介護事業部

介護事業部 ホームケア土屋

梅山真一郎

九州 ブロックマネージャー

自身の考えを押しつけない介護。それを胸に。

 《interview 2022.04.21》

現在、九州全域を管轄するブロックマネージャー・梅山 真一郎。穏やかで優しい人柄は、そのまま九州エリアの数多の事業所・スタッフに、家族的な雰囲気と自由で闊達な機運をもたらしています。人の心をまとめるというのはどういうことなのか、梅山の人生の歩みから紐解いていきます。

CHAPTER1

子ども時代は10回以上の引っ越し。やっと落ち着いたら心霊スポット

現在、九州全域をまとめるブロックマネージャーの梅山 真一郎。1982年に福岡県北九州市で生を受け、福岡市で育ちます。現在も穏やかで、優しい人柄の梅山ですが、幼少時代からそれは変わらなかったようです。

梅山 「一人っ子なもので、内気でおとなしかったようです。ただ母が引っ越し魔で、幼少期は転校に次ぐ転校。10回以上、引っ越した末に、中学2年生の時、糟屋郡の久山町に落ち着きました」

なんとそこは、恐山に次ぐ全国第2の心霊スポット、犬鳴峠の近くだったそう。

梅山 「『犬鳴山』という有名な映画がありますが、心霊スポットに家を買ってしまい……。それからはずっとそこでした。犬鳴峠には怖い言い伝えがたくさんあって、普段は何も感じない私も、そこだけはいつ行っても背筋が凍ります」

幼少期は野球などの球技が好きで、原辰徳選手に憧れていた梅山少年ですが、高校では心機一転、柔道部へと入部。

梅山 「今でこそ、体重が90キロ以上あるんですけど、当時は55キロくらいしかなくて、がりがりでした。女子とばっかり組ませられて、いつも投げられていました(笑)」

それでも梅山が柔道を志したのは、夢があったからだと言います。

梅山 「少年時代から警察官に憧れていたんです。格好いいなって。知り合いのおじさんから『柔道をやったら警官になれるよ』って言われて、それで始めました。放課後は毎日必ず真剣に稽古しました。今振り返っても、あんなに真剣だったことはないですね」

それでも、大勢の経験者の中で、初心者の梅山は悔しい思いをすることも多かったと言います。

梅山 「高1の時、他校との練習試合で、同い年の5人全員に簡単に投げられちゃって。それが悔しくて、めちゃくちゃ練習して、居残りも一人でやってました。とにかく必死でした。そしたら高2の時には、なかなかいい勝負ができたんです。で、高3では、その5人全員を投げることができて。やっぱり嬉しかったですね。努力は裏切らないなと思いました」

夢だった黒帯も取れ、梅山は警察官への憧れを抱いたまま、西南学院大学経済学部に入学します。柔道からは離れ、登山サークルへ。冬は槍ヶ岳、夏は屋久島と、4年をその部活で過ごしたのち卒業、一般企業に入社しました。

CHAPTER2

仕事を通して見つめた他者の「人生」。さて、どうやって生きようか。

外食産業に入社した梅山ですが、警察官への夢は捨てていなかったと言います。

梅山 「その職に就いたのも、警察の試験に落ちたからなんです。ただ、半年くらいで退職しました。体力が持たなかったんです。昼の3時に出社して、終わるのが翌昼の12時。帰宅して、風呂に入って、うとうとしたらもう出社。それが毎日続いて、週1の休みも会議や出張があって、『これは死ぬな』と思って辞めました」

超ブラック企業を退職した後、梅山は再び受験勉強に取り組みます。しかし、残念ながら翌年の試験も不合格に。

梅山 「そこでもう警察は諦めようと。心が折れてしまったんです」

その後、梅山は紳士服業界に入社、北九州市の店舗でセールスに邁進します。

梅山 「『お客様から離れるな』という教えだったので、ずっとお客様に付いて、接客スキルや話術を勉強させてもらいました。できそうで、なかなかできないことなんですよ。『もういいよ、見に来ただけだから』と言われても、くっついていく(笑)。この時の経験は今も生きています」

しばらくして28歳で退職。葬儀屋に入社します。

梅山 「葬儀の仕事ってベールに包まれている感じで興味があったんです。入社してからは、ご葬儀の契約を結ぶ営業がメインでした。

公民館のお茶のみサークルで、お年寄りの輪の中に入っていって。最初は『あんた誰ね。何しに来たんね。あんた葬儀屋やろ!』と(笑)。でも、その内に仲良くなって、買い物や庭の手入れを手伝ったり、バス旅行に連れて行ったり。『あんたんとこで葬儀あげるかんね』と、皆さん、ほんとにあげてくれましたね。塩を撒かれたこともありますが(笑)」

とはいえ、ご遺体の迎えもしていた梅山。今でも忘れられないことがあると言います。

梅山 「お棺に入れるのは、病院で亡くなられたきれいなご遺体ばかりではなくて、交通事故や自殺もあります。入社して間もない頃、原付でトラックに巻き込まれて、亡くなられた若い女性のご遺体を引き取ったんです。

フルフェイスのヘルメットを被っていたので、それをようやくの思いで外したら、お顔の損傷がかなり激しくて。できるだけきれいにしようと、包帯を巻いたりしましたが、ご遺族の方がいらして『顔を見たい』と。

その時、先輩が『見られないほうがいいと思います。見てしまうと、それが最後の記憶になってしまうので、ご生前のお顔をそのままで』と。僕だったら、『どうぞ』と案内してたと思って、この仕事は、人を思いやるものなんだと強く感じました。結局、ご遺族の方はご対面されて、その途端に気を失ってしまいました。『やっぱり見なきゃよかった』と後に言われていたのは、いまだに思い出します」

梅山は死の厳しさに向き合いながら、慣れについてこう語ります。

梅山 「人の死に立ち会うと、写し鏡のように、自分自身についても、生き方についても考えさせられました。けれど次第に、あまり考えなくなってきて。死に慣れていっていることに恐ろしさも感じ、死後に寄り添うのも大切な仕事だけれど、一つ前の段階でそうできたらと思うようになってきました」

そうして、梅山は30歳で介護業界の門を叩きました。

CHAPTER3

あの時見た涙が、まだ私の目の中で光っている

有料老人ホームに入社した梅山。介護業界は初めてながらも、認知症の高齢者介護は自分にぴったり合っていたと言います。

梅山 「認知症介護は大変だと言われますが、楽しかったですね。こんな純粋な人たち、いるんだなと。いかに自分の心が汚れているかが分かって、日々、心の洗濯でした。ただ私の顔や名前も全然覚えていないので、毎日『はじめまして、梅山です』と(笑)。

同じ話も繰り返しされますが、初めて聞いたような対応をしないと『私、ボケちゃってるの?』と不安になって余計に認知症が進むらしく、その施設ではそういう不安を抱かせないように、認知症の方としてではなく、普通の高齢者と同じ接し方をするという教育でした」

梅山は当施設で6年を過ごし、その中で介護福祉士の資格を取得するなど、日々を介護に打ち込みますが、次第に施設介護の限界に悩み始めます。

梅山 「日中は利用者3人につき、ヘルパー2人体制という恵まれた施設でしたが、夜間は20人を1人でみなきゃならない。そうすると、例えばご飯を食べたくなくても、寝たくなくても、起きたくなくても、無理やりご飯を食べさせて、無理やり寝かせて、無理やり起こさないといけない。

でも、どうしようもない。施設主体でなければ、1日のスケジュールをこなせないし、ルールが崩れちゃうので。利用者の方はこれで幸せなのか、もっと何かできるんじゃないかと思いながらも、時間もないし、他の利用者もいる。施設で働いている方はみんな『しょうがない、どうしようもない』って言葉を飲み込みながら、お仕事されていると思います。私もこのサイクルが辛くなってきてたんでしょうね」

そうして、梅山は施設を退職、訪問介護業界に転身します。

梅山 「今度は訪問介護と思って重度訪問介護(重訪)の会社に転職しました。初めて1対1のケアをして、やっぱりすごいなと思いましたね。普通に起床時間も食事も、トイレも好きな時間に行くことができる。自分の心が救われた気がしました」

それでも、長年の施設主体の介護で、感覚が麻痺していたという梅山。初めは、そこから抜け出すのは難しかったようです。

梅山 「最初に支援に伺ったお宅で、22時になったときに、『まだ寝ないんですか?もう寝ましょうよ』って言ってしまったんです。施設的な発想ですよね。で、利用者さんに怒られましたね。『別に何時に寝てもいいだろう』って(笑)」

自身の考えを押しつけない介護。それを胸に、梅山は日々、支援に向かい、入社後、わずか2か月で福岡のコーディネーターに昇進。重訪の現場経験を積みながら、同時に管理業務も行っていきます。その後、全国へ事業所を展開するために、マネージャーとして熊本や沖縄などで事業所の立ち上げに奔走しました。

そんな中で、梅山には今も忘れられない出来事があると言います。それは沖縄で事業所を立ち上げる際に出会った、60代の筋ジストロフィーの女性との思い出です。

梅山 「自宅に帰りたいけれど、受け入れてくれる事業所がないので、2年間、病院で過ごしている方がいると。そういう話を聞いて、会いに行ったんです。その方は『重訪の制度は知ってたけれど、事業所がないから、それができるまで待っていました』と。

その言葉に私の口をついて『じゃあ、家に帰りましょう』という声が出ました。2年ぶりの帰宅。初日は私もケアに入り、その方が涙されているのを見て、『この仕事をしていて、本当に良かった』と思いました。いまだに忘れないですね」

現場を離れた今だからこそ、心を動かされたその時の場面を、『初心』として度々思い起こすという梅山。その後、南九州のエリアマネージャーとなり、宮崎の立ち上げに携わった後、部下に引き継ぎ、退職。株式会社土屋に入社します。

CHAPTER4

九州エリア持ち前の「アットホーム感」に磨きをかけて

2020年11月、株式会社土屋に入社した梅山 真一郎。経験と能力を買われ、北部九州のエリアマネージャーを任されます。その後、2021年8月には、九州全体を管轄するブロックマネージャーに就任しました。

マネージャーの教育やキャリア採用の面接、ブロックの売上・人件費・利益管理など、その業務は多岐にわたります。

梅山 「三人のエリアマネージャーに支えられながら、浅く広く見るために、今は視点を高く持つよう意識しています。一番大事なのは『人』なので、クライアントとスタッフ、双方を大切にしたいです。介護の世界には、なにかしら痛みを抱えた人が多いと思うんですよ。いろんな過去と経験を背負って、介護の仕事に辿り着く人もいます。

だから、しっかりと承認して、その方を見続けていくことが大切だと思っています。そうした意思表示を継続しながら、スタッフを育成していきたいですね」

梅山が言う通り、『アットホーム』なエリアとして社内で評判の九州ブロック。多くのスタッフが、上司や同僚が「とても優しい」、「相談に親身に乗ってくれる」「この会社で働いていて良かった」と口をそろえて言います。

梅山 「スタッフから、そういう言葉を聞くときが、一番嬉しく、ほっとします。僕自身、こんなにいい会社は他にはないと心から思っていますので、いろんな方に入ってきてほしいです。

また土屋には、すばらしいミッション・ビジョン・バリューがあるので、それを大切に、ぶれずに進んでいってほしい。そうすれば、もっと明るい未来があるのかなと思います」

格闘技のTV観戦や漫画集めが趣味という梅山。以前は、2代目タイガーマスク・三沢 光晴に憧れていたそう。私生活では2021年12月に入籍しました。

梅山 「40になるまで、独身で、好き勝手やってきたので、これからは家族に尽くしたいと思いますね。子どもと奥さんのために一生懸命働いて、それによって会社や従業員の皆さんが潤ったりすれば、なお幸せです」

そのためにも、ダイエットをするべく、1か月前からジョギングを始めたとのこと。

梅山 「体重が90キロを超えて、腰も痛いし、立ち上がるのもきついです。肝臓の数値も悪いし、好きなお酒も控えています」

そんな梅山ですが、人生のモットーは「他者を傷つけない」こと。子ども時代の記憶から、人の嫌がることはしない、言わないという姿勢で生きてきたと言います。最後に、梅山が今、思っていることとは。

梅山 「地方にいくほど事業所が少なく、困っているクライアントは多くいます。在宅で過ごしたいと思っている人は一人残らず、土屋が受け皿になっていきたい。そのためにも、この記事を読んでくださった方には、うちの会社の面接を受けて欲しいと思います。一人でも多くの同志と一緒に働きたいですね。

以前、上司がよく言っていたのは、『みんな家族だからね』ということ。アテンダントが相談してきたときも、『家族だから、いいよ』と。僕もこういう事をさらっと言える人になりたいですし、そういう温かみがある会社だと思います」

梅山の半生を聞いていると、戦後の地方コミュニティ、土地柄が消えていった時代をそのまま体現しているようです。そして、コミュニティの再生が叫ばれる現代、梅山が語る「家族のような」という言葉とその感覚は、一つのカギになるのではないでしょうか。

私たちは、考え方や来歴を超えて、梅山が築こうとしている「家族のような」付き合わざるを得ないから付き合ってやっていこうというある種の楽観とさわやかな愛情を、自分の中から呼び戻す時に来ているのではないでしょうか。


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