《interview 2023.10.27》
ホームケア土屋 福山で管理者を務める宮崎 真。これまでアパレルや飲食の仕事をしてきた宮崎は「福祉や医療の世界も、好きなお店に行くみたいに事業所を選べるのが当たり前になったらいい」と話します。宮崎が、家族と出会い、娘の体を思い、日々を過ごす中で「選んできたこと」とはーー健やかに、そして楽しく生きる日々を語ります。
介護事業部 ホームケア土屋
福山 管理者
介護事業部 ホームケア土屋
福山 管理者
ホームケア土屋 福山で管理者を務める宮崎 真。これまでアパレルや飲食の仕事をしてきた宮崎は「福祉や医療の世界も、好きなお店に行くみたいに事業所を選べるのが当たり前になったらいい」と話します。宮崎が、家族と出会い、娘の体を思い、日々を過ごす中で「選んできたこと」とはーー健やかに、そして楽しく生きる日々を語ります。
CHAPTER1
和歌山で生まれ育ち、「とにかく遊んでばかり」の子ども時代を過ごした宮崎。
その後、大阪に移り、岸和田の高校を卒業後、上京し、アパレルの専門学校に入学。22歳の時、海外のハイブランドを取り扱うセレクトショップに就職し、東京・代官山で働き始めます。
販売職になったのは、服をつくるまでのプロセスを代弁するのが好きだったのかなと思います。例えば、お店には日本に一着しかない、なんていう商品も入ってきて。インポートだったので、サイズが日本人に合わないから、肩も腕も直せるところを直して売るのがすごく快感でしたね。
当時はハイブランドーーマーク・ジェイコブスとか、アレキサンダー・マックイーンとか、他にも店舗で取り扱ってないものも含めて、ちょっと尖ったデザインのブランドが好きで。既製品にはないデザインでした。
その中でも一番好きだったのは、ラフ・シモンズーー今、ユニクロのデザインなんかもしてるデザイナーでーーというブランドで、僕も10万、20万出して、その服を買っていました。それが後の依存症とも繋がるんですが、自分が生きていて絶対に得られないものを身につけるーーそんな興奮があったなぁと思います。
ラフ・シモンズの服は、バンドや、俗に言うメディアに出ている人たちからインスピレーションを受けたデザインが多くて。普通の人間ってそんな服、なかなか着れないじゃないですか。でも洋服とか音楽って、同じ服を着たり、同じ音楽を聴くことで、あたかも同じ場所にいるような錯覚を得られるものだ、とも思っていました。
当時のラフ・シモンズの服は、無駄を省いたデザインがとにかく衝撃的でした。時代も、着飾っていた時代から、削ぎ落とされたミニマルなデザインが出てきて、そんな服を着るとーー例えば、僕は今も髪を染めているんですが、そんなことしなくてもーー“雰囲気が出る”。
洋服を買いに来たお客さんには「どういうものが好きなのか」「どういう人間に見られたいか」「どんなふうになっていきたいか」という話を聞いて、洋服を勧めていたな、と思います。今から思えば、お客さんのことを少し馬鹿にしていたところがあったのかもしれません。
当時、自身の姿がファッション誌に掲載される等、華やかな一面もあったという宮崎。一方で、東京での生活は経済的にも厳しく、半年、同じ服を着て店に立っていた時期もあったそうです。
その後、アパレルに勤めながら、焼肉屋でのアルバイトを始めます。ある日、焼肉店に知人が訪れますが、“黒いポロシャツにバンダナ”というチェーン店の制服を着た宮崎に、知人が気づかなかったーーという出来事を通して、宮崎は「所詮、着飾ってただけだったんだな、と気づいた」と言います。
着飾ってただけだったんだー―という言葉には、「着飾ればどんな人間にもなれる」っていう逆のニュアンスもあるんです。2000年代は、いろんなファッションが出てきて、僕はその時々で服装をハシゴしていました。
「ギャル男」「お兄系」から「Bボーイ」にいって、ファッションを変えるごとに違った友達ができて、まわりの代わり様が楽しかった。すごく軽いんですけどね、表現としては。でもたったそれくらいの行動――「今日、身につける服をどれにするか」――で、相手の反応が変わるのが面白かったのかなと思います。だからこそ価値があったというか。
ただ、一人の人を大切にするーーみたいなことはできなかったですけれど。でも、いろんな人にはいろんな面白さがあるので。自分がいろんな立場に立ってみることは良かったのかなと思います。
CHAPTER2
その後、宮崎は結婚し、2014年に女の子が生まれます。
2歳を過ぎた頃、子どもが体調を崩すようになり、調べてみたところ、OTC欠損症(オルニチントランスカルバミラーゼ欠損症)という難病であることがわかりました。
初めて子どもを20代で授かりました。子どもってーー僕が想像してた赤ちゃん像よりも可愛かったんですよね。イメージしてたものより、ずっと。帝王切開で生まれたこともあるのかもしれないんですが、子どもが小さい頃は、いろんな友達に会わせて、飲み会にも連れて行って、街へ繰り出して、仕事も頑張ってーーいい時期がありました。
その後、子どもの具合が悪くなって、それだけじゃないんですがーー物事がうまくいく時もあれば、いかない時もあって。うまくいかない時って、そういうことがドドッとやってくるんですよね。
それから子どもが入院を繰り返すようになっていくんですが、あっちの病院に行っては、こっちの病院に行って……でも結局、病名も、どうしたらいいかもわからないので、何も残らない。不安と焦燥だけが積もっていった時期でした。
その流れを断ち切ろうとして、ディズニーランドに行ったり、東京らしいことをしようってなって。その中で、奥さんの実家がある広島県・福山市に戻ることが決まって……でも、どんどん、『なんでかな?』という思いが自分の中で強くなってきて、仕事に逃げるようになりました。帰れるけれど、帰らない。パチンコ屋に行ったり、漫画喫茶に寄ったり、そういう嘘に人を付き合わせようとも思えなくて、一人でいる時間が増えて。東京にいた最後の時期です。
そんな気持ちのまま、福山に帰ってきたので、あまりいいふうにはならなくて。とはいえ、福山に戻って早い段階で子どもの病名がOTC欠損症であることはわかりました。
遺伝性の病気だったんです。親からの遺伝だ、ということで当然僕らも検査をしたし、姪っ子・甥っ子たちにも、両親にも関わってくる。遺伝子検査をする、しない……という話をしたり、病気そのものも、対応もどうしたらいいのかわからないことがたくさんあって、解決するというより、問題に向き合うこと自体がなかなかしんどかったのを覚えてます。
OTC欠損症って、突如発症するんですよ。肝臓が今までは動いていたけど、ある日を境に動かなくなる。いつどうなるかわからないから、検査をしてわかることは事前に知っておいた方がいいんじゃないかーー。最初はそんな気持ちで話していたとしても、特定の誰かへの責任論にもなりやすくて。福山に来てからすぐは、いろんなことがうまくいかずに『検査なんてせんでいい』なんて話ばかり出てましたね。僕自身は、それでますます向き合うのが嫌になっていくーーそんな感じでした(笑)。
奥さんと子どもは福山に戻ってからはずっと広島の病院に入院していました。子どもはまだ単語をいくつか話すくらいで、病院では、入院している先輩お姉ちゃんたちに連れられて、歯を磨いてる動画なんかを毎日送ってくれて、やり取りは毎日してましたね。
そこから何度か入院することになるんですが、徐々に入院期間が長くなってきて。当初は内科的治療(*)だったんです。OTC欠損症は先天性の病気で、生まれた時は健康に見えても、突然発症することがある。一度発症すると投薬を調整しながら肝臓の機能を調べるために「これを食べたら、肝臓の数値がこれくらいになる」っていう検査や実験のような日々を送るんです。「嘔吐したから、注入はこれくらいのスピードにしよう」っていうふうにどんどん進めていってーー半年ぐらい経ったら、ほとんど何も食べられなくなっていました。
その後も、落ち着いたら退院して、でもまた悪化して入院して、の繰り返し。人間の体っていろんなところが繋がっているので、どこかが悪化すると、別の箇所で症状が出てくるーーうちの子の場合だと腎臓等、他の臓器に負荷がかかって「次はその症状に対する薬を飲みましょう」となるので、医療的ケア児の薬が多いという状況は、そういった複層的な側面がかなり大きいと思います。ただ、薬に関しては、一概に否定はできない部分もあるので、受け止めていくしかないかなと思っていました。
*内科的治療
手術を行って患部を治療することを主とする外科的治療とは違い、薬剤投与を専門とする治療を指す。
CHAPTER3
OTC欠損症は、本来は尿といっしょに排出されるアンモニアを、体内で分解することができず、血中濃度が上がって起こる「尿素サイクル異常症」のひとつ。
OTC欠損症は、本来は尿といっしょに排出されるアンモニアを、体内で分解することができず、血中濃度が上がって起こる「尿素サイクル異常症」のひとつです。8万人に1人の割合で起こると言われており、日本でもまだまだ症例が多くはありません。宮崎の家族は、ゆらぐ命と、情報の不確定さの中で、一歩ずつ歩みを進めてきました。
子どもと奥さんが入院していた広島の病院は子どもに優しくて、院内の保育士さんの能力値も高いし、環境も整備されていたので、病院での時間はキツくもあり、でもおそらく奥さんにとっては変えがたい時間でもあったのかなとは思います。
ただ、それをいつまで続けるのか、終わりが見えなかった。入退院を繰り返す中で、ある時、初めて「肝臓移植をすれば状態が落ち着く。治ることはないけれど、症状が落ち着く可能性があるよ」という話を聞きました。ただ、小児の移植は例が少なくて、当時は手術をするなら、京都の病院に行くか、東京の病院に行くかで、家族3人で京都に話を聞き行くことになったんです。で、当然なんですが、行ってみたら「手術をしたらこんなことがある」という、いいことばかりをたくさん聞きました(笑)。
病院というのは「A病院に行ったら、A病院の管轄。B病院にいるならB病院の管轄」というふうに分けられていて、京都でも「一体、この先どうなってしまうんだろう」なんて思いながら話を聞いて。
でも、内科的治療を続けても、いまのままだとお肉でいうと本当にサイコロくらいのサイズしか食べられないけど、肝臓移植をすることでうまくいけば食べれるようになるーーもちろん、お酒は飲めないですけど(笑)ーーっていう話を聞いたら、家族では「そっちのチャンスに賭けてみたいよね」って。うちの子は、京都に行った当時も、ほとんど食べれない状況が続いてたんじゃないかな。毎日、注入ばかりしていた気がします。
僕自身が肝臓移植のドナーになることは、結構、簡単に決めちゃったんですよ。遺伝が奥さんから来てるものだったので、親族内でドナーに該当するのは僕しかいなかったし、それ以外だとドナーを待つことになるので、手術が何年後になるのかもわからない。そう考えると「自分がやるべきだな」と思ったのと、さっきも話したように、その頃は僕自身が自暴自棄になっていた部分もあって、「こんな自分でも役に立てるなら」という感じでした。決めたことに対しては、まわりの人も親も含めて色々言ってはくれたんですが、正直なところ、あまり耳に入ってはこなかったですね。「だってしょうがないじゃん」って。
手術は、前日から泊まって、子どもと同時に手術室に行って、僕が8時間、子どもが16時間の手術で。僕から肝臓を取り出して、繋げる時間があるので、子どもはお腹を開いた状態で待ってる。でも、ここで驚いたのが、京都に話を聞きに行った時に手術を担当してくれる予定だった生体肝移植の権威的な医師が直前に異動になって、「別の病院に行くから手術ができない」って。これはマジでビビりましたね(笑)。
でも結果、やるしかなかったので手術をしました。十何時間経って意識が戻って起きたら、「子どもも無事に手術が終わったよ」って言われて。僕の場合はすぐに歩けたので、車椅子を使ってI C U(集中治療室)に行ったんですよ。そこで管だらけの子どもと再会して。でも、その時は何も感情は湧かなかったですね。「手術、うまくいったんかなぁ」ぐらい。
その後、しばらくして、子どもの方は後遺症というか、血管がねじれてついちゃってた。そのせいで何回か危ないところまでいって、もう一回手術して……その後も京都の病院に半年から一年弱、入院していたと思います。
でも入院の最後の方は、子どもも一人で歩いて手術室まで行くような状況でーーそれを見て、涙が止まらなくて。泣いてる僕を見た奥さんから「泣きたいのは、あんたじゃないやろ」って怒られたのを覚えてます(笑)。
だからまぁ、なかなか情けない父親でした。僕自身の経験としては、高度医療っていう世界を初めて目にして、正直、手術前は「思った以上に、手術室ってちゃちいんだな」とか、「こんなこと、人間がしていいのかな」とは思いました。禁忌というかーー「これは、人間の手に余るような行為なのかもしれない」と思いながら、麻酔が効いていった感じです。
CHAPTER4
2020年、宮崎は、重度訪問介護の仕事をスタートし、仕事として介護や障害福祉に携わるようになります。
「もともと、『こうしてあげたい』という思いがあるわけではなくて、『どんな人も自分の選択をしっかりできる世の中がいいな』って。それは飲食やアパレルに勤めてる時から思っていたんです」と話す宮崎。福祉分野においてはまだまだ、外部環境によって、選べるはずのものが選べない現実があります。
当時、ギャンブルやお酒等の依存症になって自暴自棄になっていた自分を引き戻してくれたのは、子どもだったと思います。“自分が必要である”っていう状況にならざるを得なかったのが、かなり大きいですよね。一般家庭と比べて、というわけではなく、純粋に肝臓を提供したこともあるし、遠くの病院に行くなら付き添い運転がなければ行けないという点でも子どもにとって僕が必要だった部分がいろいろあったので。
当時を振り返って、一番反省しなきゃなって思ったのは、自分一人でバタバタしないこと。本当に、一人でバタバタすると、ろくなことにならないなぁ、と(笑)。
例えば、お金のことや、自分が仕事を休んだらどうなる、とか。20代の頃から責任感を持ってやってきたように思うんですが、ずっとその気持ちでいると本当に余裕がなくなる。昔はもっと、自分はいろんなことを変えられる人間なんだーーってどこかで思ってたんですよね。例えばアパレルに勤めていた頃によく言われたのが「朝、トイレ掃除をしたら売れる」とか。そんなことから日々をつくっていかないといけない認識があったんですけど、やっと今――例えば、右に行く、左に行く、どっちを選んでもそんなに変わんないんだな、って気づいて。
それよりは、「右に行くなら、その理由はなぜなのか」を自分で話せたり、自分に落とし込める要素を作って、作ってから進めばいいだけだった。でも、当時は一人でバタバタ考えすぎていたな、とはすごく思います。これは今、自分に向き合い出してからわかってきました。
これは一過性の考えかもしれないですけど、僕が育った家は、親の「こうあるべき」がとても強いところがありました。例えば、「おならをすると汚い」なんて言われると、子ども心に「おならはしちゃいけないんだ」と思ってしないようにしてた。おそらく、感受性の強い子どもだったと思うんです。
そういう気持ちを出せないうちに、幼稚園の時にうんちが出来なくなっちゃったことがありました。結局、何日も我慢して最後、漏らしちゃうーー。当時は「便秘が原因だ」なんて言われたんですが、まわりの言葉をすごく気にしていたんだと思います。
母親はセンスの良い人で、僕が10代の頃に聞いていた音楽にダメ出しするなんてこともあって。僕にとって、母親と話すには「いいセンスを身につけるしかない」と思い込んで、世の中の“センスのいいもの”をえらい必死にかき集めていたところがありました。
でもねぇ、今思えば、どっちだっていいじゃないですか(笑)。そんなふうに、気づけばまわりからの目を過剰なほど気にする人間になってました。それが環境が変わる時――中学、高校に行った時、いい方に作用しなかった。人が好きなものを自分がもともと好きなもののように言ってしまったり、人が好きなものを心から否定してしまったり。
感受性の強さから、結果的に傲慢な人間になっていったと思うんですよね。もちろん、自分の経験って変えがたいものだと思うので、「こっちを選んだから、どうなった」なんてないとは思うんですけど、ただ人から受け取った感情は、なかなか忘れられなかったので。
選択についてはーー例えば障害って、つまるところ、社会的課題じゃないですか。自分の外部に原因があって、障害のある、なしに関わらず、それぞれの背景があって悩んでいる人はたくさんいると思う。だから、すべての人が同じように選べるわけではないこともわかっているんですが、せめて「今日はこっちにしよう」とか、選んだ答えが大きく変わらなかったとしても、自分で選んだことで「あぁ、こうだったんだな」って納得して、楽しんで生きていることが健康なんだな、と今は思うので。
みんなが選べるような世の中になったらいいな、と思う以上にーー「みんなが、他人に流されないで、好きな方を選んだらいいのに」って思いながら生きている感じですね。
CHAPTER5
現在、お子さんは9歳。容態も安定し、地元の小学校に通う日々を過ごしています。
現在、お子さんは9歳。容態も安定し、地元の小学校に通う日々を過ごしています。
退院して、療育幼稚園に入ったのが5歳の時だったので、園には一年ぐらいしかいなかったんです。集団生活を全然やってない中で、通常学校に通うのは不安でした。ただ、経管栄養のチューブが付いている以外は至って会話もできる。
でもその頃の僕は、「医療的ケアは必要であっても、健常児である」という状況が意外と結びついてなかった。例えば小学校に入ってから、放課後等デイサービスを紹介してくれた相談員の人からも「まわりは寝たきりの子が多いからつまらないと思うよ」なんてアドバイスももらいました。
一体、何が正解なのか、全然分からないまま、小学校に行ってましたね。そんな中で、小学校が看護師さんを雇ってくれて、卒業するまでの6年間、注入等の対応をしてくれることになったんです。校長先生も理解のある方で、対応を悩んでくれて、全校集会で「こういうお友達が入学しました」って話してくれたし、その後、「全校生徒の前で話すことがいいのか悪いのか」という議論もしました。
僕自身はまわりの子に「うちの子に合わせてもらうのは申し訳ないな」っていう思いもあったり。でもなるべく、ちっちゃいことを気にせず、「何かあったら、その時考えればいいんじゃない」と思うようになって入学した感じですね。
子どもって、チューブがついてたりすると、ガン見するんですよ(笑)。
これは学校でも、公園でも、どこに行ってもそうで。うちの子も、殻にこもるような状況もありました。まぁ、大人から見れば「至って普通の小学生の反応かな」とは思うんですが。そこは「どうしたいのか、外したいんだったら胃ろうもある」とか、子どもとその都度話しながら。でも、受け入れてくれる人もたくさんいて。3、4年生で世話してくれる女の子がいるんですよね。本当にいろんな人に世話になりながら、なんとか通ってます。
たまに突然、一人で帰ってきたり、小学校に通ってないとできない経験をしてくれているので、それはすごくいいなと思います。当然、入院時代にYOU TUBEやゲームをして過ごしていたので、最近ももっぱらYOU TUBEとゲームーー子どもも奥さんもめちゃくちゃインドア派でーー日々楽しんでます。運動はとにかく疲れる。勉強に関しては「できる部分がある」って本人も思っているようで、楽しそうにしていますね。
最近は「パパ、ちょっとうざい」なんて言ってくれて、それに喜んでます(笑)。
CHAPTER6
2021年、「医療的ケア児及びその家族に対する支援に関する法律」が施行されました。
2021年、「医療的ケア児及びその家族に対する支援に関する法律」が施行されました。
現在、土屋は、社会課題である医療的ケア児を取り巻く環境を考える委員会活動を準備中です。その中心となるのが、宮崎が所属するホームケア土屋 福山のメンバー。
宮崎が、医療的ケア児の親として見てきた現状や環境は、どのようなものなのでしょうか。
今でも思うし、当時はもっと思っていたんですが、病院にしても相談支援事業所にしても、みんな個々で動いているんですよね。でも、医療的ケアが必要な子の親になって思うのは、「ワンストップのサービスがあるべきだな」、と。
肝臓移植の時の話もその例のひとつなんですが、そうでないとあまりにも「うちは○○」、「でもこっちでは○○な話もある」という個別の話になってしまう。僕らの時も、のちに問題になってから初めて聞く話がすごく多かった。でもそれってーー“選択”じゃなくて、ある意味、“誘導”なんじゃないかな、と思います。
親としては、「AとBとCの選択肢があるよ」という話をもう少し広い知見のもとに話してもらえたらよかったな、とは思います。そういうネットワークを作ろうとしてるのだと思うんですが、それでも、まだまだ先は遠い。結局、福祉に限らず、仕事もサービスも、みんな属人化していきますよね。
もちろん、飲食であれば「このお店が好き」「この人が好き」という部分は、探す楽しみもあって、個人的には好きなんですよ。でもことこの“医療”や“福祉”の世界に関しては、そういった情報の重要度があまりにも違って、命に直結することなので。扉を開けたら、もっともっと他の機関や病院とがつながって、広い視点の中で、たくさんの人の話が聞けるような環境が一番欲しいな、とは思います。
もし、同じような境遇にある方に向けて、自分が言えることがあるとしたら、焦らないで、いろんなところに手を伸ばして、支えてもらっていけばいいのかなと思います。少しずつ、少しずつ。
母親に本を勧められてから、なぜかわからないんですけど、僕は乙武洋匡さんがずっと好きなんですよ。僕自身は依存気味――というか依存症なんですけど、乙武さんが言ってる「自立とは、依存先を増やすこと」。この言葉がとてもしっくりきています。一部に依存することは、あぶない。だからどうか、「今すぐ何かしなきゃ」じゃなくて、長い目で少しずつ情報を集めていって、日々を楽しくやれるのがいいんじゃないかな。そのことが、おそらく“選択”にもつながってくると思うので。
今、仕事でも医療的ケア児のいるご家庭にたくさん訪問しているんですが、その中で見えてきたこともあります。例えば、両親が離婚しているご家庭があります。子どもが医療的ケアが必要になった時、離婚率が上がるんだそうです。
それは僕自身も理解できるところがあります。やっぱりお父さんって、身体的に出産を経験している母親についていけない部分があるんですよね。母親が子どもを思うモードに、どうしても同じ速度でなれないというかーー。
もちろん、お父さんってすぐに役に立てない部分があるとは思う。でも父親側も、飲みに行っても家のことを放っておくんじゃなくて、「何時に帰るよ」なんてちょっとした約束を、日々、奥さんとやり取りするだけでも関係性は変わってくるんじゃないのかな、そうやって家族のことも少しずつ少しずつ、一人で抱えずに、話し合いながらやっていくのがいいのかな、と今は思います。