デイホーム

デイホーム 土屋

織田由加

たいわ 管理者 / 生活相談員 / サービス提供責任者

たった一人の人が心から笑ってくれれば。たった一人でも心が軽くなってくれれば。
たいわがそんな場所であれるように。

 《interview 2023.3.9》

宮城県にあるデイホーム土屋 たいわで、管理者・生活相談員・サービス提供責任者を務める織田由加。話に耳を傾けていると、つい声を上げて笑っているーー織田にはそんな根っからの明るさと母性的なあたたかさが滲み出ています。福祉という仕事のみならず、あらゆる経験を受け止め、駆け抜けてきた織田の人生に迫ります。

CHAPTER1

本気で向かっていくから、遠慮なく大爆笑ができる。笑いがあふれるデイホームで

仙台駅から北へ車で1時間弱。
田んぼに囲まれた長閑な場所に、デイサービス(通所介護)を行なう「デイホーム土屋 たいわ」があります。

2021年の12月1日にオープンしたたいわ。ホームの窓からは、白鳥が飛ぶ姿も見られるのだとか。

織田「たいわは、通常の高齢者向けデイサービスの他に、基準該当生活介護という、生活介護を提供しています。生活介護は、18歳以上の知的障害や精神障害、肢体不自由の方がご利用いただける障害福祉サービスです。たいわの最年少は20代で、例えば、ある日のたいわでは22歳と55歳と90歳の方が一緒に活動するんです。すごいですよね(笑)。

走りたい人もいれば、動けない人もいます。『明日のメンバーは、〇さんと〇さんと〇さん。体験はこういう方で……』と顔を思い浮かべながらレクリエーションを考え、一日の流れを決めるのは一苦労。まさか自分が生活介護に携わるとは思っていなかったので、毎日試行錯誤です。やりがいでもありますけどね」

織田は、これまでも訪問介護や特別養護老人ホーム、ケアマネージャー等、福祉分野の様々な経験を重ねてきました。
何事も前向きに受け入れる織田の笑顔には、思わずホッとしてしまうような包容力が滲んでいます。

織田「利用者の方の気持ちが落ち込んでいた時や、『帰りたい』となった時に、『ほら、こんなに楽しいことがあるよ』とレクリエーションや活動を見せると、パっと顔が明るくなります。精神疾患で鬱状態の方がいらした際は、デイサービス体験の後に『表情が明るくなって、いっぱいお話しするようになった』と周りがびっくりするような変化があったこともありました。

だから、私たちもいつも『本気』で向かっていかないと、と力が抜けません」

「たいわのスタッフはみな、笑顔が素敵な優しい人たち。どんな時でも利用者の方のお話にしっかり耳を傾けてくれる姿勢がいいんです」と話す織田。

織田「スタッフは聞き上手。朝のお迎えに伺ったときも、今日のデイを楽しみにしてくれているのか、送迎車の中では、『今日の活動は何をするの?』『昨日こんなことがあってね……』と盛り上がります。

活動では、ゲームの時、スタッフがデモンストレーションをするんですが、スタッフ同士が遠慮なしの本気モードになっていて、その姿を見て、みんなで大爆笑。
今年の新年会では、スタッフが二人羽織を披露してくれたのですが、期待を裏切ることなく笑わせてくれました(笑)。スタッフが笑っていると利用者の方も一緒に大笑いしてくれるんです。だから私もスタッフも、遠慮なく大笑いして、利用者の方の笑いを引き出しています」

毎日のおやつ作りも織田が得意とするところ。
「毎回、『もうアイデアを出し尽くしちゃったよ!』と言いながら、なんとか新しいものを産み続けてます(笑)」と話す織田ですが、これまでで印象に残ったおやつ作りにはどんなものがあったのでしょうか。

織田「沢山ありますが、思い出深いのは『わたあめ』ですね。空き缶やカプチーノの泡立て器を繋げて、スタッフがわたあめ機を自作したんです。『ほんとにできるの?』と疑う利用者の方の前で、スタッフは『やばい、本当にできるかな……』と冷や汗をかきながら、汗だくでつくりました(笑)。
試行錯誤して、見栄えのいいわたあめができた頃には、試作品を食べ過ぎて、みんなから『もういらない』と言われてしまいましたが(笑)」

CHAPTER2

「どうやったらみんなが楽しんでくれるか」ばかりを考えていた中高時代ーー“魔法のような”楽しさの原風景

織田は、3人姉妹の長女として宮城県に生まれます。

現在は合併して石巻市となりましたが、元々は雄勝町(おがつちょう)という漁業が盛んな町で、海と山に囲まれて育ちました。

織田「小さい頃から、母親から人前で歌を歌わせられてきたんです。例えば結婚式や、宴会のステージで踊りをさせられたり、『遠足の時は、バスの中で絶対1曲歌うこと!』という決まりがあって。田舎の娯楽だし、大人が喜ぶ歌を歌わなきゃいけないから、当時は嫌でしたね。でもこの経験は今、デイサービスの仕事で生きているかもしれません(笑)」

「それ以外はおとなしい子でした」と幼少期を振り返る織田。

織田「中学校と高校ではボランティア活動にハマっていました。当時、インリーダー研修といって、子どもたちが自主的に活動できるようなリーダーを育成する会があって。小学校5年生の時から、中学生・高校生のボランティアグループに混じって、キャンプや合宿をしていたんです。そのリーダーたちが魔法のように次々と楽しい活動を見せてくれて、『楽しい!これはすごい!』と思いましたね」

中学・高校生になるとジュニアリーダーに入り、他の市町村の人と練習をしたり、自分がリーダーを養成する側になったり、と全国組織の中で活動の場を広げていった織田。活動は、「結構スパルタだった(笑)」そう。

織田「最初は子どもたちとキャンプをしていたのが、障害を持つ人とも合宿をするようになって、いつのまにかそれが当たり前の夏休みになりました。アウトドアが好きだったし、仲間とわいわいするのも楽しかった。『いろんなことが上手になりたい』、『どうやったらみんなが楽しんでくれるか』をいつも考えていたので、活動にのめりこんでいったんです」

夏休みは「毎日キャンプして、飯盒炊飯をして、ずっとカレーを食べて(笑)」過ごした織田。
高校卒業後は養成学校に進み、介護福祉士資格を取得。地元の特別養護老人ホーム(特養)に就職をします。

織田「石巻の特養で働いていた時に、恩師から『今度、介護福祉士の養成学校が新しくできるから、教員をやってみないか』と声をかけていただいて、学校の立ち上げに教員として関わりました。
試行錯誤しながら担任を持って、授業をしていましたが、その時に介護福祉士国家試験の実技試験官や、実務者研修の先生を教える主任指導員として仙台の養成校の先生たちの前で講義をするという大役を経験したこともありました。

9年ほど教員をしていたのですが、その時期はちょうど介護制度が介護保険に変わっていく過渡期で、私以上に、卒業生の方が現場での経験が豊富にある、なんてことも。私は教員の資格を持っていたわけではなかったので、教員の仕事を続けていくことに段々焦りが出てきたんです」

織田はそこから、自身の不安を行動力へと変えていきます。
オーストラリアへの短期留学や保育士の免許の取得、訪問介護事業所の管理者等、多種多様な学びと仕事を通して、自身を磨いていった織田。
その後、ふと訪れた「スーツ姿に憧れて」という思いから、製紙会社に就職をします。

織田「当時、結婚をしていたのですが、製紙会社に入社して1ヶ月しないうちに妊娠をして、すぐに退職をすることになりました。
その時はまだ働く女性に対して今ほど優しくなかったんですよね。『じゃあ、福祉の職場で働こう』と思っても、福祉施設の数も少なかったし、介護職員も余っていた。保育所も今より少なくて、子どものいる女性が働くことが大変だった時代。もう少し頑張れば、寄り道することなく、ずっと福祉に携われていたのかもしれません。それでも、このまま専業主婦になるか、働くかー―という選択肢の中で、私は働く方を選んだんです。

その後、託児所付きの民間の会社を見つけて働きました。出産を終えて、社内の託児所に預けながら働いて、二人目も同じ会社で産休をとって。その中でやっぱり『自分はこれでいいのかな』という思いが湧いてきた。『子どもが卒園するまでは頑張って働こう』と思ってはいたのですが、ストレスからか、急に声が出なくなって……。その後、社内で部署異動をさせてもらって、事務職には移れたのですが、その時に東日本大震災が起きたんです」

CHAPTER3

東日本大震災を経験。自分はどうしたいかを考えた時に思ったーー「やっぱり、福祉に戻ろう」

母と祖母、養成学校で一緒に介護実習に行った仲間との突然の別れーー。『自分はどうしたいんだろう?』と考えていた時に、『やっぱり福祉に戻ろう』と思った。

織田「その日、子どもたちは託児所に預けていたので、私たちは無事だったんですが、石巻の実家は流されて、母と祖母が行方不明になりました。しばらくは妹や父親も安否不明で。その後、妹と父は、無事だったのですが、母が亡くなり、祖母が亡くなったことが段々分かったんです。
私は石巻の出身なので、その時に本当に多くの知人が亡くなりました。養成学校で一緒に介護実習に行った仲間が3人いて、その2人も亡くなってしまった。段々途方に暮れてしまって、『自分はどうしたいんだろう?』と考えていた時に、『やっぱり福祉に戻ろう』と思ったんです。

私の場合、仕事を選ぶ際に『子どもを預けて働けること』が一番の条件にあったので、事務職をしていた頃は正直、『人の役に立ちたい』という思いはありませんでした。ただ、『自分らしくいられる仕事ってなんだろう』『自分でなければいけない仕事ってあるのかな』とは考えていました。
教員時代に、胸郭出口症候群という右手に力が入らない症状が発症したこともあって、『介護に戻るのは無理かな』とも思いました。でも、福祉の仕事に戻ることをイメージした時、高校卒業時に福祉の仕事を思い浮かべた時と同じように、自分が働いているイメージが持てた。それで面接対策で入社の動機を考えていたら、アツい思いが蘇ってきて(笑)。福祉に戻ることを決めたんです」

その後、織田はデイサービスに就職し、福祉職に復帰。
「やっぱり福祉に携わっている自分が本当の自分のように感じた」と言います。

織田「最初に復帰したのは、地域密着型で定員10名ほどの小さなデイサービスでした。利用者の方に寄り添ったレクリエーションを提供したり、みんなで散歩したり、その人に合わせた時間が流れていくんですよね。仕事というよりは、一人の利用者の方の支援のための時間が流れていく。そこに身を置く自分がいて、それぞれに流れるリズムの違いがあって。久しぶりに福祉の仕事に戻った時、そこが一番いいなと思いました」

その後、重度訪問介護や訪問介護サービス提供責任者、ケアマネージャー等を経験した後、2021年9月土屋に入社します。

織田「土屋に入る直前まではケアマネージャーをしていました。私は子どもを産んで5ヶ月で復帰してからずっと、休みなく働いてきたのですが、その時、家庭のことや色んなことが重なって『一旦、仕事を辞めざるをえない』という状況になったんです。念願だった居宅のケアマネージャーになったばかりで、やっと在宅のサポートができる、しかも仕事がすごく楽しくて、『これは私の天職だ!』と思った時に仕事ができなくなった。

こう見えて、私は挫折したり、落ち込んで前に進むことができないことも多いんです。その時は友人にひたすら話を聞いてもらいました。『今辞めてしまったら、経験の少ないケアマネージャーを雇ってくれるところなんてきっとないし、また最初から経験を積み上げていくのも自信も無いし……』なんて話をしていたら、いろんな思いが吹き出してきて、友人の前で号泣してしまいました。

土屋の入社面接の前もかなり落ち込みモードになっていて、励ましてもらっていたのですが、翌日には採用が決まって(笑)。すぐに『決まったよー!』と伝えたら、友人は『ほらね、人生大丈夫だよ』と言ってくれた。周りから助けられて、今の自分がいると言っても過言ではありません」

CHAPTER4

小学生から100歳まで、それ以上も!様々な年齢の人が集う、たいわの「これから」

土屋に入社後、織田は約10ヶ月ホームケア土屋 仙台で重度訪問介護に携わり、基準該当生活介護のスタートにあわせて、2022年7月からデイホーム土屋たいわの管理者に就任します。

「利用者の方は少ない日だとまだ2名、多い時でやっと7名。たいわはまだまだ伸びしろだらけなんです」と笑顔を浮かべる織田。

織田「障害をお持ちの方やご高齢の方でも『デイホーム土屋 たいわ』という居場所を見つけてくれたら、QOL(Quality of life)が上がる人がまだ沢山いらっしゃると思うんです。そういった方々に、たいわを知ってもらう活動をこれからしていかなければいけないですね。

たいわの送迎地域は、たいわのある大和町だけでなく、近隣の富谷市・大郷町・仙台市と広範囲です。ちょっと遠いけれど、『たいわでの活動が楽しいから』と通ってもらえたら嬉しいし、『こんなサービスを受けたいな』『ここに行ったら気持ちが安らぐな』、たいわがそんな場所になれたらいいなと思います。

また、現在の通所介護・基準該当生活介護を今後は共生型サービスに変えていくことで、どの地域の方でもご利用ができるようになります。いずれは、放課後等デイサービスも取り入れる予定もあって……そうすると小学生からたいわに通えるようになるんですね。小学1年生から100歳、それ以上も!
障害をお持ちの方が高校を卒業して進路を決める時にも、そのまま継続して、たいわの利用が可能ということになります。幅広い年齢の方々がたいわに集ってもらえたら、と思うとワクワクしますね」

これからのたいわの姿を想像し、思わず笑みが溢れる織田。どんな時も大切にしてきたのは、やはり“笑顔”でした。

織田「今、たいわをご利用いただいている方も、いろんな事情があってここにたどりついてくれている。
他のところで笑っていないというわけではないんですが、それでもなかなか、本当に心から笑える機会ってそうないんじゃないかな、と私は感じているんです。だから、その人の居場所がここにあって、たいわにいる時に心から笑ってくれる時があって。笑顔になって帰ってもらえるような活動ができるように心がけています」

さまざまな福祉の仕事、そして人との出会いと関わりを通して、実感と経験を重ねてきた織田。最後に、福祉とはどんなものですか?と尋ねると、教員時代に生徒たちに伝えていた話を聞かせてくれました。

織田「介護福祉科で教員をしていた時、生徒のみなさんには『誇りを持って福祉に携わって欲しい』と思っていたのでーー土屋の理念と同じですねーー一番最初の授業で『福祉ってこういう意味があるんだよ』ということを生徒たちに伝えていたんです。

福祉にはどちらも『しめすへん(ネ)』があります。
これは『神様』を表しています。“福”は『幸せ』という意味はもちろんだけれども、ネの右側は神様にお供えする『とっくり』を表しています。“祉”は、神様が止まっている様子です。どちらも『幸せ』、どちらも『神様』を表します。

『神様』という言葉は語弊があるのかもしれませんが、宗教的な意味ではなく、目に見えないものであったり、自然であったり、人の力ではどうしようもないことを指すものとして、私はこの解釈が好きなんです。
神様にお供えしている『とっくり』と、神様がそこにとどまってこちらを見守ってくれるようなイメージですね。私ができることをして、たった一人の人が心から笑ってくれれば。たった一人でも心が軽くなってくれれば。そんな風に思っています」

それぞれの幸せを思い描きながら、さまざまな思いを、行動に移してきた織田。
プライベートでもおそらく行動的な織田がいるのでは……そう思い、これから個人的にやってみたいことを尋ねると、「実は私、スキューバダイビングのライセンスを持っていて、若い頃はよく東北の海に潜っていたんです」との答えが。

織田「水族館が好きで良く行くんですが、なんとその水族館の大水槽に潜れるらしいんです。いつかやってみたいと思いつつ、まだ勇気が持てないでいます。スキルに自信もないし、入るウェットスーツもないし(笑)。でも、思いきって申し込んでみようかなぁ」

夢を描き、人生で起こることの間で悩みながらも、自身で道を決め、進んできた織田。
振り返れば、その経験と人との出会いを交互に編みながらつくってきた、人と生きる“時”と“場所”が見えてきます。

たいわに来れば、みんなの笑顔がある――あたらしい“時”と“場所”を編み、広げながら。デイホーム土屋 たいわの「これから」は始まったばかりです。


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