はれのくに在宅クリニック

はれのくに在宅クリニック

入江真大

杜の街 院長

長島愛生園から続く道は、入江真大を土屋に連れてきた

 《interview 2026.10.14》

生まれ育った岡山で、はれのくに在宅クリニック 杜の街 院長として働く入江真大(いりえまさひろ)。
医師として病院での経験を重ね、最先端の技術や研究を進めていく中でふれたのがハンセン病療養所での“生活に近いところにある医療のかたち”でした。
その後、在宅医療の可能性を実感しながらも、制度や構造の限界を感じてもいた入江。
ですが、土屋グループ代表・高浜敏之との出会いからその“可能性”が一気に動き出します。
土屋グループとしてのクリニックの開院、これまで“壁”を感じてきた既存の制度への提言。
医療・介護といった業種で分断されない、さまざまな背景を持った人が手を取り合って地域を支えていく共生社会へ向けた動きーー開院からもうすぐ一年。
入江が見てきたこれまでとこれからの景色を訪ねます。

CHAPTER1

プロ野球選手か、Jリーグの選手になりたくて。

穏やかで冷静でマイペース。こどもの頃からそこはずっと変わりません

―こどもの頃のお話から伺っています。入江さんは、生まれ育ったのはどちらになるんですか。

出身は岡山県の県庁所在地がある岡山市です。
市内に大きな総合運動公園があるんですが、小さい頃はその近くに住んでいました。

―小さい頃はどんなお子さんだったんでしょう。

割と活発でした。
ペルテス病というこどもに多く見られる股関節の病気があるんですが、その病気が原因で4歳の時に国立岡山病院に入院して。

幼稚園には最初の頃は通えずに、1年だけ行きました。
幼稚園に行ってからは近所の友達ができました。

その頃、住んでいたのは団地だったので、団地の駐車場で友達とゴムボールとプラスチックのバットで野球をしたりーーボールで遊んでいても、目くじらをたてられない時代でしたからね。

―その後、中学や高校ではどんなことをされていたんでしょうか。

国立大学の附属中学校に進学して、野球部に入部し、キャプテンをしていました。
その時の顧問の先生が今、次男の小学校の校長なんです。

今でも親子でお世話になってます。
委員会は体育委員会に属したり、どちらかというとスポーツの分野での思い出が残ってます。

―その頃から「お医者さんになりたいな」とは思われていたんですか?

その頃は、なれるとは全然思ってなかったですね。
身のまわりに医療関係の人もいなかったので、そういうイメージも持っていませんでした。

ただ、『救命病棟24時』『Dr.コトー』といったテレビドラマを見て、「すごいな」と思っていたのと、ちょうど中学生の時に「岡山大学が日本で初めての生体肺移植を成功させた」というニュースがあって、それは印象に残ってます。

今であれば、岡山県出身の人があちこちで活躍していますが、その頃は「岡山がいちばんになる」っていうイメージが自分の中になかったので、そういう意味で、そのニュースは心に残りました。

医師になってからは肺移植のチームに入ったのでーーおそらくその頃の影響があったのかな、と思います。

―では……もっと小さかった頃、なりたかったのはどんな人やどんな仕事でしたか?

最初はプロ野球選手でした。
小学5年生の頃にJリーグができたので、そこからはJリーグの選手です。

バスケもやっていたんですが、体格に恵まれませんでしたね。
なので、プロスポーツ選手は早くに諦めて。

父が公務員で母が教師だったのと、もともと進路が理系だったので将来は工場や設計、開発といった仕事のイメージをぼんやりですが持っていました。

ある時――ふとしたきっかけで「歯医者になろう」と思ったんです。それで高3の春休みに大学の歯学部を見に行ったんですが、歯学部と医学部の校舎のつくりや規模があまりに違っていて、その差に歴然として。

あの時はちょうど歯学部の校舎が古くなっていたタイミングだったのかもしれないんですが。

周りの人からも、「歯科医じゃなくて、医者になった方がいい」と言われて、高3の春に「じゃあ、医学部を目指そう」となりました。

それまでコツコツ勉強してたのも功を奏したのか、そこから1年間本気で勉強して岡山大学の医学部に入学しました。

―性格的なところやどんなところでもいいのですが、「この部分は今も変わらないな」みたいなところがあったら聞かせてください。

そうですね。あまり怒ったりしないところですかね。
穏やかで冷静でマイペース。そこはずっとそんな感じです。

私自身は「何かが飛び抜けている」というタイプではなかったんです。
中学校で野球部のキャプテンもしましたが、もっとすごい選手や、もっと勉強ができる人はいましたから。

そんなにグイグイ行くタイプでもなくて、大体は“2番手”っていう感じでしたね。

CHAPTER2

病院での経験と、生活に近い場所での医療。そのあいだで

ハンセン病療養所での経験。病院ではない環境で働けたことは人生の大きな転機だったかな、と思います

―医学部に行かれてから、実際にお医者さんとして働き始めるまではどんな流れがあったんでしょうか。

そうですね。
その後、大学に入ってからーー中学生の時に一緒に野球をやってた先輩もいて、また野球を始めました。

ただ、野球にあまりのめり込むと学業に支障が出るかな、とは思っていて。
両立できるほど、“すごい人”ではなかったですし、学業の方でも国立大学の医学部なので、そこでも当然トップになんてなれない。

自分よりも優秀な方はいっぱいいました。

ただその頃に、アメリカの肺移植の学会に日本の肺移植の第一人者である教授や若手医師らと一緒に行く機会がありました。

行った先で、現地に留学中の医師や他国留学中の医師と会ったり、いっしょにメジャーリーグの野球を見に行ったりする機会があって。

そのまま縁がつながって、その後は、その肺移植のグループに入って面倒を見てもらう、という形で専門分野を決めました。

岡山・倉敷の基幹病院で外科研修を行った後に岡山大学病院に戻り、肺がんや肺移植に関する研究、外科や呼吸器外科での診療に携わってきました。

―国立ハンセン病療養所である長島愛生園(岡山県)でも働かれていた、と伺っています。

そうですね。
岡山大学病院に戻って2年目に、長島愛生園に行くことになったんです。

本当は研究をする年だったんですが、たまたま研究施設の改修工事があり研究に集中できる環境ではなかったので、愛生園の中にある病院で働くことになりました。

週3回ほどでしたがーー振り返ってみると、生活環境と近い医療機関で働けたことは人生の大きな転機だったかな、と思います。

―どんな面で、だったのでしょうか。

そうですね。
それまでは病院で医師として働きながら、世界最先端を目指すような肺移植の研究をしていたんです。

医師になると、専門医としての資格を取得し、大学病院で働きながら「自分の研究分野で成果を上げて博士号を取る」のが当面の課題になります。

でも、愛生園に行ってみたらーーちょっと言葉は悪いのですがーー“世界最先端”どころの話じゃなかった。

愛生園は、ハンセン病だった方が生活をしている場でもあり、同時に医療や介護を受ける場でもあります。
「今の生活をどうやって快適にするか」「どう成り立たせるか」という生活の場でもある。

病院にいる時に出会うのは、病気を“治しに来てる”方がほとんどです。

でも、愛生園は住んでいるところと病院とが隣同士にあって、生活を前提とした治療や医療の関わり方があった。
「これは、在宅医療と近いところがあるな」と感じました。

そういった「“世界最先端”の治療がどうこう」とか「大きな病院でしかできないこと」といった世界とはほとんど反対に近い、人々の暮らしに近いところで経験を積めたのは、これまでと違う医療のあり方や考え方に触れられた転機だったな、と思います。

一方で、肺移植の研究をしっかり全うすることも課題だったので、それはその後も続けていました。

「そのまま海外へ留学して最先端を目指す」とか「手術が上手になって後輩を育てていく」といった方向に行く道が、医者としては順当な路線なんです。

でも、家庭の事情もあったのと、肺のことだけを専門にして極めていくことへの不安みたいなものがあってーーただ、自分は他の分野も極めつつやっていく、というほど器用でもなかった。

でも、せっかく医師になったので、他のこともできた方がいいのかな、と思って分野を広げていくことを意識して。

「留学はしない」と決めた後からは、障害者病棟――くも膜下出血や脳卒中、事故等で障害を持った方が長期入院してる病院――で勤務したり、研修医の時以来、内科外来も1回やってみたり、そういったことで学び直しをしました。

在宅医療もその頃からやり始めました。
今からちょうど10年ほど前のことです。

―その人の生活に寄り添うような医療のあり方は、入江さんの中で、「これ」っていう何か大きなきっかけがあったというよりは、いろんな経験や出会いが重なって、緩やかにそちらの方向に進むようになったーーという感じだったんでしょうか。

そうですね。
医師は大体みんなそうなのですが、最初は“病気を治す”というところに専念します。

まずはそれができるようにならないといけないので。
そこができるようになった後、視野が広がっていくというかーー。

そうやって患者本人のことから、徐々にその周りの家族のことを考えるようになったり、他にも病気が治った後のこと、家族以外にも介護職や訪問看護、さまざまな方が治療に関わっていることが見えてくるようになる。

治療そのものもしっかりしないといけないんですが、
「その人の人生を支えるのは、治療だけでは不十分なんだ」ということがわかるようになります。

その「医療だけではできない」というところは、一貫して感じていましたね。

病院の中だけじゃなく、退院してからの在宅生活も含めたチーム医療・チーム介護を意識するようになったのも、病院を退院できない方との出会いからでした。

そういった方が「なぜ退院できないか」というと、ほとんど介護の問題からなんです。

「医療的ケアが必要だから病院でしか暮らせない」という人もいれば、「さまざまな事情でひとり暮らしができない」といった人もいる。

そうすると今度は、医療や介護の制度の問題も見えてきてーーそうやって、ひとりひとりの患者さんの状況や課題を解決していく中で勉強をしながら、知見を広げていきました。

CHAPTER3

在宅医療という可能性

在宅に戻ると、意外となんとかなるし、なんでもできる(なんでも無制限というわけではないですが)

―これまでのご経験の中で、「今の自分をつくってくれたな」という人との出会いや、ターニングポイントのような出来事がありましたら教えてください。

2つあって、そのうちひとつは失敗談というか。

A L Sの方を担当した時に、必要な機器や医療体制を整えられず、コミュニケーションがうまく取れなかったり、家で過ごすことがなかなかできなかったりーー。

そういう課題が残った一例がありました。
その方には食道ろうの手術もさせていただいたんですね。

でも、その方からは「食道ろうをしていると、介護職員では医療的ケアができないから施設でのショートステイは難しい(*)」という話を聞きました。

この後の土屋との出会いにも続く話ですが、そこで制度の壁をはっきり意識したこともありました。

一方で、これは在宅医療の話なんですが、嚥下障害がある方に歯科医師や言語聴覚士、栄養士といった方々に関わってもらうことで、患者さんの食べる量が増え、安定して食べることができ、胃ろうがいらなくなってーー多職種で連携することで、そういった成功体験を得たこともありました。

「多職種の連携で課題を解決する」。
実はこれ、病院でやろうとすると、病院内で働いている方以外の職種に外から来てもらうことがすごく難しいんです。

患者さんが退院前提だったら関われることもあるんですが、「病院にいる間は、医療の制度に従って、病院にいる職員でなんとかするしかない」というところがあるのでーー。

例えば、「コミュニケーションをする機械を入れる」という時、「誰が使い方を教えるか」「費用の負担をどうするか」といった課題がいろいろ出てきます。

でも、在宅に戻ると意外となんとかなるし、なんでもできるんだーーということを感じたんです。

もちろん無制限ってわけではないです。
でも、いろんな制度が使えるし、職種に関しても、「ある病院には◯◯が得意な看護師さんがいないけど、在宅であれば、◯◯が得意な看護師さんを探して来てもらうことができる」とか。

そういった面で在宅医療に可能性を感じたのもあって、そっちの方向に向かっていった、というところはありますね。

でもーー「制度の問題を解決したいな」とは思っていても、「ひとりじゃできないな」っていうところでずっと悶々としてて。

また学会でも先輩の先生方から「医者だけでは、制度がなかなか変えられなくて困ってる」といった状況でーー。

そんな時に高浜代表(高浜敏之・たかはまとしゆき/土屋グループ代表取締役)と出会って、積極的に在宅生活や在宅での医療的ケアを進めている土屋グループとつながることができたのは本当に“渡りに船”でした。

ちょっと余談になりますが、食道ろうについては今年(2026年)の内閣府の規制改革推進室の議題にのぼって、ほぼ全会一致で通っています(*)。

課題にあげてから2年ちょっと。
医師だけでは解決しなかったところを、当事者の方やさまざまな職種の方に協力していただいて、「制度をいい方向へ変えていく」方へ動けました。

それができたのも高浜代表との出会いがあったからかな、と思います。

―今年の5月に高浜さんが内閣府でお話をされたものですよね。

そうですね。

吉岡理恵さん(よしおかりえ/株式会社土屋 取締役)と高浜さん、それから高浜代表がつなげてくれたパブリックアフェアーズ協会という政策実現の支援をしている団体、筋ジストロフィーの当事者とその家族の団体、外科の先生や胃ろうや食道ろうの専門家が集まる専門職の団体、それから在宅支援の専門家や厚生労働省の方々等――多くの専門家やさまざまな分野の方が集まった会議の中で、ほぼ反対なしで通りました。

この問題をきっかけに医療的ケアにまつわる他の制度も1個ずつ解決していけたらな、と思います。

ただ、「ひとつひとつやっていたら何十年もかかるから、抜本的に見直さないといけない」という話にもなってますので、在宅医療が時代に合った形でできるように、今後も行政への提言をしていけたらな、と思います。

*「食道ろう」と「内閣府の規制改革推進室での提案」について

「胃ろう」「食道ろう」とは、病気等によって口から食事が十分に取れなくなった時に、チューブを通じて直接体内に栄養を届ける医療行為です。

「胃ろう」はお腹に、「食道ろう」は首の頸部に手術で小さな穴を開け、そこからチューブで栄養を送ります。

<医療的ケア>とされるこの行為を行なうのはもともと医師や看護師等の医療従事者に限られていましたが、「胃ろう」を必要とする方が在宅生活を送る上で不可欠な行為のため、ALS当事者の声をきっかけに、一定の研修を修了した介護職員において「胃ろう」ができるようになった、という経緯があります。

一方で、「食道ろう」についてはこれまで介護職員が行なうことは制度上できない仕組みになっており、当事者や家族、介護現場からもさまざまな声が寄せられてきました。

このような介護現場の実態に合わない法律や規則に対する変更を提案する取り組みを行なう全地連(全国障害者地域生活支援事業者連絡会/代表理事;高浜敏之)は2026年5月、内閣府に置かれている政府の規制を見直すための<規制改革推進会議>において、「食道ろう」を介護職員にも実施可能な行為として追加するよう求めるスピーチを行ないました。

CHAPTER4

高浜代表との偶然の出会いに導かれて

自分がクリニックを開くなんて、“寝耳に水”でした

―ちょっと戻っちゃうんですがーー高浜さんとの出会いのところを、もう少し詳しく聞かせてもらえますか?

そうですね。
本当にたまたまなんですがーー高浜代表とは、保育園の10周年記念イベントでお会いしました。

うちのこどもたちが3人とも通った保育園で、当時は誰も保育園には通っていなかったんですが、卒園してからも小学生向けのイベントには参加して、お世話になっていたんです。

その保育園で卒園生も参加できるデイキャンプのイベントがあって、行ったら、初めて見る方がいてー―保育園にもまだちょっと馴染めてないような感じでした。

それが、高浜代表と大山景子さん(おおやまけいこ/一般社団法人 土屋教育文化財団代表理事)のご夫婦でした。

ちょうどそれが2024年の3月の終わりの頃です。

僕なんかはこどもが3人ともその保育園で、合わせて7年ぐらい通っていたので、結構な古株だったんです。

でも高浜さんと景子さんのお子さんは、「今月から入園したばかり」ということだったので、当然、知り合いは少なそうでしたからご挨拶をしてーー確か、自己紹介は高浜さんから「在宅介護の会社をやってるんです」と言ってくださったと思います。

「介護の会社」と聞いたので、僕の中では小さい会社のイメージがあったんですが、話を聞いているうちに「どうやらそうじゃないっぽいな」、とーー。

そこから、医師や看護師以外の介護職が行なう場合は研修が必要となる喀痰吸引の制度についての話もしました。

ただ、その制度自体は僕自身が医者になった後にできたものなので、「そういう制度があるらしい」ということは知っていたんですが、そんなに詳しくなかったんです。

その頃は「外科医としてバリバリやろう」と考えていた頃だったので。

そこから、「胃ろうに関しては在宅で介護職員の方にしてもらえるけど、食道ろうは今の制度では介護職の方ができない仕組みになっている」という、以前、A L Sの方のところでぶち当たった課題にもすぐつながったので、高浜代表の意見も伺いました。

こういった話は、僕自身、これまで全く通じないことが多かった。

でも高浜さんはその制度の課題はご存知で、「土屋では、制度上の判断から食道ろうの医療的ケアはやっていない」ということもはっきり仰いました。

その返答を聞いた時、話が通じたこと、しかも前向きに受け取ってくれたことにも衝撃を受けました。

それで、家に帰ってからポケットに入れた高浜さんの名刺を取り出してーーでもその日は外でのデイキャンプだったので、くちゃくちゃになってたんです(笑)。

会社のホームページを見たら、えらいでかい会社で、「そんな規模の会社だったんだ」、と驚いて。

東京ならいざ知らず、「岡山の、片田舎のデイキャンプで、こんな人に会うなんて」という思いでしたし、「これはめちゃめちゃラッキーだ」「仲良くなりたい」と直感しました。

それが日曜日だったんですがーーその2日後に街でたまたま会ったんです。

―……偶然、お会いしたんですか?

そうなんです。
その後、調べていたら、高浜さんが書いた本があるのを知りました。

その日は訪問診療があったので看護師さんと一緒に車で出かけて、「一昨日、高浜さんという人と出会って、その人はこういう本を書いてるらしい」という話をしたら、その看護師さんが「その本、読んだことあります」とーーそんな話をしてたら、目の前に高浜代表があらわれたんです(笑)。

訪問先の近くの駐車場に停めようとしたら、高浜代表が電話をしながら目の前を歩いていて、「あ、この人です」って(笑)。

それで車を横付けして、「2日ぶりですね」と挨拶をしました。

そんな、なかなか運命的な再会が2日後にありました。

そこからはーー高浜代表のFacebookともつながって、さまざまな職種の方も交えて食事をすることになったり。

ちょうどその頃、海外人材に関する動きで高浜代表がベトナムに行かれた時の話が書かれていて、たまたま近くで外国人向けの寮をつくって外国人をたくさん受け入れてる実績のある病院があったので、一緒にそこへ見学に行ったり。

そうやって何度かお会いしていく中でーー7月ですかね。
高浜代表から「クリニックをやってほしい」という話がありました。

―すごい勢いです。

“寝耳に水”でしたね。
自分がクリニックをやるとは思っていなかったので。

その場では一旦、お断りをしたんですが、帰ってから一晩考えてーーやはり病院にいるといろいろお伺いを立てないといけないことや、ひとりでやるとしても動きにくいこともあったので。

でも、「一緒にやっていったら、制度を変えることができる」という意味でも、「ここは一念発起して、このお誘いに乗ろうかな」と思って、翌日に「前向きに検討させてください」と改めてお返事をしました。

そこから話が進み出しましたね。出会ってから4ヶ月です。
3月末に出会って、クリニックの開院に向けて動きはじめたのが7月末だったので。

CHAPTER5

患者さん”を真ん中に。医療と介護のかさなるところ

病院での医療から、地域での生活を支える医療へ

―その後、2025年10月に一般社団法人 土屋雉翔会 はれのくに在宅クリニックを開院され、土屋グループの医療領域を担っています。
ここからは入江さんの価値観というか、日々思っていることや普段考えていること等を伺いたいなと思います。医療のお仕事を続けられてきた中で、また在宅医療にも関わられてきた中で、ご自身が変わってきた部分があったら、伺いたいです。

繰り返しになりますが、医療分野で研鑽していく中では、「より良い治療法」や「病気を治す」というところに主眼を置いてきました。

でもその中で、年老いたり、障害を持つことになったり、人はいろいろと状況が変わっていきます。

その時、必ずしも“その医療がベストチョイス“というわけではないーーそういう状況になった時、価値観というのは人それぞれですので、「最後まで治療を諦めたくない」という人もいれば、「限られた時間があったとしたら、家族と過ごしたい、家で過ごしたい」ということを考える人もいる。

当然、医療を尽くしたとしてもすべての病気が治るわけではないですし、人は必ず亡くなります。

私自身もーー年齢を重ね、家族ができていく中で価値観や考え方もだんだんと変わっていきました。
外科医としてトップを目指していくことをやめたのも、家族ができたからだと思います。

―医療というお仕事や、人と関わる時に大切にしていることはどんなことですか。

なるべく相手の立場に立った医療を大事にしていますね。
基本的には本人が中心の医療を行なっていますが、隣にいる家族の気持ちも同時に考えないといけないところもあります。

この仕事を続けていく中で、価値観はそういうふうに変わっていきました。

それから、さまざまな制度についても、障害者運動についての本を読んでーー当事者の方たちが頑張られて、国と戦って、制度や行政を変えてきた歴史を学んで、「制度を変えることはできないわけではないんだ」「やり方によっては制度は変えられるんだ」ということも知りました。

そうやって、「現行の制度に縛られなくていい」という考え方に自分も変わっていったな、と思います。

―在宅で暮らす患者さんたちと関わられている中で、どんなところに嬉しさを感じられていますか。

そうですね。
今は在宅医療チームのリーダーとして、一医師として、という立場に加えて、クリニックの運営にも関わっていますので、一緒に働く仲間のことも同時に考える立場になりました。

そこは力を合わせていかないといけないな、と思います。

それとーー土屋でいうと“クライアント”という言い方ですが、医療だと患者さんっていう方が一般的なので、“患者さん”という言い方をしますねーー関わる患者さんの家族を含めて、当事者の方の生活を医療の面から支えること。

クリニックを中心に、その他の事業者の方々とうまく連携できた時はやりがいがありますし、嬉しいな、と思います。

もちろん、それが土屋グループ内でうまく連携できる時もあれば、グループ内だけでは必要な職種や人手が足りない時もあります。

それはどちらに限っているわけではなく、その時々で、クライアントや患者さんに相応しい形であれば、地域の他の事業所とも連携しますし、土屋グループ内でも連携します。

そういった形でいろんな人の力を借りて、土屋グループとしての目標に向かっていきたいですね。

スタッフや関わる方みなさんがやりがいを持てたらいいな、と思いますが、ただここは同じ方向を向いていても、価値観はそれぞれなので、結構苦労するところはあるのかな、とも思います。

―これまでインタビューの中でさまざまな職種の方からお話を伺ってきたのですがーー医療と介護、というところではなかなか交われない部分があるっていうことを伺うことも多いです。入江さんはその辺りはどんなことを思ったり、感じられていますか。

そうですね。

お互いに遠慮をしてしまって、「何を相談していいのかがわからない」ーーそういう問題もあるかもしれませんし、医師として働いていると、「遠慮されてるな」とも感じますし。

<パーソンセンタード・ケア>という当事者を尊重する認知症ケアのあり方がありますが、「介護職も医療職も、中心に当事者である患者さん/クライアントがいて、その人を支えるメンバーの一員である」ということでは、役割がちょっと違うだけで、同じ立場なので。そういった意識をお互い持てたら、壁がなくなっていくんじゃないかな、と思います。

そこは同じ土屋グループの一員として働いている、というところでは、お互いに「この人はどんな人か」がわかりやすいですよね。

特にホームケア土屋の事業である重度訪問介護については、喀痰吸引といった医療的ケアがあるので、アテンダントのみなさんが携わられているケアの内容自体が医療に近いことですし、クライアントの見守りの時間があったり、と長時間の在宅介護になるので、在宅医療の診療の時間と重なることも多いですから。

それもあって、重度訪問介護や医療的ケアに携わっている方との壁は低い方なんじゃないかな、とは思っています。
「そういった共通点から、お互いに良い関係が築けたらいいな」と僕自身は思ってますね。

ただ一方で、実際にそう思っている医師はひと握りだとも思います。

だからこそ、ここを皮切りに連携や関係性を積み上げていくことが大切なわけですがーーそういった医療・介護チーム内での声のあげづらさに関しては、構造上の問題もあるので、それを解消するために、はれのくに在宅クリニックでは<メディカルケアステーション>という情報連携ツールを使っています。

場合によっては家族の方にも入ってもらったり、介護職の方にも入ってもらって、誰もが気軽に声をあげられるような工夫をしてます。

うまくいってるチームもあれば、関係を積み上げていくことが難しい方もいらっしゃるーーという例もありますが、こればっかりはコツコツやっていくしかないですからね。

―<メディカルケアステーション>というのは、どんなシステムというか、場所なんですか?

情報共有ツールで、例えて言うなら、グループラインみたいな感じです。

患者さんごとのスレッドがあり、それぞれに異なったメンバーのグループがあって、ひとりの患者さんに関係している事業所に入ってもらってます。

例えば、薬剤師さんが薬を持って訪問する時は、医師から「この薬が少なくなってるから、次回出してください」「副作用が起きている/起きてない」といった内容を伝えたり、「訪問看護さんがこんな工夫をしてます」とか、福祉用具の方が「手すりを買いました」とか、デイサービスの方がその時の状況を共有してくれたり。

他にも、栄養士さん、歯科医師といった多職種の方が入ってくれてますね。
そういったさまざまな職種の方が一堂に入れるツールというのは、他にはほぼないので。

そういったいわゆる“その人のその日の状況や情報の共有”と併せて、もう少し深いところの相談があることもあります。

患者さん本人がご判断ができる状況だったり、家族が遠方の方だったりする場合には、本人やご家族が入ってるグループもあれば、入っていないグループもあります。

それから、患者さんのこどもや、親に入ってもらうこともあります。新しいクリニックなので、そういったICT(情報通信技術)を使った連携に関しては、積極的に取り入れていますね。

CHAPTER6

横のつながりを広げながら、24時間365日、地域で暮らす人の生活を支えていく

地域共生社会に向けてーー自分の足元からやっていくことが、全国の動きにもつながっていくと思いますし、今後は各地の力を合わせて全国でいい方向に動いていけたら

―生まれ育った岡山でクリニックを開院されて、もうすぐ1年になります。地域の中でのクリニックの役割、それから地域共生も含めてクリニックや入江さんがやってらっしゃることーーどんな方向を見て、進んでいるのかを聞かせてください。

岡山市という地域には15年、20年と続けられてきたクリニックもありますし、介護保険ができる前から続けられてきた在宅医療のクリニックもあります。

その中で、一般社団法人土屋雉翔会 はれのくに在宅クリニック杜の街は、2025年10月にできたばかりです。

既存のクリニックとの連携もしていますが、まだ実績があまりないので、「地域の中で何かを引っ張っていく」なんて立場では全然ないんです。

でもーー注目はされてるのかな、とは思ってます。

同業のクリニックや、医療だけでなく介護や福祉事業所――そういった横のつながりを意識しながら、地域にも貢献できるような存在になっていきたいですね。

今年に入ってからは、地域共生社会に向けて<NPO地域共生おかやま>というNPO法人もつくりました。

というのも、地域でのつながりを編んでいくには本業のクリニックだけではどうしてもカバーしきれないところがあるので、その草の根的な活動の部分をNPO法人で担っています。

そしてNPOになれば、もはや我々が中心にならなくても動いていける。

だからこそ、動きたい人が動ける環境を整えること、やりたい人が続けていけるようにーーそういう意味では「地域を巻き込む」というか、一緒にやっていってますね。

2年後くらいには、地域共生の学会も準備しているんです。
(NPO地域共生を支える医療・介護・市民全国ネットワーク 第7回全国の集い in 岡山 2028)

学会の中で、岡山発の事例を共有しつつ、岡山という地域のレベルアップにも貢献できたらな、と思っています。

そういうことを自分が住んでいる地域で、足元からやっていくことが、全国の動きにもつながっていくと思いますし、今後は各地の力を合わせて全国でいい方向に動いていけたらな、と思ってます。

―これからの歩みが楽しみです。

そうですね。

土屋グループは全国展開をしていますから、もちろん、グループ内で貢献できるようにーーという目標はひとつありますが、と同時にもう少し広い視点や、違う立場で、地域やそこに住む方々と関わっていきたいですね。

僕自身もそうですが、医療や介護に関わる誰もが、地域の中で、仕事としてだけではない存在になることで、必然的にさまざまな立場や背景の方から相談される立場になれるんじゃないかな、と思います。

その上で、それぞれに得意分野があると思うので、「できる人にやってもらう」のも大事です。
ひとりではできないですからね。

そういう意味では、「自分の限界を知ること」も僕にとってはターニングポイントのひとつでした。
さまざまな研鑽を積んで、いろいろなことができるようになったけれど、「できるようになる」だけじゃダメだった。

人には苦手なところってどうしてもあるのでーー。

チームで動いていくには、自分ができないこと、苦手な部分を他の人に任せられるようになるのも大事なことかなぁ、と思います。

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