デイホーム

デイホーム土屋

柴田 絢

西日本エリア エリアマネージャー

「人材」って何を指す?生きてつながり合う人として、お互い「そうだよね」と、ほぐれる気持ちをもって働くには。

 《interview 2024.5.31》

人が働き続けるとき、その仕事のかたちや関わり方は、個人の人生の出来事やライフステージによって変わっていきます。デイホーム土屋の西日本エリアで、エリアマネージャーとして働く柴田絢(しばたあや)もまた、結婚、出産、自身や家族の状況とともに仕事のかたちを緩やかに変化させてきました。今、彼女がいちばんに想うのは、自分と仕事を支えてくれている家族の存在。“人”と出会い、“人”によって運ばれてきた介護という仕事と歩み、長い時間をかけて育んできた柴田の“つながり”を巡ります。

CHAPTER1

小さい頃からお年寄りと関わる機会が多かった

日本舞踊は挨拶に始まり、挨拶に終わる。それから、ものを大事に扱うこと。小さな頃に身につけた所作

柴田は、熊本県天草の出身。子どもの頃は、「よく喋る子だったんじゃないかな」と言います。

柴田「すぐに電話をかけて『◯◯ちゃん、いますか?』と誘って、人の家に遊びに行ったり。あとは、あまりうまく泳げるわけではないんですが、育ったところが海と近かったので、海に遊びに行ったり、貝を取りに行ったりしていました。天草の海は観光地にもなっていて、今はイルカウォッチングで有名なんですが、当時はおじちゃんの船に乗せてもらったついでにイルカが見れて――そんな感じで遊んでいましたね。

3歳か4歳の時から中学3年生ごろまでは日本舞踊を習っていました。敬老の日には慰問に行ったりもしましたし、練習する場も周りにいるのは年配の方たちばかりで。今、『なんで介護業界に入ったのかな』と考えると、はっきりした理由は出てこないんですが、小さな頃からお年寄りの方たちと関わる機会が多かったことも理由にあるのかな、と思います。

日本舞踊は母の勧めで通っていたんです。身についたのは礼儀作法ですね。最初にお稽古を始めるときは挨拶から始まって――正座をして、先生への挨拶に始まって、最後も挨拶に終わる。先生から指導していただくときも正座をして、しっかり話を聞く。踊る時には扇子や傘を使うので、ものを大事に扱うこと。

着物のたたみ方も、稽古終わりに母から教えてもらっていました。この前、母の家に行った時も、部屋の片付けをしていたら当時の扇子が出てきたんです。母が当時のものを大事に取っておいてくれてたんですね」

小さい頃から年配の方に囲まれていたという柴田ですが、自身の“おじいちゃん”“おばあちゃん”とはどんな思い出があったのでしょうか。

柴田「母の祖父母は福岡にいたんですよ。大きな休みの度に天草まで遊びに来てくれて、『じいちゃんとばあちゃんに会える』なんていつも楽しみにしてました。私には兄弟が3人いるんですけれども、おばあちゃんはいつも寝る前、布団を敷いてから怖い話をしてくれて(笑)。3人で怖い話を聞くのがなぜか楽しみでしたね。

おじいちゃんも子どもが好きな人でした。天草の家の近くには温泉があったので、よく温泉に一緒に歩いて行った思い出が残ってます。じいちゃんはいつもそこで塩辛を買って帰ってたんです。当時は子どもながらに『あれはなんだろう?』と思っていたんですが、今思えば……きっと酒のアテだったんでしょうね(笑)」

CHAPTER2

“その人らしさ”を感じられる、気持ちの余裕を

専門学校卒業と同時に特別養護老人ホームに就職。そして、長男の出産を経て

専門学校卒業と同時に特別養護老人ホームに就職。そして、長男の出産を経て

柴田は高校卒業後、熊本市内の専門学校に入学。卒業と同時に介護福祉士の資格を取得し、実習先でもあった特別養護老人ホーム(特養)に就職します。

柴田「その特養は従来型の特養だったので、1日のスケジュールがしっかり決まっていたんですよね。9時にはおむつ交換、10時にはお茶、11時には食堂に誘導する――当時は『こんなふうに過ごす時間が決まってるのが普通なんだな』と思っていたというか、それが普通ということすらも感じずに働いていたと思います。その特養では、中程度の介護が必要な方の棟に1年ぐらい。あとは全介助が必要な、寝たきりの方の棟に2年いて、看取りも経験させていただきました。

今思うと、こちらの仕事やスケジュールに利用者が合わせてくれるような過ごし方だったので、利用者と話す機会は少なかったのかなと思います。正直なところ、“その人らしさ”を守れていたのかすらもわからないですね」

その後、ユニットケア型の特養に転職。施設の立ち上げから関わります。

柴田「一つのユニットに利用者が10人、職員は3名程度が働いていたんですが、最初の特養とは環境が全く違いました。利用者の生活や時間にスタッフが合わせるので、スピードがゆっくりというか、職員が3名でも全然忙しくない。最初の特養がとにかく忙しかったので、ユニット型の特養に入ったばかりの頃は、何をしたらいいかわからなくて、時間がすごく長く感じました。

そこでは24時間シートというのがあって、1週間くらい利用者の動きを観察するんです。たとえば、朝起きる時間って皆さんバラバラなんですが、『このユニットは朝起きる時間帯が6時半ごろに固まっているので、早出勤を増やそう』等、ユニットごとに利用者の生活に合わせて、職員が必要な時間帯に合わせて勤務を組み合わせていたんです。

この特養で働いたことで、“その人らしさ”というところに目を向けられるようになって、利用者の存在をより近くに感じ取ることができました。ユニットごとに誕生日会があったり、利用者さんともゆっくり話す時間が取れ、気持ちに余裕が出てきたのかなと思います」

ユニットケア型特養で働いていた2012年、柴田は長男を出産します。「利用者のご家族とも距離が近くて、ご家族から授乳ケープを贈っていただいた」ことも。アットホームな職場だったそうです。

柴田「出産後も、その特養に復帰しようかな、と思ってたんですが――『正社員は夜勤をしないといけない』という規則があったんです。子どももまだ母乳が卒業できてなかったので夜勤をしながら働くのは難しく、復帰にあたっては急遽、日勤帯で夜勤がないところを探して、訪問介護事業所に転職し、管理者兼サービス提供責任者になりました。

正直なところ、『土日休み』というところと、『給与面も以前と変わらない』ぐらいいただけるようだったので――という軽い感じで、あまり内容もわからないまま働き始めたんです」

CHAPTER3

経験してきたことは、全部つながっている

それぞれの職場での経験と学びをかさねて、次の自分につなげていく

柴田「その訪問介護事業所は、1階がクリニックで、2階が住宅型有料老人ホーム。その中に事業所が併設されていました。現場に入る時間は少なかったのですが、利用者一人一人のお部屋に訪問するので、お話する機会も十分に取れて、心の余裕ができたのかな、と思ってます。

ただ、私が苦戦したのが――初めてここで、“管理者”という立場になったんです。当時、私は26歳。ヘルパーさんたちは当然、私よりも大分年上の方ばかりで、スタッフの皆さんをまとめていくことは至難の業でした。皆さん、ご自身の考えがしっかりあったので、こちらから伝えたことを受け取ってもらえないこともありました。

それでも、仕事ですから『私たちの仕事は利用者の方からお金を頂いて、サービスを提供しているんだよ』ということを、伝えていってはいたんですが――あの時は大変だったなという思いはあります。

ただここは、スタッフの皆さんをまとめたり、管理者という立場になったことで、請求業務の流れやケアマネさんとの関わり、ご家族との関わりを最初に学んだ職場だったんです。それまでは事業所に入ってくるお金の流れや、『ケアマネさんとどういうふうにつながってこの人は入居したんだろう』という利用者の方の背景を全く見ることができなかったんですよね」

働く場や自身の立場を少しずつ変えてきた柴田。その後、5年半ほど勤めたデイサービスでは「これまでの経験を活かせたので、スムーズに業務に取り組めるようになった」と言います。

柴田「そのデイサービスでは生活相談員と現場の主任を任されていました。ただやはり、スタッフのまとめ役になるのは大変な時もありましたね。現場では、想定外のことがたくさん起きますから、立場として話を聞く役にまわりましたが、一方で『何かを伝えたい』『話を聞いてほしい』という話をする側になった時というのは、強い思いがあるからこそ、どうしても自分の主張だけになってしまうことも多いと思うんです。

でも話を聞く側として、その人が言ってることだけを聞くのではなく、別の人の話もしっかり聞くようにして、ひとつの出来事をいろんな角度から見て、全体を理解することに私は重きを置いていました。

そうやって、それぞれの話をちゃんと聞いて、お互いの落としどころを見つけるところまで持っていけるように努力はしてたかな……。デイサービスで学んだその部分は今の立場にも通じてますね。

今の西日本エリアマネージャーになってからはオンラインのやり取りがほとんどで、現場からの報告や問題があったとしても自分の目では見れませんし、耳で話を聞くだけなんです。だからこそ、報告を上げてくれた職員の話はもちろん、その周りの職員にも話を聞いて、その事業所に今、何が起こっているのかをいろんな方向から把握できるようにしてます。

そう思うと、これまでいろんな職場で働いてきたんですが、経験したことは全部、繋がってるのかな、と感じています」

そして、2022年、デイホーム土屋熊本へ。

柴田「もともと、今のデイホーム土屋熊本の管理者の林俊彦さんとはユニット型の特養で一緒に働いた仲間だったんです。林くんから『自分が今、働いているところでデイサービスが立ち上がるので、柴田さん、来ませんか?』というお誘いがあって。実はその時、“土屋”という会社のことは知らなかったんですよ。

林くんから『今、土屋という会社にいるんです』と言われた時に、その字面から『林くんは、建設とか土木系の会社で働いてるのかな』って私は勝手に思ってしまって(笑)。でも、林くんから土屋のデイホームで働いている話をいろいろと聞いているうちに『今までやってきたことがもしかしたら活かせるかもしれないなぁ』と思って、『じゃあ、やってみよう』って心の中で転職を決めたんです」

その後、柴田はデイホーム土屋熊本の生活相談員を経て、2022年10月、デイホーム土屋宇和島・錦海・下松・熊本・吹田の5事業所を見守る西日本エリアマネージャーとなります。

CHAPTER4

家族との時間を大事にすること

自身に起こったいくつもの出来事や実感を経て、自分にとって“何をいちばん優先するか”を見つけてきた

これまでの仕事の話から少し離れ、休みの日の過ごし方を尋ねると、柴田からは「家族との時間をいちばん大事にしてるんです」という答えが返ってきました。
柴田のその思いは、どんなところから生まれたのでしょうか。

柴田「家族優先という考えになったのは、やっぱり出産を経験して仕事に復帰するタイミングでしょうか――。当時働いていたユニット型の特養は、母体が病院だったので付属の託児所があったんです。復帰するにあたり、何回か話をしに行ったんですが、『正社員のままでいるには夜勤をしなければならない』と言われた上に、『託児所に預けて働けばいいんじゃない?』なんて冷たい対応をされて。

でも子どもが母乳を卒業してなかったので、私の中で夜勤をしながら働き続ける選択肢は考えられませんでした。就業規則に載っていた短時間勤務制度を使用したい旨を伝えても、『就業規則はあってないようなものだから』なんて言われてしまって――。その頃は、主人も夜間の大学へ通っていて勤労学生の身だったので、転職は、私が正社員でいないと収入面も厳しかったという面もあったんです」

その後、息子さんが3歳の頃、熊本地震を経験。

柴田「訪問介護事業所で働いている時――2016年の4月なので8年ほど前ですね――に熊本地震が起きたんです。当時、私の家族はいちばん被害が大きかった町の隣町に住んでいました。

一回目が確か震度5強ぐらいで時計がコロッて落ちるぐらいだったんですよね。その時は『地震、大きかったね』なんて主人とも話してました。2回目の本震が、次の日の日付が変わったあたりで起こって――震度6弱だったんです。その時はすごく大きな揺れで、『ドン!』っていう大きな音がして飛び起きて。

私はすぐ主人の方に行って、寝ていた子どもを一緒に守って――ものが倒れて、家の中はぐちゃぐちゃで、足の踏み場がなくて――2人とも気が動転していたので、すぐに外に飛び出して、その日は結局、室内には戻らず、車の中で過ごしました。職場も気になったので見に行ったんですが、幸い利用者さんには怪我はなく、皆さん無事でした。

あの時は、本当に大きな揺れで、『地球が終わるんじゃないか』『世紀末が来るんじゃないか』と思うほどの揺れだったんですよ。その時から『いつ死んでもいいように』なんて言ったら大げさですが、『家族となるべく、休みの日は一緒にいられるように』『楽しく過ごせたらいいのかな』と思うようになったような気がします。

この前、愛媛で地震があった時も、熊本では緊急地震速報が鳴ったんです。胸がドキドキして、その時の恐怖が蘇ってきたというか――熊本は大きな揺れはなかったんですが、当時のことを思い出して苦しくなるような感じでした」

出産、転職、天災――自身に起こったいくつもの出来事やそこでの実感を経て、自分にとって“何をいちばん優先するか”を見つけてきた柴田。

柴田「今は家族といる時がいちばん幸せを感じますね。家族との時間がうまくいっていたら、仕事に対する気持ちもスムーズにことを持っていけるというか。もちろん、『喧嘩したから仕事がうまくいかない』というわけではないんですが、やっぱり同じ空間に主人と息子と3人で暮らしてるので、うまくいくように、家族に重きを置いて、そのまわりに仕事がある――そんなふうに思うようになりました」

CHAPTER5

植物を育てることと、信頼して任せるという働きはよく似ている

水やりをサボれば枯れるし、手をかけ過ぎても枯れる。でも環境が整った時には花を咲かせてくれる。植物はとても正直

柴田「家族といる時に大事なのは、まずは歩み寄ることじゃないかなって思ってるんです。と言っても私がですね、ガミガミ言う性格なので(笑)――主人は多分、『面倒くさいな』って思ってるのかな、と思ってるんですよ。基本的に主人が優しいので、喧嘩になることはないんですが。

家族の中では、料理は私しかできないので、私がしますし、皿洗いやゴミ出しは主人がしてくれることが多かったり。『これをしてね』っていう家族の中のルールは特に決めているわけではないんですが、息子には、自分のことは自分でできるように、させるようにはしてます。

私の中では、歩み寄ることを心がけてはいるけど、2人から見たら『できてない』って言われるかもしれないですね(笑)」

では柴田は、仕事と家庭のバランスをどんなふうに考えているのでしょうか。

柴田「難しいですよね。どちらかを優先したら、どちらかが疎かになってしまう――ただ、今の立場になってからは在宅で仕事することがほとんどなので、あんまりダラダラならないように、できるだけ、自分の中でメリハリをつけるようにはしてます。

9時―18時で働かせてもらっているんですが、18時を過ぎたらキッパリ、極力、仕事のことはしないようにして、家庭に戻ってます。もちろん緊急の対応や電話は対応はありますが。そう考えると、お休みや給与面に関しても、仕事と家庭のバランスは取れていて、今の働き方は自分に合っているのかなと思います。

このポジションになる時も、『もしかしたら泊まりの出張があるかもしれない』という働き方を理解してもらった上で、『やってみたいなら、やってみたら』って主人が背中を押してくれたところがあるんです。

今も主人は、出張がある時は快く送り出してくれますし、出張の間は、近くに住んでいる母や主人が子どもの面倒を見てくれているから、私はのびのびと出張に行けてる。自分のポジションを支えてくれてる人たちがいるから、今、私はこうして仕事ができてるのかな、って思っているんです」

そんな柴田の家族が最近、ハマっているのが「植物」だと言います。

柴田「小さい頃から海があるところで育ってきてるので、自然というところでは、今でも天草に帰って海を見ると『落ち着くなぁ』という思いはあるんですが――。
私は多肉植物、主人は塊根植物。子どもはパキラ等の観葉植物とサボテンにハマっていて。植物は癒しになっていて、一緒に園芸店に行くことが今3人の趣味になっています。

多肉植物やサボテンって、成長しているのか、あんまりよくわからないですよね。『生きてるのかな?』『水、あげなくて大丈夫かな?』って思うんですが、水やりをサボれば枯れるし、手をかけ過ぎても枯れる。水をやり過ぎても枯れるから、バランスが難しいんです。でも環境がちゃんと整った時にはサボテンが花を咲かせてくれて――多肉植物も花がつくんですよね。花がついたり、可愛く育ってくれたり、植物は正直なのかな、と思います。

それを今の自分の仕事に置き換えたらどうなんだろう……って昨日の夜、考えていたんですよ。やり取りや活動量が足りないと、売上の数字は下降していく。でもこちらが手を出し過ぎると、管理者や事業所自ら成長することが少なくなり、止まってしまう。

それが植物と一緒のように思えてしまって、スタッフを育てることもバランスが大事なのかな――って最近悩んでいるところと重なったんですよね。それぞれの事業所の管理者に任せきることを、どこまで自分ができるのか。それは、植物を育てることとよく似ているのかもしれないな、なんて思いました」

CHAPTER6

事業所を超えて、課題を共有したり、問題を解決していくことは、一人一人の中にある力を信頼すること。

スタッフの誰でも参加できるミーティングでは、全員ミュートを外して、ラフな感じで好きなことを話してもらうんです

柴田が見守るデイホーム土屋の西日本エリア。どんな仲間たちが働いているのでしょうか。

柴田「西日本は、いちばん若い管理者では26歳の方から50代の方までいらっしゃって、現場で活躍されているベテランの人から、管理者になるのが初めてという新人の方まで勢ぞろいしてます。

黒字展開ができている事業所と、苦戦している事業所もあるんですが、元々住んでいる人口が少なかったり、という環境的な要因もあるので、今は新規の利用者を増やすための種まきの時期だと思って、事業所ごとの活動量を増やしてもらっていますね。ありがたいことに管理者の方もその考えを共有してくださって、皆さん、『事業所をどんどん良くしよう』と動いてくださった結果、黒字になった事業所も増え、安定的に経営ができています。

最近は、西日本ブロックだけの、管理者だけでなく、スタッフの誰でもが参加できるミーティングを月に2回ほど組んでるんです。全員ミュートを外して、ラフな感じで好きなことを話してもらうようなミーティングです。

もともとは、藤岡真人さん(デイホーム土屋グループ代表)のアイデアなんですが、もしかしたら、スタッフの中で他の地域の事業所に聞いてみたいことがあるかもしれないし、事業所を超えて相談することで、横のつながりで課題の共有や問題の解決ができたらいいなと思っています。

管理者の方たちは、実際、今も現場に入ることも多く、運営面で他の事業所も見てみたいという気持ちがあっても、なかなか見にいく時間も相談するタイミングもないことも多く――でも『こんなことができたらいいよね』という思いを共有したり、他の事業所を見て『自分のところでも取り入れてみよう』っていう意見も出てきたり。5事業所の皆さんが、いい関係を築けているんじゃないかなと思います」

現場を離れ、エリアマネージャーとなって1年半が過ぎた柴田。見えるものも大きく変わってきたと言います。

柴田「熊本事業所という小さな世界から、エリアマネージャーになって、視野を広く持たないといけないな、というのはすごく感じましたし、今でも感じています。私からアドバイスやお願いすることがあるんですが、正直なところ、そこは私が一方的に伝えたところで信頼はつくれません。

だからこそ、今、現場で困っていることを聞かせてもらって、『私にできることがないか』『自分にできることはなんだろう』を常に考えています。距離が離れている分、私ができることは少ないんですが、聞かせてもらったことで、自分ができることは全部させていただいてる――そんなふうに今、私は動いていますね。

だからこそ、そこにはまず信頼というか――会社理念の中にもありますよね。『あらゆる人間関係の基盤は信頼、まず自ら信頼を提示しよう』。この一文を読むと、『あ、まさに自分の今の、このことかな』なんて思います。

スタッフの皆さんは現場で働いていて、私は在宅で働いている。だからこそ、頼ってきてほしいことを伝えるようにしていますし、その距離が離れてるからこそ、信頼が大事になると思います」

CHAPTER7

目指すのは、“ひらかれた施設”。

関わる人の人生と自分の人生が交わったところで、今、ちいさな出会いをかさねる

高齢化や介護人材不足等、さまざまな課題を抱え、変わりゆく時代。これからの介護業界や地域福祉を考えたとき、デイホーム土屋はどんなことができるのでしょうか。

柴田「今、デイホームは全国で9事業所を展開しているんですが、ホームケアと同様、できるだけ多くの場所で“小さな声”を拾えるようにデイホームをつくり上げていきたいなと思っています。でも、そのためには今、基盤となっている9事業所がなるべく早い段階で赤字からの脱却をしていかなければなりません。

また、デイホームでは今、地域との関わりをすごく大切にしているんです。たとえば、私たち事業所ができることはないのか、その地域の老人会の会長の方に聞いていただいていたり。すでに地域の行事に参加させていただいてる事業所もあるんですが、『これから一緒に地域の夏祭りを開催したり、その地域で一緒にゴミ拾いができたらいいね』なんて話をしてます。

他にも、地域の方から体操のプログラムのお願いをされたり――小さなことなんですが、地域と関わって、その地域の人たちにも認知していただくことで『土屋ってこんなことをしているんだ』『こんな思いで人が働いているんだ』ということが伝わっていけばいいですよね。“ひらかれた施設”という部分が、今後、土屋のブランドになっていくのかなと思っています」

施設という場所を地域にひらいていくこと――それは、自身を他者にひらいていく“信頼の過程”とつながっているのかもしれません。

柴田「私は介護福祉士の資格をとってから17年、介護の仕事に携わってきて、関わる人の人生というか、その人と自分の人生が交わったところで、今、出会ってると思っているんです。

だから、その人の心の中にあたたかなやり取りが残るように、大切に一人一人とお話ししたり――介護職の仕事は、たとえその人が認知症であっても、日常的なやり取りやその“人”の印象が、これからのその人の中に残っていく仕事だと思うので。

その人の人生の中で、“柴田絢”っていう人が残っていけたらいいなと思ってお話したり、その人の中に残る印象を考えたりしながら、利用者の方と関わってきたんだと思います」

人との出会い、人との交わり。つながりの中で福祉の仕事を続けてきた柴田に、最後、尋ねました。
なぜ、今まで福祉の仕事を続けてきたと思いますか?

柴田「なんでだろう……。振り返ると、正直なところ、仕事がキツかったり、人間関係で悩んで辞めたくなったこともあったのですが、その度に『こんなところがあるよ』って母から勧められたり、専門学校の先輩とたまたまコンビニで出会って『今、相談員を探してるんだよね』なんて話から転職に繋がったり――今、土屋で働いているのも人との縁ですよね。

そのタイミング、タイミングで、誘ってくれる人が必ずいたんです。だから周りの人の縁で、ずっと福祉の仕事をしてきたのかなって思っていて。どうして福祉の仕事にずっと関わってるかと言ったら、きっと、自分の周りにいた人がよかったから――これって失礼かな(笑)。

これからも、利用者やスタッフ、上司、たくさんの“人”と出会っていくと思うんです。『辞めよう』って思ったこともあったけど、誘ってくれた人のことをどこかで信頼してたから、きっと、今、この場所にいるのかなって思いますね」

 


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