな」を考えて立ち振る舞う――調整役として動くところが、先天的なものとしてあると思いますね。

へき地支援も「自分ひとりでやりたい」というよりも、「星さんの思いがどうしたら形になるのかな」っていうところをサポートしたい気持ちが結構大きいんです。

その上で、意識的に大切にしていることは、「自分の正しさは一旦脇に置くこと」ですね。

人それぞれに正しさを押し付けあったら、争いが生まれてしまう。

相手の主張は何か、価値観は、考えは……まずはそれを受け止めることを大事にしてます。

―その上で伺いたかったのが、「時に相手の言動が望む未来の実現に結びつかないと感じたら、自分の考えてることを率直に伝えることを大切にしている」と書かれています。既にある関係性の中で、そこを切り拓いて伝える難しさ――この一文を書かれた背景を伺いたいなと思いました。

これまで、職場での経験や人間関係を通して、いい関係性を築いていくために、話を聞いたり、気持ちに寄り添ったり、共感したり――そういったことを大事にしてきました。

一対一のプライベートな関係であれば、そういう中でお互い楽しく心地よく過ごしていけばいいんだ、と思います。

でも、一組織として何かの方向に向かっていく時、「それだけじゃダメだよな」って感じたんです。

共感や傾聴だけだと何も変わらない。
現状維持ばかりが強まってしまうことがあると思うんですよね。

「じゃあ、どうしたらいいのかな」と考えた時に――どこに向かうかによって、今までのやり方が適さないなら、別の方向に舵を切らないといけないことがある。

そこは恐れずにやらないと、組織が向かいたい方向と、なしたいことが形になっていかない――っていうことを感じたんです。

でもそれって、組織だけじゃなく個人も一緒だよな、って。

「こうしたい」という思いを持っていない人に対しては、そういう関わりはしません。

でも、たとえば「自分が働いている介護業界をよくしていきたい」っていう思いがある人がいて、それを僕も聞いていたとして、でも目の前では職場の愚痴を言っていたとしたら……業界は一向によくならないですよね。

そういう場面を見た時――突然「それっておかしいんじゃない?」って言っても相手も受け入れ難いと思うので――「『業界をよくしたい』って言ってたから、思うことを率直に伝えても大丈夫?」って合意を得た上で、

「今の言動って、自分にとっても周りにとってもいい影響にならないんじゃないかな」って伝えることは意識してます。

本当は伝えることに躊躇する気持ちもあったり、いまだに怖さもあるんです。

でも、伝えていくことが自分のためでもあり、相手のためでもあり、ひいてはクライアントや会社のためでもある――と感じているので。

CHAPTER8

「こんなに相手に寄り添えたり、優しさを持てる仕事って他にどれくらいあるだろう」――介護を仕事にする、という“誇り”

「心の痛みを感じる人が、ひとりでも少なくなるように」。和歌山南プロジェクトへの希望と可能性

―最後に、これからのところを聞かせてください。ホームケア和歌山南で関わっていきたいこと、そして土屋の、介護業界のこれからについて伺いたいです。

先ほどお伝えした通り、自分の中では、人の孤独感や疎外感、寂しさといった心の痛みに寄り添うことをしていきたいですね。

今の仕事は、たまたまいただいたご縁なんですが――いわゆる“へき地”と呼ばれる地域は和歌山南だけじゃなく、日本全国各地にあります。

都市部から離れ、医療や介護支援へのアクセスが限られていて、クライアントやご家族が出掛けられない状況やその状況を理解されない現状がある。

でももし、和歌山南で成功事例をつくることができたら、全国で同じように支援を展開できる可能性があるわけで――必要としている方で介護を受けられない人たちが生まれないように、このプロジェクトがさまざまな形で、さまざまな方面に波及していったらいいなと思いますね。

病気や障害のない人は、あたりまえにたくさんある選択肢の中から、自分らしい暮らしが選択できます。

でも障害があったり、病気を持っているからって、極端に選択肢が狭まってしまう現状、自分らしい人生が歩めない社会があることに、僕は怒りに近い感情を感じるんです。

それによって心の痛みを感じてしまう現状って「なんかおかしい」って感じるので――。

自分の原点はそこかな。
寂しさだったり、孤独感を感じる人がひとりでもいなくなるように。

そのきっかけが和歌山南のプロジェクトであって、心の痛みを感じる人がひとりでも少なくなるように、という希望と可能性を持って取り組んでいるところです。

もうひとつは「介護業界を明るいものにしたい」っていう思いがあります。

自分もそうだったかもしれないんですが、「介護でもやるか」「介護しかできない」といった、消去法で残った選択肢として介護職を選ぶ人って多いと思うんです。

でも、そういう思いのまま介護の仕事をしていても、本人はもちろん、ケアを受けるクライアントやご家族も決して幸せになることはないだろうな、とも思っていて。

もちろん、きっかけはなんでもいいと思うんですよ。

「介護でも」「介護しか」っていうきっかけだったとしても、この仕事に携わったご縁があったとしたら――出会った人との関係性を大事にして、「自分っていい仕事に関われているんだな」と思えるところまでやってもらいたい気持ちがあるんですよね。

僕は、介護って誇りある仕事だと思っています。

国の制度として報酬が決まっている中で、決して「たくさんの所得が得られるからこの仕事をやっている」っていう人はほとんどいないと思っていて――そんな中で、「こんなに相手に寄り添えたり、優しさを持てる仕事って他にどれくらいあるのかな」って思うんですよね。

関わりによって、自分自身も心が満たされたり、楽しさや喜び、やりがいを感じる。

クライアントやご家族もケアを受けることで心が癒されたり、安心したり、「自分の人生をもうちょっとどうにかできるのかな」って前を向くことができる――“できる”って言ってしまうと、おこがましいんですが、自分たちが関わらせていただくことで、そのきっかけになったらいいな、って。

そういった姿が、他の業界にも「人と向き合うってどういうことなのかな」「人と接する時、何を大事にしたらいいんだろう」「人に優しくするってどういうことなのかな」っていうことを考えたり、気付いていくきっかけを与えられる可能性があると思っているので。

僕は土屋の仲間たちと、そういった働きをしていきたい。
「日本で“介護”っていったらホームケア土屋だよね」。

「自分たちで、介護業界をよくしていこう」って――そういう影響が、いろんな人や他の業界にまで及んでいったら、すごく幸せだなって思います。

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