《interview 2022.08.01》
目の前のやるべき仕事に追われていると、ふと自分の生き方とずれている、と感じることはないでしょうか。「自分の思う生き方に立ち返りたい」と思った時、魯山香織は介護の仕事を選びました。相手の思いを想像し、受け止め、理解し合うーー重度訪問介護という仕事は、そんな人間本来のあり方を日々、更新し続けています。
介護事業部 ホームケア土屋
関西 ブロックマネージャー
介護事業部 ホームケア土屋
関西 ブロックマネージャー
目の前のやるべき仕事に追われていると、ふと自分の生き方とずれている、と感じることはないでしょうか。「自分の思う生き方に立ち返りたい」と思った時、魯山香織は介護の仕事を選びました。相手の思いを想像し、受け止め、理解し合うーー重度訪問介護という仕事は、そんな人間本来のあり方を日々、更新し続けています。
CHAPTER1
重度訪問介護事業を進めるホームケア土屋 大阪で、エリアマネージャーとして働く魯山。兵庫県・神戸で生まれ育った彼女は、7歳の時に阪神・淡路大震災を経験します。
彼女が高校進学時に選んだのは、震災の教訓を元につくられた環境防災科のある学校でした。
魯山「私たちの世代は、震災を体験として覚えているギリギリ最後の世代って言われていたんです。私はその高校の二期生でした。
環境防災科は全国から生徒が集まってくるような学科で、もちろん普通の科目も勉強するんですけれど、震災から派生して防災やボランティアに関する専門的な授業――どうしたら地震が起きるのかを学んだり、夏休みに海外へボランティアに行って現地の方の生活を見たりーーがかなりあったんです。
授業ではひとつのテーマで話し合って、テーマに関する資料を作って発表する。40人クラスで全員が意見を言うんですね。プレゼンテーションやディスカッションに関しては、高校の3年間でかなり訓練できたかな」
高校時代は、軽音楽部に所属し、バンドではギターを担当。オリジナル音源のCDを出したり、ライブハウスでライブを開催するなど、高校での生活を思いきり楽しみます。
卒業後の進路を考える時期が来ると、魯山は自身のこれからと対峙することに。
魯山「今は、それぞれに考えがあって、意見があって、だから『将来、何がしたいかわからない』っていうのも普通に捉えられるじゃないですか。でも当時、高校の同級生はみんな意識が高くて、卒業したらNPOに入る、教師になる、消防士になる……夢や自分の生き方が決まっていたんですよね。私はその中で、自分が何がしたいかわからなくて、ちょっと恥ずかしい部分がありました」
魯山は2歳の時に母親と死別しています。父が再婚する4歳まで、祖母の家で暮らしていたという彼女。
魯山「私は親との関係性があまり良くなかったので、元々、大学に行くという選択がなかった。まず家を出る、親元から離れることがいちばんの目標にあったんです。
でもその高校は、卒業した後、就職する人が本当に少なくて。人の役に立つ仕事に携わりながら人生を送っていくって決めた時、高校の進路指導室で見た求人の中から選ぶしかなかった。今思えば、どうにでもなったんでしょうけれど、その時の私にはできることが介護しかなかったんです」
魯山は、住宅提供をしてくれる介護職の求人を見つけ、高校卒業と同時に働き始めます。地元・神戸を離れた、名古屋でのひとり暮らし。認知症高齢者グループホームでの日々が始まります。
CHAPTER2
料理、掃除、“人生の先輩”との日常会話――今となってはあたりまえの生活技術も、10代の魯山にとっては初めてのことばかり
魯山「グループホームで出会ったおじいちゃん、おばあちゃんはめちゃめちゃ可愛かったです。いい思い出しかないですね。
ひとり暮らしを始めて、ホームシックで泣いていた時期もあったんですけれど、2、3ヶ月経ったらすっかり名古屋に馴染めました。新卒はみんな10代で入ってくるので、グループホームのホーム長がお母さん役・お父さん役をしてくれる。その人たちとの出会いが大きかったです」
料理、掃除、“人生の先輩”との日常会話――今となってはあたりまえの生活技術も、10代の魯山にとっては初めてのことばかり。グループホームではこんな失敗も。
魯山「初めて昼ご飯を作ったときに、煮物に入れた人参が煮えていなくて。おばあちゃんにめちゃめちゃ怒られたんですよ、『馬、ちゃうでー!』って(笑)。帰って泣いたっていう悲しい思い出があります」
アットホームな雰囲気の中、働いていた魯山ですが、やはりそこは18歳。関西という土地や友達への“恋しさ”が抜けず、1年ほどグループホームに勤めたのち、地元・神戸に戻り、親友から紹介された携帯電話会社に転職します。
魯山「携帯業界は、スマートフォンに切り替わるすこし前。いい時代でした。夜勤もしないでいいし、うんこも触らんでいいし、お給料もいいし、なんていい仕事なんだろう、なんて10代の私は思っていましたね」
転職後、活き活きと働き始めた魯山ですが、名古屋にある思いを残してきたと言います。
魯山「本当はケアマネージャー(ケアマネ)になりたかったんです。当時は『介護職を上り詰めた先にあるのがケアマネだ』と思っていたのですが、ケアマネになるには実務経験が足りない。だから『早く介護の世界に戻って経験を積まないと』という気持ちで携帯会社で働いていましたね」
当初は働きながら実務者研修の資格取得を目指していた魯山ですが、気づけば携帯の仕事にどっぷりはまり、10年が過ぎます。
魯山「携帯の会社は数字の世界だったので、売れると上司が褒めてくれるんですよね。それがすっごく心地よくて。お客さんの顧客満足度も高く、利益は大きくーーっていうことをすればこんなにも認めてもらえて、こんなにも自分の居場所だって思えるところがあるんだ、と初めて感じました」
入社時は社長と社員、合わせて4、5人ほどの小さな会社。魯山はそこで管理者を務めることに。
魯山「上司にはかなり鍛えられました。当時、私が上司から言われていたのは『その子の人生ごと面倒見るっていう気持ちで、部下のことを見なあかん』ってことでした。もちろん暑苦しい部分もあったんですけれど、私もそうやって育ててもらったんです。
今でこそエリアマネージャーという役職に就かせてもらっているんですが、私は元々、役職に就くことや人の面倒を見ることがあまり好きではないというか、ずっと甘えて上司に可愛がってもらいながら仕事をしたいタイプでした。
でも初めて管理者になって、部下を育てる楽しさやチームで一つのことをやり遂げる達成感を知って。19歳から30歳まで働いたので、自分という人間がそこでかなりつくられました」
CHAPTER3
魯山が携帯電話会社に勤めて10年が経った2019年。
市場を占めるようになったスマートフォン出荷台数の勢いが少しずつ陰りを見せ、複雑になった契約や仕組みとともに顧客獲得競争も激しさを増してきます。
魯山「携帯会社を辞めて介護に戻ろう、って決めた時、『私、きっともっと優しい人間だったはずだ』って思ったんですよ。
当時は数字に追いかけ回されて、10年勤めていたので人間関係も煩わしく感じる部分もあって。あの人がどうとか、これが腹立ったとかーーそういうやり取りにすごく疲れてしまった自分がいました。
そんなことよりももっと必死に生きている人だっているし、もっと今に感謝して生きていくことができるはずやのに。だから、人のことをああだこうだ言う生き方をもうやめたいって。自分がいた環境のせいにするわけではないんですけれど、いろいろなご病気と戦われている方と接することで、自分の思う生き方に立ち返ることができるはずだし、そういう人生にしたいって思ったんです」
「それを日々、感じられるのが重度訪問介護のいいところなのかもしれない」。そう語る魯山が携帯会社を退職し、重訪の世界へ足を踏み入れたのは2019年4月のこと。
魯山「今、新規採用の面接をさせてもらっているんですが、施設経験者の方が重訪に来ることって本当に多いんです。『一人の人と向き合って仕事をしたい』という志望動機が多いのですが、転職しようと決めた時、私にはそういう気持ちはあんまりなかった。
グループホームの時も一人一人に思い入れはあったし、急がされるような業務じゃなかったので、『重訪をやりたいな』と思ったのは、お給料の水準が高かったことと、介護職としてグループホームとは別の経験をしてみたいな、っていうただそれだけの気持ちだったんです」
「新しい人生観やいろんな可能性を見つけられたらいい」。10年の時を経て、再び介護の仕事に向かうことになった魯山には、これから出会うクライアントや家族、同僚の姿が鮮やかに浮かんでいました。
魯山「実際に重訪の現場に入った時はまず、いろんな家庭があるんだなって感じました。ALSや脳性麻痺など、同じ病気の方でも、取り巻く環境が変わればその人の今の生き方も考え方も変わってくる。
例えば、延命するのか、しないのかということだけでもクライアントやご家族それぞれに考え方も選択も全く違います。この仕事は、他人でも家に入れてもらえて、その方の人生を決める場に居合わすことができる。クライアントの方からは失礼な話かもしれませんが、普通に生きていたら自分が関われることじゃないと思うんです」
CHAPTER4
重訪の現場アテンダントからスタートした魯山は、コーディネーターを経て、2年後の2021年4月には大阪事業所のエリアマネージャーに抜擢され、今に至ります。
株式会社 土屋では、キャリアアップの際に、同僚やアテンダントからの多角的な意見を元に、個々人の実績を客観的に評価していく制度があります。そんな評価制度を経て現在の役職に就いた魯山。
魯山「エリアマネージャーに推薦してくれたのは、関西ブロックマネージャーの杉隆司さんでした。客観的に考えてみると、推薦をしてくれるということはそこに期待があるからですよね。他の方の評価も含めて『背中を押してくれた人の気持ちを無駄にしたくない』っていう思いが私はすごく大きかった。だからいろんなタイミングと気持ちが組み合わさって、『お話をいただけたんだったらやってみよう』と思えて、今ここにいれるんです。
だって『魯山さんおってもおらんでもどっちでもいいよね』って言われるより『おってくれてよかった』って言われるような仕事や人でいた方が、自分が幸せだと思うので」
彼女がこれまでにしてきた選択もまた、常に他者の思いやままならない環境が混じりあった上での決断でした。
魯山「高校を卒業する時、私の場合は、とにかく働かないと自分の生活が成り立たなかった。大学に行きたい気持ちがありつつ介護の仕事を始めたのも、結局は自分が選んだことなんです。だから、仕事に対してはずっと本気で向き合ってきたかな。土屋に入ってからもその前も、仕事のスタンスはずっと変わっていません」
異業種を経て、再び介護の仕事と出会った魯山。この仕事の魅力を尋ねると。
魯山「私は『仕事もプライベートもひとつの生活』としか考えていないんです。生きていく中で、人と接しないって無理じゃないですか。だから仕事とプライベートと分けなくても、それが対クライアントなのか、対友達なのか、だけの違いなのかな、って。
介護ーー特に重訪は、その人にどんな思いがあるのかをいろんなやり取りを通して知ることができます。それは次のクライアントと接する時のヒントにもなるかもしれないし、全ての出会いが人と接する訓練になる。一対一の関係って鏡なので」
現在、クライアント数・約60名、スタッフ数・約80名を抱える大阪事業所は、全国展開するホームケア土屋の中でも、最大規模の事業所。魯山が今、“エリアマネージャーとしてやるべき職務”として取り組んでいるのが「売上を上げて、事業所を大きくしていくこと」です。
魯山「売上が上がって組織が大きくなることは、多くのクライアントの声に応えられている証明にもなるんです。例えば、あるクライアントが延命することを選ばれたのであれば、これからもずっと長生きしてもらえるように、土屋という会社が継続する為には、土屋に集まってくれる仲間の満足度、待遇ですかね、これを維持しなければいけないと思っています。だから継続して支援していくためにも売上が必要だと考えるんです。
私はケアの現場も好きなんですが、現場だけに偏っていると、みんなで切磋琢磨して売上の目標を達成していくようなチームとしての仕事の満足度は得られにくくなる。だから運営側に立って数字に携わらせてもらえることに、働きがいを感じています」
インタビューの最初、「誰かが何かを言ってくれた時に、自分を変えられる素直さを忘れないでおこう」と話していた魯山。
自分にとっての幸せとは何か、他者にとっての幸せとは何か。今、彼女が支え、彼女を支える人たちの存在が、魯山の幸せをつくっているに違いありません。
魯山「事業所のみんなは本当に優しくて、誰かが困っていたら損得考えないで協力しようっていう人たちが集まっています。
今の環境に感謝して、みんなで事業所を大きくしていきたい。私は大阪の人たちがすごく好きなので、その人たちが一人も欠ける事なく、和気藹々と続けていけたらいい」
大所帯となった大阪事業所のこれからを願う魯山。日々、命の側に立って働くことは、人が優しさを保つ術になるーー魯山が歩んできた道は、そのことを教えてくれます。
自分という存在を悠々と飛び越え、目の前の人の視点に立って物事を見つめることができた時。介護という仕事を通して私たちは、より多くの仲間と出会うことができるし、自分自身の優しさにも気付くことができるはずです。