《interview 2022.04.21》
あなたが生まれ育った社会はどんな姿をしているでしょうか。ホームケア土屋 東海で働く古田 龍也。幼少期の彼の生活環境は、恵まれたものとは言えませんでした。だからこそ彼は寛容さと多様性を求め、その過程で社会と出会ってきました。古田が身につけてきた生身の知とは。介護という場と並走するその未来に耳を傾けます。
介護事業部 ホームケア土屋
東海 コーディネーター
介護事業部 ホームケア土屋
東海 コーディネーター
あなたが生まれ育った社会はどんな姿をしているでしょうか。ホームケア土屋 東海で働く古田 龍也。幼少期の彼の生活環境は、恵まれたものとは言えませんでした。だからこそ彼は寛容さと多様性を求め、その過程で社会と出会ってきました。古田が身につけてきた生身の知とは。介護という場と並走するその未来に耳を傾けます。
CHAPTER1
愛知でコーディネーターとして活躍する古田は、ホームケア土屋 東海に入社して3ヶ月。
介護経験の少ない中で出会った重度訪問介護(重訪)という仕事と、日々、向き合っています。
古田 「一人のクライアントに対しての価値観というものが、施設で働いている時とは全く違います。親身になって『この方を理解しよう』という気持ちが、まず自分の中で芽生えた感情としてありました」
現在、週3日を介護現場で過ごしながら、コーディネーターとしてもアテンダントたちとのやり取りを積み重ねている古田。
古田 「コーディネーター業務はまだ、難しさの方が大きいですね。クライアントとは、キーパーソンの方と関係性を築きながら相談や調整をしていて、そこに関しては手応えを感じているのですが、アテンダントの方とは、今は会ってお話しするのが難しい状況です。
文章でのやり取りが中心になるので、そこですれ違いが生まれたり、その際の擦り合わせに対して、まだ能力として足りていない部分があります。これから重点的に把握していかないといけない部分だと実感していますね」
これまでも対人のコミュニケーションを得意としてきた古田。
土屋での仕事をスタートしたのは2022年1月。そのきっかけは、現在、ホームケア土屋 東海・オフィスマネージャー中村 有志からの声かけでした。
古田 「前職は高齢者施設で働いていて、そこで中村さんと知り合いました。一緒に働いていた期間は半年にも満たないのですが、その後、お会いした時にあるカードゲームをする機会があって。そこで私のゲームへの適応能力や理解力の速さを『すごく面白い』と言ってくれたんです」
10代の頃からトレーディングカードゲームに夢中になってきたという古田。
古田 「カードゲームは、突き詰めていくと将棋などのジャンルに近いんです。相手がやりたいことを読み解いたり、それができる・できないを、自分の中の処理できる・できないも含めて判断しないといけない。
それぞれ手持ちのカードが違いますし、自分と相手がする動きも全く違っているので、相手の感情や心理を読みながら自分が有利になる展開をしていくことがカードゲームの要素です。自分自身がやりたいことだけやるのではうまく勝てないという遊びですね」
「そこから、誰とでも関係性を築いて、交友関係を広げていく部分が今の仕事に活きている」と語る古田。
対戦ゲームという一対一の関係性の中で培ってきた人間観察の目。その源を辿っていくと、自身の生育環境から話をしてくれました。
古田 「私は母子家庭で、いわゆる育児放棄という環境で育ってきました。幼少期、母親がそもそも家にいなかったので、朝起きて学校に行くという小中学校の時期のルーティンが欠落していたんです。夜中までカードゲームをしていて、昼夜逆転の状態で。当時は、ほとんど学校に行ける環境ではなくなっていました」
CHAPTER2
埼玉で生まれ育ってきた古田。
幼少期から10代にかけては、学校に行くこともなく、ひとり家で過ごしていたと言います。
ある時、「カードゲームという共通の遊び」を通じて、寛容な大人たちのいる場所と出会います。
古田 「遊び場と言っていいのか、年齢関係なく、カードゲームをするために集まる場所が家の近くにありました。当時、そこで昼間から夜まで過ごし、人生の先輩方と知り合ったんです。その先輩方に食事やバーベキューに連れて行ってもらって。私にとっては同年代の遊びのように感じていたんですけれど、先輩方からしたら構ってあげている感じだったかもしれません。
でも逆に言うと『年下だから』『こどもだから』という扱いも受けませんでした。カードゲームという共通の遊びがあったので、そこでは対等に扱ってもらえ、それぞれが持っている能力をお互いに共有し、楽しく、なおかつ親身にしていただいたんです」
学校という集団の場から離れていた古田にとって、そこは生身で社会を学ぶ場所でもありました。
古田 「その年齢(小中学生)で、昼間に出歩いてゲームをしている人なんていないので、必然的に自分よりも10歳以上上の高校生や社会人の方に遊んでもらっていました。
これは語弊がある言い方になってしまうかもしれませんが、そんな場所に小中学生がいたら、一般的な大人は『学校に行きなさい』と言う方が多いと思うんです。でもそんなことも言われず、受け入れてもらって。緩くですが、コミュニケーションとして礼儀や上下関係のあり方を学んでいきました。どちらかというと、学業を学ぶより先に、社会を学んでしまったと言うんでしょうか」
多感な時期の古田をそのまま受け入れてくれた大人たちとの出会い。それまで閉じられていた彼の瞼は大きく、ゆっくりと開いていきます。
古田 「私の幼少期は、母親が一番近しい人間だったので、そこからしか(世界が)わからない状態でした。そんな環境もあって、どちらかというと私自身は女性の思考に近く、保守的で、先輩方に会うまでは父親像・男性像というものをほぼ持てていなかったんです。でも先輩方は男性ばかりだったので、そこでやっと『男性というのはこういう性格の人がいるんだな』ということを学んでいきましたね。
そうやっていろんな方たちと会うことによって、もっとフランクな関わり方や、男性特有の大らかさ──誰とでも仲良くできるし、和気藹々とその時・その場を楽しむようなノリ──と出会って『あぁ、(男性って)こうやって遊ぶんだなぁ』ということを知りました」
対等な関係の中で、関係性を築く能力を育くんだ古田ですが、10代の終わり、家庭の状況が再び、彼の生きる場所を問うことになります。
CHAPTER3
19歳の時、弟が生まれることになって。母親の収入だけではどうにもいかなくなり、家庭を維持するために社会人として働かなければいけない状況になりました。
家計を支えることになった古田は、製造業や接客、倉庫管理などアルバイトを転々とし、20代を過ごします。「これ一本で何年も働いたことがなくて」。そう語る彼の転機は30歳の時でした。
古田 「大袈裟な話になってしまうんですが、30歳の時に人生の転機が訪れました。言葉を選ばないで言うと、『人生終わったな』と思ってしまったんです。そこからは、これ以上落ちることがない、あとはもうなるようになる。というのが自分の中で吹っ切れた点です。ある意味では、死ぬのが怖くて生きたというような形になりました。
今までは『失敗したらやだなぁ、嫌われたらやだなぁ』、だからやりたくないとかやらないようにしていたところが、逆に全部壁が剥がれて、何でもやろうという気持ちになりました。見知らぬ土地で好き勝手生きていくことに対しても、恐怖心もなく『死ぬことはないだろう』とポジティブな発想になりました」
その時、古田が選択したのは生きていく場所を変えること。
古田 「31の時に、出身の埼玉から何の身寄りもなく愛知に来ました。仕事のあても一切なく、ただ家庭の事情で埼玉にいるのが嫌で。逃げるように、縁を切るように飛び出してきて、愛知でゼロからスタートしたんです」
2019年、愛知で生活を始めた古田は、そこで初めて介護の仕事と出会います。障害者向けグループホームを経験したのち、有料老人ホームへ転職。そこで、先述の中村と出会います。
その後、既に土屋に入社していた中村から「一緒にやってみませんか」と声をかけられたのは、古田が「このまま愛知に住むのか、それとも埼玉に戻って新しくスタートを切るのか」を悩んでいた時期でした。
古田 「中村さんから声をかけていただいたのは、『ちょっとやってみようかな』と思えたタイミングでした。今まで自分の能力を活かせる場所で働いたことがなかったので、(土屋での仕事は)自分のスキルを最大限に活かせるのではないかと」
自身の過去、経験、そして能力。それらを可能性として活かす方向へ舵を切った古田。2022年、重度訪問介護の扉を叩きます。
CHAPTER4
住む場所と仕事を変え、物理的にも心理的にも、自身が育ってきた環境と距離が取れるようになったという古田は現在、34歳。
ここ数年の目まぐるしい変化の中、中学生の頃から見ているビジョンを今も持ち続けていると言います。
古田 「私自身、幼少期から生活環境には恵まれなかったのですが、人生の先輩方に助けられて生きてきました。年を重ねるにつれ、私のような生活環境に生まれた方たちに何らかの形で関わっていけたらなぁ、と思うようになりました。
『恩を返したい』というよりは、自分がしてもらったことを誰かに送る。美談にしたくはないのですが、幼少期、辛い思いをしてしまったが故にやりたくてもできなかったことがいろいろあったので」
古田には、今、訪問介護の場で「形になればいい」と強く願うものが。
古田 「自分は社会に適合ができず、継続して勤務もできない、学歴もない。だけれど、『何ができる?』と問われたら、人との対話ができる。人の気持ちが理解できて、それに対してアプローチができるというのが、自分が能力を発揮できる点です。だからそれしか能力がなくても生きていける。
今後、コミュニケーションで不安を抱えている方と私がwin-winの関係性になれる──たとえば、大人数では仕事が上手くできない方でも、一対一のやりとりである訪問介護では、うまくいくかもしれないし、他の人が苦手としている方を担当したらうまくいった──なんてこともあります。
そんな関係性の中で働くことで、自信もついて、さらに次のステップへいけるような形を形成でき、いろんな人に伝えられたら、そこから何か発展していけるものがあるんじゃないかな、と思っているんです」
「介護の世界は、最初からうまくやるだけではなく、何かあっても、リカバリーができるフォロー能力が求められる」。古田はそう言います。
古田 「一対一の関係性を築いていくことに不安がある、そんな方に私の経験をお話しできたらそれがコーディネーターというポジションに就かせていただけた一つの役目かなぁ、と思います。まだ先の話かもしれませんが(笑)」
介護という仕事、コーディネーターという位置から過去を見つめ、今、その能力を活かす仕事に就いた古田。
自身の体験を経験に変え、人と人が共に生きる技術を得てきた彼だからこそ、つくれる未来がある。何かあっても、何があっても。命の可能性に耳をすます姿勢を、重度訪問介護という仕事は持ち続けています。