介護事業部

介護事業部 ホームケア土屋

穀田優佳

いわて 管理者

「介護の仕事を始める時」、「続ける時」に必要なものは『愛とお金』。介護は「愛」がないとできない仕事。

 《interview 2023.5.9》

ホームケア土屋 いわて事業所で、管理者として活躍する穀田優佳。
「妄想が好きだった」という少女時代から、イギリスを夢見た10代を経て、今、介護の世界で“みんなで見る夢“を現実にしています。
幼い頃から好奇心旺盛だった穀田は、常に自身の想像力を広げ、さまざまな現実に「驚き」、「楽しそう!」と面白がってきました。重度訪問介護と出会ったきっかけも、心のままに動く彼女ならではのエピソードです。
小さな声に寄り添いながら、東北の地で前向きに、力強く進む。幾度も登場する「楽しく」というキーワードを巡りながら、“笑って生き、働く介護職・穀田優佳”に迫ります。

CHAPTER1

妄想好きの子ども時代。「銀河鉄道999」のメーテルに憧れて

―まずは穀田さんの小さい頃のお話を聞かせていただきたいなと思います。どんなお子さんでしたか?

私、50歳を過ぎているんですけれど、その頃って、授業中に『わー』って走ったり、あちこちに動いたり、そういう子たちいっぱいいたじゃないですか(笑)。そんな感じでしたけど、隠キャでしたね。友達があんまりいなくて。
空想とか妄想が好きで、洋服をかけるボックスとか、机の下をダンボールで囲ってその中に入ってよく妄想してました。『宇宙に行ったらどうしようかな……』って(笑)。

子ども時代はなりたいものがいっぱいあって、まず映画監督になりたかったし、デザイナーにもなりたかった。今はいろいろ自分でなれる手段がありますけど、昔は全然なかったので、自分でTシャツをつくったりしてました。
父親もそういうのが好きだったんですよね。父はもう亡くなってますが、アヴァンギャルドな感じで、はちゃめちゃだったんですよ(笑)。山に行っては、動物拾ってきて家で飼っちゃうんです。

―なんと(笑)。例えばどんな動物がお家にやってきたんですか?

父は本当に変わっていて……山鳩とか、ウサギとか。野ウサギなのかな、よくわからないです。子どもの時はそんなことばかりで『どうしたの?』って父に聞くと、『山から拾ってきた』『連れてきた』と。私は『どういうこと?』って言うしかなかったです(笑)。
そういうので言うと、大学生ぐらいの年齢って、バイクとか自転車で夏休み、冬休みに日本一周とかするじゃないですか。そういう人を泊めるんですよ、家に。

うちは父子家庭で、父は土木作業員として働いていたんですね。それでよく山に行って、動物を連れてくるし、大学生とはたまたま食堂で会って、『今日、泊まるところがない』っていう人を連れてきて。夏の間、しょっちゅう誰かがいました。

男子が多いし、知らない人が家にいるって子どもながらに怖かった。だからいつも『何?この人?』って思ってましたよ。それで、一泊、二泊ぐらいして旅立っていく(笑)。私は小さかったので覚えてないですけれど、父はその後も大学生とは手紙のやり取りをしたり、交流があったみたいです。その記憶だけスッと抜けてて、『いたな』っていう記憶だけでうろ覚えなんですが。

―子どもの頃や10代の頃に、「この人が自分をつくってくれたなあ」という出会いはありましたか?人じゃなくても、本や映画とかでも。

先日亡くなった松本零士さんがすごく好きでしたね。小学校の頃、『銀河鉄道999』が流行っていて大好きだったんです。本もアニメもずっと見ていて、『大人になったらメーテルになりたいな』って妄想をしていました。メーテルの帽子をつくって、コスプレもしていましたね。でもふわふわした黒い布なんて持ってなかったから、布のはぎれをワンピースにして。メーテルの帽子も、裁縫の技術なんてないから、薄汚れた毛布を丸めて。そんなことを一人でやって、遊んでいました。だって、宇宙に行けるって凄くないですか?しかも汽車で(笑)。

―なるほど、「デザイナーとか映画監督とかになりたくて」って仰っていたのはそういうことだったんですね。当時、好きだった映画ってありますか?

その頃は、『スターウォーズ』とか宇宙系の映画ですね。流行ってましたし。あとは『ブレードランナー』とか、近未来的なものもすごく好きでした。大人になってから衝撃を受けたのが『フィフス・エレメント』。ミラ・ジョボビッチが出演していたんですけど、『この人、人間なの?!』って思うぐらい手足が長くて、衝撃を受けて。

―メーテルに近いものがあるのかもしれませんね(笑)。穀田さんが近未来的なものとか、松本零士さんの世界に惹かれたのってなんでだと思います?

やっぱりあの絵です。メーテルの顔が日本人離れしていて。日本人の感覚からすると、すごいですよね。金髪で、目も顔から出ちゃいそうなぐらい大きくて。
哲郎も哲郎で二頭身だし、メーテルも180cmぐらいありそうだったし。『すごく楽しそうだな』って思いながらアニメを見てました。アンドロメダまで行ける無期限パスもずっと欲しかったです(笑)。

CHAPTER2

仕事を面白がる。「何これ?!楽しそう!」そんな心のままに

―学校を卒業された後、穀田さんの仕事のはじまりはどんなスタートだったんでしょうか。

私は元々、海外に行きたくて、その中でも特にロンドンに行きたかったんです。中学2年生ぐらいの時、ちょうどブリティッシュ・ロックが流行っていて、Duran DuranとかJAPANっていうバンドが好きでしたね。土屋昌巳っていうギタリストがJAPANのツアーで演奏をしていて、『日本人ですごいなぁ』と思いながら聴いていました。

そういう憧れもあって、高校を卒業したらイギリスに支店がある飲食店で働こうと思ったんです。まずは東京で就職して、その後イギリスに行っても、まかないがついていればとりあえずは生きていけるし。ちょうどバブルの時期で日本の企業がどんどん外国に進出していた時だったので、最初は母親の紹介で東京の飲食店で働き始めました。結果的には、ロンドンには行かず、辞めてしまったんですが。

―他にもいろいろ、仕事をされてきているんですよね。

仕事の面で言うと、今は一番介護が長いです。もう10年。というか、まだ10年ぐらいですけれど。はじめたきっかけはーーこれを言うと下心がある、なんて思われてしまいそうなんですがーー介護の仕事はまず『食いっぱぐれない』という思いが正直なところ、ありました。うちの父と母は早くに亡くなったので、親孝行もできていなかったし、【 コラム 】にも書きましたけれど、ありきたりの理由で『介護やろうかな、私でよければ』って思ったんです。

土屋に入る前は特別養護老人ホーム(特養)で8年ほど働いていました。高齢者介護をずっとしていて、『介護って楽しいんだな』と思ってやってましたね。介護はやりたくて入った世界で、若い時はいろいろ仕事してましたけど『食べるために働く』という感じで。介護の前は、生命保険会社で営業をしていました。

―特養で働かれていたご経験は、穀田さんにとって大きかったんですね。

でも特養で働いていた時は、ショッキングでしたよね。ショッキングな場面に出くわして言葉が出ないっていうか……まぁ、ショッキングでした。三回も言ってしまった(笑)。

私が務めていた特養は、どこの施設からも断られた方の“最後の砦”みたいなところだったのでーー後に受けた研修で『こういうことなんだ』って知ったことももちろんあるんですがー―おじいちゃん、おばあちゃんは、騙されて連れて来られるような感じだったんですよ。

認知症が進んでいて、家庭で暴力を振るったり、ご飯もちゃんと食べてるのに『食べてない』っていうやり取りが何回もあると家族は疲弊してしまう。それで『ちょっと買い物に行こうよ』って声をかけられて、一緒に車に乗って施設に連れてこられて。いざ連れてこられたら、知らない人たちばっかりで、『今日からここに一緒に住みなさい』なんて言われる。“姥捨て山”じゃないけど、すごく悲しくなってしまったんです。

前段階できちっと話せばわかるのに、それをやらないんだなって。『世の中の人たちは、日常を面倒臭く思っているんだなぁ』って思いましたね。

―その後、どんなふうに重度訪問介護と出会ったんでしょう。

特養で働くようになって8年ぐらい経った時に、仕事がマンネリになってきたんです。そうすると『自分の介護技術がどれだけちゃんとできているのかな』という不安が出てきて。もうちょっと介護技術を磨きたくて、動画を見て『こういう移乗の仕方があるんだ』『こういうケアの仕方があるよ』っていうのを勉強したかった。

その時、動画をいろいろ見ていたら、たまたま“重度訪問介護”っていうのが出てきて。私は全然知らなかったんですが。あるヘルパーさんがクライアントさんのお宅に行って、二人で一緒に出演してるYOU TUBEを見て衝撃を受けたんです。『何これ!すごいじゃん、楽しそう!』って。

施設にいると、時間できちっとやらなきゃいけないし、業務的な流れ作業になって利用者さんともゆっくり話もできない。そんなことを考えていたタイミングで、YOUTUBEでたまたま重訪に出会って、そしたら私より先に特養を辞めて土屋に転職した人がいたんです。その方から連絡をもらって『ちょっと話を聞きたいんだ』という流れになって。

―重訪の動画を見て、「楽しそうだな」と感じられたのはどんなところでしたか。

楽しそうだなって思ったのは、YOU TUBEに出ていたアテンダントの人が、きゃっきゃしてたんですよ。『つよさんぽ』っていうチャンネルなんですけど、つよぽんっていうアテンダントさんと、エンジェル小松さんっていうクライアントさんがいて、『今日は夜勤です』『これから支援に入ります』って実況中継みたいな感じで、ご飯を食べたり、介助をする動画を見てました。エンジェル小松さんもすごくニコニコしてたんですね。

―そこから、実際に支援を始められた時はどうでした?

支援に入った次の日には、当時の管理者の方に『もう辞める』って言ってましたね(笑)。
自分ではできると思っていたし、個別の支援がやりたくて入ったのに、在宅支援が何ひとつできなかったんですよ。それでもう、うちひしがれてしまって。でも『大丈夫だから』って言ってもらえて、ちょっとずつやっていって。

―「何ひとつできてなかった」……というのは、ちなみにどんな部分だったんですか?

やっぱりコミュニケーションができてなかったですね。今ではだいぶできるようになりましたけど、当時は口文字も全然読めなかったですし、『(相手が)何をして欲しい』とか『今、何を言いたいのかな』っていうことを、自分の中では結構、気づけるかと思っていたんですが、全く気づいてあげられなかった。『これじゃあ、ダメだな』と思ったんです。

介護の経験はあったので、オムツの当て方とか技術面はできていたと思うんです。でもコミュニケーションの部分――例えば、ALSの方とは文字盤を使って目線で話をするんですが、こちらがそれを受け取って理解することがこんなに難しいんだな、と。イエスという返事を、クライアントが目線を右動かして左動かして、何回も何回もやってくださるんです。一生懸命、イエス、ノー、イエス、ノー、って言ってもらってるのに、私はなかなか読み取れなかった。気持ちを察してあげられなかったっていうのができなかったことですかね。これは今もまだまだできていないんですが。

CHAPTER3

休みの日は冬山へ。バードウォッチングに行く“行程”が楽しみ

―お休みの日はどんなことをして過ごされているんですか?

私は野鳥が好きで、休みの日は、最近は双眼鏡持ってドライブばかりしてます。
子どもが幼稚園の頃からずっと仲よくしているママ友と、久しぶりに会っておしゃべりをしてたんですが、彼女が『野鳥の会に入ってる』と聞いて。
それまで私は鳥にそんなに興味なかったんですよ。でも『野鳥の会の観察会があるよ、行かない?』なんて声をかけられて、友達を誘って三人で行ったのがきっかけです。そしたらハマっちゃったんです。

バードウォッチングは、木が葉を落としている冬の方が鳥を見つけやすいんです。その日は、北上の山奥に、ネイチャーガイドの方と私たち三人でスキーウェアで入って行って。東北の方言で『雪を漕ぐ』って言うんですが、猛吹雪の中、ざすざすしてるところを進んで行って、これがすごく楽しかった。

吹雪の中、北上川沿いでオジロワシを見たり、白鳥や鴨を数えたり、雪の中に車で突っ込んでみたり。鳥云々じゃなくて、“バードウォッチングに行くっていう行程”が楽しかったんでしょうね。

基本的に野鳥には餌をあげちゃいけないんですが、そこでは冬に限ってやっていたんです。小さいヤマガラで、呼ぶと手の上に来るんですよ。どうやってヤマガラを呼ぶんだろうと思って見ていたら、普通のホイッスルで呼んでいました(笑)。

―(笑)。お話が面白いので聞いちゃいますが、穀田さんの生活って何でできてると思います?例えば、今のお話にすると、野鳥50%とかおいしいご飯30%とか……

私は“ずぼら”が50%なんです。家で何もしません(笑)。“ていたらく“って言うんですかね。何もしないので、もう“ずぼら“が70%ぐらいになってます。あとの30%は、友達とのおしゃべりと、妄想と、毒吐きをしてます(笑)。本当は活発に動きたいけど、活発に動けないお年頃でもあるので(笑)。

―じゃあ、お仕事になるとモードを変える感じなんですか?それとも…

多分そうだと思います。“仕事モード”じゃないけど。でも仕事が終わって家に帰ったらすぐに寝るし、休みの日は鳥を見に行く以外はもう何もしたくないんです。『布団の中にずっといろ』って言われたらずっといれますよ(笑)。

CHAPTER4

モットーは“仕事は楽しく”。仕事が楽しくなかったら、意味がない!

―土屋で働き始めて1年半、ホームケア土屋 いわての管理者になって1年になります。一緒に働かれているホームケア土屋 いわてのメンバーはどんな方たちですか?

スタッフは今、20代から50代まで、15名いらして、みなさんすごく真面目なんですよ。
みんな、私がして欲しいことを気持ちを汲んで先回りしてやってくれるんです。かゆいところに手が届くというか、私も抜けているところが多いので、忘れていたことを『穀田さん、こうですよね』『やっておきました』とフォローしてくださる方が多いです。

私はすごく人に恵まれているんですよ。これまでも、出会う人出会う人、良い人ばかりで、まわりからいつも押されてね。『ほら、ほら』なんて言われてるだけで、私は何もできなくて、みんなに持ち上げられてるだけです(笑)。

―穀田さんが仕事をしていく上で、もしくは、人と関わる上で大切にされていることはありますか。

最初はやっぱり“笑顔”ですよね。あまり気にしたことなかったんですが……。どんな人とも笑顔で接して話していけば、10個嫌なところがあっても、1個良いところがみつけられればそれでいいかなって思います。うん。
自分のモットーは、“仕事は楽しく”。仕事楽しくなかったら、やってる意味がないなと思ってます。仕事をしている間は、楽しく過ごす事だけです。

今、管理者という立場になって、『自分がもう少しステップアップしてやっていきたい』と考えた時に、『みんなが付いてきてくれるような、そんな事業所にしていけたらなぁ』という思いはありますね。

非常勤アテンダントの方もたくさん働いてくれているので――もちろん人それぞれの生活スタイルもあるし、どういう風に考えてるかはわからないですがーー希望する方には、常勤になってもらいたいという思いもあります。
“土屋の働き方改革”じゃないですけど、自分だけがよくなりたいわけではなくて、みんなで一緒に底上げしていければなぁ、っていうのがありますね。ちょっとかっこよすぎるかな(笑)

―いえいえ、とても素敵です。では、そんな穀田さんにたくさん妄想していただきたいんですが……「穀田さん、明日から土屋をよろしくお願いします。あなたが代表になって、会社を改革してください!」と言われたとしたら、どんなことを考えますか?

これ、紙に書いてみたんです。もし『代表になって』と言われたらーー理屈抜き、縛りなしですよ。本当にそうなれるんだったらーー政治家になりたいなと思いました。『障害・高齢者福祉の会社を経営している土屋の代表です』ということを掲げた上で、政治家としても活動して、介護業界そのものをもっと良くしたいですね。

今思うのは、介護の担い手がいないと、介護サービスは全国隅々まで行き届かないということ。山間部や離島はまだまだサービスが届いていません。だから、アテンダントがどこにでも行けるように、どんな人にも手を差し伸べてあげられるようにしたいですね。

今、私がいる盛岡は、比較的、重度障害をお持ちの方への理解があるんです。でも別の場所では、『予算が少なくて支援時間が降りない』とか『重訪ってなんですか?』と言われてしまうぐらいまだまだ認知度が低い。だからこそ、重訪のサービスそのものを全国で浸透させていきたいんです。

アテンダントの方に向けても『重訪って楽しいんだよ』『これからたくさん育てていきたいな』という気持ちもあります。そうなると、今、自分がやりたいことは、下にいるとできない。いくら声をあげてても。どんどん上に行って、『自分はこうしていきたい』というヴィジョンを広げて、発信していかないと。そう考えると、最終的なところは政治家なのかな。

―なるほど。では最後にお尋ねしたいんですが、特養で介護の仕事を始められて10年になると仰っていました。介護の仕事を続けられてきて、そして、管理者という立場になって感じられている「介護の仕事を始める時」、そして「続ける時」、必要なものってなんだと思いますか?

どうなんだろうな……やっぱり愛とお金なんですよね。
私が育った家は、お金がなかったんですよ。うちの父親と母親は離婚をしているんですが、おそらく、お金がなくて離婚したんじゃないかな。でも、愛はあったんです。

例えば、子どもを育てるにもお金は必要じゃないですか。愛だけじゃ育てられない。お金はモノを買うだけのツールなんですが、それでも『愛=お金』と考えているところが私はあります。単純で、打算的で申し訳ないんですが。

やっぱり、介護も愛がないとできないですね。募集を見て来てくださる方がこれまでたくさんいらしたんですが、『やってみたけど、ちょっと違ったので辞めます』という方もたくさんいらしたので、どうしたら続けてもらえるかということはいつも考えています。

自分は仕事をする上で“何”を持っていて、“何”を考えて働いているのかーーその辺が私自身もわからなくなってしまったこともありました。
だからこそ、生活していく時に必要となる給与面に惹かれて、介護職として働き始めることは大歓迎です。でもちゃんと形にしていく。愛を持って行動にしていく。介護の仕事ってその両方が大事なんじゃないかと思っています。


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