介護事業部

介護事業部 ホームケア土屋

中川雄大(たけひろ)

大阪 アテンダント

「土屋があるから、生きていいんだ」という選択をしてもらえるように。
これからも「人と人が支え合う、お互いにお互いがいることで成り立っている関係性」を築いていく。

 《interview 2023.10.09》

ホームケア土屋 大阪で活躍する中川 雄大(たけひろ)。2023年1月に入社し、現在、アテンダントとして支援現場に立つ中川は、20歳の頃に母を亡くし、その後、26歳で自身が大きな事故に遭い、瀕死の状態となる経験をしました。支援者であり、当事者家族であり、そして当事者でもあるという位置から見えた、ひとつの問い。“「命」とは誰のものなのか”――中川自身が親となった今、巡る命の傍らで考えます。

CHAPTER1

子どもの頃は、みんなに注目されたい“目立ちたがり屋”。

周りからの影響が少ない子ども時代に「こういうものになりたいな」と思っていたものとは?

―子どもの頃のまだ周りからの影響が少ない時期に「こういうものになりたいな」と思うものってありましたか。

そうですね。自分は途中途中でやりたいことが変わってきているんですが、幼少期はお笑い芸人に憧れていました。小さい頃見ていたのは『新喜劇』だったり、『ドリフ大爆笑』だったり、日曜お昼の『ザ・漫才』(笑)。お笑いが大好きだったので、小学校の文集には「お笑い芸人になる」って書いてましたね。

―その時と今の中川さんとで共通している部分ってありますか?

笑いが取れた時の喜びというのはすごくあります。ただ途中から、笑いのセンスが枯れてきて……友達からも「おもろななったなぁ」って言われてしまうんですよ(笑)。

―(笑)。中川さんとお話しした時に、対人のところで鍛えられたコミュニケーション能力を強く感じました。みんなの前で喋ったり、中学時代には生徒会長をされたり、その中で感じていた楽しさはどういうところにあったんでしょう。

わかりやすく言うと“目立ちたがり屋”でしたね。「みんなに注目されたい」という思いが幼少期は強かったなと思います。クラス内で委員長を決めるとなったら真っ先に手を挙げてましたし、「何かやる人?」って言われたら「はい!はい!」って前に出ていくのが好きで。注目されることで快感を得ていました。

―みんなの前に立つ時、意識していたことってありますか?

今でも共通することなんですが、「前に立つ時はカンペは見ない」ことは心がけていましたね。“用意されているものを読む”となると、自分はどうしても「退屈だな」と感じてしまうので、“人前に出て話す時は、目を見て話す”ーーじゃないですけど、語りかけるようなイメージを一貫して大事にしてました。

―「学生の頃は、先生との出会いに恵まれていた」とも仰っていましたね。今の中川さんをつくってくれた出会いがあったら教えていただきたいです。

これも思い返すときりがないぐらい、いろんな人の影響を受けてきたんです。その中で今の自分に大きく関わってるーーというよりは胸に刺さったのが中学2年の担任の先生の言葉です。
その頃、人前に出て仲良い子とアドリブの漫才をよくやっていました。ある時ーーその先生は男性で、顔がホームベース型でよくいじられていたんですがー―先生の顔をネタにしたことがあったんです。もちろんウケはしたんですが、後からその先生に「ちょっとがっかりやったな」と言われて。「えぇ、なんでですか?」と返したら、「身体的特徴でとる笑いはおもろいけど、それせなあかんか?」と言われて、当時は「何言ってんの?」と思っていたのですが……。

その後、営業の仕事をするようになってから、上長から課されるノルマがあり、何が何でもの思いで達成するんですが、お客様からその商品を必要と感じてもらえた上で、その後も継続して納得してもらえないといけないなぁと思う場面が多くなり、「あー、先生はこのことを言ってたんだなぁ」と段々思うようになりましたね。

売り上げ目標を達成するという目的に対して、あの手この手でコミットすることは大事なのですが、とはいえ必要でない人に、手八丁口八丁で買ってもらったりすると、すごく心が痛んでいる自分がいて……。先生は「“笑いをとる”方法は色々あるけれど、“結果良ければすべてよし”ーーじゃないよ」という、目的や結果に対しての手段や過程の大事さを教えてくれてたんだなぁと感じます。

CHAPTER2

「人間に近い仕事がしたかった」ーーだからこそ、人間と機械の境目を考える

営業の仕事を始めたきっかけとは?

―その後、ご家族が経営される街工場で製造の仕事をされて、そこから営業職に移られています。営業の仕事を始められる際、きっかけはあったんでしょうか。

正直、そんな深い理由はないんですが(笑)、学生の頃から営業職をやりたいと思っていたんです。営業職というと、歩合制で、やればやるだけ自分の収入にもなるし、立場も良くなる。逆に、やることさえやっていれば文句を言われないーーそこがいいなと思っていたことと、会社を組織として見た時に、キャッシュインという会社に一番貢献し得るポジションだな、と思っていました。

製造業はすごく楽しかったんですが、同じ場所に籠って仕事をするよりも、人と交わって外と関わりながら、かつ組織に貢献していることが実感できる仕事がしたいという思いがありました。

―大学に通われていた時、既に「営業職をやってみたい」とは思われていたんですね。

「面白みがありそうだな」とは感じていましたね。
当時、ふわっと考えていたのは、コンピューターが台頭してくるようになって、『ものをつくる仕事』はいずれ機械に代替されていくだろう、ということ。でも営業の仕事は、例えば人為的に最後のひと押しが必要だったり、人間の感情に強く働きかける仕事だと思っていました。人間に近い仕事がしたかったーーそれは今の福祉の仕事にも通じます。

―中川さんと話していて感じるのは、お笑いや、営業という仕事を通して、その場の空気感を一瞬で読み取り、場に返していく瞬発力やスピード感です。そこは介護職とも近い部分があるように思います。
土屋への転職を決めた際は「最終的には直感で選びました」とも仰っていましたが、どんな部分に中川さんの直感が働いたのでしょうか。

後付けになってくるのですが、「人と交わる仕事がしたい」というのは営業も介護も共通していました。
その上で、人類が集団生活を送り、何万年も生きて今という時代になって、AIや第四次産業革命が起こってくる中で「人間と機械の境目はどうなっていくのか」ーーという問いにずっと関心があったんですよ。その疑問を描いていたのが、メディアアーティストの落合陽一さんの『デジタルネイチャー』という本。その中での概念の提唱がすごく面白かったんです。

『デジタルネイチャー』という本は内容が濃いので、自分の解釈が合っているか不安ではあるんですがーー “人間と機械(デジタル)”は相反するところがある、それは、人間は不合理な生き物で、機械は合理的に動くものだからで。一方で自然は行く川のごとく流れている。そこに抗っているのが人間という存在なわけで、“人間と自然”もなかなか交わらないのが今の結果だよね、と。そう考えた時に、“自然”と“デジタル”は共に無作為に、そして合理的・効率的に動いていくものだから、今後はこのふたつが交わっていく世界になっていくんじゃないかということを書いていました。

そこで自分は、機械と人間の最たる根本的な違いは「合理性・不合理性を持っているか」なのではと考えました。そう考えた時に、資本主義的に不合理な存在である人々=一般的に生産性がないと言われる人たちこそ、人間味が浮き彫りになっているのではと思うようになりました。例えば、その本では障害がある方にも触れていて、その境目を考えていた時に障害福祉をメイン事業にしている土屋と出会ったので、「人間と人間が接することに特化した仕事に飛び込んでみたいな」と思ったのもありますね。

―本を読まれて、中川さんは“障害”をどんなふうに捉え直しましたか。

本の中では、身体性の重要さにも触れているのですが、人の本質を“意識”と仮定した時に、その意識は身体から仮想空間へ離脱することが可能になり、かつその仮想空間の中で身体性を手に入れることができれば健常者と障害者の垣根を超えたより多様性に満ちた世界になると謳っています。

例えば、遠隔のカメラは、ある意味視覚の外部化とも捉えることができ、その映像が人間が知覚できる解像度を超えて網膜に直接投影すれば、もはや自然との区別はつかなくなります。そのようにテクノロジーの発達で五感を外部化することができれば、ALSや脊髄損傷の人たちがより豊かに暮らせるようになると思ったんです。

―もともと“機械と人間”、“自然とデジタル”といった境目には興味を持たれていたんですか?

それは完全に事故がきっかけでした。本を読むのは好きだったんですが、込み入った本はそこまで読んでいなかったんです。でも事故を経てーー時間は山ほどあったし、引き籠ると人っていろんなことを考えるんですよね。自分の人生を振り返って、あれこれ考えていく中で出会った一冊です。
ただ、強く関心を持ったのはその時ですが、幼少期から物事の本質を見ようとする習性が自分の中にあるんだなぁとは思っていました。

―共に「人間に近い仕事」である営業職と介護職。逆に異なる点はありますか。

これまでしてきた営業職との違いで言うと、今まで自分が扱ってきた商材も含め、「相手のためにならなくても、売らないといけない」という状況が多々ありました。相手に喜んでもらって、なおかつ自分が喜ぶという状況が理想の営業ではあるのですが、自分はそういった場面で心が痛む。ある意味、そこまで自分にスキルがなかったとも言えます。

一方、介護に関しては、自分がしたことがダイレクトに喜んでもらえるので、営業との違いではその点が一番いいなと思ってるところです。人間関係の構築においては、上辺の言葉のやりとりではなく、深い部分での合意が大事になってくる点は一緒ですね。

―深い部分での合意というと……?

相手から出てくる言葉だけでなく、その奥にある要求や本人も気づいていないところの欲求を汲み取った上で、合意を図っていく能力はどちらの仕事も大事だと思います。

―本人も気づいていない要求とは、例えばどんなところに表れるのでしょうか。

自分が営業職でやってきたのは初歩的なことで、仕草や表情の観察です。腕を組み出したら「この話に否定的かな」とか、目線とか。その時はわかってはいないんですが、そこもある意味、直感です。あとは声のトーンですね。基本的に、人は本心を喋ってくれないので、「あの人はなんでこう言ったんだろう?」と振り返ることは大事にしていました。言われた言葉をそのまま受け取るだけと、全然契約取れなかったな、と今となっては思います。

CHAPTER3

フラットであるーーお互いにお互いがいることで成り立つ関係性

書評の中にある「本当の意味で、クライアント自身が生きることを望めるようにならなければ意味がない」との言葉の意味とは?

―中川さんは書評の中で、どれだけ在宅生活を支援するシステムが整ったとしても「本当の意味で、クライアント自身が生きることを望めるようにならなければ意味がない」と書かれていました。
私自身は、障害当事者ではない人が、ただ「生きてほしい」と言葉にすることは関係性の構築や一定の文脈を経ていないと暴力的に捉えられてしまう場面も多々あるのでは、と思います。
一方で、支援現場に立つこと、直接支援に関わる方は、言葉以上に非言語的な方法で、クライアントへのメッセージを発信しているのではないかと思うんです。それは先ほど仰っていた仕草や表情、「自分は人としてどう在るか」――そういった“人としての在り方”は介護という仕事における希望だな、とも考えます。そこから伺ってみたいのですが……中川さんが支援現場に入っている時、意識されていることってありますか?

そうですね。自分が仕事の上でシンプルに思っているのは、制度を利用するクライアントがいることで僕らの仕事があります。
一方で、クライアントの生活もアテンダントがいることで成り立っているという状況もある。ここはある意味、イーブンなんじゃないかーーと僕は考えます。上下関係ではなく、人と人が支え合う、お互いにお互いがいることで成り立っている関係性はとてもいいなと思う。その考えが大前提にあるので、意識しているのは“変にへり下りすぎないこと”です。

かと言って、絶対に上からものを言わない。それはクライアントに限らず、子どもや他人に対しても全く一緒です。周りの人と接するのと同じようにクライアントを尊重します。
「生きていて迷惑」とも思わないし、「あなたのために」とも思わない。あなたがいるから僕は生きれています、ありがとうございます。そして僕らがいてるから、あなたも生活している。それは障害がある、なしに関わらずどんな人との間でもーーもちつもたれつの関係だという意識を根底に持って仕事に臨んでいますね。

―あぁ、なるほど。関係のフラットさもあった上で、中川さんの中にまっすぐの線が引かれてるような感じがします。

意識してきたわけではないんですが、自分は幼少期から目上の人や目下の人との差を強く感じずにいました。もちろん“区別”はしていますが、振り返ってみると、対人においての一定のフラットさは常に自分の中にあると思いますね。

CHAPTER4

土屋に入社し、理念の中にある「“生き延びる”の肯定」という言葉に出会い、感じたこととは?

―中川さんは、20歳でお母様を亡くされた際に、主治医から延命治療をされるかされないかを迫られたご経験があるとお聞きしています。その際は「激しく葛藤しましたが、自身の知識も経験も乏しく、最終的には母が元気な時に言っていた『延命治療はしないで』という言葉をそのまま飲み込み、延命治療は選ばなかった」、と書かれていました。
その後、土屋に入社し、理念の中にある「“生き延びる”の肯定」という言葉に出会った時、強く惹かれるものがあったそうですね。

「なぜ、“生き延びる”の肯定という言葉に惹かれたのかな」と思い返した時に、もともと日本人には「人に迷惑をかけてはいけない」という意識が根強くある。でも僕自身は「人が生きてて迷惑をかけないなんてありえへんやん」ということはずっと思ってきました。僕はこれまでどちらかというと、「(僕も)迷惑をかけるから、迷惑をかけられてもいいよ」というスタンスで生きてきた。そこは正直、周りともズレがあったのですが、自分が一度、瀕死の状態になって復活してからは尚、そう考えるようになりました。

母親についてはーー当時の自分は本当に無知だったので、母親が言った言葉を鵜呑みにしました。自分自身が事故に遭った時も「人にこんなに迷惑かけるぐらいやったら、好きなもの食えんってなったら、死んだ方がマシだ」と思っていたんですよ。

ただ実際、支援に入ってクライアントさんと触れ合う中でーー『デジタルネイチャー』の話にも通じるのですがーー人間の本質の部分を磨きに磨いていったら、自分の中では「我思うゆえに我あり」というデカルトの言葉に行きついて。この言葉は、子どもの頃に読んだ『鋼の錬金術師』という漫画に出てきた言葉で、“魂の存在は何が保障するのか”という問答の中で敵役が発した言葉でした。「認知ができる限り、生きたいと思うことは肯定されていいんじゃないかな」と思っていたのが、デカルトの言葉と出会って「あぁ、そういうことなんだ」と頭の中でつながったんです。

意識があれば思考することができるし、もしその意識を身体から外部化することができれば人と話したり、喜びを分かち合うことができ、誰かの支えになれる未来がすぐそこまで来てると思うんですよ。身近なところでいうと、現実にうんざりしてゲームの中に生きがいを求めている人は、もはや意識は身体を超えてバーチャルな世界に入り込んでるとも捉えられます。これからテクノロジーが発達して、ますますその周辺領域が拡張されていき、健常者と障害者の垣根を超えた新しい世界ができる可能性が大いにある。そう考えれば、たとえご飯が食べられなくても、体が動かなくても、意識があるのであればまだまだ絶望するには早いと感じたんです。自身がそうなったとしても、文字通り「生き延びたい」と。

一方で、僕が絶対につくりたくないのは、「生きたい」という思いがその人にあるにも関わらず、そう言えないという状況です。これまで生きてきた経験の積み重ねと、周りへの配慮があるからこそ、その人が「“生きたい”と思ってはいけない」と考えてしまうことほど悲しいことはないーーとは心から思ったので。
難しい問題だとは思いますが、誰かが言い始めないといけない。社会の人々の意識を変えていくことは壮大な仕事になることもわかってはいますが、だからこそ声を発し続けることは大事だと思いますね。

―「土屋があるから、生きていいんだ」という選択をしてもらえるように、ということですね。

そうですね。そうやって一人一人の意識が変わっていくことで、重度障害を持つ方自身が「重訪のサービスを受けたい」と声を上げられるようになるし、サービスを提供できればできるほど土屋という会社の業績も上がっていくような仕組みになっています。もちろん、摩擦や問題はいっぱいある。だからこそやりがいもあるーーそんな思いに辿り着いたきっかけが「生き延びることの肯定」という言葉でした。

CHAPTER5

「私」と「家族」のあいだでーー家族という、自分よりも大事で守るべき存在

母の治療に際して、家族のあいだで感じていたこととは?

―お母様の治療に際して、ご本人の意思を考えた時、中川さんご自身がお母様と家族のあいだで感じられていたことを聞かせていただけませんか。

難しいですけどもーーそうですね、意思……。
今の自分は「当時に戻って、母といろいろ話したいな」と思います。どうしてもその当時のことしか振り返られないんです。正直言うと、当時は父親も含めて、逃避と言いますか、“母の死を受け入れられない”という思いが大きかった。もちろん母に生きていてほしいですし、「息ができんくなっても存在がおるだけでありがたい」という思いもありました。

ただ、母親は変わっていく姿を人に見せたくないという思いもあったし、「しんどいの嫌だから、延命とかやめてな」と常々言っていました。そういう点では、最終的には自分たち家族の「生きてほしい」という思いよりは本人の意思を尊重しましたね。ただ親戚の中には「いやいや、そうは言っても……」という話もありました。

―一方で、中川さんご自身がその後、大きな事故に遭われるという経験もされています。ご自身が動けない状態になられた際、奥様やお子様、ご家族がどんな存在として映ったのでしょうか。

変な話、交通事故がボーンとあって、輸血も8Lするぐらいの大手術を経て、パッて目が覚めた瞬間。人工呼吸器は装着されている。声は出せなかったんですね。パニックにならないよう全身も拘束されて、右腕だけ動かせる状態で、妻と妹が顔をのぞかせていた。で、喋れないので、筆談をしたんですよ。まだ意識も混濁していたんですが、その時の第一声がーー「生命保険、入ってたっけ?」っていう(笑)。

―(笑)。

「そんなんどうでもいい!!」みたいに返されましたけど(笑)。ちょうど事故前に、生命保険を切り替える切り替えへんっていう話をしていたので、昏睡状態の間も無意識は考えていたんだろうなと思います。

ただ、その言葉から知ったのはーー“家族がちゃんと生活できているか”っていう心配が、自分のことよりも先に、根底にあったということでした。家族っていう、自分よりも大事で、守るべき存在がいる――それが生命保険の話題に顕著に現れているな、とは今、話していて思いましたね。

CHAPTER6

寛容さとはーー“みんな違って、みんなどうでもいい”

福祉の仕事を始めて、“寛容さ”という言葉がキーワードになっている理由とは?

――福祉の仕事を始められてから、“寛容さ”という言葉がキーワードになっているそうですね。

周りから聞く話でもそうですし、テレビやネットを見ていても、「なんでそんなことでそこまで怒るのかなぁ」と思うことが自分の中でたくさんあって。
“寛容さ”という言葉がキーワードになったのは、前述の落合陽一さんの影響があるんです。“みんな違ってみんないい”ってよく言いますよね。でも落合さん曰く、そうじゃない。そもそも“いい”という言葉は主観的で、“いい・悪い”の判断をしている側面がある。だから、一番いいのは“みんな違ってみんなどうでもいい”なんじゃないかーーと彼は言っています。

だからって相手に関心がないという意味ではないし、ある人に執着しすぎると受け入れられなくなってくる。“自分じゃない人のことなんだから受け入れてあげるべきだし、尊重してあげるべき。そこに目くじらを立てること自体がそもそもナンセンスなんじゃないの?”ーーそんな態度こそが“寛容”なんじゃないのかな、と考えるようになりました。
みんながそんな状態でいられれば、それは「人に迷惑をかけたっていい」と思えることにもつながってくるんじゃないかなと思ってます。

……でもまだ、生きて30年の感想なのでね。あと20年したらまたコロッと変わってくるかと思うんですが(笑)。

―(笑)。先日は、ALSをお持ちのクライアントの支援現場で、初めて「ありがとう」と言ってもらえた日があったとお話しされていましたね。「その時、不覚ながら、驚きと喜びでポロッときて……」なんて。

こんなことを言うと、あまりよろしくないのかもしれないんですが、自分は福祉が初めてだったこともあって、支援現場に入った当初はクライアントから「ありがとう」と言ってもらえず、「色々やっているんだから、“ありがとう”と言ってもらいたいな」と思っていたんです。

ただ「じゃあ、その人はどうして『ありがとう』と言ってくれないんだろう」と思った時にーーそれは、生まれつき障害を持っていたわけではなくて、人生の途中でALSになり、以前と今、両方の状態を知っているこその葛藤や、ストレスフルな日々の中で仕方なくそうなっているんだ……と思えて、そこからあまり相手に期待する思いを持たなくなったんです。

とはいえ、僕も人間なので「ありがとうと言ってほしい」という思いが完全に消えているわけではないし、「どこかで期待してしまう自分がいることもまた仕方がないことなんだな」と思えるようになった。そんな時にふと言われた『ありがとう』は、『表に出せないだけで思ってくれていたんだな』ということが目に見えた瞬間でした。そんなどっちつかずの心持ちを『ありがとう』という言葉で優しくさすってもらった、みたいな感じですね(笑)。

職業的には「ありがとうという言葉が聞きたいわけではない」「やりたくてやってるんだ」なんて言えた方が格好いいとは思うんですが、僕はそこまではなれないな、とは思います(笑)。

CHAPTER7

“かゆいところに手が届く”会社でありたい。社会のセーフティーネットを編んでいく

介護の仕事の醍醐味とは?

―ひとりの人間の中の凸凹具合というか「○○はこうです」と言い切れないところが介護の仕事の醍醐味なのかなと今の話をお聞きして思います。
中川さんが介護の仕事に関わられて9ヶ月。最後に、ご自身のこれから、土屋としてのこれからを聞かせていただいていいでしょうか?

短期的なところで言うと、ホームケア土屋 大阪は全国的に売り上げが高く、全体の中でも大きなウェイトを占めています。
この業種は、行政サービスを担っているので、制度の構造上、一人当たり月間で得られる報酬が決まっている。となると、売り上げを上げるには現場のアテンダントの配置のバランスになっていくと思うんです。そういった先行例を大阪でどんどんつくって、売上げを伸ばしていって、全国にいい影響を与えられるようになれたらいいな、というのが近いところのビジョンです。

遠いところで言うと、福祉に携わるようになってから、社会のセーフティネットについて考えるようになりました。それは最近、自分の妻が放課後等デイサービスで働き始めたことも影響しています。

頑張れる人たちは勝手にかけ上がっていくと思う。でも頑張れなかったり、脱落してしまった人たちーー障害や病気を抱えた人、子どもや高齢者だけでなく、そのケアに関わる家族も含めてーーの社会保障といった、“かゆいところに手が届く”事業には今後、携わっていきたいですね。それは小さな事業所では難しいと思う。事業規模の大きな会社で、利益を上げる部署があるからこそ立ち上げられる事業だと思うので。収支の面ではマイナスでも、社会的には必要な事業を増やしていけたらいいなと思っています。


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