介護事業部

介護事業部 ホームケア土屋

佐藤志津子

山形 オフィスマネージャー

「生きるって面白い」そう思えるものを探すために生きるのだっていいじゃない

 《interview 2024.7.11》

福島県で生まれた佐藤志津子(さとうしづこ)。子どもの頃から家の間取りを見ることが好きで「家のチラシを何百枚もファイリングしていた」という佐藤は、地元の工業高校建築科を卒業後、建設会社へ。現場監督として13年、設計や営業に12年。建築業に25年関わってきた佐藤はその後、「人生の半ばからは人のために働く!」と、介護の仕事へ。今、マネージャーとして「スタッフを大事にしなければ、その先にいるクライアントを助けることができない」と話す佐藤に、“その先“に”その奥に“見るものを尋ねました。

CHAPTER1

同じ目線に立って考えるには

紙に描かれた一本の線が、現場がわかると立体的に見えてくる

―地元の建築会社に就職をして、現場監督として13年ほど働かれていたそうですね。
建築や設計の仕事の佐藤さんにとっての楽しさ、夢中になれた部分ってどんなところだったんでしょうか。

「私は人間のすみか、住む人の要望を聞いてイメージをして想像して実現していくっていうことにとてもやりがいを感じていましたし、自分が設計した建物ってずっと残ってくるので、住んでいる家族も成長していくじゃないですか。

なので、成長と共に変化していく先を見据えて家をイメージするということがとても楽しくもあり、すごく責任がある仕事だっていうふうに思っていて。

今でも地震とか大雨になると「自分が設計した家は大丈夫かな」って不安になることもたくさんあって、自分の設計した家は鮮明に覚えてるので、例えば「あそこの梁、大丈夫だったかな」とか「あそこの柱、歪んでたよな」とか、そんなことがものすごくイメージとして出てきて、すごく不安になることもあるんですけれども。

その頃の建設現場は男社会というイメージが大いにあったので、職人さんからは「若い小娘の言うことなんて聞いてられるか」っていう感じで、私は見られていました。
カラーコーンとかハンマーを投げつけられていたのもしょっちゅうでした。

職人さんってお酒好きな方も多いので、大量にお酒を飲まされたり、勝手に現場を進められてしまったり、現場監督として全く認めてもらえなかった状況が続いていて。

ただその時に、自分も職人さんと同じ仕事――自分は現場監督なので図面を描いたり、段取りですよね。
それがメインの仕事なんですけどもーーコンクリートの打設だったり、スコップで穴を掘ったりっていうことを一緒にやろうと思って。

泥だらけになって毎日作業したり、夜遅くまで仕事をしていくうちに、いつの間にか監督さんって呼ばれていた、みたいな感じだったんですね。本当にいつの間にかです」

―建設の仕事を続けられていく中で鍛えられた部分ってありますか?

「常に同じ目線に立って物事を考えるということと、忍耐。
この二文字しか思い浮かばなかった(笑)。我慢ですよね。

その仕事が好きだから続けられたっていうのはありますけれども。
『ここまできてやめたら、今までの努力が水の泡だ』とも思ったし、もう忍耐でしかなかったと思いますね。

勉強もしましたけどね。資格を取ることとか、建築の勉強はひたすらしていました。
建築ってコンクリート打設って言って、駐車場にバーってポンプ車でコンクリートを流すんです。

けど、その後時間が経って水が引いた後に、平らにしなくちゃいけない作業が2回も3回もあって、一晩中現場にいたりすることもあるんですよ。

それに付き合ったり、型枠にコンクリートを流したらトントン、ハンマーで叩いて、均等にコンクリートが流れるように振動をかけるんですね。
そんなのを「自分でやらせてくれ」って言って、やってたような気がします」

―現場監督って、本来は現場に入らないで、図面を描いたり、段取りをするだけの方も多いんですか?

「基本はそうですね。建築工事だと、結局は電気工事とか、設備工事とかたくさんの業種があるので、それを段取りよく進めていくのが仕事なので。

『そんな暇があったら図面描け』って言われてましたけど。

でも現場の職人さんがやっていることがわからないと、図面で一本の線を書くにしても、立体的になってこないっていうか。

『一本の線にしか見えないけど、現場がわかると3Dに見えてくる』――みたいなことですよね。
だからずっとやっていたんだと思います」

< 2016年 長男の高校卒業式 >

CHAPTER2

「心を充電する場所」としての家

一歩外に出れば、社会的なストレスを少なからず受けて帰ってくるからこそ、家は安心できる場所じゃないと

―最初は体育館などの大きな建築設計に携わっていたところから、その後小さな工務店やハウスメーカーに移り、家っていうちいさな建築に携わるようになります。

小さい頃から「家の間取りを見るのが好きだった」「自分の部屋を改造していた」なんてお話もしていましたが、佐藤さんにとって「家」ってどんな場所だったんでしょうか。

「この言葉しか見当たらなくて。『安心できる場所』っていう言葉。
家から一歩出れば、学校だったり、社会的なストレスを少なからず受けて帰ってくるじゃないですか。

家はそういった心を充電する場所じゃないといけないって思っていたので、壁紙一枚にしても、白い壁紙の1箇所だけ変えてみるとか、そういう工夫をよくしていたのは覚えてます。

うちは子どもが3人いて、3人とも男の子なんですが、一番下の子が小学校3年から小6まで不登校だったんですね。
当時、家の中で家を学校に見立てて『お父さんが校長先生で、私が教頭、お兄ちゃんは先生』になって、好きなことを思う存分させたんです。

『生きるってすごくいいもんだよ、っていうことを教えてあげたいな』っていう意味でも、『家は常に安心できる場所でなければならない』って今でも思ってます。

あと、自分の小さい頃で言うと、お祭りで露天商ってあるじゃないですか?実はうちは的屋一家で、父が三代目なんです(笑)。

小さい頃から学校を休んで、お祭りの手伝いをさせられてたというか、土日はお祭りしか行けなかったんですよ。遊びに行くというよりは、あちこち連れられて回っていたっていうのがあって。

普通の家に住みたかったんです(笑)。家って住んでる人の思い出だったり、希望のにおいがするっていうか。だから『安心する場所』しか思い浮かびませんでした」

―週末ごとに移動して、旅をするような――

「旅です、旅(笑)!」

―そうですよね。ある場所に行っては拠点を作り、商売をして、店を畳んでまた次へ――みたいな。
その感じと、今、佐藤さんがおっしゃった家に対する信頼に「なるほど」って思います。
ちなみにお好きな建築家っていらっしゃいます?

「私、そういうのって一切なくてですね。学校でも勉強するんですよ。
フランク・ロイド=ライトとか、丹下健三とか。でもそういう人を見ても、現実的じゃない。

一般庶民のことを思ってできてる建築ではないじゃないですか。素晴らしい建築ではあるんですが。
私は身近な人というか、すぐに実現できるような家を色々設計したかったので、そういった建築を見にも行かなかったですね。

ただうちの息子は、私の姿を見てなのかどうかわからないですけど、建築家になったんですね。
若者だからなのか、いろんな建物を見に行ったりしてます。

私は逆に古民家を改造したりする方が好きです」

 

CHAPTER3

利他の心

人ってわがままな生き物だけど、一人では絶対に生きてはいけない

―その後、「ものから人へ」、40を過ぎた頃から「人のために働く仕事をしたいと思うようになった」と仰っていました。

「住宅の設計をしている時は、クライアントと一緒にものをつくり上げていくっていう楽しさがすごくあったんですけど、34歳の時に建築の中でも営業を任されるようになったんですね。

その時にちょうど太陽光発電のバブルの時期でもあって、住宅のリフォームと太陽光発電の営業もやって、新たに会社で立ち上げるような形で、自分が頭になってやった時に。

私真面目なので一生懸命やったら、すごく営業成績を上げたんです。
でもその時に残ったのがーー成績を上げれば会社の成長につながるのは十分わかるんですがーー自己満足でしかなかったっていうことがあって。

売上とか成績ばかりに煽られて、『一番大事なこと、私、大事にしてたの?』って。
私にとって一番大事なのは『利他の心』なんですけど、大事なことを忘れてたなって思った時に、『自己満足の世界はもう嫌だ!』と。

人のために、利他の心を取り戻したい。
そんな感じで、人のために働きたいっていう思いを42,3歳ぐらいから強く持つようになって、人生半ば45歳って決めてて。45歳から介護の仕事に入ったっていうことがありました」

―「利他の心を大事に」っていうのは仕事を始めた時からずっと佐藤さんの中にあったものだったんですか?

「ありますね。『やっぱり一人では絶対に生きられない』というのもあって。
『お互いさま精神』っていつも言うんですけど、『お互いさまだから』って思って、気持ちよく助け合える生活。

利他の心――自分を犠牲にしてでも、とまでは言いませんけれどもーーを持って、人のために何かできるってとても素晴らしいことなんだよっていうことを、自分も子どももですけど、それ以外の人にも知ってほしいっていう思いがあります。

それが重度訪問介護、誇りを持てる仕事につながっていったんだと思います」

―関わるものが、「ものから人へ」移っていく中で、“人”の部分を追求していった先に佐藤さん自身はどんな社会を見ていますか?
ものか人か、そのどっちがいいとかっていうことではなく。

「やっぱり人ってわがままな生き物だっていうのは思うんですけど、一人では絶対に生きてはいけないので。

思いやりを持って助け合いながら、置かれているコミュニティの中で『お互いさまだよ』って言って楽しく生活していくことは追求したいですね」

―実際に、佐藤さんが人の命に直接触れる仕事に就いた時に感じたこと、気づいたことを聞かせてください。

「初めて入ったクライアントはALSの、自分と2歳しか違わない女性の方だったんですが、もうカルチャーショックっていうか。
『人工呼吸器をつけた人が家で生活できるんだ』ってことに単純に驚いたというかーー。

でも医療的ケアがなければ、それも叶わないわけなので、私たちはその手助けを黒子に徹して行なうことが求められている。
本当に誇らしい仕事なんだなっていうのを1年も立たないうちにすごく思いました。

24時間365日介護を続けるのは、家族だけでは絶対に疲弊して無理じゃないですか。
それを『私たちがいなかったら、この人は生活できないんだろう』じゃなくて。

『誇りを持ってできる仕事にやっとで出会えた』って思いましたね。
当初は建築の仕事は辞める勇気がなくて、ダブルワークで働いていましたけど、やってくうちにこれしかないって思ったからこの仕事一本にしたんだとは思います」

< 2015年 建設業時代 >

CHAPTER4

目の前の人に「死にたい」と言われたら

重訪はクライアントと長時間過ごすので、家族が見きれない部分にも向き合っていく仕事

―その後、土屋に入社されて正社員となって、今はオフィスマネージャーになられています。
立場が移っていく中で、思いの変化もありましたか?

「初めに自分は一般常勤で働いていて、何度か『そのうち、コーディネーターになってね』なんて言葉もらっても一切そういう気はなくってですね。

その当時のコーディネーターの人の働きを見ていたら、とても大変そうで。
『自分はそこまでできないな』っていう思いもあったのか、なりたいというふうには思ってはいませんでした、当初は。

ただ同僚といろいろ話をしていて、いろんな問題が浮かび上がってきたりするじゃないですか。
そういう時に『コーディネーターや管理者じゃないと事業所は変えられないな』って思ったのが、上を目指すきっかけでした。

『そのレイヤーにいないと何も変えられない』と思って、またお誘いを受けた時に『やってみよう』ということでコーディネーターになって、その後、管理者になったと思います」

―今はオフィスマネージャーとして、本人とご家族の間に入ってお話をしたり、「アテンダントの時よりは重圧も感じるけど、オフィスマネージャーだからこそできる部分がある」とも仰っていました。
佐藤さんが今の位置に立って見えてきたもの、今の立場だからこそできることってどんなところにあるんでしょうか?

「私が感じるのは、ご家族がクライアント本人に対して腫れ物を触るように接するというかーー『障害があって可哀想だから』と、ご家族にとって難題なことでも、本人の言うことをすべて聞いてあげるような場面があるんです。

その状況が続くことで、クライアントがヘルパーの至らない点にも、家族と同様に暴言を浴びせるということが、支援の現場ではあります。

土屋でも取り組んでいるカスタマーハラスメントの問題です。
ヘルパーはもちろん、私自身も経験しました。

一方で、ご家族と本人との関わりで、『人としてやってはいいことと悪いことがある』という伝え方をしているようなご家族もいらして、その方が障害者であることを忘れるぐらいポジティブだったり、人との関わり方が“障害者とヘルパー”じゃなくて、“人と人”として支援ができている状況もあるんです。

そこを『何が違うんだろう?』と考えると、生活環境や生育環境が大きいのでは、と思います。
『クライアントやご家族がそうしてしまう背景を理解しながら、アテンダントのモチベーションを下げずに、どう解決していったらいいんだろう』っていうのは今、悩んでいるところですね。

でも私が偉そうにそういったことを言うんじゃなくて、より豊かに生活するための助言というか、その手助け。『間違った方向に行ってるかもよ?』『こうすると、もっといいかも』みたいな感じで、方向性の手助けができればいいなというふうに思っています。

そのためにはもっと経験を積まなければいけないとも思っています」

―そのやり取りは、ご家族からの相談に乗るような感じで進むんですか?
それとも、こちらからの働きかけとして「こんなこともありますよ」みたいにお伝えされるんですか?

「『本人が可哀想だし、好きなことをさせてあげたいから、そう言うと怒るんです』とか『何かを注意すると、泣いて『死にたい』って言うから、『死にたい』って言われると何も言い返せなくて』っていうご家族も多いんです。

ただ『障害があるからといって、何を言ってもいいっていうことにはならない』っていうことをそういう時、私は直接言います。本人に言ったこともあります。

こんなにーー『私たち本気でぶつかってケアしてるよ』『何でも言って欲しいけれども、それは人に対して言っちゃダメな言葉だよね』って。

私もですが、お互い泣きながらしゃべったこともありました。全力でぶつかるというか。
多分そういう性格なのかもしれないですね、私が(笑)。

ただ、家族にも必ず『私はこういう理由で、こういうことを本人に伝えています』とお伝えします。
『泣いているけれども、きっとわかってくれていると思う』っていう話をしたり、その連携は常に取るようにはしてます」

―家族とクライアントの間で固定的になってる関係に、入れるのが佐藤さんやアテンダントの方なんですね。
その関係をちょっと崩すというか、違う目線を置いて、世界をふっと広げてあげるというかーー。
その後、クライアントやご家族にも変化がありました?

「ありますね。『最近、『死にたい』って言わなくなったね』とか『経管栄養の拒否もなくなったよね』とか。
でもこれは、家族よりも長い時間、土屋が過ごしていることにも理由があったりするのかなとも思ってます。

例えば介護保険だと時間が30分とか1時間で業務内容も決まってるんですが、重訪では14時間の夜勤とか長時間一緒に向き合うので、お互いそういったことも出てくるし、家族が目を背けているところにも、土屋は向き合わないといけないっていうところで、そういったことが必要なんだと思いますね」

CHAPTER5

ホームメイドの社会科授業

「障害を持ってる人は、この先どうやったら生きてけるの?」「施設に行ったら、その人はどうなっちゃうの?」

―私が佐藤さんに惹かれたのは、コラムで書かれていた「息子にお母さんがどんな仕事をしているかのを知ってほしくて、事業所に見学に連れて行った」っていうお話です。

「息子を事業所に見学に連れて行ったのは、3年前なんですが、先ほど言ったように不登校だったので、『今日は社会科の授業だ』ということで連れて行ったんです」

―さっきのお話ですね、校長先生と教頭先生と……

「そうです。私は教頭だったので。
息子は家にいたので、常日頃から私の電話対応を聞いていたりするんです。

そうすると例えば『あるクライアントさんが『死にたい』って言ってるんだって』『どうしたらいいだろうね』とか、そういったことを息子にも話してたんですね。
もちろん、業務上の守秘義務は守った上でですが。

そうすると『お母さん、今日はどうだった?『死にたい』って言わなかった?』って息子が言ってくるんです。
そういったことが日常の会話で出てくるんですよ。

やっぱり『一人じゃ生きられないから、みんなで助け合っていくんだよ』っていうのが、私の中でモットーにあるので、私のやっている仕事ももちろん知っていてほしい。

なぜなら息子は不登校で家にずっといたので『学校に行かないなら、自立してほしい』ということで、掃除や洗濯、食事すべてできるようになったんですね。

そうやっていく中で、息子を社会の授業と言って連れていって『あの方はこうして生きてるんだよ』『こんなふうに生きていけるんだよ』っていうのを色々お話しして。

その後もどちらかというと、話して教えるというよりかは、やってみせるっていう子育て方針でした。
私はあまり話すのも上手じゃないので。

こういったことがあってかどうかかわかりませんが、ちょっとずつ……息子はそれまで大人が苦手だったんですね。先生や大人を信用できないような感じもあった。

でも中学校からは少しずつ学校に行けるようになって、中学3年の時には毎日、行けるようになったので、『社会の授業が良かった』と私は信じたいです(笑)』

―最高の授業ですね。その後、息子さんから佐藤さんのお仕事について何か言われたことはあります?

「あります。ALSの方の支援に入っていた時かな。
自分も何も動かないで、家で12時間くらいずっとベッドに寝てたことがあったんですよ。

相手の気持ちを知るためにーーじゃないですけど、『動けないってどんな感じなんだろう』と思って。
息子はその姿を見て、『いつまでやってんの?』みたいに言ってましたね。

その後も、例えば『こういうことを(クライアントから)言われた時、お母さんはどう返すの?』とか、『大人の社会ってどういうものなの』っていうことを興味深く聞いてきてたのは覚えてますね。

『障害を持ってる人は、この先どうやったら生きてけるの?』とか。
あとは施設に行きそうなクライアントがいた時、『施設ってどういうところ?』『施設に行ったら、その人はどうなっちゃうの?』とか。

土屋が支援しているうちは見えているけれど、その先どうなるのか、ということは子ども目線でよく聞かれてたような気はします」

―息子さんはクライアントの未来のことを考えていたんですね。そのお子さんは今、おいくつになってるんですか?

「高校一年生になって、家を出て。自炊して、寮生活して、サッカーをしてます。
ちょうど真ん中の子も中学校卒業してから家を出て、寮生活で。

サッカーやっていたので、私がいない時は、息子はお兄ちゃんにたくさんいろいろ相談したりして、親がいなくても子どもたちだけでやってる感じですね。

今も電話でよく話してるみたいです」

< 2016年 建設営業時代 >

CHAPTER6

誇らしい仕事とは

若手社員を育てるのは社会的責任でもある。若い人たちが「この仕事に魅力を感じて、いかに長く続けてもらえるか」

―ホームケア土屋山形で一緒に働くスタッフの方たちの魅力についてお聞きしたいなと思います。
「スタッフの方たちを守ることが一番大事だ」と仰っていました。

どんなスタッフの方たちがいらっしゃるんですか?

「意外に思うのは『自分の子どもが障害児で』とか『発達障害で』っていうスタッフも結構いて。
だからこそクライアントとの向き合い方がとても上手。

距離感を保つことが上手なんですが、一方で感情移入しすぎちゃったりっていうこともあるので、その程よい距離感を保ってるかどうかを、毎回の支援の記録を見て、察知しないといけないなって思って。

毎日毎日アップされる記録を、『いつもより深いこと書いてあるな』とか『ちょっと近すぎてるな』っていうふうに必ず確認するようにはしてるんですが、ただ『辛いな』とか『クライアントからNGが出た』とか『クライアントに体を触られそうになった』ということは、実際に現状としてあるんですね。

カスタマーハラスメントは、お互いの距離感の問題でもありますし、会社全体、業界全体でも取り組んでいる問題です。

みなさんが前向きに上司に相談をしてくれて、働きかけをして関わりを変えたり、話し合いを進めていくことで『辞めようと思ったけど、やっぱりこの仕事好きだから辞めない』って最後に言ってくれることはものすごい嬉しくて。

常に『この仕事を誇らしく思ってもらえるにはどうしたらいいんだろう』って思ってますし、山形には若いスタッフもいて、将来は『山形事業所を担っていく存在になりたい』って言ってくれてる人もいるので、若手社員を育てるのは、社会的責任でもあるなって思っています。

なので、若い人たちが『いかに長く、仕事に魅力を感じて続けてもらえるかな』っていうことはいつも考えてます。
何よりも山形の地域性もあるのかどうか、すごくほんわかして、のんびりしてるっていうか。
そういうのもあって、全員、とても素晴らしい自慢の職員ですね」

―ホームケア土屋は山形という地域ではどんな存在なんでしょうか。

「山形県の中でも、山形市には重訪の事業所があるんですが、その周りの市町村には事業所が一つもないところがまだまだたくさんあるんですね。そうすると不思議と大きい病院の先生や看護師さんが『土屋に連絡してみたら?』って言ってくれて。まず病院から連絡が来て、重訪の申請を出す前の段階で相談が来るんです。
『どうしたら重訪を使えますか?』という問い合わせから始まって、3ヶ月も4ヶ月もかけて申請まで、市町村の行政も巻き込んで。利用される時間が50時間だろうが10時間だろうが500時間だろうが、私は1クライアントだと思っているので、何十時間でいようが、その人がサービスを受けられるまで伴奏します。
逆に、サービスの利用が始まった後はアテンダントにお任せする。サービスを受けられるまでを、クライアントとご家族と一緒につくり上げていくことがすごく多いです。なので、行政からも『◯◯さんの話、進んでますか?』とか、電話が来たりして。『問い合わせありました』『何十時間出そうと思ってるんですが、どうですかね?』なんて話があったり。その流れも、山形市以外のところでは『重度訪問介護と言ったらホームケア土屋』っていうのが徐々にできているんではないかなって思っています。事業所のない市町村で一つでも多く“ちいさな声を拾えるように”とは思ってます」

CHAPTER7

お互いさま精神で

「代わりがいない」という辛さは、「代わりがいる」という安心感へ

―介護職を続けていくこと、管理職として働いていくには、仕事と家庭のバランスも大事です。
佐藤さんは、どんなことを考えていますか?

「私自身が結婚・出産・子育てっていうのを経験してきて思うのは、“代わりがいない”っていうことが一番辛かったんです。

それは大好きな仕事を継続できないことにつながっていくので、10代でも20代でも30代でも、結婚しても出産しても子育てしていても、土屋で継続して働けるような環境をつくらなければいけない、と強くすごく思っているんです。

実際、妊娠をした方がいて、つわりがあって『今日の支援行けません』っていう連絡が来た時、以前だったら『キャンセルしたら困るし、売上も下がる』って、正直なところ思ってる自分がいたんです。

でも『それじゃダメだな』って思って。
その方が妊娠したって聞いてからは、シフトをつくる時に、『もしここでお休みになっても、あの人がいるから大丈夫』とか、1週間後2週間後を見据えたシフトをサ責(サービス提供責任者)と一緒に考えていく。

そういった仕事の上でのパートナーをつくることも大事だと思うんですよ。
自分の考えとは違っているからこそよくて、自分にはないものをたくさん持っていて本当に素晴らしいサ責なんです、私のすばらしい相棒です。

山形の方は。シフトを見ながら、『重いもの持って何かあったら大変だから、じゃあ私、行きます』とか『じゃあ佐藤、ここ入ります』とかって、サ責と一緒に助け合ってやってるなっていうのがあるので。

逆に、自分もおばさんですが、『この現場は、ベテランじゃないと大変かも』っていうこともたくさんありますし。みんな、年老いてきて『腰痛い、足痛い』。

そのうち、『孫守りするから』とか、結局お互いさまじゃないですか?」

―そうですよね。

「子育てだけじゃなく、親の介護だったり、『孫守りするから1週間休む』っていう人がいたり。
でも快く休んでもらえると、やっぱり『私、1週間休んだからここ出られるよ』って言ってくれるんです。

だからいつでも休める環境というか。
ズル休みはもちろんダメですけど、その人の生活スタイルに合った環境にしていきたいなと思ってます」

< 2023年 ゴルフ練習場 >

CHAPTER8

はじまりは「何かできないかな」

どんな経験や失敗をしてきても、誰もが再チャレンジできるような社会を

―佐藤さんの行動力、ほんと素晴らしいなと思いながらここまでお話を聞いてきたんですが、ご自身の行動力の源にあるものってなんだと思われます?

「多分、やらないで失敗したことがたくさんあったからでしょうね。
迷った時に『あ、どうしようかな』ってなった時に、『やっぱりやっておけば良かった』って。

若い頃、そういうことがあって、『失敗してもやらないで終わるよりはやった方がいいんだ』とか。
本当に『失敗は成功のもとだ』と私は思ってるので。

やらないよりはやった方がいいし、自信は経験でしか積み上げられないって思ってるので、悪いことでも経験すれば、一つプラスみたいな感じで捉えてるのと、これもおそらく性格だと思うんです。

双子座B型の行動力っていうか、考えてなくて(笑)。
好奇心旺盛、やってみたくなっちゃうんですよね。

だから『行動力素晴らしいですね』とか言われてもピンと来なくて『そうですかね?』みたいな感じで。
考えてても何も生まないなって。

やってみて初めて、『あ、こうした方がいいんだな』っていうのがわかるわけじゃないですか。
だからまずやってみて、って感じですよね」

―最後に、これから挑戦していきたいもの、「これからこんな未来をつくっていけたらいいな」という思いがあったら教えてください。

「やれるかどうかは別として、いつも思っているのは、失敗しても再チャレンジできる環境ですね。
例えば発達障害で医療少年院等に行っているような子でも就労できる施設や就労事業所をつくって、チャレンジする場所をつくってあげたいなって思ったり。

医療的ケア児は関わってみたいとは思います。
実際、家の近所でも医療的ケア児が通える事業所がなくて、『放課後、子どもが支援学校から隣の市の事業所まで行って、帰りのお迎えが大変』という話を聞くと『何かできないかな』っていうふうに思ってるので。

困ってる人はたくさんいて、ただ、個人としてはその人に何も対応できないので、ホームケア土屋山形として今できることは、研修に参加して、自分が勉強することかな。

今週も明日、山形市で医療的ケア児の研修があって、実際に出向いて情報収集を今はしているので。
どんな経験や失敗をされてきた方でも、再チャレンジできるような社会をつくりたいと思ってます」

―未来はつくれるってことですよね。

「そうです。それで終わりじゃないぞと。光はあるぞ、と」

「休みの日は犬と遊ぶこととゴルフの打ちっぱなしに行くことが多いです。大型犬が好きで、2匹の犬にいつも癒されてます」


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