《interview 2023.12.8》
三重県鈴鹿市で、強度行動障害に特化したサポートを続ける生活介護事業所 アクティブプレイス土屋 三重。この場所で働く管理者の小林 周流(めぐる)は、濃密な20代を過ごし、今、土屋でふたたび「天職と出会った」と言います。“生まれ育った家族”という環境に気づき、その後、会社や家族を“つくる側”に小林が立った時、見つけたものとは――。仕事、幸せ、自分自身を捉え直すことになった数年間を振り返ります。
生活介護事業所 アクティブプレイス土屋
三重 管理者
生活介護事業所 アクティブプレイス土屋
三重 管理者
三重県鈴鹿市で、強度行動障害に特化したサポートを続ける生活介護事業所 アクティブプレイス土屋 三重。この場所で働く管理者の小林 周流(めぐる)は、濃密な20代を過ごし、今、土屋でふたたび「天職と出会った」と言います。“生まれ育った家族”という環境に気づき、その後、会社や家族を“つくる側”に小林が立った時、見つけたものとは――。仕事、幸せ、自分自身を捉え直すことになった数年間を振り返ります。
CHAPTER1
ADHDの子どもとして育ち、感じたこととは――
実のところ、小さい頃のことってあんまり覚えていないんですね。これは性格的なものなんですかね。前のことばっかり見るタイプというか、過去を振り返ることってあんまりなくて、そんなに面白い話がないんです(笑)。
小さい頃は――機械が好きで、よく家電のいらんなったものを父親に集めてきてもらって、それを分解して直したりするのが好きでした。壊れたパソコンとか壊れた掃除機とかを3つぐらい機械を組み合わせて、あたらしく生きてる機械をつくる――そんな遊びです。
小学校3年生の時に発達障害の診断を受けて、ADHDの子どもとして育ちました。衝動的なことが多かったり、お友達に怪我させたり、授業中座ってられなかったり――俗に言う手のかかる子だったと思います。中2の時に両親の離婚があって、その後は母と妹の3人で暮らしていました。高校は定時制夜間の高校に入って。離婚したばかりだったので生活面の工面だったり、妹が私立の大学に行く予定だったので学費面の工面だったり。日中はアルバイトばっかりしてましたね。定時制は4年間あるので、18歳を超えてからは夜勤のバイトもしてました。
妹は年子なんですよ。いつもずっと一緒に遊んでいましたね。僕とは正反対の、お利口さんの妹で(笑)。僕が『あれやるぞ、これやるぞ』と言ったことにおとなしくついてきてくる妹でした。今も母と妹と3人のグループラインがあって、『この前、韓国に行ったよー』なんて、ことあるごとにやり取りをしてます。
高校卒業後は工場の作業員をやったり、4tトラックのドライバーをやってみたり、電気工事士をしたり。
その後、派遣のバイトをしていた時に、その会社の人から『うちで正社員にならへんか』っていう話があったんですね。でもそこは人材派遣や建築関係の会社で、僕自身はその仕事内容にはあまり興味を持てなかったんですが、話を聞くことにしました。一応、求職中の身だったので。
その時に聞いた『うちの会社ではこんな事業やってますよ』っていう話の一つに、『もうじき東京で、障害者の就労支援事業を立ち上げる予定だ』という話があったんです。僕個人は親や周りの人に恵まれたので、自分の障害にそんなに困ることなく生きてこれたんですが、そういう人ばかりでもないだろうし、自分のこれまでの経験や悩みが活かせるかもしれないな、とその話を聞いた時に思った。それまでも福祉分野に興味はあったんですが、なかなかきっかけがなくて行かなかったんですよ。でもその時は『あ、これや!』『それなら僕、働きます!』って即答して、関わり出したのが福祉分野で働く始まりです。
ただ、僕も周りの人には恵まれていたんですが、僕自身が困るか困らんかで言ったら、困ってはおったと思うんです。人の10倍ぐらい忘れ物もするし、すぐなくすし。でもこれは母親の存在が大きくて、『あなたの生きたいように生きなさい』といつも言ってくれとった。僕がするどんな挑戦にも『いいんじゃない』って言ってくれたから、この年になっても『いろいろ挑戦したいな』と思えるんだと思います。失敗もたくさんしてきました。でも妹や友達も『まあ、ええんちゃう?』『次、頑張ろうに』なんて言ってくれる方ばっかりが周りにいたんです。
年を重ねてからSNS等で自分と同じような特性を持っていて苦しんどる人がいることも知りました――『周りが受け入れてくれて、背中を押してくれるだけでこんなに苦しくないんだ』『もともとの持っとるものは同じようなもののはずなのに、育つ環境でこんなに違ってしまうんか』――その疑問は、自分にとっての障害福祉に入りたくなった理由の一つですね。
もちろん、『なんでこんなできやんの?!』って言われてもおかしないことはいくらでもあるんですよ(笑)。でも、周りの人のおかげで自分のことを好きでいれたまま育った――それがメンタルの面でも大きいかなと思ってます。
“自分ができること”の方に向き合えるようになったのは、やっぱり仕事と向き合うことをし始めてからです。
仕事の時は『できんことは人に頼めばいい。できることを人の分もやれるようになれ』って、ずっと教わってきてて。そのとき改めて、自分が得意なこと、苦手なことを見つめ直してきたかなと思います。で、苦手なことはなるべくやらないようにやってきた。もちろん、最低限やらなきゃいけないこともありますけどね。その後、自分で会社をつくって、仕事の内容が幅広くなってきた頃からは、自分一人だけじゃなくてほかの人にも頼ったり、『これはあの人が得意やからお願いしよう』と頼むようにもなりました。それまでは『仕事ってなんとなく働かなあかんし、やれ、と言われたことをやるだけ』なんて考えていたところもあって。そうやって見つめ直すようになったのは『ちゃんと自分で仕事しよう』って思ってからですね。
CHAPTER2
利用者さん、それから一緒に働く人も含めて、自分に関わるすべての人へ――
『みんなが幸せな社会をつくるため、まずはあなたをハッピーにしたい』
話があった東京の就労継続支援B型事業は、立ち上げから関わることになりました。僕は福祉事業についてほとんど経験がなかったんですが、『やってみたいからやれるはずだ』という謎の自信だけあって(笑)。
でも、やっぱりわからんことばっかりでしたね。知らない用語が飛び交うし、指定申請をする人にも『どうせあなた、知らないでしょ』なんて感じであしらわれて、僕の負けず嫌いなところが発揮されてしまってですね(笑)。『これは行政の人と対等にしゃべれるようにならんと』――と、関連の本や障害福祉サービスの法律を片っ端から読んで、勉強して。その後、指定申請はなんとか通り、サービス管理責任者である当時の相方と一緒に、僕は管理者として一年ぐらい事業所を運営しました。
その後、勤めていた会社が分裂することになって――元の会社から新しく別の会社ができるんです。その中に僕の恩師の方がいて、『私も手伝うから、一緒にこの会社から独立しないか』という話がありました。親会社が現存の事業所から撤退する、なんて話が出ていて、誰かが動かないと事業所で働く利用者さんたちが行くところがない――そんな状況だったので、『僕でやれるなら何でもやります』と資金の援助や融資を受けて事業所を買い取り、僕自身が就労継続支援B型事業を経営する会社の代表取締役になりました。
その“恩師”の方というのは、いろんな会社の再生や傾いてきた事業を立て直す凄腕経営者のような方で――僕のことをいつも目にかけてくれとって、独立する時も全部サポートしてくれて。それこそ仕事の“いろは”を全部教えてもらったなと思ってます。
僕の父親はあまりいい父親じゃなかったので。もとより『父親はいないもんや』と思ってはおったんですけど、そんな感覚からしたら、その恩師は僕の中で目標としとった人でしたし、目指したい背中というか――父親のように慕っている人でしたし、子どものように可愛がってもらってたと思います。
会社を立ち上げた当初は、大きいことやったり、細かいことやったり。事業所が一つだったので現場にもいましたし、『ここで起きることはなんでも自分の仕事』ぐらいの感覚でいましたね。でも会社が大きくなっていくうちに、新規事業所の立ち上げと新規事業の立ち上げ――0(ゼロ)を1にしていく仕事が僕は得意だったので、そういう業務を担っていくようになりました。そのあたりからは、『会社が進む方向が間違ってないか、方向を考えて言語化していくことが、自分が責任持ってやらなあかんことやな』と考えるようになって。
当時の自分を駆り立てていたのは、『自分が掲げた理念を達成したいな』っていう思いでした。僕は会社の代表になった時に、最初に『みんなが幸せな社会をつくるため、まずはあなたをハッピーにしたい』っていう言葉を決めたんです。それが僕の行動の源で。『あなた』という言葉には、利用者さん、それから一緒に働く人も含めて、自分に関わるすべての人、っていう意味を込めていました。
それは母親や周りの人への感謝があったからなんです。“自分が関わっていく人をハッピーにしていけること”――生み、育ててくれた親への恩返しって、それしかないなと僕は思っとって。もちろん、母に『ありがとうね』とは言うんですけど、『親孝行として◯◯をします』ってことはあんまりしないんですね。僕自身が親に直接何かするより、“みんなを幸せにしとるんだよ”っていうことの方が親孝行になるかなと思ったんで、そこは頑張ってました。
CHAPTER3
“みんなが幸せになる”ためには――
自分が幸せになれる環境にいることの必要性――
会社を立ち上げたのは23歳の頃で、その後、さすがに自分一人が管理者として事業所にいて、救える利用者さんの数にも限界を感じるようになっていたので、『事業を広げていかなきゃいけないな』とは思っていたんです。そこに協力していただけることになったので、東京以外に、名古屋で多店舗展開を進めていくことになりました。
そこからは東京と名古屋を往復する生活。会社員じゃないので、労働時間も決まりがなく、これ以上働けないなというぐらい働いていました。『自分が頑張ることが多くの人を救うことになるんだろう』と信じて。その結果、2、3年で名古屋に11事業所を開けて。
一つの事業所を数十人とすると、200、300っていう数の利用者さんが毎日来てくださる状態にまでなりました。もちろんそれは、いろんな人の力だったんですが――組織が大きくなっていく中で、自分の一人よがりな部分に対する批判だったり、『この立場にいるんだったら、こういうレベルにいなきゃいけないよね』と自分に対して求めるものも高くなってきて、不安に押しつぶされることが出てきた時に――“みんなが幸せになる”と思って頑張っとったはずなんですけど、ちょっと自信がなくなってきた。
それまで疲れを感じたこともなかったのが体が疲れるようになって、そのうち起き上がれないぐらいしんどくなって。今やったら鬱やったな、と思うんですけど、当時は『なんなんや、これは』と。仕事もろくにできなくなって、そこで挫折というか。引き継ぎやらなんやらをして、その会社の代表取締役を辞任した――そんなことが土屋に入社する前にありました。
でも一番自分がダメやったなって時に、今、結婚している奥さんと出会って。『こんな状態の自分とおってくれる人がいる』と思って、結婚したんです。奥さんには子どもが3人いたので、『これからは4人を養っていかなあかんな』っていう状況になって、そこから見える景色が変わってきたかなと思います。
まぁ、会社の代表をしていた頃の自分は、覚悟が足りんかったのかもしれません。当時、結婚してて子どもを養ってく責任があったら、もう少し頑張れたのかなとは思わんでもないです。それはちょっとわかんないですね。
その頃は、一緒に働いてくれとる人に『自分が幸せじゃないのに、人のことなんか幸せにできるわけないやろ』『利用者さんに幸せになってもらうためにも、まずはみんなが幸せになる会社にしていこう』なんて話を常にしてたんですよ。でも、自分の幸せを考えることは疎かにしとったなって気づきました。“自分は、仕事に打ち込むことが幸せや”と決めてしまっとったなと思いますね。
そこから土屋に入社するまで3ヶ月ぐらい時間があったんですが――その間に『家族を守ったり、一緒に楽しく生きていくことって幸せなんやな』って気づきました。めっちゃ今さらなんですけど(笑)。なので、まずはね、『自分を幸せにしよう』。『自分が幸せになれる環境におろう』って心の底から思うようになった。そこが変わりましたね。
CHAPTER3
『好きなことと、得意なことと、意義があると思えること。仕事はそれが2つ揃ったらいい方で、3つ揃ったら天職なんだ』
『自分にとって、家族の存在ってなんやろ』と考えた時に、頭のてっぺんから、足の指の先まで、僕に活力を送ってくれる存在やなと思ってます。家族の存在が、自分の体のどの位置にあるか…初めて考えましたね(笑)。強いていうなら、心臓かな、と思います。なんとなく。
妻も僕も、出会った頃は名古屋に住んでいたんです。そこから奥さんの地元も僕と同じ鈴鹿だったので、家族で地元の鈴鹿に戻って、生活をつくることになって。
当時の僕は――福祉の仕事ぐらいしか真面目に『これ』って取り組んだものってなかった。代表を辞任した後、新しく仕事先を探す時に何を重視したかと言えば、“家族を養っていくこと”でした。今持っとる自分の経験と資格で、一番給料がもらえそうなところを探して――そういう中で、土屋と出会ったんです。ただ、自分で言うのもなんなんですが、これまでの仕事に関しては真面目にやってこなかった訳でもなくて――どんな仕事も、覚えるのが結構早い方なんですが、飽きちゃうんですね、僕が。レベルアップしていくことは楽しいんですけど、『こんなもんやな』って思った瞬間に『これ以上、頑張る意味あるんかな?』って思っちゃう。どんな仕事にも意義があるのはもちろんわかってはいるんですけれど、飽きると『他のことをしたいな』って思っちゃう。
じゃあ、なんで今、福祉やっとるんや――っていう話なんですが、“障害福祉サービスで事業所を広げていく仕事”は自分の中では天職だと思ってるからで。昔読んだ本の中に『好きなことと、得意なことと、意義があると思えること。仕事はそれが2つ揃ったらいい方で、3つ揃ったら天職なんだ』いう言葉があって。僕にとってはこの福祉の仕事が3つ揃った“天職”なんです。そう考えると、好きなこと、得意なことはいっぱいあったけど、意義があると思える仕事にはそれまで出会えていなかったんだなって思います。
実は土屋に入社する時には、正直なところ、代表を辞任したばかりだったし、『これからはもうちょっと楽に仕事しようかな』なんて思ってたんですよ(笑)。でも働き出して、土屋の理念や目指すところを聞いているうちに、『これは意義がある仕事だ』って感じられた。
特に、最初にホームページを見て飛び込んでくる“探し求める小さな声を”っていう言葉は僕の中では大きかったですね。『これは、いろんな人を幸せにしていきたいという思いから出てきた言葉だなぁ』と共感ができました。そしたら、『あ、またこの3つが揃った仕事に出会えたな』と思えて。『もう一回、ここで頑張りたいな』って思うようになりました。
これから大事にしていきたいのは――またこうやって“天職”と出会えたので、この『意義があると思える仕事をする』ってことですね。
『土屋があったから救われた』とか、『この場所があるから楽しく過ごせとる』と思ってくれる人を少しでも増やすこと。土屋っていう会社には、そのエネルギーがあるなと思いましたし、この会社やったらできるなって思ったんが僕の中では大きいです。
CHAPTER4
アクティブプレイス土屋が目指していることとは――
僕が今働く『アクティブプレイス土屋 三重』は、強度行動障害のある方たちが過ごす生活介護の事業所です。重度の知的障害を持つ方が散歩をしたり、ドライブをしたり、体を動かしてもらいながら日中を過ごす場所として利用していただいています。
今月、ようやく初めての利用者の方3名に来ていただいたところです。一人は行動障害が強く出ていて、隣の愛知県のグループホームで受け入れてもらえなかった方なんですが、ここに来てからは穏やかに過ごしていただいてます。最初の数日に比べたら、本当に笑顔が増えてきたので、それはすごく嬉しいですね。
もともと、タオルに強いこだわりを持つ方だったんです。それまで通われていたグループホームでは入浴時に暴れてしまって、男性スタッフじゃないと入浴が難しかったと聞いていました。ここで入浴をした当初は、暴れたり、ドアを叩いたり、スタッフを叩いたり――でも『一つずつ、いろいろ試していこう』って、まず関わる人を変えてみたんですが関係なかった。次に『びちょびちょに濡れちゃうけど、タオルを渡してみようか』ってタオルを渡してみたら、その日から何の問題もなく、入浴されるようになりました。
その方は『タオルを俺の手元に置いてほしい』と言いたかったんですね――言いたいことが伝わったので、今はスタッフの『立ってくださいね』『この手すり持ってくださいね』も、『座ってくださいね』も理解してくださります。通われているグループホームからは『浴槽に浸かったことがない』とも聞いていたんですが、ここでは落ち着いとるし、『お風呂に浸かってみませんか』と声をかけたら、何事もなく数分浸かって、気持ち良さそうにされてることもありました。スタッフの対応を含めた環境を変えることで、その方に大きな変化がありましたね。
行動障害のある方というのは、問題が行動で出とるから“行動障害”なだけであって、『お腹が空いた』という要求が言葉にできないから『叩く』という行動になってしまう――行動の背景にあることはそれくらい簡単なことなんです。『◯◯がやりたい』が言えない。言い方がわからない。もしかしたら自分でも『したいこと』がわからないのかもしれません。
だからこそ、適切な支援ができる事業所があることで――なくなることはないかもしれないんですけど――行動障害を減らしていくことができると思っていて。その方が何を言いたいのかを支援する側が理解できるようになれば、その方の行動は変わっていく――アクティブプレイス土屋が目指しているのは、“強度行動障害がありながら地域で暮らしていけるように”というよりは、“強度行動障害のある方が、アテンダント側の関わりや理解を通して行動障害そのものを減らしていき、地域で暮らせる状態になっていくこと”なんです。
福祉は人対人の仕事なので、支援する側の心持ち一つ、気分一つでクライアントへの支援は変わってきます。『最終的に幸せを届けたいのはクライアント』――そこは間違いないんですけど、一緒に働くみんなが志を持って仕事ができる環境があったらいいですよね。
だって、この福祉の業界にわざわざ来ようって思う人、福祉の仕事をやりたいと思う人って――優しい人の集まりやと思うんです。志を持って働ける環境があれば、良い支援ができるはずやと僕は思ってますし、日々、意義を感じて仕事に向き合える環境をつくっていければ、きっとみんなが幸せになっていくはずだと信じてます。
CHAPTER4
今まで、そしてこれから。
より多くの『幸せ』に繋がる環境とは――
“幸せ”というキーワードから話すと、『自分が関わる人を幸せにしたいな』っていう気持ちと『それをしていくことが自分の幸せになるんだ』っていうところは昔も今も変わらないんです。でもそこに個人単位での自分の幸せだけじゃなく、自分の家族の幸せというものも乗せるようになってから、より、“幸せ”というものへの理解度が深まった気がします。
家族の存在は大きいですね。子どもが成長したり、できなかったことができるようになるのを見ていると『自分も頑張らな』っていうふうになりますから。
どんなことにも通ずるかもしれないんですけど、自分一人でやれることって大したことなくて。みんなで苦手な部分を補いあったり、得意なところでそれぞれが活躍することで、より大きなエネルギーを生むことができる。
それは、会社や施設を運営していく上でもそうだし、現場で支援していく時でも、みんなで協力していくことでできることが増えていく。有名な言葉なんですが、『早く行きたければ一人で行け、遠くに行きたければみんなで行け』――仕事って、そんなことだなと思います。
アクティブプレイス土屋では、他の事業所で受け入れてもらえない人たちが日中過ごしたり、地域で暮らしていく場所で――それは他の事業所ができないことであって、僕たちがやっとることは非常に意義があることだ、と思ってます。“僕らがおらんかったら、この方たちは行くところがない”“どれだけこの場所が必要とされているか”っていうのは日々、スタッフ同士で話していますね。それこそ“志”の部分ですね。そうやって共有してきた“志”が実現していることに僕は誇りを感じてるし、みんなにもこの仕事にその誇りを感じていってほしいです。
僕は自分自身が発達障害云々ということを、わざわざアピールしていくタイプでもないんですが、そうである経験から、いろんな人に助けられたり、救われてきました。と同時に、自分の苦手なことじゃなくて、得意なことを仕事にすることで、より良い成果が生めたところがあったので、誰もがこの先、こんなふうに仕事ができるような環境をつくっていきたいな、と思ってます。
仕事が休みの日は――最近、自分が中学生の頃にやっていた『よさこい』をまた始めました。もともと中学で始めて、20歳くらいまでやっていたんですよ。
小3の長男は小児ガンで、運動に制限があるんです。これまでなかなか熱中できるものを探せなかったんですが、『踊りはどうかな』と連れて行ってみたらすごく熱中して。今は『よさこい』を子どもと一緒に踊るのが休みの日の楽しみですね。
とはいえ、練習やイベントの送り迎えに忙しくて、自分の練習にはなかなか行けていません(笑)。