そこからはもうずっと訪問介護です。
土屋に入社する前まで、管理者、サービス提供責任者と、気づけば15年が過ぎていました。
―長く勤められていたんですね。山崎さんにとって、訪問介護の仕事は……スッと馴染んだところがあったんでしょうか。
まさしくそうなんです。
―どんなところですか?
施設の中だと、やりがいはあるかもしれませんが、私にとっては窮屈だったんですよ。
その中にずっといないといけない。
でも、訪問介護の場合は、とにかくあちこちいろんなところに行きますし、それが自分に合っていたんだと思います。
―訪問介護であちこちを回って関わる中で、印象に残ってる方はいらっしゃいますか。
本当にいろんな方がいらっしゃいましたね。
これまた訪問介護を始めてすぐぐらいだったんですが、私、結構料理は得意――というか好きな方なんですよ。
でも訪問介護で伺った方のお宅で調理をした時に――「こんなもの食べられるか」って、私がつくった料理を目の前でバッと捨てられたんです。
それにはさすがに傷つきましたね。「私、この仕事向いてないのかしら」って。
もちろん、体が不自由で思うように動かない方も多いからこそ、ヘルパーを呼ぶのはあたりまえですし、手がまわらずにお家が綺麗になってないお家もあったんですが、
その中ですごくびっくりしたのは――ある方が新聞を取ってらっしゃったんですが、新聞をどんどんどんどん、どれぐらい取っちゃったんでしょうね……本当に部屋の真ん中に山のように。
新聞だけじゃないんですよ、いろんなものが積み上がっていて――今でいうところの“ゴミ屋敷”とでもいうんでしょうか。
山のように積み上がったその上で、寝られていました。
そういうお家で生活してらっしゃって、毎回、私が支援に入るたびに大きなゴミ袋を10袋以上捨てていたんですが、それでもどんどんどんどんいろんなものが溜まっていくんです。
それにはびっくりしましたね。
―これまで介護の仕事を続けてきた中で、山崎さんにとって転機になった出来事、時期はありましたか?
そうですね。
祖母が認知症になった時のことなんですが、私が老健に勤めていた頃に徐々に症状が進んでいきました。
当時、一緒に住んでいたわけではなかったんですが、その祖母の介護をしていたんです。
祖母は本当にいつも買い物に行ってましたね。それでいつも同じものを買ってきて――。
祖母は会社に勤めてたことがあって、デイサービスに行くようになった時も、毎朝「仕事に行ってきます」って歩いて行く。
とにかく同じ話を繰り返すし、私も若かったので「認知症になると、なんでこんなふうに同じことをするようになるんだろう」って考えさせられる部分が、その時はたくさんありました。
その当時、父も体調が悪くて入退院を繰り返していたり、私の子どもも小さかったり。
私は母親を若くして亡くしていて、妹たちにもそれぞれ家庭があって――いろんなことが重なって、手が回らず、大変な時期でした。
祖母はその時、要介護認定2だったんですが、要介護2ではなかなか施設にも入れないんです。
でも私がたまたま訪問介護の仕事をやっていたおかげで、ケアマネージャーさんたちとも訪問看護師さんとも仲良くなれて――
家の状況を相談したら、祖母が施設に入れるようすぐに手配してくださったんですよ。
それから父の要支援認定がおりる時も、同じケアマネージャーさんが「私が担当になってあげる」ってすぐに言ってくださった。
訪問看護師さんも同じ方が「私が見に行ってあげる」って担当になってくださって――。
実はその訪問看護師さんは、定期巡回サービス広島でも連携していて、今も関わりが続いているんですよ。
―同じ地域の中で、ケアをする側だったり、逆にケアを受ける側だったり。役割も循環しているんですね。
そうですね。そういうところは本当に運がよかったなって思います。