私は元々、海外に行きたくて、その中でも特にロンドンに行きたかったんです。中学2年生ぐらいの時、ちょうどブリティッシュ・ロックが流行っていて、Duran DuranとかJAPANっていうバンドが好きでしたね。土屋昌巳っていうギタリストがJAPANのツアーで演奏をしていて、『日本人ですごいなぁ』と思いながら聴いていました。
そういう憧れもあって、高校を卒業したらイギリスに支店がある飲食店で働こうと思ったんです。まずは東京で就職して、その後イギリスに行っても、まかないがついていればとりあえずは生きていけるし。ちょうどバブルの時期で日本の企業がどんどん外国に進出していた時だったので、最初は母親の紹介で東京の飲食店で働き始めました。結果的には、ロンドンには行かず、辞めてしまったんですが。
―他にもいろいろ、仕事をされてきているんですよね。
仕事の面で言うと、今は一番介護が長いです。もう10年。というか、まだ10年ぐらいですけれど。はじめたきっかけはーーこれを言うと下心がある、なんて思われてしまいそうなんですがーー介護の仕事はまず『食いっぱぐれない』という思いが正直なところ、ありました。うちの父と母は早くに亡くなったので、親孝行もできていなかったし、【 コラム 】にも書きましたけれど、ありきたりの理由で『介護やろうかな、私でよければ』って思ったんです。
土屋に入る前は特別養護老人ホーム(特養)で8年ほど働いていました。高齢者介護をずっとしていて、『介護って楽しいんだな』と思ってやってましたね。介護はやりたくて入った世界で、若い時はいろいろ仕事してましたけど『食べるために働く』という感じで。介護の前は、生命保険会社で営業をしていました。
―特養で働かれていたご経験は、穀田さんにとって大きかったんですね。
でも特養で働いていた時は、ショッキングでしたよね。ショッキングな場面に出くわして言葉が出ないっていうか……まぁ、ショッキングでした。三回も言ってしまった(笑)。
私が務めていた特養は、どこの施設からも断られた方の“最後の砦”みたいなところだったのでーー後に受けた研修で『こういうことなんだ』って知ったことももちろんあるんですがー―おじいちゃん、おばあちゃんは、騙されて連れて来られるような感じだったんですよ。
認知症が進んでいて、家庭で暴力を振るったり、ご飯もちゃんと食べてるのに『食べてない』っていうやり取りが何回もあると家族は疲弊してしまう。それで『ちょっと買い物に行こうよ』って声をかけられて、一緒に車に乗って施設に連れてこられて。いざ連れてこられたら、知らない人たちばっかりで、『今日からここに一緒に住みなさい』なんて言われる。“姥捨て山”じゃないけど、すごく悲しくなってしまったんです。
前段階できちっと話せばわかるのに、それをやらないんだなって。『世の中の人たちは、日常を面倒臭く思っているんだなぁ』って思いましたね。
―その後、どんなふうに重度訪問介護と出会ったんでしょう。
特養で働くようになって8年ぐらい経った時に、仕事がマンネリになってきたんです。そうすると『自分の介護技術がどれだけちゃんとできているのかな』という不安が出てきて。もうちょっと介護技術を磨きたくて、動画を見て『こういう移乗の仕方があるんだ』『こういうケアの仕方があるよ』っていうのを勉強したかった。
その時、動画をいろいろ見ていたら、たまたま“重度訪問介護”っていうのが出てきて。私は全然知らなかったんですが。あるヘルパーさんがクライアントさんのお宅に行って、二人で一緒に出演してるYOU TUBEを見て衝撃を受けたんです。『何これ!すごいじゃん、楽しそう!』って。
施設にいると、時間できちっとやらなきゃいけないし、業務的な流れ作業になって利用者さんともゆっくり話もできない。そんなことを考えていたタイミングで、YOUTUBEでたまたま重訪に出会って、そしたら私より先に特養を辞めて土屋に転職した人がいたんです。その方から連絡をもらって『ちょっと話を聞きたいんだ』という流れになって。
―重訪の動画を見て、「楽しそうだな」と感じられたのはどんなところでしたか。
楽しそうだなって思ったのは、YOU TUBEに出ていたアテンダントの人が、きゃっきゃしてたんですよ。『つよさんぽ』っていうチャンネルなんですけど、つよぽんっていうアテンダントさんと、エンジェル小松さんっていうクライアントさんがいて、『今日は夜勤です』『これから支援に入ります』って実況中継みたいな感じで、ご飯を食べたり、介助をする動画を見てました。エンジェル小松さんもすごくニコニコしてたんですね。
―そこから、実際に支援を始められた時はどうでした?
支援に入った次の日には、当時の管理者の方に『もう辞める』って言ってましたね(笑)。
自分ではできると思っていたし、個別の支援がやりたくて入ったのに、在宅支援が何ひとつできなかったんですよ。それでもう、うちひしがれてしまって。でも『大丈夫だから』って言ってもらえて、ちょっとずつやっていって。
―「何ひとつできてなかった」……というのは、ちなみにどんな部分だったんですか?
やっぱりコミュニケーションができてなかったですね。今ではだいぶできるようになりましたけど、当時は口文字も全然読めなかったですし、『(相手が)何をして欲しい』とか『今、何を言いたいのかな』っていうことを、自分の中では結構、気づけるかと思っていたんですが、全く気づいてあげられなかった。『これじゃあ、ダメだな』と思ったんです。
介護の経験はあったので、オムツの当て方とか技術面はできていたと思うんです。でもコミュニケーションの部分――例えば、ALSの方とは文字盤を使って目線で話をするんですが、こちらがそれを受け取って理解することがこんなに難しいんだな、と。イエスという返事を、クライアントが目線を右動かして左動かして、何回も何回もやってくださるんです。一生懸命、イエス、ノー、イエス、ノー、って言ってもらってるのに、私はなかなか読み取れなかった。気持ちを察してあげられなかったっていうのができなかったことですかね。これは今もまだまだできていないんですが。