《interview 2024.1.12》
株式会社 土屋の監査役スタッフとして、現在は社内のコンプライアンス業務を請け負う福武早苗(ふくたけさなえ)。2017年に重度訪問介護の仕事をスタートさせてから、その土地、その時に与えられた「しごと」と向き合い、キャリアを切りひらいてきました。仲間たちと事業所を立ち上げ、ともにクライアントの声を探し求めてきた日々を経た、今。彼女が見つめてきた風景とともに、自身のこれまでを振り返ります。
株式会社 土屋
監査役スタッフ
株式会社 土屋
監査役スタッフ
株式会社 土屋の監査役スタッフとして、現在は社内のコンプライアンス業務を請け負う福武早苗(ふくたけさなえ)。2017年に重度訪問介護の仕事をスタートさせてから、その土地、その時に与えられた「しごと」と向き合い、キャリアを切りひらいてきました。仲間たちと事業所を立ち上げ、ともにクライアントの声を探し求めてきた日々を経た、今。彼女が見つめてきた風景とともに、自身のこれまでを振り返ります。
CHAPTER1
岡山県倉敷市の小さな漁村で生まれたという福武。
福武「小さい頃は、すごく内気というか――外に向けて、自分の気持ちを発信するのが非常に苦手な子どもで。私はふたり姉妹の妹なんですが、家庭の中で親に何かを伝える時でさえ、姉に耳打ちして『こそこそこそ、お姉ちゃん、何々って言って』なんて姉に伝えてもらっていました。
女の子の遊びはどちらかというと苦手で、近所の男の子と一緒に釣りに行ったり、昆虫採集したり。おままごとも形としてはやってましたけど、それよりは探検に行く方が好きでしたね。
小学校の時は『おとなしい』と見られがちな子どもでした。当時は、私は『嫌』とか『ダメ』を相手に言えなくて、“いじめごっこ”みたいなものの対象になってたんです。その頃は、友達の後ろについてまわっていたし、前に出るタイプでもなかったので、幼馴染みも『引っ張っていかないといけない』『お世話しないといけない』と思っていたみたいです」
その後、地元の中学へ。
福武「中学校は、小学校と違って、いろんな地域から子どもたちが集まってくるんですよね。
小学生の頃まで、私の髪はいつも父親がおかっぱにカットしていました。中学2年でお店へヘアカットしに行くようになってからは、見た目も徐々に変わり、当時は“なめ猫”という学ランを着た猫のキャラクターが流行っていたので、友達と制服のスカートを長めに、カバンは薄くして学校に行くようになって。
そのうち、不良グループに私だけ呼び出されて、難癖をつけられたんです。でもその時、『なんでそんなことするんですか?』と言い返したら『この子、言うんだ』って相手がなって。『あっ、言えば、まわりは変わるんだ』と中学生の時に気づきました」
その頃から福武は、自分の思いを、外に向けて言葉にしていくようになったと言います。
福武「多分、溜め込んで言わないだけで、私自身は内気でも何でもなかったんだと思うんです。ただ発信することが苦手だっただけで、『苦手』と思い込んで、諦めていたというか。
黙っていることに慣れていって、それでいいと思っていたけれども、『言わないと変わらないんだ』って、勇気を出して言ったことでまわりが変わった。
最初はかなりいろんなことを言ったみたいで、『結構、言うんだね』なんて言われたんですけれど(笑)。それから、『言わないと損だ』と思って、思ったことは発言するようになりました」
CHAPTER2
これまでのことを尋ねると、「私自身はごくごく平凡で、海外も一回も行ったことのないような人間なんですが――」と話す福武ですが、『洋服』や『ファッション』への強い興味は、幼い頃から育まれ、その後も大切にしてきたものだと言います。
福武「父親の実家が昔、呉服屋さんだったんですね。幼少期から、デパートへ行ったら父親から『生地をさわってみろ』『この生地の違いはなんだ』なんてよく言われて、その行為が癖になっていたみたいです。『なんか触りたい』という、生地に対する執着心というのか――。
私は倉敷の田舎に住んでいたんですが、高校の同級生でファッションセンスにすごく長けてる友達がいて、その子と一緒に出かけてみたり、わざわざ岡山市まで出かけて髪を切りにいったり。短大に行ってるお姉さまたちへの憧れもあって、『とにかく早く働きたい』と思っていました」
その裏には、個人的な家庭の事情もあったと言います。
福武「小さい時から、うちの両親が不仲で、私が中学2年生の時、父親がいなくなったんです。
でもある日、いなくなった父親から電話がかかってきて、たまたまその電話を受けたのが私で。『遠方にいるから帰れない、これからはお母さんとお姉ちゃんと3人で協力して生活なさい』と。『何を言うとん…?』と、子どもながらに呆れたのを覚えています。
私は、幼少期の頃から父に勉強、勉強……っていう早期教育――今思えば、わけのわからない、スパルタ教育なんですが――を受けていたんですよ。外で遊ぶのも父に気を使っていたし、父が仕事から帰って来たら、勉強しないと注意される――。
中学ぐらいまではものすごく勉強をしていたんですが、急に父がいなくなって、『勉強しなさい』と言われる日々からは解放されました。でも、高校は先祖代々通っている学校に通うことしか認めてもらえず、しかも『女の子は大学に行かなくていい』と言われて……その言葉に違和感を覚えてしまって、『だったら今までの勉強の時間って何だったん?!』って。
その反抗心もあったし、勉強する目的も見いだせなかった。家も楽しくなかったし、働くにしても何をしようかと思ったら、やっぱり洋服が好きだったのもあって、高校卒業式の翌日から働き始めたんです」
当時から自立心の強かった福武。高校ではこんな逸話も。
福武「ファッションで言うと、私の世代はちょうどバブルの時期。その頃は“ハウスマヌカン”っていう言葉――アパレル女性販売員の意味なんですが――が流行っていて、『かっこいいな』なんて思ってました。
当時、ハウスマヌカンの間ではソバージュやフラッパーっていうパーマが流行していたので、私も卒業式があるのにパーマをかけに行って――私自身は不良少女でも何でもないんですよ(笑)。
でも、その髪型で学校へ行ったら、先生から『卒業式とパーマ、どっちが大事なんだ』って言われてしまったので、『私は働くんです。パーマが大事です』なんて言い返して。高校の卒業式には出させてもらえませんでしたね、そういえば(笑)」
CHAPTER3
その後、福武は結婚し、長女を出産。
介護の仕事と出会うまで、さまざまな職種を経験してきたと言います。
福武「介護業界で働き始めたきっかけは――私は離婚をしてるので、『自立したい』と思ったからなんです。離婚を選んだのも、『自立する』という目標があったからでした。
でもやっぱり女性で、子どももいて、手に職もないのに自立するって、本当に難しいんですよ。私は資格も持っていなかったので、当時は契約社員での採用しかなかったですし。
重度訪問介護の仕事と出会うまでは、いろんな仕事をしていました。宝石を売ったり、化粧品やエステの仕事をしてみたり、不動産の仕事もしていました。でもどれも仕事が嫌で辞めたんじゃなくて、やっぱりお給料だったんです」
福武の長女には障害があり、当時は「『これからどうやって生きていこうか』と……差別の言葉や環境の中で、日々葛藤しかなかった」と言います。
福武「このインタビューは――私としては、女性で、一人で生きていきたいっていう方に、土屋に入ってもらったら安定して生活ができますし、子どもさんがいらっしゃるんであれば、子どもさんも安定した生活を過ごせますよ、ということを伝えたかったのもあるんです。
女性の給料は、資格も何もなかったら本当に手取りが少ないんです。まずは年齢の壁がありますし、子どもがいると自分事以外で休む必要性が出てきます。働く時間帯も子どもへの配慮が必要で、資格やキャリアがあればそれなりの給与を提示している職に就ける可能性はあるけれど、私はそれもなかった。
『引っ越しもできないし、病院行くのもどうしよう』って悩む時期があるんですよね。どこかが痛くても我慢しないといけない、子どもに欲しいものも買ってあげられない。食費も切り詰めて、家賃に悩むような給与では余裕もなくなります。
今は、お金がすごくかかる時代なので。自分が子どもを引き取ったことによって、『あれもダメ』『これもダメ』と子どもにも自分にも制限をするような生活をさせてしまう。幸せはお金で買えませんが、お金が少ないとできることも減ってしまうんです。
そういう意味で、私にとっての自立は、誰かに養ってもらわなくても、依存しなくても、自分の稼ぎだけで『どうしよう』って思わなくていい状態ですね。『自分自身で、誰にも頼らないで生きていく』っていう意味です。それが私にとっての、ちゃんとした自立。今が、私の自立なんです」
CHAPTER4
2017年、福武は重度訪問介護(重訪)の仕事と出会います。
福武「仕事を探していたらたまたま――東京に本社のあった土屋の前会社が、関西に進出するタイミングだったんです。採用募集を見た時に、“女性も男性も、比べられることなくお仕事ができそう”という感じがあって、『とにかく面接に行ってみよう』と思った。
その時は訪問介護自体、ピンときていなくて『訪問介護って?』『オープニングスタッフって何?』なんて思いながら、興味本位で『受かったら嬉しいな』くらいの気持ちで面接に行ったんです」
その場で採用となった福武は、重訪のヘルパーとしてキャリアをスタートさせました。
福武「やりがいはありましたよね。出てきた数字でしか見ないから、分け隔てなく男女平等で、その点はやっぱり嬉しかった。
コーディネーター候補として入社をしたんですが、当初はクライアントと出会えず苦労しました。でもコーディネーターに昇格して初めて入った支援現場で、支援を必要とする方をなんとか見つけてサービスに繋げられるようになり、エリアマネージャーへの昇格に結びつきました。
その後、自身がエリアマネージャーをしていた兵庫県が数字を一気に伸ばして、全国一位になり、評価された時は本当に嬉しかったですね。自分がやったからこその実感があって、結果が出て、それが今の自分の自信にもなっていますし。
当時、数字で絶対に負けたくなかった私は、鼻息が荒かったと思います。負けず嫌いなんでしょうね。まわりからは『イケイケ』なんて言われていました。今、そんな言葉、聞きませんが(笑)。
キャリアをつくっていく上でモデルにしていたのは、当時の上長の五十嵐(五十嵐憲幸 現・執行役員兼 介護事業部長/研修事業部長)さんでした。アテンダントやクライアントへ、気さくな人柄で程よい距離感を保つところを尊敬していましたし、当時の私は『コンプライアンスって何?』という感じでしたが、五十嵐さんはその分野に長けていたと思います。
また、夜勤連勤でしんどかった時に、関西事業所の立ち上げメンバーだった吉岡さん(吉岡理恵 現・取締役 兼 委員会推進室室長/内部監査室室長/土屋総研所長)が『体調大丈夫ですか?無理してませんか』と、女性ならではの目線で声掛けをしてくださった時は、安心感をいただきました。その当時から、率先して女性のサポートをされていたのを覚えています」
異業種から飛び込んだ福武にとって、初めての介護の仕事。当初、どんな印象を持ったのでしょうか。
福武「私はそれまで、介護をされる側で『いつも有難い』という感謝の気持ちしかなく、介護の仕事に対して3K――きつい、汚い、危険――のようなイメージは当初から持っていませんでした。そもそも家で子どもの介護をしていましたから。
重訪という職種は、訪問先のご自宅やプライベート、ひいては、その人の心の中にいきなり入り込む仕事だったので、近すぎても遠すぎてもいけない距離感の大切さや、病気の知識、家族会や行政、保健所、病院等の様々な福祉関連機関の皆さんの思い、役割等を知ることで、新しい知識も増えました。
これまで出会ってきた関係性もそうですが、この会社で経験を積んだことが糧となり、気づき力を高めることができていると思います」
CHAPTER5
その後、関西のブロックマネージャーのサブとなった頃から社内のコンプライアンス業務を担当するようになった福武。のちの業務にもつながる実地指導の対応方法やチェック方法等を学び、東海・四国・中国地方のコンプライアンス業務を担ってきたと言います。
2020年、“前会社からのスピンアウト”という形で株式会社 土屋が創業し、福武は内部監査室へ異動。内部監査のために、日本各地の事業所を行脚してきました。
福武「コンプライアンスに関しては、前会社の頃から実地指導対策も行なっていたので、とにかくわからないことは放置せず、徹底的に都道府県の行政に質問してご指導いただいたり、ホームページから情報収集をしたり、法令に関する書物を読んだり……
知識を増やしながら、内部監査で事業所に訪問した際には、“しっかり法令遵守し、モニタリングをちゃんとして、営業もできる事業所が増えること“を目標に、皆さんにお伝えしながら仕事をしていきました」
今回、記事の作成にあたり福武が送ってくれたのは、内部監査で全国を周っていたころに撮影された風景写真。彼女が見てきた風景です。
2022年には、当時の社長室へ異動。訪問介護における特定事業所の加算チェックをメインとした法務関連の業務のサポートを行うようになります。そして、同年8月には監査役員・常勤監査の長尾公子を上長に、監査役会としての業務がスタート。
福武「監査役会の仕事は、法令遵守と、働き方に対する皆さんの想いにズレがないか、というところを見ています。土屋にいる皆さんが、業務をしていく中でコンプライアンスが守れているかをパトロールする作業がメインです。
現在は過渡期と言われていて、法令だけでなく、企業倫理や社会道徳、ステークホルダーの利益や要請等の動きを常に見回りながらの業務になります。会社で働いている皆さんのためにもなりますし、ひいてはクライアントのためにも、そして自分自身のためにもなる仕事だと思います」
在宅での仕事となり、身の回りにも変化が。
福武「以前の業務は出張も多く、体力的にも年齢的にもなかなかハードでしたので――移動や出張の多い方には大変申し訳ないのですが――今は在宅での仕事が中心になり、私自身、やっとホッとできているというか。自分の時間もちゃんとつくれていて、ずいぶん健康的になりました。
今の部署の上長である長尾さんは、知識もさることながら、人柄からも学ぶことが非常に多く、『聴く』姿勢や安定感があり、毎週ミーティングルームで会うのが楽しみなんです」
CHAPTER6
介護の仕事と出会って7年。
福武が、仕事の上で、そして人と関わる上で大切にしてきたことを尋ねました。
福武「そうですね。その人の背景も考えた上で、その人自身を受け止めてあげる、ということでしょうか。“受け止めてあげる”という言い方は好ましくないかもしれないですけれども――でも多分、私自身が『ちゃんと受け止めて欲しい』と思っているんです。
人と人との関係性ではそうであるべきだ、と私も思うので、クライアントにも“受け止める“という姿勢を持って、関わっています。
それと、私は誰に対しても態度が同じなんです。どこかの社長さんだからとか、えらい人だからと言って、態度に差があるわけではなく、誰に対しても同じ態度で接しています。
もちろん、ちょっとは分けてるかもしれないですけれど――。人に対して“平等である”ことと、“謙虚である”こと。それと、“その人自身をちゃんと見る、ちゃんと聞く”という姿勢。介護でも、普段からでも、この点を大事にして関わっていますね」
目の前の「人」と関わり、受け止め、その積み重ねによって、自身の道をひらいてきた福武。
そんな福武にとって、「仕事」とはどんな存在なのでしょうか。
福武「培ってきたことで自信を得ることができ、常に責任をもって勤しむ対象、という存在です。
ここ最近見つけた言葉に、『犀(さい)の角のようにただ独り歩め』という言葉があります。これはブッダの言葉なんですが、たまたま見ていたホームページに載っていた解釈が心に刺さったというか――大好きな言葉です。仏教については詳しくないのですが、孤独についてのブッダの解釈があって、『人間関係でいろいろなことがあったら、孤独を選びなさい』という話です。“孤独の中で学ぶ”ということですよね。仕事もですが、最終的には自分の学びにつながりますから。
そう思って、『この言葉、インタビューに載せるんだけど、どうかな』と友達に聞いたら、『仏教にでもハマったの?』なんて言われたので、慌てて『違う違う』と返しました(笑)。友達は呆れていましたが、実際に、この言葉にはハマっているんです。だから犀の絵を描こうと思って、ちょうど画材を買ってきていて」
休みの日には「スポーツをしたり、ジムへ行くようにしてます。それも2020年に母も亡くなり、監査役会の仕事が始まって――そうですね。ジムへ通うようになったのは、この一年くらいでしょうか」と話す福武。その横顔は、女性として、人として、今、独りゆっくりと歩みを始めたように見えます。
福武「今の私にとっての幸せは、自立が維持できてこそ健康管理もできるし、趣味も楽しめるので、そういった普通の生活ができることですね。友人も同年代以上なので、皆そんな感じですよ。
そう思うと、高浜さんが前会社で重度訪問介護を全国展開してくださらなければ、しかも関西に進出したあの時がなければ、土屋の今もないですし、私自身の自立にもつながっていない。だから本当に感謝しかないですし、この記事が『一人で生きていきたい』と考える女性の雇用に少しでも結び付いたら嬉しいです。
私自身のこれからは――知識を増やしてできることを増やしたいですね。そして、土屋という会社には、時代の変化にも多様性にもコンプライアンスにも向き合い続け、揺るがない経営をこれからも目指して欲しいと思っています」
CHAPTER7
ここまで、“福武自身が”つくってきたキャリアストーリーを聞いてきました。
インタビューの最後に、“福武自身を”つくったふたりの人――父、そして母――について尋ねます。
「今」という場所から振り返った時、福武が親から“もらったもの“とは、どんなものだったのでしょうか。
福武「そうですね。父は、例えると、野球漫画の星一徹のようなイメージ(喧嘩して、怒るとちゃぶ台をひっくり返して、お膳ごとご飯が飛んでなくなるキャラクター)に、金銭感覚がない人を足した感じでした。
すごく多趣味で、アマチュア無線に、将棋、囲碁、旅行、絵画収集にいろいろ……料理も得意で、食べ物の好みも凝っていましたね。旅行は『地理の勉強だ』と言っては、学校を休ませて、家族を九州、中四国へ何度も連れて行っていました。
家では小学校の頃は珠算や、学校の学習の予習・復習、数学や物理の勉強、日本文学の感想文など……自分が学んできたことを教えたかったんだと思いますが、やらされている感じで私自身は苦痛でした。
私は姉に比べると『飲み込みが遅い』と言われ、何度も繰り返し、熱心にコツコツ取り組んで、珠算2級を6年生の時に、商業科の高校生が取得する実務検定2級を中1の時に、取得しました。姉は受からず、私だけが受かったので、父親が交流のあった先生から褒められたらしく、すごく喜んでましたね。
その名残りが私の名前を刻んだ“黒檀そろばん”(父が当時、福武に買い与えたそろばん/写真)なんですが、実家から父が持ち出して、家を出て行ったあとも、最後まで大事に持っていたもののひとつだったようです。
今は私の手元に父の将棋の駒とともに戻ってきていますが……今から思えば、父からは何度も何度も繰り返し、熱心にコツコツやり遂げれる力を養ってもらったんだと思います。
母親は、戦時中を生き抜いてきた強さからなのか、強烈に気が強くて、情に熱く、世話好きでせっかちな性格でした。誰に対しても思ったことをそのまま口に出して、トラブルになることもありましたが、手に職を持っていない母が、父と別居してから目覚めた販売の仕事では、寒くない沖縄で毛皮を売り切ってくるような売れる販売員だったので『すごい人だ』と思って見ていました。
理想の母親や女性像からはかなりかけ離れていましたが、長女が生まれた時、仕事を休んででも後から私が仕事に行けるように長女の世話をしてくれたり、いつもどんな状態であっても行動で表してくれる人でした。実直でもありましたが、人としてはかなり不器用な人だったんだなと今は思います。
最後まで、いつも私の心配をしてくれていた母にはとても感謝しています。母からもらったものは、実直で不器用なところかな……」