有限会社ノーマルライフ

有限会社ノーマルライフ デイサービス生き活き / グループホームおてんとさん

岩渕 孝

管理者

目標と考えを声に出して伝えていると、道って開けるもんですね。

 《interview 2024.4.14》

2023年に土屋グループの仲間となった大阪の有限会社ノーマルライフ。岩渕孝(いわぶちたかし)は、デイサービス生き活きとグループホームおてんとさんの管理者として働いています。長年勤めた有料老人ホームを退職後、当時、東京都認知症介護研修講師をしていた高濱将之との出会いから、ふとしたキッカケで東京から大阪へ――。「このままでいいのかと見失いかけた自分の未来像」「出来ること、やれること、挑戦する気持ちの大切さ」を自身に問いかけてきた岩渕が選んだ先にあった「今」。そこに至るまでの道のりを語ります。

CHAPTER1

子どもの頃、そしてモータースポーツにのめり込んだ20代。

子どもの頃の自分にとって、洋服のズボン「“ジーパン”」=かっこいいもの。
でも、あまりにカッコよすぎたから履かなかった・・・履けなかったが正直なところ(笑)。

三人兄妹の真ん中(次男)として生まれた岩渕。

岩渕「2つ下の妹がいたので、小さい頃はよくお人形遊びや、おうちごっこをしたり、友達4、5人集まって裏の庭でよく遊んでいましたね。それと「裏には2羽、庭には2羽鶏がいる」の早口言葉ではなく、裏の庭には鶏小屋があり、そこの前にシロツメクサが茂っており四葉のクローバーを探した記憶が多いです。

“ジーパン”ってありますよね。あの“ジーパン”が、その頃の自分にとってはかっこよすぎて履けなかったんですよ。いや、履かなかった――っていう気持ちの方が強かったのかな。ジーパン=高価なもの。『かっこいいなぁ』とも思っていたんだけれども、かっこよすぎた。そんな思い出があります。

20歳の頃に、モータースポーツで国内A級ライセンスを取得しました。
JAF公認のカーレースに参加できる資格なんですが、所属チームに入らせてもらって、国内の大会に参加し入賞もしました。

車や運転に興味を持ったきっかけは、神奈川県の箱根山という山間部の町に友達とドライブに行った時に運転を『うまいね』と言われたこと。加えて、当時はどうやってもモテなくて(笑)、彼女を助手席に乗せた時に酔いにくい運転をしたいなと思っていたんです。

箱根は、標高が高いので街の夜景や流れ星がすごく綺麗なんですよ。そういうところに彼女を連れて行きたくて車の運転技術を磨いた。結局、そのロマンチックな夢は叶わなかったんですが……(笑)、そこから車にのめり込んでいきました。

カーレースには自分で車のチューニングをして、いろんな部品をつけて改造して出るんですが――サーキット場のコーナーからの立ち上がりだったり、アクセル全開でのダイナミックな加速。それからカーブ直前のフルブレーキからのコーナーワークですよね。

車がひっくり返るんじゃないかっていうぐらい。そこからまた一気にアクセル全開の立ち上がり――車体から体に伝わる振動と激しい重力移動――しびれる体験にゾクゾクするんです(笑)。それが好きで、レースの世界にのめり込んでいったのかなと思います。

とはいえ車の維持費、チューニング代が大きくかさんで、すぐに資金難に陥ってしまい、チームを脱退することにはなったんですが。3年ぐらいは熱中してやっていましたね」

CHAPTER2

大切だった、おばあちゃんとの時間。

家族と過ごしていたその時間、家族の大切さ。入院している時も、ただおばあちゃんのそばにいればよかったのかもしれない――。

中学一年生の時、岩渕は生まれ育った宮城県から神奈川県へ、家族で引越しをすることになります。

岩渕「うちにはおばあちゃんがいて、一緒に引っ越してきたんですが2年ぐらい経って病気で入院をしてしまったんです。家族みんなで何度もお見舞いに行ったんですが――自分だけがいろんな理由をつけてお見舞いに行かなかった。

そんな事が数回あった矢先、人間って突然死が訪れることもあって――祖母が亡くなった時、後悔しか残らなかったんですよ。小さい頃は畑を手伝って、一緒にトマトやジャガイモをいっぱい採った覚えがあるのに、最後はそばにいれられなかった。そのことが、ずっと心の中に残っていました。

家族と過ごしていた時間、家族の大切さ。入院している時も、ただそばにいればよかったのかもしれない。祖母にとってはきっとそんな時間も大切な家族の時間だったはずなんですよね。でも、自分にはそれができなかった。

今みたいにデイサービスやケアマネージャーさんがいる時代でもなかったので、おばあちゃんも環境の変化についていけなかったり、寂しい思いをして、亡くなっちゃったのかな?なんて今では思います。だからこそ、このことを一人でも多くのご家族さんに言葉で伝えられたらいいな、と思ったことが介護職を目指すきっかけです。

家族の時間って、私たち介護職員がどんなに頑張ってもつくれるものじゃないと思うんです。だから、ご入居者の方にも家族との時間を一番に大事にしてほしいと常に思っていて。まだまだコロナ過だった当時は、感染対策の一貫として、ご入居者が家族と面会することが難しく、面会できたとしても屋上からの面会や窓越しでの面会に制限されていました。

ノーマルライフに来た時も『まずは、家族との面会時間をつくろう』と。短時間ではあったんですが、屋上や窓越しではない対面での『面会ができますよ』と家族に呼びかけたのもそんな思いからでした」

CHAPTER3

働いて10年。ふと思った「このままでいいのかな」。

『お前、38歳の目標は何にするの?』――子どもは答えているのに、答えられない自分がいた

岩渕は23歳で介護の専門知識、介護技術を学ぶため、東京の福祉専門学校へ入学。卒業後は有料老人ホームへ就職し、介護の仕事をスタートします。

岩渕「25歳で介護業界に飛び込んだんですけれども、何の目的もなく、将来のビジョンも考えていなくて、なんとなく働いてきたんですよ。何も考えてなかったんだと思います、私。早くお給料がもらえるように、毎日毎日働いていたら10年経ってしまった。

当初は転職も考えてはいたんですが、特段、仕事に対する不満もなかったし、結婚して子どもがいて。子ども中心の生活で、それが幸せだったのかな。そんな日々を過ごしていました。

ちょうど会社に入って、10年が過ぎた時。35歳になった頃ですかね。『このままでいいのかな』って思ったんです。5年後、10年後の自分を考えた時に、今と何も変わらない、成長もない自分しか見えなかったんですよ。

それでも変わらないまま、3年が過ぎちゃったんですが(笑)、38歳になった時に『やっぱりこのままじゃダメだ』って自分に強く怒りを覚えた時期がありました。

その頃、子どもの誕生日によく『今年の目標は何にするの?』って聞いていたんです。たしか、子どもが9歳の時かな。一生懸命考えて、『看護師になりたい』とか『お花屋さんになりたい』とか将来の夢を言ってくれた。

それで、自分の誕生日に、同じ質問をぶつけてみたんですよ。『お前、38歳の目標は何にするの?』って。そしたら答えられなかったんですよ――子どもは答えられているのに。それが、悔しいというか、情けなかったですよね。

働いて10年以上経つと、責任ある立場を任されるようになってきます。ただ私の場合は、責任ある立場になっても八方美人で、あっちにいい顔、こっちにいい顔。曖昧な態度で適当な答えしかしてなかったなぁ、と思います。

だから10年続いたのかなとも思うんですけれども。でも、『これじゃいけない』と思った時、3つ、自分を変えようと思ったことがあったんです」

CHAPTER4

38歳で決めた、3つのこと。

間違っていても、間違っていなくても。『自分はこう思う』と伝えられるようになると、みんなが聞く耳を持ってくれるようになった

岩渕「1つ目が『自分が考えていることをまわりに話そう』。有料老人ホームのご入居者の生活の質を向上させるために、介護観や価値観、自分の考えを職員に伝えていこうとしました。もちろん、介護観は人それぞれ違うので、必ず相違はあるんですけれども、それでも自分の考えを伝えてはいましたね。

最初はうまくいかなかったですよ。『何言ってんだろうな、こんなことじゃなかったのに』とか、『あれ、何が言いたかったんだっけ?』とかね。でも話せるように一生懸命考えたことがありましたね。

2つ目に、『委員会や社内研修、勉強会に積極的に参加していこう』。もちろん、これまでも参加してきたんですけども、どこかで『また委員会かぁ、面倒くさいな』と思っていた。

でもそうじゃなくて『自分から参加していこう』と決めたんです。すると視界が開けてきましたね。と同時に、認知症の知識・技術に磨きをかけようと、情報収集のためにアンテナを張り巡らしました。

というのも、新しく入社される方や中途採用で入ってくる方の対応に――もちろん比べるわけじゃないんですけども――自分なりに『認知症の方に対して、どうしてそんな対応をしちゃうんだろう』『そんな対応したらご入居者は絶対怒っちゃうのに』と思うことが多々あったんですよ。

それで、スキルを深めていこうと、地域の集まりや研修、勉強会に足を運びました。自分は人とお酒を飲むことが好きなんですが、そこでいろんな人たちとの出会いがあって、意見交換ができたことはすごく楽しくて。自分の活動範囲を広げていこうと思えましたね。

それから、東京都の認知症介護実践者研修は当時すでに取得していたので、その上の、認知症介護実践リーダー研修を受けたいと会社に相談しました。会社側も、勤務して10年以上経ったということもあって、『今後はスタッフの見本となって、頑張ってくれるんだったら学んできてください』と背中を強く押してくれて。その後、リーダー研修を無事に修了させてもらいました。

3つ目は、働いている仲間を大切に思えるように努力しました。というのも、プライベートや仕事の場で仲良くしていた仲間が、腰痛や病気、転職という形で次々に退職していったんですよ。

仲間がいなくなっていくことは仕事の効率も下がりますし、だんだん周りがいなくなっていくと『次は自分の番だ』と――これは焦りましたね。だから『仲間を大事にして、みんなと一緒に、少しでも長く働いていこう』とも思いました。

自分はもともと、話をすることが苦手なんだと思います。人見知りではないんですが、自分の気持ちを話すことが難しかった。話をし始めても、最初は相手にされなかったんですが、次第に大事な相談を受けたり、上司や同僚から『◯◯についてどう思ってますか?』と意見を求められるようになって。

間違っても間違ってなくても、『自分はこう思う』って伝えられるようになると、一つの意見としてみんなが聞く耳を持ってくれるようになったんです。その時はわからなかったけど、自分の考えを伝えることによって、相手はそれで勇気づけられたり、『こんな意見もあるんだな』って思ってくれていたんでしょうね」

CHAPTER5

認知症介護指導者養成研修へ――将之さんとの出会い

研修を受けてから、働いている仲間や職員、これから介護を始めようとする人に、介護の仕事の魅力を伝えたくなった

40歳で認知症介護リーダー研修を修了した岩渕。その学びを通して、「認知症介護の仕事の醍醐味や、後輩の指導・育成に興味が湧いてしまった」と言います。

岩渕「研修を受けてから、現場を通して体験した認知症の経験を、働いている仲間や職員、これから介護を始めようとする人に『介護業界はやりがいのある仕事で、専門性を高めながら活躍できるところが魅力なんですよ』と伝えたくなったんです。

特に、認知症介護に至っては対応に答えがなかった。研修ではよく、『こういう場面はどうしたらいいのか』という答えを求められるんですけれども、答えは人それぞれ。

答えがないものを探し求めていく探究心が大事であることも、認知症介護の魅力の一つですし、ご利用者一人ひとりのニーズも違いますから、その悩みに寄り添える楽しさも伝えていきたい――と思いましたね。

『介護経験がたった10年ちょっとの若造が何を言ってるんだ』なんて言われそうですが(笑)。でもとても熱い気持ちになっていた時です。

その後、2018年、42歳の時に東京都認知症介護研修の中の最高の位である東京都認知症介護指導者養成研修に応募しました。『応募させてくれなかったら、会社を辞めます!』ぐらいの熱弁と覚悟で会社の上司を説得し、なんとか選考を通過。無事に2ヶ月にわたる研修を修了し、資格を取得しました。

その後の講師になるまでの道のりは長く、慈善活動そのものでしたね。研修の聴講に何度も何度も足を運んで、一年以上、勉強を重ねていたんですが――その聴講中に、既に講師として活躍していた将之さん(高濱将之;現・常務取締役 兼 COOアシスタント副最高執行責任者)と出会うことになるんです。これは運命的な出会いになるかと思うんですが――。

将之さんは講師としてベテラン中のベテランでして、研修内容の伝え方、教え方、言葉選びは、本当に優れていましたし、勉強になりました。自分が考えていた介護観、伝えたいこと、そして認知症介護の楽しさ。将之さんが話す指導方針には現場の体験が多く、共感が持てたことを強く覚えています。

ただ、当時の将之さんの印象は強面で、『話しかけるんじゃねえぞ』的なオーラを出していて(笑)。もちろん、今は違いますよ。でも当時、研修前は、講師や聴講生、社会福祉協議会の事務局の方が同じ控室で待機しているんですが、私は緊張して、怯えて将之さんに話しかけることできなかったんですよ。昼食に美味しいお弁当が出るんですが、喉も通らなかった(笑)。そんな様子を覚えています。

そこから研修の聴講の経験を積み重ねていって、43歳の時、やっと講師デビューすることができました。いよいよ38歳の時に決めた目標が一つ叶いました。デビューまで5年かかりましたね」

CHAPTER6

自分を必要としてくれる場所へ。

一つの会社でこだわって働くより、私が働ける場所、私を必要としてくれる場所に行ってそこで頑張ろう

岩渕「25歳で働き始めた有料老人ホームでは、まだまだ働きたかったんですが、実は体が言うことを聞いてくれなくなって、18年勤めていた職場を辞めることになったんです。

認知症介護指導者の資格を取ったばかりで、『さぁ、これから頑張ってやっていこう』っていう矢先だったので、すごくショックでしたね。頸椎後縦靭帯骨化症っていう首の病気です。これは難病指定になっていて、自分は今もその病気を抱えて生活をしています。

発症当時は会社に行くこともできなかったですし、首をちょっと動かすだけでも激痛が走る。疼痛のある時はトイレに行くことも苦労しましたね。『もう、人生終わったのかな』なんて思った時期もありました。

下の写真は、その超高級有料老人ホームで勤務していた頃の写真です。ちょっと悪さをしそうな表情(企んでいる表情)をしていますが、仕事に対する姿勢は真面目そのものです(笑)。

ただ、病気になって――『別に場所はどこでもいいんじゃないか』ということにも気づきました。ちょうど『置かれた場所で咲きなさい』(渡辺和子著)という本と出会って、自分の中で視点が切り替わった。

そこには『自分のいる場所で綺麗な花を咲かせればいいじゃない。綺麗じゃなくても、どんな花でも、その場所で咲かせられればいいじゃない』というようなことが書いてあったんです。

会社を辞めたことで、病気悪化を辿らずに回復し、ゆっくり時間を使って考えることができたので、仕事や人生の考え方の可能性が広がっていく転機になりました。

病気になってからは、もちろんご入居者、ご利用者の気持ちも深く考えるようになりましたが、でも一番は自分の今後のことを考えた時に、『一つの会社でこだわって働くより、私が働ける場所、私を必要としてくれる場所に行ってそこで頑張ろう』と思えるようになりましたね。

そんなこと言ってますが、今は会社から帰ると毎日、ソファーで寝ちゃってて。昨日もです。これは本当に変えなきゃいけない。この意思の弱さはずっと変わりませんね(笑)」

CHAPTER7

東京から大阪・ノーマルライフへ

<キャッチフレーズ>
建物の中から、外へ飛び出した時に気づいた、自分の中にあった「経験」という武器

18年勤めた有料老人ホームを退職後、別の有料老人ホームのオープニングスタッフとして勤務した岩渕。3年が経とうとした時、職場で足を滑らせ、腰椎を骨折。長期休暇を余儀なくされてしまいます。そんな時……

岩渕「自分でも不思議ですね。突然のことだったので――。ご縁があって、高濱将之さんからお声かけいただきまして。土屋グループの子会社である東京のグループホームのがわで勤務することになったんです。

でも、その矢先に――『土屋で大阪のノーマルライフという事業所を子会社にする救済型M&Aを進めている。岩渕、そこで働いてみないか』と言われました。

その話を聞いて、『どうしようかな』と思いました。妻と夜中ずっと話をしたんですが、朝になって、最後は妻から『なんでこんなに話すの?』と言われて。『相談するってことは、もう最初から行くつもりなんでしょう』と。

当時の自分には何も捨てるものがなかった。それでやっと自分の気持ちに気がつきました。それから『もし自分が働ける場所があるのであれば、その場所で頑張ります』という返答を、将之さんにした覚えがあります。

そうは言っても、急に『大阪に行ってみないか』なんてね。最初に出会った頃のイメージがよみがえってきましたよね(最初の印象は強面で『話しかけるんじゃねえぞ』的なオーラを出していた(笑))。と同時に、今回こそ本当に『騙されてるんじゃないか、どこかに拉致されるんじゃないか』と思いましたよ、正直なところ(笑)。

でも、その後、将之さんと一緒に大阪に行き、ノーマルライフに着いた時にやっと『あ、これは現実なんだな』と(笑)。今から考えれば大変失礼な話なんですけどもね。それが2022年12月の暮れの話です。

現在は、有限会社ノーマルライフの、デイサービス生き活き(地域密着型通所介護)とグループホームおてんとさん(認知症対応型共同生活介護)の管理者をしています。業務としては、職員のマネジメント、収支の管理や営業活動、行政や外部、地域との連携、あとは新規ご利用者の開拓を主にやっていますね。

それまではずっと施設の建物の中で仕事をしてきましたから、外に出て営業活動をすることも、名刺交換することも全く初めてで――。前社長の前田正道さんからもアドバイスをいただいたり、杉さん(杉隆司;現・有限会社ノーマルライフ取締役 兼 執行役員 兼 顧客創造部長)の営業の力を借りながら、営業をスタートしました。

最初はめちゃくちゃ怖かったですよ。私の中に武器が何にもなくて、『何を話したらいいんだろう』って。あるとしても介護の経験が長いことぐらいで、何を話したらいいのか、どうしたら営業につながるのか……さっぱりわかりませんでした。

営業の仕事は『朝出たら、夜まで帰ってこないくらいハードなんだろう』なんて思っていたところもありました。でも杉さんからは『そんなことはないんだよ』と。

『一日、朝から晩まで回っていたら身が持たない。一軒営業行ったら、コーヒータイムだ。そうやってひと休みして、また新しいところへ行けばいいんだよ』『FAX送付や電話一本でも立派な営業活動になるんだよ』なんて言ってもらえて、気持ちがすごく楽になりましたね。そうやって営業を続けていくうちに――自分の中に、武器があったことに気がついたんです。

それは何かというと、認知症の知識を踏まえた会話や介護の現場経験でした。ある入居者さんがデイサービスでどんなふうに過ごしているか、その方の行動が認知症のどこから来ているのか。

『この人はこんなところがあって……』なんて話をすると、営業に行った先でケアマネージャーさんが耳を傾けてくださったんです。自分に認知症介護の知識や経験があることが、ケアマネージャーさんには伝わって自然と営業につながっていったんです」

CHAPTER8

となりの人の行動に、とおくの人の行動に、『どんな理由があるのかな』を想う

高齢者も認知症の方も私たちも、見る景色も考えることも食べるものも全部一緒。何の変わりもない

そんな岩渕に、仕事の上で、そして人と関わる上で、大切にしていることを聞きました。

岩渕「そうですね。子どもや、高齢者、認知症の方の行動には必ず理由があると思うんです。その理由を見つけることが、私たちの仕事なのかなと思っています。

現場というのは、常に慌ただしく動いているので、『やった、見つけた!この行動は◯◯という理由だったのか!』なんて喜ぶ時間(余韻に浸る時間)は、なかなかないんですよ。それでも、行動には必ず理由があるから、その理由を探究することが常に必要なんだと思います。

よく『この人は認知症だから』なんて言いがちなんですが、『私たちと高齢者』や『私たちと認知症』と言った時点で差別してるんじゃないか、とも思います。それはまるで“私たち”とは別ものだ――と線を引いているように自分には聞こえてしまうんです。でも本当は高齢者も認知症の方も私たちも、見る景色も考えることも食べるものも全部一緒。何の変わりもない。

『この人は◯◯だから』って決めつけてしまったら、そこで思考が止まってしまう。『この辺でいいかな』と思ってしまったら、そこで成長も止まってしまう。『もっといい方法はないのかな?』って常に考えていくことが、この業界には必要かなと私は思うんです。

認知症の方の支援をする上では、『◯◯の時にはどうしたらいいのか』ということをよく聞かれるんですが、やっぱり答えってないんですよね。人が変われば答えも変わってきますし、言葉がけによっても、怒ったり泣いたり笑ったり、いろんな行動や様子があると思うので、その支援者なりのカラーを出して接すること。そして、入居者のことを考えることが一番です。

“考えること”によって、目の前の入居者の方に一歩寄り添うんですよね。『何を考えてるんだろうな』と思った瞬間が、入居者さんに寄り添った瞬間なので――。

上から目線だったり、『いつも△△だから、今日も◯◯だろう』なんて思ったりもするんですけれども、“どういうふうに”寄り添うか。何気なく隣に座ったり、一緒にお茶を飲んだり、目を見るだけでもいい――。

一つ一つの行動の中に“寄り添う”瞬間はあると思いますし、信頼関係にも結びついてくる。尊厳とか、その人らしさ、感謝とか――綺麗な言葉だけを並べたくなるんですが、綺麗な言葉にも『“どういうふうに“』という部分が一番大事になると思います」

CHAPTER9

『寄りそう』って、たからもの。

“寄り添う”ことで何かが始まるかもしれない。でも、何もないことだってあるかもしれない。でもそこに自分がいて、その人の隣に座ったことは事実

話の中で出てきた、『寄り添う』という言葉。介護や福祉の仕事ではよく使われる言葉ですが、岩渕にとっての『寄り添う』という言葉には、どんな思いや背景があるのかを聞いてみました。

岩渕「そうですね。“寄り添う”を、別の言葉で言ったら何なのかな、ってずっと考えてたんですよ。お風呂でもトイレでも考えてみたんですが――。

一つ思ったのは、もし自分だったら『宝石』かなって。『宝物』。宝石や宝物って大事にするじゃないですか。そこに寄り添うために、例えば指輪だったら、キラキラしていて、くるくる回したり、内側を覗いたり、汚れがついてないか見ますよね。

人に寄り添う気持ちと、宝石を見ている時の気持ちって、一緒なのかなって思ったんです。入居者さんは私たちにとって大切な人、大事な人『宝物だ』と思う気持ちが、“寄り添う”ことにつながってくるんじゃないかなと思いました。

“寄り添う”ことから、何かが始まるかもしれない。でも、何もないことだってあるかもしれない。でも、そこに自分がいて、入居者の方の隣に座ったことは事実であって。“何もなかった”かもしれないけど、数分間は入居者さんに寄り添った時間だと思いますし、入居者さんのことを理解しようと思った瞬間でもあると思うんですよね。

この気持ちが現場では大事であって――1分でいい。30秒でもいい。隣に座って、ちらっと左右に座ってる方を見る。その時に『見られた方はどう思うんだろう』って。目をそらすかもしれないし、話しかけてくれるかもしれない。相手のことを理解する、考えるっていうことが現場で一番大事と思うんです。

”寄り添う”という言葉の中にある内容を(5W1H)で読み解くと、信頼関係を構築していく上で、一番大切になってくるのかなと思います」

CHAPTER10

ノーマルライフのこれから、私たちのこれから。

“できること”、“できないこと”という括りではなく、“やる”。あたえられた仕事に抗うことなく、チャレンジを続けていきたい

忙しい日々にも「今、頑張らないと!お前はいつ頑張るんだ?と誰かに言われそうで」と笑う岩渕。
現在は、単身での大阪勤務。岩渕の大阪行きを後押ししてくれた奥様も介護職で、「自分の判断に迷った時や、相談した時は電話して話を聞いてもらってる」のだそうです。

岩渕「ノーマルライフのデイサービス生き活き、グループホームおてんとさんの管理者に着任させて頂き1年が経ちました。東京から大阪に引っ越しをし、覚悟を決めて今が頑張る時!と、今日まで、今も、そしてこれからも・・・まだまだ道は続きます。

今は、デイサービス、グループホームの現場と、そして土屋の子会社ノーマルライフの経営が健全な状態となるよう、杉社長を筆頭に足並み揃えて努力しています。着実に一歩一歩足元を固めながら、事業所が次のステージに行く準備を一生懸命しています。

近い将来、どこかでひと区切りついたら、ノーマルライフも岩渕も次のステージが待っていることと考えます。それはきっと、将之さんが考えてくれるだろう、と。自分が“できること”、“できないこと”という括りではなく、“やる”という気持ちは伝えてあるので、それに抗うことなく、チャレンジを続けていこうと思っています。

今回のノーマルライフでの仕事もそうでした。将之さんが『岩渕だったらできるんじゃないか』ということをやらせてもらいたいな、と思ってますね。
そして、仕事をする上で、積み重ねてきた自信やプライドは、時によっては仕事の邪魔をするので、いつでも初心を忘れずに、一つ一つ着実に歩んでいきたいとも思っております。

最後となりましたが、今後は少し時間がある時には、地域との関わりを深めていきたいと考えています。その一つとして大阪府東大阪市土木部みどり景観課とのコラボイベントで(ラグビーが有名な花園商店街)花を配ろうと思ってます。

ご利用者さんと一緒に、秋に種を植えて冬を越したお花の苗『パンジーやヴィオラ、スミレやクリサンセマム等の苗』が今、ちょうど花が咲き始めたんです(配布数は合計100ポット)。こういったことで地域に何か還元していきたくて、それで地域の方からお手紙や植え替えた花の写真なんかもらえたら・・・もう最高に嬉しいですよね。

自分にとっての、この仕事の喜びはなんですか?と聞かれたら……それはもう一つしかないですよ。やっぱりご入居者さんの、ご利用者さんの”笑顔”。会話の中に自然と出てくる”笑顔”を見ると、どんな疲れも吹っ飛んじゃいますよね。

ここに来て良かった!あなたと出会えて良かった!と思っていただけるように、言ってもらえるように、たゆまない努力を今後も継続していきたいと思います」


TOP
TOP