訪問看護

訪問看護ナーシングプラス土屋

田邊ちはる

マネージャー

「この人のためにできることは何なのか」ーー変わる時代の中で私たちがかさねる、たったひとつのまなざし

 《interview 2024.3.14》

福岡、東海、沖縄、瀬戸。全国4か所で展開する訪問看護ナーシングプラス土屋で、現在、マネージャーとして活躍する田邊ちはる。病院で看護師として勤務したのち、ふとしたきっかけで訪問介護、訪問看護の仕事と出会います。自身の道をまっすぐ進んできた彼女の隣にいたのは、いつも“人生の先輩たち”。かつて受け取ってきた優しさを、次の世代へ――大分は別府生まれ、別府育ち。「温泉大好き」という田邊がこれまでの自身、そしてこれからの仕事を語ります。

CHAPTER1

“キャラ立ち”家族の、あたたかさに包まれて過ごした子ども時代

おじいちゃん、おばあちゃん、母――大人たちから学んだ優しさ、厳しさ、強さ

田邊「うちは片親だったので、母親が一人で育ててくれたんです。ただ、母や母方の家族も、離婚はしてるけど、父方のおじいちゃん、おばあちゃんの家に行くのを『行っておいで』なんて心よく送り出してくれました。

母は離婚した時に『一人でやっていかないといけない』と腹をくくって覚悟をしたらしいです。仕事もバリバリやっていたので、両家のおじいちゃん、おばあちゃんが父親母親代わりで私の面倒を見てくれていた――そんな幼少期でした。

子どもの頃は、めちゃくちゃ負けず嫌いでしたね。その上、理不尽なことを言われるのが嫌いで――今でこそ『大人になったなぁ』とは思うんですが、小学生の頃から20代前半ぐらいまでは『おかしいな』と思ったら、先生であろうが先輩であろうが『おかしくないですか?』と言ってしまう――

我慢することができない性格だったんですよ。人に合わせるというよりは、そんな感じで友達とも接していたので、今も仲のいいい友達からは『本当に丸くなったね』なんて言われます(笑)」

「でもある意味、裏表がないとも言えるかな」と笑う田邊。
幼少期の多くを、両家のおじいちゃん・おばあちゃんと過ごしますが、「4人ともとにかく優しかったんですが、4人が4人、全員キャラが立っていた(笑)」そう。

田邊「私は母方のおじいちゃん、おばあちゃんと母親と4人で住んでいたんです。母方のおばあちゃんは“きちんとした人”で、厳しかったですね。ただ、社会に出るようになってから『おばあちゃんが言ってたのはこういうことだったのね』と少しずつわかってきた。

今になって『あの時代にガミガミ言ってもらえて良かったなぁ』と思います。母方のおじいちゃんは、おばあちゃんがそれだけ言う人だったので、とにもかくにも“優しい”の一言に尽きました。

父方のおじいちゃんは真逆で、めちゃくちゃ破天荒な人(笑)。華道の先生をしていたんですが、服装もすごく派手で、同じスーツを着ていても、ネクタイだけはものすごく派手なものをつけてキラキラしてるような人でした。

父方のおばあちゃんは看護師だったんですが、言葉の端々や態度に『なんかかっこいい人だなぁ』って思えるところがありました。自分が看護学校に入って、実習に行き始めると看護師の仕事の厳しさを目の当たりにするんです。

でもそのうち、『この人は厳しいな』『この人、優しく見えるけど裏があるな』とか、その人の人間性みたいなものを察知できるようになる。2年、3年と看護学生をやっている間に、『うちのおばあちゃんはものすごく強い。ただ者じゃない気がする』って思うようになりました(笑)。

おばあちゃんは、国立医療センターで看護師長にまでなった人。実力もマネジメント能力もあった人だから、大きい組織でそこまで上がれたと思うんです。人って、心に余裕がないと、人に辛く当たってしまったり、自分に課題が与えられた時に精一杯になってしまう――

でもおばあちゃんにはそういう部分が一切なかったんですよ。無意味に怒ったりもしないし、愚痴も言わない。トラブルがあってもニコニコ笑ってる。いつもそんな余裕がある人だったんです」

CHAPTER2

看護学校への入学、そして看護師へ

「看護科に行こうかな」という思いから、看護学校へ。そして看護師となった総合病院での忙しい日々

そんな“濃いキャラの大人たち”に囲まれて育った田邊ですが、「看護師は将来なりたい仕事のひとつだった」と言います。

田邊「小さい頃は、看護師=医者っていうイメージしかなくて、『ドクターになりたい』と言ってたらしいです。でもそこからコロコロ夢が変わって――『トリマーになりたい』『美容師になりたい』とか色々言ってました。

中学2年でいよいよ進路を決める時期になった時、ふと『私、このまま普通の高校に行って、例えば美容専門学校に行って美容師になったとしたらどうなんだろう?』――って思った。

そのことをおばあちゃんに相談したら、『美容師はいい仕事だとは思うけど、正直、給料は良くないよ』と現実的な話をしてくれたんですよね。『看護師は持っておいて損をする資格ではないし、資格を取るのも一つの手なんじゃない?』とも言ってくれて。

もちろん片親だったこともあって、『お金がかかる学校には行けないな』っていう思いもありました。そんなことを考えていたら、近くに正看護師の資格が取れる5年一貫の私立高校を見つけて、『看護科に行こうかな』と思い始めたんです」

その後、通っている中学で、進路を話し合う三者面談をすることになりますが……

田邊「担任の先生としては、もちろん親に『看護科に行こうと思ってる』と相談してると思うじゃないですか。でも親に全く相談してなくて(笑)。ただ、すごくいい先生で、『お母さん、ちはるは看護科に行きたいらしい』って言ってくれたんですよ。

でも母親は“私立=ものすごくお金がかかる”っていうイメージがあって……その三者面談は全くまとまらなかった(笑)。

そしたらその先生がわざわざ母親をガストに呼び出して、『ちはるがせっかくやりたいって言ってるから、考えてやったらどうか』と説得をしてくれたんです。『費用の面で心配してるなら、実際にかかる費用はこれくらい』って細かく交通費とか月謝を提示して説明してくれて。それで母もやっと納得したらしくて――」

その後、田邊は“めでたく”看護科へ入学。
看護師資格を取得した田邊は、卒業後、総合病院へ就職します。

田邊「あたり前のことなんですが、学校では“個別性”を叩き込まれました。“その人に応じた看護、その人に応じた治療”と言われて、学んできたんですが、実際に病院で働き出すとなかなか――。

受け持ちの患者さんが7、8人いる中で、担当する10数人の患者さんの何かしらの記録物を書いたり、他にも看護計画を立てたり――たくさんの業務がある中で、学生の時のように“その人としっかり一日関わって、色々なお話をして、信頼関係を築く”ことは難しかったですね。

実習に行った時に、『報告したいけど看護師さんが見当たらない。どこで何をしているんだろう?』と思っていたことが、自分が実際に働いてみると『あぁ、忙しくて、ナースステーションにはいられないからだ』ということがよくわかりました。もちろん、就職する前から忙しさは覚悟してはいたんですが。

特に、私が勤めた病院は急性期病院(急性疾患・重症患者の治療を24時間体制で行なう)だったので、寄り添うことが難しい状況を目の当たりにしました」

そんな中でも、田邊は少しずつ、毎日の仕事のペースをつくっていきます。そして、“3人の先輩”との出会いが、その後の田邊の働きに大きな影響を与えることになります。

CHAPTER3

“3人の先輩”の背中が、教えてくれたこと。

仕事への姿勢、人との関わりの技術。いつも“その人”の背中を見て、学んでいた――。

田邊「外科から人工透析室に異動になった後、1、2年ぐらいしてからかな。私の後に異動してきた主任がいたんですが、その人が巷で噂の“怖い人”だったんです。もともとICUの主任だった方で『◯◯主任が来るらしい。どうしよう、超怖い』ってみんなピリピリしてました。実際に異動してきて――確かに怖いんですよ。めちゃくちゃ酒焼けのしゃがれ声で、相当ヘビースモーカーで(笑)。

でもその人が言うことって、自分にとっても『確かにそうだな』って思うことばかりだったんです。指導として言ってくれることはもちろん、ドクターに対して『私はこうだと思うんです』という意見もそうでした。多分、その人と自分の考え方が似ていたところがあったんだろうな――とは思います。

看護師って山ほどある通常業務をしながら、毎日、看護記録を残すんです。その記録が終わらなくて、残業をすることが病院では良くあって――当時、記録を書くために残業しているスタッフが数名いたんですよね。そこに数時間、残業代を出していた。でも実際のところ、記録って終わらない仕事じゃないんですよ。

私自身は残業をするのが嫌いで――もちろん、現場ではイレギュラーなことが多々起こるので必要な残業もあるんですが――『終わるよね?』なんて思ってた。新人の頃からそのスタンスだったので、周りからは生意気に見えていたと思います(笑)」

ある時、田邊はその主任から呼び出されます。

田邊「『田邊。これさ、どう思う?この残業って、イレギュラーなことが起きてない残業じゃない?』って他のスタッフの残業記録を見せられて。私は『残業するのが嫌いなので、この3時間の残業代稼ぐんやったら、時間で終わらせて、遊びに行きたいっす』って正直に言ったんです。そしたら『そうやろ?あんたはそれでいいんよ』って言ってくれた。

『でも、外科にいた時は、上司から“残れ”みたいなことを言われてましたよ』と返したら、『もちろん、忙しい科では残業はしょうがないと思うし、イレギュラーが起こった時の残業は当然やと思うからいいんやけど、通常業務の記録を書くための残業って、“私は時間配分ができませんよ”って自分から人事にアピールしに行くようなもんやけんね』と言われたんですよ。

それを聞いて、『残業の時間を、“与えられた時間で自分のタスクを終わらせられない”っていう判断をする人もいるんだ』と思ったんですよね。

それは、仕事に対する考えが変わるきっかけの一つでした。その主任さんは、『抑えるところはしっかり抑えて、楽しむところは楽しもう』と考えていた人でした。最初はどうなることかと思ったんですが(笑)、すごく可愛がってもらって、そこからは楽しく仕事させてもらいました」

そして、もう一人。

田邊「“プリセプター”と言って、新人看護師のお姉さん的な存在で、マンツーマンで業務を指導してくれる人がいたんです。

その人もすごく優しい人だけれど、言うことは言う。でも、嫌なことを言われてもニコニコって笑顔で返す人でした。『こういうふうに対応すると、人から嫌な感じに見られないんだな』というところは、その人から学ばせてもらいました。

例えば、嫌なことがあっても『そういう人もいるよね』って受け止める。『嫌だな』って思ったら相手にしないことも必要だし、『自分は違う』と、人と自分の間に線を引くことも必要。なんでもかんでも『これは違うと思う』って口にすればいいんじゃなくて、発言したことのまわりへの影響も考えた上で対応する――。

その人に出会ったことが、“自分が丸くなった”っていうところにも繋がるのかな。いろんなことを“教えてもらった”というよりは“背中を見せて”もらってましたね」

そしてもう一人の田邊にとっての良き先輩とは……

田邊「大きな意味での“仕事の姿勢”でいえば、私は母の背中を見ている部分がかなり大きいんです。母とは働いている業界も全く違うんですが、大人になるにつれ、社会人になるにつれ、お互いの仕事の話をするようになりました。

母親も立場がマネジメント側で、私も今、マネジメント側にいる。私が『こういうことがあってさ……』なんて話をすると、『大丈夫。私も30代の時、そんなもんやった』なんて返してくれたり、『今、そこに気づけたってことは、私より早く気づけちょるけん、えらいよ』なんて話をしてくれたり。母は接客のプロでもあるので、職種は違っても、“人と関わる”っていうところでは大先輩なんです。

母の話を聞きながら、『こういう言い回しもあるんだな』って、相手を不快にさせない対応を常々、勉強させてもらってますね。とはいえ、母とはもうずっと仲が良くて、友達親子。今も“お母さん”って呼ばずに名前で呼びあう仲なんですよ(笑)」

CHAPTER4

クライアントや家族にとっての“いい看護師さん”って?――技術や知識、経験よりも前に必要だったもの

重訪から始まった訪問の仕事で気づいた、『自分にも訪問看護ができるかもしれない』という思い。そして訪問看護の道へ

田邊は病院で6年ほど勤めたのち、重度訪問介護(重訪)の仕事をスタートします。
転職のきっかけとなったのは、「最初に就職した病院の同期だった」という現・ホームケア土屋北部九州エリアマネージャーの尾上真奈花でした。

田邊「尾上とはその後もずっと仲がよかったんですが、彼女が病院を退職した後、重訪の仕事を始めたんです。それで尾上が『訪問に興味ない?』『医療的行為をするヘルパーなんよ』なんて話をしてくれて、単純に『楽しそうだな』と思って。

『正直、合わなければやめればいいし、一回やってみようかな』くらいの気持ちで始めたんですよ」

看護から介護へ。近いようで、大きな違いのあるそのふたつの仕事を、田邊の目はどんなふうに見ていたのでしょうか。

田邊「看護師という仕事から、重訪の仕事に入った時にまず思ったのは『介護士さんってここまで気がついてくれるんだ』ということでした。

例えば、申し送りの時に『お尻がちょっと赤い気がする』って記録に残してくれる。クライアントを見ると、確かに“ちょっと”赤いんです。看護師だったら『じゃあ、プロペト(軟膏)を塗っとこう』って対応するところを、介護士さんは、わからないからゆえに『大丈夫かな?』ってしっかり見てくれる。

他にも、『いつもと雰囲気がちょっと違うけん、注意しちょった方がいいかもしれんけん』とか――長いお付き合いだし、関わってる時間も長いからこそわかる部分だと思うんですが。

在宅では、大概、ヘルパーさんと訪問看護って一緒に現場に入るんです。そうなった時に、やっぱり長く見てくれているのは介護のスタッフ。自分が後に訪問看護側になった時も、本当に細かいところ――『クライアントは、ご家族は、こういうふうに仰ってました』って、クライアントや家族との架け橋になってくれていましたね。

私自身は、訪問看護も訪問介護も経験したことがない中で重訪という世界に飛び込んだ。正直、看護師資格を持ちながら、重訪のアテンダントをしていたので、最初は『自分はどこまでやっていいのか』っていう葛藤もありました。

そのあたりの事情を知らない方からは『看護師やけん、このぐらいしてくれてもいいやん』なんてよく言われていましたね。『でも、できないんですよ』なんて流してた部分もありましたが」

もともと、訪問看護には関心があったという田邊。「学生の時に行った訪問看護の実習が楽しかった」という記憶があったそう。

田邊「ただ、訪問看護は、一人でいろんなことを判断しないといけないから、経験を積んで40代とかになって『もうベテランです』くらいになってからじゃないと入れない世界なんだろうな――っていう思いがあったんですよ。

でも実際に重訪の仕事に就きながら、訪問看護の仕事を客観視していたら、『飛び込んでみても意外といけるのかもしれない』っていう思いが出てきたんです。
というのは、訪問看護は、技術や知識、経験がしっかりあるのは大前提ではあるんですが、それより前に必要なものって、“信頼関係”だった――。

例えば、ちょっとぬけてるところがある看護師さんだったとしても、クライアント本人のお話をきちんと聞いて、家族の意向をきちんと聞いて、それをケアマネさんや各ヘルパーの事業所に橋渡しをして、『クライアントが、どういうふうに在宅で過ごしていけたらいいのか』を何よりもいちばんに考えてくれる。

そういう人が、クライアントやご家族にとっての、本当の意味での“いい看護師さん”なんだ、ということを支援現場でいろんな方と話している中で教えてもらったんです。

もちろん勉強はし続けていかないといけないけれども、正直、知識も技術も日々進化するもの。そういう状況が見えてきて、『自分にも訪問看護ができるかもしれない』って思えたんですよね。

たまたまそんな時に会社で『訪問看護を広げていきたい』『どこかやりたいところはないですか』という話があがって、尾上が『大分、やります!』って手を挙げた。そこからトントン拍子に話が進んで、訪問看護部門に異動になったんです」

CHAPTER5

看護と介護のあいだにあるグレーゾーン行為。支援現場の現実を見つめて

クライアントの生活をいちばんに考えた時に見えた、“正しさ”とは別のものさし

2021年11月、訪問看護に異動となった田邊は、東海での勤務後、地元の大分へ戻り、ナーシングプラス土屋大分の管理者に。そして感染症委員会、リスクマネジメント委員会、医療隣接行為研究委員会と、さまざまな委員会メンバーに名を連ねていきます。

看護と介護の両方を見つめてきた田邊に、尋ねてみたいことがありました。医療隣接行為についてです。

土屋グループでは、「喀痰吸引等研修の修了項目に含まれてないものの、介護現場では実施のニーズがあり、本来なら医師または看護師が実施することが望ましいとされる行為」を医療隣接行為(またはグレーゾーン行為)と呼んでいます。その委員会では、どんな議論や活動がなされているのでしょうか。

田邊「もともと、この委員会との関わりは『今、支援現場で行われている医療隣接行為のリスク度を、星1から星5まで分けていきたいのでお知恵を貸してもらえませんか?』というところから始まりました。

その後、委員会が作成した医療隣接行為リストを見せてもらった時に『アテンダントって実地研修で習う中身だけではなく、こんな行為まで現場で求められているんだ』――と驚いたんですよ。同時に『それは怖いことだな』とも感じました。

もちろん、実地研修の内容に関しては、アテンダントも根拠に基づいて行っているんですが、根拠以前にやり方だけが一人歩きしてしまうこともある。これが看護師という職業だったら、資格を取る時も、働いてからも、人間の解剖生理学から始まって、『この症状が出るということは体に何が起こっているのか』っていう基礎を叩き込まれた上で、根拠を持って、喀痰吸引や胃ろうを行なっているんです。

ただ、同時に話していたのは、『このリストに挙げられているような医療隣接行為をアテンダントが実施しなければ、在宅での生活を続けていけないクライアントが多数いる』という現実だったんです。『アテンダントではその行為ができないからという理由だけで、クライアントが施設や病院への入居・入所という形を取らないといけないのか』。

目の前の状況ではなく、法律上での正しさを優先した時、クライアントの人生が全く違う方向に進んでしまう――。私たちがそうすることを許していいのだろうかという問題と、とはいえ、そんな状況の中でアテンダントに知識のないまま医療隣接行為をさせることはリスキーじゃないだろうか、という両方の視点が見えてきました。

そこで始まった取り組みとしては、100個以上あるリストの項目ごとに補足事項を付けたり、スライドをつくって、全国向けに勉強会をしました。そうやって、看護の基礎知識を得ることで、アテンダントのみなさんになんとなくでも、『私がやってるのはこういう行為なんだ』とあらためて認識していただくこと――。

必要以上に怖がらなくていいんですが、そこに慣れてしまうことは、行為に惰性で取り組むことにも繋がってしまうので――やはり、医療隣接行為をするにあたって、“私がやってる行為には危険性もある”という自覚を持ってもらった上で支援に入っていただきたいな、というのは、今、強く感じてることです。

今後は、新しい医療行為や、私が学んできた知識にない行為も出てくるかもしれません。それも含めて、土屋で働くアテンダントの方々へのサポートがしっかりできるように、委員会活動を通してお力添えができたらなぁと思っています」

CHAPTER6

“オールハッピーの社会”を想像してみよう――みんなで、ひとつの家族の、一人の人を見ていったその先に

大事にしてきたのは、『この人のために私ができることは何なのか』をいちばんに考えてケアを組んでいくこと。

看護と介護、病院と在宅――そのはざまで、幾つもの視点を持って、仕事を続けてきた田邊。
「『中心人物は誰なのか』『この人のために私ができることは何なのか』をいちばんに考えてケアを組んでいくことが、自分の中で大事にしていること」と話します。

土屋では、「オールハッピーの社会の実現のために永続するトータルケアカンパニーへと進化する」というヴィジョンを掲げています。
さまざまな立場、さまざまな職種で命と関わってきた田邊にとっての、“誰にとっても幸せな状況“。それは、どんな状態のことだと思いますか?

田邊「難しいですよね。でも現場のことで言うのであれば、私たち――それはもちろん訪問看護も訪問介護も訪問入浴も、クライアントに関わる人たちみんな――がやりがいがあるとか、こうやった方がいいとかではなく、あくまで中心人物はクライアントご本人なので、クライアントをどういうふうに持っていきたいのか、どういうふうに持っていくべきなのか――

本人・家族・私たちの意見がビシッと合致をした時に一つのチームになれる。もちろん他事業所も含めて、そうなった時の団結力ってすごく強いものになるんですよね。

例えば同じ現場で、『ちょっと苦手かも』なんて思っていた人とも、『あぁ、同じ考えのもとでやってくれてるんだな』ということを知れれば、『今度、こういう意見を言ってみようかな』と関わる接点も出てきますし、そうやって行き着いたところが“みんなで、ひとつの家族の、一人の人を見ていく”というところであれば、結果的にオールハッピーにつながっていくのかな――なんて思います」

「医療現場が多岐にわたる時代になり、医療依存度の高い方でも在宅生活が可能となってきましたが、同時に包括的なケアが必要となります」と、土屋グループの社内報『美声』の中で語ってもいた田邊。“オールハッピー”にも繋がっていくはずの、田邊が想う包括的ケアとはどんなものなのでしょうか。

田邊「そうですね。他事業所、自事業所関係なく、『“この人のために”っていう一つの目標を持った上で、どのように関わっていくのか』をみんなで考えられること。それは今、サービス担当者会議等で日常的に話されている部分なのかもしれません。

今、在宅でできる治療がどんどん増えていってるんです。今までは病院じゃないと認可が下りなかった医療行為も、『在宅でもできるよ』となってきているし、病院としても『どんどん在宅に戻りましょう』という流れがあって、アテンダントも看護師も他の業種の方も、今よりももっと高いものを求められる時代がきています。

その時に『支え合って、この人の生活を守っていきましょう』とみんなでひとつの方向を向いて進めていけるように――そういった意味であの文章は書かせてもらったんです。

今後は、知識も技術も、病院も看護もヘルパーも、今までのように単発・単品でやっていくのではなくて、些細なことも共有し合って、みんなが一丸となってやっていかないといけないのかな、と思います」

CHAPTER7

移りゆく景色の中で「この仕事、好きです」と胸を張って言えること――これからの仕事、訪問看護のこれから

現場を離れても、この先も“看護”という仕事には関わっていきたい。そして土屋としてナーシングプラス土屋をもっともっと盛り上げていきたい

2024年1月に現場を離れ、訪問看護ナーシングプラス土屋のマネージャーとなった田邊。現在は、全国の管理者から相談を受けたり、話を聞くことも多くなったといいます。自身の役職や仕事の内容が動いた時、見える風景はどんなふうに変わってきたのでしょうか。

田邊「そうですね。これまで、病院勤務の時は1病棟の1スタッフとして働いてきて、土屋に入って訪問看護を始めて、ナーシングプラス土屋大分の管理者になり、マネージャーになり……そうやってステップアップをしてきた中で、自分の隣にいる人たちの話す内容が変わってきました。

病院時代や重訪を始めた当初は、事実、誰かの揚げ足取りのような話や愚痴を聞くことも多かった。それが管理者になった時、あるスタッフの対応に問題を感じたとしても、愚痴に持っていくのではなくて、『じゃあ、スタッフに対して、私はどう接することができるのかな』って、課題の解決に向けて、自分の立場と相手の状況を考えて行動していくようになる――そこで一つ、ステップアップができたんですね。

介護や看護の職場では、人間関係が密だからこそ、『愚痴や悪口を言い合って仲良くなる』ということも正直、多いんです。でもレイヤーが上がるにつれ、自分たちがやっていることがどこを目指しているのか。その方向や目的がはっきりしてくれば、まわりも自分も、話す内容や人との関わり方が自然と変わってくるんだ――今はそう感じてます。

私自身は、マネージャーになってまだ日が経ってないんですが、全国の管理者の方から相談を受ける立場になりました。だからこそしっかりした受け答えや、相談のお返しをしていかないといけないな、と思って、日々、勉強中です。

ただ、相談という面では、社内でもうちょっと気軽に話ができる環境をつくれたらいいのかな、と思います。今、私は在宅勤務なので、関わる方たちとも毎日顔を合わせるわけではないし、相談する側も『これって、わざわざ電話してまで話す内容じゃないな』と遠慮して言い出せなかったり、そうは言ってもちょっとした愚痴を聞いてほしい時って誰しもあるとは思うので――」

「マネージャーになる時、わざわざクライアントのお母様が手紙をくださったんですよ。『現場を離れるのは寂しいけど、あなたのキャリアをつくっていく上ではきっといい方向に行くはずだから』って。現場を離れた後、ご逝去されたクライアントがいらして、旦那様が『妻が亡くなったけん、一回ちょっと会いに来てあげて』なんて会社に連絡をくださったり。今、関わってなくても、信頼が続いていることが嬉しかった」と話す田邊。

現場での見えない頑張り、そしてかけられたことばの積み重ねが、彼女の今を後押ししたのかもしれません。

田邊「看護師の仕事は、正直、天職だと思ってるんです。胸を張って、『この仕事、好きです』って言える仕事なんですよ。

今こうして、マネージャーという立場になって、現場に行くことはかなり減ってはいるんですが、何らかの形で“看護”という仕事には、この先も関わっていきたいなとは思ってますし、土屋として、ナーシングプラス土屋をもっともっと盛り上げていきたいなという思いもあります。ただ看護職は、人材不足という側面もかなり大きいので、そこを補えるシステムや求人の媒体をこれから整備できていけたらいいですよね。

加えて、今いる管理者さんたちは本当に素晴らしい方ばかりなので、その方たちの下で、次世代の管理者を育てていただいて、しっかりと世代交代をしていけるような事業所づくりを頑張っていきたいなと思っています。

あとこれは、ナーシングプラス土屋ゼネラルマネージャーである新川勝美さん(執行役員 兼 訪問看護事業課長)の目標でもあるんですが――訪問看護の大規模事業所ができたらいいな、と思っています。

一つの事業所に看護師が10人ぐらいいて、1000万ぐらいの売り上げがあって、働く側にも複利厚生やお休みがしっかり取れる体制が整っている。どう進めていけばいいのかはまだ漠然としているんですが、最終的にはそんな方向に向かっていけたらいいなぁと思ってます」

インタビュー後の雑談で、看護学校への道をひらいてくれた中学校の担任の先生について尋ねると、「実は担任の先生が、進路について母を説得してくれていたのを知ったのはほんの数年前なんですよ」と明かしてくれた田邊。
たくさんの大人たちに導かれながら、自身の足で一歩一歩、見えない未来へ向かって進んできた――そんな彼女が今想う、“かっこいい大人像”ってどんなものですか?

田邊「自分の芯がぶれない人。それから、他人に優しくできる余裕のある人になりたいなってずっと思ってるんですけど、修行中です(笑)。

振り返ってみると、先ほど話したヤンキー主任と(笑)、プリセプターだった先輩看護師と、父方のおばあちゃん。その3人を足して、3で割ったような感じの――私からしたら、3人とも雲の上の存在みたいな、憧れの人なんですけどね。

そんな人になれた時、自分の中でやっと胸を張って『大人になったぜ』って言えるんじゃないかな」


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