本社管理部

株式会社土屋 本社管理部

藤田賢人

経営戦略室

事務作業の多い介護業界、感動や喜びを生む余裕を増やすための効率化、仕組みづくりをしたい。

 《interview 2024.12.13》

重度訪問介護の現場から介護の仕事をスタートした藤田賢人(ふじたけんと)。
アテンダントとして働いていた時から「介護の会社のバックオフィスって、一体何をやってる人たちなんだろう」と思っていたと言います。
そして今、本社・経営戦略室で働く藤田に「介護の会社のバックオフィスって何をしてるの?」「会社を良くしていく仕事って?」――そんな疑問を投げかけてみました。
ひとりひとりの“日常”、そしてそれぞれの“背景”。人や場との出会いによって、移り変わってきた藤田の、世界の見え方を訪ねます。

CHAPTER1

自分が知ってた“普通”は、“普通”じゃなかった

化学の道へ――高校時代のある先生との出会いから

―小さい頃はどんなお子さんでしたか?

そうですね。小さい頃は人前に立つのが苦手なタイプでした。

簡単に言うと「物分かりのいい子どもだった」と親からよく言われるようなタイプで――小さい頃から親がしたかった習い事をやらされていたので、

小学校の時は友達とあまり遊んだ記憶もなく、毎日家に帰り、宿題をし、習い事に行って夜帰ってくる――そんな生活を毎日、送ってた記憶がありますね。

中学生になるとコミュニティがちょっと広くなるというか。

部活動が始まって、それまでの習い事の呪縛からはある程度解放され、自由に遊べるようになって、普通の中学生として生活を送れたかな、と。

―コミュニティーが広がったことで、今までと違う友達と知り合うこともありましたか?

私が住んでいたのが岡山県の倉敷市という、岡山県の中でも南のエリアなんです。
瀬戸大橋のたもとのエリアで、家からも遠目に海が見えるし、車で10分も走れば海が目の前なんです。

まぁ、地元は都会っぽくない風土もあって、私が中学生の頃はまだ短ランにボンタンの方がいましたね(笑)。

―その時代なんですね(笑)。

中学の頃は俗に“ヤンキー”といわれた人たちがたくさんいましたね。
そんな中で育って、よくも悪くもその人たちと仲も良かったし、普通に接してもらってました。

高校の時には「自動販売機が壊されてお金が盗まれる」とか、中学校の時には「バイクが学校の中を走る」とか、そういうことがある生活が普通だったので(笑)。

大学に入って、「中学の時って、こういうことがよくあったよね」という話をした時に「え、ないよ?」って言われて――

それで初めて「ないのが普通なのか」「自分の知ってる“普通の生活“は普通じゃなかった」という感覚が強く芽生え始めましたね。

そこからは人に自分の意見を押し付けるといったことが極端に減ったなと思います。

―藤田さん自身は、その中に一緒に入ることはなかったんですね(笑)。

はい、夜にバイクに乗るなんてことはなく、私は普通の真面目な生徒として生活をしてましたよ(笑)。

いろんな人と分け隔てなく付き合っていて――それもあって、大学をきっかけに岡山から出た時に、学校や地域によっての“スタンダード”のギャップは特に感じましたね。

その後、国立大学の理学部に進学しました。

最終的には化学を専攻したんですが――化学に至った経緯には、高校時代のある先生との出会いがあるんです。

私が通っていた高校はちょうど生徒が少なくなって、統合したての新しい学校で。
当時は県も含めて力を入れていました。

その高校に、岡山県で頭のいい進学校に勤めていらした化学の先生が転勤してきたんです。

私が行ってた学校は決して頭がいいわけではなかったのですが、普通科もあれば商業系や英語系、いろんなコースがあって――

そんな中でも、その先生は前の進学校のスタンダードをそのままぶつけてくるような先生でした。

転勤1年目に、全文英語で化学のテストをつくって、あまりにも全員の点数が低くなりすぎて校長先生から怒られたり、「俺がつくったテストで今まで100点を取った生徒はいない」なんて豪語したり。

そんな先生でしたね。

CHAPTER2

「すべてのものは分子からできている」という世界の見方

生活の中の化学を知って――日常と知識がつながっていくことの楽しさ

―そこからどんなふうに化学に惹かれていったんですか?

実際に当時は僕も化学に全く興味がなかったので、「ようわからんな」と思いながら授業をポケーと聞いていたんですが――

その先生は進路指導の担当もしていて、高校1年生で自分の進路を選ぶ時に「あなたは国立大学に行きたいのか、私立大学に行きたいのか、商業を勉強していきたいのか」と言われて。

当時、私は成績が悪くはなかったんですが、家があまりお金持ちじゃなかったので高校を出たら、普通に就職しようと思っていたんです。

“商業系のコースに行って、普通に簿記等の資格を取って会社に入社して“――っていうプランを考えて先生に提出したら、

翌日、先生に呼び出されて、「お前はここに国立理系と書け」「書かないと部活に行かせない」と(笑)。

当時はまだ体罰がギリギリ残っていた時代で、部活の先生も怖かったので「部活に行くためにはここに国立理系と書かないといけないのか」と真面目に考えて――

結局、その時に“国立理系”と書いたがゆえに国立大学に行きました。

結果、その先生に化学を教わることになりました。

とはいえ、私は負けず嫌いの部分があるので、「頑張ったら100点取れるんと違うんかな」と勉強してみたんですけど、最初は80何点でなかなか取れませんでしたね。

そこからは、「100点取れるまで頑張ろう」って化学だけをひたすら勉強し続けて――私は興味を持ったことにはめちゃくちゃ突っ込んでいくタイプなので――最終的に7回ぐらい100点を取りました。

でもその先生とは「字が汚いからマイナス1点、で99点」「いや、でも俺はこう書きました」「いや、そう書いてないから99点だ」――なんてやり取りをしながら、卒業までいろいろ面倒見てもらったんですが、

結局、化学はずっと成績がよくて、その成績だけを持って大学に行った――そんな感じです(笑)。

―その先生との出会いでガラッと、その後が変わっちゃったんですね。

自分のベースにあるのが――もともと“頭が理系脳だった”ということもあると思うんですが、化学に興味を持ったことで理系脳がより強く形成された時代でしたね。

化学の「すべてのものは分子からできている」という考え方――分子からつくられているものが物質になり、

その物質を混ぜたり、ひっつけたり、離したり、つなげたりすることでパソコンができ、テレビができ……と思った時、「これはすごい世界だな」と。

そんなところが化学にどっぷり入っていくきっかけでした。
だから国語は大嫌いでしたよ。

「筆者のその時の感情を答えなさい」とか「その中のAさんの感情に近いものは何か」とか。「一体それは、誰に聞いた結果の回答なのか」なんていつも思ってたところがありました(笑)。

化学にハマったのは、その先生の教え方がうまかったこともありました。
「身近なもので、○○ってつくれるんだよ」って。

生活の中にある化学が自分の中でつながるというか――日常と知識がつながっていくことの楽しさが、化学にはまる理由になって。

中には危険なものもあって、前の学校では実際につくった生徒がいて、禁止になったこともあったみたいです(笑)。

そこから、ものに対して「なぜそうなるんだろう」っていうことを結びつけるのが極端に好きになったような気がします。

―大学ではどんな研究をされていたんですか?

簡単に言うと――「A」という薬をつくるのに、今まではA1、A2、A3、A4っていうルートまでしかなかったけど、

A5っていう新しいルートがあるんじゃないか――を考えるのを基礎化学と言うんですが、私が学んでいたのは応用化学でした。

「いろんな化学的な性質を持ったものを使って、何かをつくれないか」というところが内容的には近いですね。

インフルエンザの検出薬といった薬の開発だったり、ウイルスを検出する仕組みを考える研究をしたり。
ものづくりの基盤となる仕組みの研究を専攻していました。

CHAPTER3

学生服の世界から、社会をのぞいてみたら

少子化?高齢化?元気な業界を探して

大学を卒業してからは、ただ地元に帰りたいという思いで岡山に戻りました。
岡山県って実は制服の生産量が日本一なのはご存知ですか?

―そうなんですね、知りませんでした。

学生服のメーカーの大手3社の本社が、全部岡山県にあるんですよ。
もちろん、工場は全国にあるんですが。

学生服の町、県であり、特に私が育った地域は学生服の町としても有名なんです。

その学生服の会社に入り、体操服の生産管理――総合職の事務員として、年間の製造を管理する部署で働いていました。

工場や営業といった社内のいろんな部署のハブになって、中心でいろんな部署とコンタクトをとっていく、そんな仕事をしていました。

体操服をつくるのに必要な生地や資材の発注も含め、新商品の企画や実際に商品をつくったりもしてましたね。4、5年やって、営業に移ったんですが、営業に変わった途端、見える景色は変わりました。

その時に――なぜその後、介護業界にいったのかという件にもつながるんですが、今、日本では少子化が問題になってますよね。

学生服業界って子どもの人数=売上なので、毎年同じ学校を担当してるだけだと子どもの数そのものが減っているから毎年数パーセントずつ売上が下がっていくんです。

年々、売上が減っていく中で、「少子化ってこんなに売上に影響するんだ」――と。

「じゃあ、営業は新規の学校に制服を採用してもらうことが前提で“前年比100%”が達成され、それプラスアルファを取っていくことで成果として認められるんだ」

――と考えた時に「やりがいがないな」と思ったんです。

だったらその逆の発想で、「高齢者が増えてるんだったら、介護に行った方が業界としても市場としても元気なんじゃないか」と。

衰退している業界よりは、これから伸びていく業界――もしくは日本経済や国全体が力を入れてる業界に行った方がいいんじゃないか、と思い始め、即、転職をしました。

それが土屋の前会社です。

CHAPTER4

介護業界との出会い、障害者の日常との出会い

「ここまで重度の障害を持ってる方が日々、こんなふうに生活をしてるんだ」

―最初は現場からのスタートだったんですか?

そうです、もうずっと現場に入ってましたね。

―実際に現場に入り、介護の仕事を始められて、どんなところが見えてきましたか。

最初に関わったのは、筋ジストロフィー(筋ジス)の利用者さんでした。

喀痰吸引、胃ろう、入浴介助や移乗もあったりで、重度訪問の中ではいわゆる“介護のすべて”が詰まってるような利用者さんでしたね。

人工呼吸器をつけられていたので、声を出すことはできなかったんですが、

口を動かしてヘルパーとコミュニケーションをとっており、最初は何を仰っているのか私は全く理解ができなかったし、呼ばれてることすら気づかないことばかりでした。

―異業種から転職されたことで、見えてきたものも大きかったのではと思います。

1つ目はメーカーというものづくりの業界から、介護というサービス業に近い体を動かす業界に移った時に感じたのは――

「人ひとりが売り上げる売上が少ないな」「この業界は儲けるに儲けにくい業界なんだな」というのが率直な最初の感覚です。

「こういった業界があるんだ」と新鮮に感じました。

2つ目は障害者の方の生活――それまで私はまわりに障害者の方がいない生活をしていたので、「ここまで重度の障害を持ってる方が日々、こんなふうに生活をしてるんだ」ということは、

ある意味、興味の対象でもあり、恐怖の対象でもありました。

筋ジスの方というのは、筋肉が動かないので、すごく細い方が多いんです。

「触ったら骨が折れてしまうんじゃないか」「(触れる時に)どこまで力を入れていいのかもわからない」――素人で入社したので、その恐怖と興味と、

でも与えられたことをこなす責任感はあるタイプなので、与えられたことにちゃんと応えられてるのかどうかもわからないまま、毎日利用者さんに怒られながらやってましたね(笑)。

でも利用者さんのことや生活がわかってくるにつれて、「介護の楽しさはこういうところにあるんだろうな」というのは感じられるようになったかな。

利用者さんと楽しく過ごす――重訪は特に、長い時間一緒に過ごすので、相手の趣味や好きなことに寄り添っていくことや、

利用者さんが私といて楽しいと思ってくれるような関係づくりってすごく大事だと思っていたので。

―実際に、どんなふうに利用者の方と過ごされていたんですか?

ある利用者さんはサッカーが好きだったんですが、当時は僕、サッカーについて一切知らなかったんです。

そこからサッカーの勉強をしたり、サッカーの試合を見られてる時に「これってどういうことですか?」と質問をして、相手が回答してることにふんふんと頷きながら、

相手が好きなことをなるべく話せるような時間づくりというか――“利用者さんに気に入られる”じゃないですけど、ヘルパーとしてそういうところを徹底してやるようには意識はしてました。

もちろん相性もあるので、うまくいかなかった利用者さんもいましたけど(笑)。
お互い気のおけない関係性が築けると、相手も自分も楽になる。

一方で自分が失敗しても「全然いいよ」ってなるのに、他の方が失敗するとめっちゃ怒られる――これは重訪あるあるですね(笑)。

人対人の仕事ならではの、いいところも悪いところも感じながら、「支援ってこういうふうにするとうまくいくんだな」っていうのはヘルパー時代にはよく思いました。

CHAPTER5

現場から本社・バックオフィスへ

仕事の時間って有限。その中で何を無駄とし、何を活かす?

―その後、コーディネーターになってからはいかがでした?

コーディネーターになると見える景色も変わるので、ヘルパーさんによって考え方が違ったり、利用者さんもそれぞれいらっしゃる中で、

ヘルパーさんとの相性を見たり、考えることが多くなって、「これはこれで大変だな」と。

特に、人を教育すること、現場にマッチするように人材や環境を整えていくことの難しさは感じましたね。
岡山事業所では当時いちばん若かったので、スタッフが全員年上だったんですよ。

自分の親と同じぐらいの世代の方に「もうちょっとどうにかなりませんかね」みたいな話をするのは、正直、心苦しさがありましたね。

で、「私はもう年やけん、そんなこと言われてもわからん」なんて言われて「あぁー、ですよねぇ」って(笑)。

でもそこからまたやり取りを続けて――もちろんストレスが溜まった記憶はありますが、現場は現場の、大変さと楽しさがあったかな。

いろんな病気があって、いろんな利用者さんがいて、それぞれの生活がある中で、ヘルパーの方がどうその中に溶け込んでいくかが大事なんだろうなって。

その溶け込み方が人それぞれで――忍者のように気配を消す方もいれば、生活の一部になってしまう人もいる。

はたまた、合わないなりに言われたことだけ頑張って最低限する仕事人気質な方もいます。

対応の仕方が無数にある中で、“その人の生活を支える”という部分では、重要な仕事であり、同時に難しさを感じる仕事でもありました。

―そこから本社に移られたとお聞きしてます。何かきっかけがあったんでしょうか。

背景は上の方の采配だと思うのでよくはわからないのですが――ホームケア土屋にいた当時、

大庭竜也さん(おおばたつや/CHO 最高人事責任者・バックオフィス担当役員補佐)から声をかけていただいたことが総務部に異動するきっかけになりました。

そこからまた声をかけていただいて、2023年に経営戦略室に異動になりました。

―総務部ではどんなことをされていたんですか?

業務管理システムの部分を大庭さんから指示を受けていたので、「こういうことがやりたい」と言われた時にそのツールや仕組みをつくる、考えるところをやっていました。

その名残りが今も社内で使われている“総務にお願い”のグループチャットですね。
あの仕組みも、中を見ていて「改善しないといけない」という議論になって改善をしたんです。

あれはまさに総務部にいた頃の遺産です(笑)。

入社当時から「儲かりにくい業界なんだな」「紙が多い業界なんだな」と思う中で、「現場を管理するシステム、自分だったらこうするのにな」というアイデアが溜まっていたんです。

これは多分、学生服のメーカーにいた時からの考え方で、やはり仕事の時間って有限なわけで――その中で無駄を減らせば、より別のことができる。

特に介護の業界は、“現場に入らないと売上が立たない”、“営業をしないとクライアントが増えない”という状況の中で、

事務やスタッフのシフト管理に追われると、クライアントと関われる時間がより減ってしまう。

関わる時間を増やそうとしてさらに忙しくなってしまう――そこは現場に入っていた私自身が感じていたところなので、

管理者時代から管理を簡単にするためのツールやシステムをできる限りつくってはいました。

そういえば――ちょうど戦略室に異動したばかりの頃に、

社長室の宮本武尊さん(みやもとたける/取締役 兼 CCO最高文化責任者 社長室室長)とお会いして「戦略室に異動になりました」とお伝えしたら、

「藤田くん、前会社にいた頃に経営戦略室みたいな部署に行きたいって言ってたよね。よかったね、夢が叶って」なんて言われて。

「自分、そんなこと言っとったんだ」って――自分では全然記憶にはないんですが。

そう言われたことは今も覚えてますね。

CHAPTER6

大切なのは、「相手のことを考えること」。

「相手はどんな人だろう?」「いいところ、悪いところは何?」

―藤田さんの、仕事においての価値観について聞かせてください。「こんなことを大事にしながら人と関わってます」というところはどんなところですか?

あたりまえと言ってしまえば、あたりまえになるかもしれないんですが――「なるべく相手のことを考える」ですかね。

簡単に言うと、本当にそれだけなんです。

相手の発言ひとつにしても、どういう考えのもと、どういう状況からこの発言が出たのか――相手の立場だったり、忙しさだったりで、喋れる内容も変わってくると思いますし、

相手の方の立場や状況で、どういう言い回しが適切なのかをよく考えるようにはしてますね。

特に、経営戦略室もまたしかりなんですが、私はまだコーディネーターという立場なので、基本は自分より上の立場の方としかお話する機会がないんです。

なので、上の立場の方に失礼がないように――というのが第一前提で、加えて、頼み事をする時においても、お忙しい中でやっていただくということ、

また、どういう性格の方なのかといったところも含めて対応していく――そこは自分の中で大切にしてることになりますね。

―「相手のことを考える」というところは、以前からずっと意識されていたことですか?

考え方のベースになってるのは――これはもしかしたら誰しも一度は通る道なのかもしれませんが――。

学生服の会社の時に、仕事中にゲームをしたり、良くないところがあって、社内からは冷たい目で見られていた方がいたんです。

それで、私がいた部署の先輩に、「○○さんって、ゲームばっかりやってて仕事何してるんすか?」みたいなぼやきをしたことがあったんですよ。

でもその先輩は「あの人は実は、こと営業に関してはすごい人なんだよ」って言ったんです。
「営業という場に移れば、案件も取ってくるし、コネクションも多い。

そういういいところがあるんだよ」って言われた時に、ふとその先輩と話してきたこれまでの話をバーっと思い出して。

その先輩は、人の悪口を一度も言ったことなかったんですね。

「この人のこういうところは良くないけど、こういうところはいいよね」「こういうところを活かせるともっと良くなるよね」。

そういう話し方しかその先輩がしていないことに気がついて、これは大事だな、と。
そこからですね。

「相手はどんな人なんだろう」「良いところ、悪いところは何?」っていうところまでを見る。

介護の現場で例えたら、「この人はマネージャーなのに管理ができない」といった悪い面だけをピックアップして、強く言及する場面があるかもしれません。

でももしかしたら「支援現場に入らせたら、この人スーパーヘルパーなんです」みたいな人かもしれない。

ある一面がよくないからといって、その人を決めつけるんじゃなくて、「いいところがある」「活躍している場がある」っていう多角的な視点で常に人を見るようにはしてる――

そういう意味で、“相手のことを考えること”がベースになりました。

CHAPTER7

「いろんな角度で会社を良くしていく」経営戦略室の仕事

会社全体の危機察知、業務や収益の改善。マネジメントの欠点や改善点――数字を紐解くと見えてくるもの

―経営戦略室の仕事について教えていただきたいです。各事業所や各部署から出てきたデータや数字を分析して、経営状態や業務の効率化についての提案をしている――そんな認識でいるんですが、合っていますか?

そうですね。
そもそも、どの部分にフォーカスして、どうやって数字をつくるかには様々な視点があるんです。

フォーカスする部分が、「売上を伸ばす」なのか、「利益を改善する」なのか、「人件費を下げる」なのか、はたまた別のKPI(重要業績評価指標)なのか――。

でもおそらく私の認識でいちばん最高なのは、「各セクションの理想のビジネスモデルはこれ」というモデルをつくること。

「何か月でこれだけ売上があって、 何ヶ月で黒字に転換して、何ヶ月で売上が伸びていく」

――その理想のプランに対して、「こういうロジックでいけば 売上が伸びるんです」っていう完璧なマニュアルみたいなもの。

「各部署で、それぞれこうです」っていう分析ができるのが、私の中では理想ですね。

とはいえ、なかなかそこまでは行かず、ひとつの段階のひとつの場所に対して、「ここの部分を改善するとどうなるんだろう」といったトライ&エラーを重ねています。

データとして上がってくる数字の裏には、様々な別の数字が掛け合わされていたり、組み合わされたりしているんです。

なので、出てきたデータから「実は、この数字がこういう一定の基準を満たした時に売上がいい状態だった」といった指標や法則を探し出す――そんな仕事かもしれません。

逆に言えば、「業績が悪くなりそうな兆候を掴むには、事前にここをみておくといい」といった言わば危機察知、業務や収益の改善にも分析が使えます。

それだけではなく、組織としてのマネジメントの欠点や改善点、もしくはいいところを見つけ出す――

いろんな角度で「会社を良くしよう」「高浜社長が理想とする会社をつくりあげていこう」っていうマインドでは働いていますね。

―藤田さん自身が今の仕事の喜びを感じるのはどんな時ですか?

今のポジションだと、数字を分析することがメインになってきます。

これまでもずっと経営戦略室で働かれている佐々木直巳さん(ささき なおみ/CSO 最高戦略責任者 経営戦略室室長)は、思慮深く、とても有意義な分析をされているんですが、

なにせ私はその後発なので、佐々木さんにはない分析の視点がうまく出せた時はやっぱり嬉しいですね。

「これは有意義な資料だね」「分析を続けてみて」と言ってもらえた時は嬉しいです、素直に。

与えられた情報の中で考えて、その結果、有意義な資料ができたり、新しい指標として採用されたり――これが現状の私の中での、なんとなくの“心の中での成果”ですかね(笑)。

直接的な成果は「売上が伸びた」「業務内容が改善した」といった部分になると思いますが、やっぱり日々の心の成果としては、そういったところがあるかなと思います。

―今のお話にもつながると思いますが、これからについて――土屋の一社員としてこれから目指していきたいところ、また、藤田さん自身が「こういうことをやっていきたい」と思われていることを聞かせてください。

会社全体というところならば、2024年8月にあった4周年イベント時の高浜代表のプランですね――「2050年までに年商1000億円を達成していく」というビッグビジョンがありましたが、

そのために日々を積み上げて、売上を伸ばしていくために必要なことをしていく――ざっくりですが、それが会社全体としてですね。

私個人としては、各セクションの売上なのか利益なのかーー数字を上げるためのアイデアを出し結果を出すことが目標です。

ただ数字に関しては現場の方々の働きがあってこそですので、現場の方々の話をしっかり聞き、状況や実態に沿った現実的なアイデアを出したいと思います。

CHAPTER8

「福祉制度があるからこそ、安心して暮らせるんだ」という理解

経営戦略室で働くこと、そして介護現場の楽しさを知っていること

―介護のお仕事に就いてから、見えてきたものやご自身の中で変わってきたものはありますか?

介護に携わって思ったのは――もともと、自分の中には障害者や高齢者の方等、普段の自分が接していなかったり、見えなかった人たちの素性がただただわからなかったりという部分があったんです。

正直なところーー障害を持った方と直接関わるまでは「その人が生きていることが何かしら日本の経済に影響するのか」

といったいわゆる“数字から見える生産性”から、人を捉えてしまっていたところがあったんです。

でも実際に介護に携わり、障害を持つ方と人として出会い、国の中で福祉制度がつくられてきた歴史を知っていくことで――

「これは日本の政策や歴史の中でつくられたひとつの制度で、この制度があるからこそ日本では障害を持った人たちも、

ひいては自分たちも安心して暮らせる世の中になっているんだ」という理解ができたかなと思います。

今は逆に「彼らが活躍できる場を、土屋のような会社はこれからつくっていかないといけないな」と思います。

とはいえ、その難しさも感じつつ、「高齢者や障害を持った方々がいい生活を送れるようになれたらいいな」と思えるようになったかな。

―藤田さんは、介護の仕事をなぜ続けられているのか――そこを最後に聞かせてください。

私がこの会社で働く理由は――今、私のこの戦略室という立場である部分と、自分の考え方と、したい仕事が限りなく一致しているからです。

でもなぜ介護の会社で働いているのかと言われたら――それは最初に言った「元気な業界でやりたかったから」とか、そういった理由かもしれません。

でも――私自身は介護業界の魅力を知っている側の人間なので。
介護の会社で働き続ける理由は、“楽しさを知ってるから”ですかね。

―それは現場のってことですか?それとも……

そうです、そうです。

“介護の仕事である“っていう条件をつけるのであれば――介護の現場の楽しさを知っているがゆえに、土屋という介護の会社にいるっていうのはありますね。

 


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