定期巡回

定期巡回サービス土屋

山崎千恵

広島 プレイングマネージャー

見過ごすしかなかった「少し気になる」を支えられる仕事があります!

 《interview 2024.12.04》

定期巡回サービス土屋広島でプレイングマネージャーとして働く、山崎千恵(やまさきちえ)。
子どもの頃から「負けず嫌いだった」という山崎は、人生の節目節目で出会った出来事を学びに換え、糧にし、気づけば介護職を18年ほど続けてきたと言います。
その経験を携えて2024年、定期巡回サービスという新たな仕事に就いた山崎。
「自分でも、こんなに長く介護の仕事をしてきたことが謎」という彼女にとって、介護の仕事を続けさせてくれたものは――山崎が生きてきた道から、彼女の中の思いと出会い直します。

CHAPTER1

勝ち気で、負けず嫌いだった子どもの頃

おとなしそう?いやいや男勝りで、好奇心旺盛だった幼少期

―山崎さんは子どもの頃はどんなお子さんだったんでしょうか。

私は広島で生まれまして、育ちも同じく広島なんですけれども、3人姉妹の長女で――第三者の方がよく言われるには――おとなしそうに見えるらしいです。

ぱっと見は、ですけれど(笑)。
でも、すごく男勝りというか、勝ち気で負けず嫌いなところが子どもの頃からありました。

印象深く残ってるのは――私の同級生の男の子が近所に住んでいたんですが、私のすぐ下の妹が、その男の子にいじめられて帰ってきたことがあったんです。

その時に私がものすごく怒って、その男の子のお家まで行って、妹に謝らせた――っていうことを今でもよく覚えてます。

―その頃、よくしていた遊びで覚えているものはありますか?

つい最近、昭和の遊びを紹介するテレビ番組があって、「わぁ、懐かしいな」って思って見ていたんです。

今の若い人はあまり知らないかもしれませんが――ゴム跳びはよくやってましたね。体を動かすのも大好きでした。

―じゃあ、スポーツもよくされていたんですね。

そうですね。
小学生の間は、フットベースボールと言って、サッカーのような、野球のようなスポーツをずっとやっていました。

2年生ぐらいからやってたのかな。
6年生になった時には私がそのチームのキャプテンで、妹が副キャプテンをやっていましたね。

中学生になってからは、好奇心が旺盛だったので、「あれもこれもやりたいやりたい」――そんなふうでした。
部活は中学の時はバレーだったんですがあまり続かず……。

結局、ズルズルと大人になってしまったような感じなんですけどね(笑)。

―その後、学校を卒業されてからはどんなことをされていたんでしょうか。

まずいちばん最初に、ブライダルコーディネーターの仕事に就きました。
華やかな、綺麗な世界に憧れて――じゃないですけれど、今でも好きですね。

そういう綺麗な世界は。

―ちなみに、山崎さんは子どもの頃「こんな仕事をしたいな」という思いはあったんですか?

はい。それがですね、何か矛盾してるかもしれませんけど、子どもの頃は私、学校の先生になりたかったんです。

―それは――たとえば、憧れの先生がいらしたとか?

うーん……どうしてですかね。私もちょっとわからないんですけどね。

面白い話があって――妹が2つ下で、あんまり年が離れてなかったこともあって、近所に同年代のお友達がたくさんいたんですよ。

そのみんなをお家に集めて、自分が先生になった気になって、みんなに勉強を教えていた覚えがあるんです(笑)。
その当時、母が私に教材を買ってくれていたんですよね。

「勉強しなさい」って。
あれはなんの教材だったんだろう……ちょっと忘れましたけど。

その教材を本当は自分がやらないといけないのに、お友達を集めて自分が教えてるっていう(笑)。
その場を母に見つかって怒られた記憶がありますね。

CHAPTER2

わたしの人生の絶頂期――”華やかな世界”での仕事

ブライダル・コーディネーター〜営業時代

―ブライダルコーディネーターのお仕事はいかがでしたか?

ブライダルコーディネーターは、自分が主体となって、ご本人様とやりとりをしながら結婚式を全部プロデュースするわけなんですよね。

その過程も楽しいんですけれども、式が終わった時にすごい喜びというか――を感じるものがあって。

特に私の先輩の妹さんをプロデュースした時は、すごく喜んでいただいて、私も「よかったな」って。

少ない予算の中でも、ご希望をお聞きしながら、いろいろと試行錯誤をして――おふたりが思っていたような式が挙げられたんですよ。関わった仕事の中ではその時のことがいちばん印象に残ってます。

ただ、ブライダルコーディネーターの仕事は楽しかったんですけれども、まだ若かったので、人の幸せどころか、今度は自分が幸せになりたい気持ちが強くなっちゃって(笑)。

なので、一旦退職してですね。出会いがあるかな……と思いつつも、全くなくて。何を思ったか、私、営業の仕事に移ったんですよ。

―異業種に転職されたんですね。

ええ、それもまったく何にも考えてないというか――営業がやりたかったわけでもなかったし、どちらかというと「営業なんて絶対やりたくない」ぐらいに思ってたんですけどね、その当時は。

でもなぜかわからないんですが、その会社に入っちゃって(笑)。

その会社の上司が非常にいい方だったので、仕事が続いたんですよ。
結婚するまで、その会社でずっと働いていました。

―どんなものの営業をされていたんでしょうか。

輸入商社の営業だったんですけれども、美容関係などの高級なものを扱っていたので、そこもまた華やかな世界でしたね。

その会社で働いていた時は、私の人生の中では“絶頂期”といいますか――今はもう、女性のみなさんが頑張ってらっしゃるので、転勤もあたりまえの時代ですけれど、

その時代はまだ「女性が転勤」なんていうことはあまりなかったんですよね。

そんな中で私は転勤になって――事業所を1から立ち上げるということで名古屋に行きまして、その事業所が全支店トップになりました。

そこから今度は本社勤務になって――そうやっていちばんいい感じの時に結婚をして、退社をしたんです。

CHAPTER3

“負けず嫌い”が幸いして――介護職へ

悔しくて、泣きながら「何くそ」って。自分を奮い立たせ、糧にしてきた

―退職されてからは、仕事をされてない時期もあったんですか。

ありました、ありました。結婚してしばらくは専業主婦をしていたんですが……。

もともとが仕事好きで、動くのが好きで、男勝りで――っていう性格なので、じっと家にいて“奥様”をするのは耐え難かったんですよ、私の中では。

だからもう早く仕事がしたかったですね。
なんでもいいから。もうもう、お家の中にいるのが苦痛で苦痛で仕方なかったです。

―そこから新しいお仕事を始められて。

そうですね。そうこうしてる間に離婚するんです。
それでまた、仕事を始めましたね。

―介護の仕事を長くされてきたとお聞きしてます。山崎さんが最初に介護職に出会われたのは、いつ頃なんでしょう。

今から18年ほど前ですね。
仕事を始める時は子どもがいましたのでね。

だから、それまでのように思うようには――以前やっていた営業なんて仕事は当然できませんし、子どもも小さかったですし、パート感覚で病院に勤めたのが最初です。

病院の仕事は1年契約だったので、あっという間に終わってしまって。

その次に今度、介護老人保健施設(老健)で仕事することになったんですが、そこで私の中ではビビビッとくるものがありましてですね……それと、かなりの屈辱を受けたんです、その時に。

―屈辱、ですか。

はい。もういじめじゃないですけど――私は介護の「か」の字もわからない。
トイレ誘導なんてやったこともない。

それで、介助をするたびに、他のスタッフからすごく怒られたんですよ。
「何やっとるんか!」なんて。「どうしよう」って何度泣いたか――。

でも頑張って勉強をして、資格を取りに行きましたね。これはだから多分、性格なんでしょうね。

「下手くそだ」なんて言われて、泣きながら「何くそ」って思う負けず嫌いなところがあったんだと思うんです、自分の中で。

その後、ヘルパー2級(現在の介護職員初任者研修)の資格を取って、今現在に至るんです。

CHAPTER4

訪問介護、15年!

あちこちいろんなところに行く訪問介護。それが自分に合っていたんだと思います

そこからはもうずっと訪問介護です。
土屋に入社する前まで、管理者、サービス提供責任者と、気づけば15年が過ぎていました。

―長く勤められていたんですね。山崎さんにとって、訪問介護の仕事は……スッと馴染んだところがあったんでしょうか。

まさしくそうなんです。

―どんなところですか?

施設の中だと、やりがいはあるかもしれませんが、私にとっては窮屈だったんですよ。
その中にずっといないといけない。

でも、訪問介護の場合は、とにかくあちこちいろんなところに行きますし、それが自分に合っていたんだと思います。

―訪問介護であちこちを回って関わる中で、印象に残ってる方はいらっしゃいますか。

本当にいろんな方がいらっしゃいましたね。

これまた訪問介護を始めてすぐぐらいだったんですが、私、結構料理は得意――というか好きな方なんですよ。

でも訪問介護で伺った方のお宅で調理をした時に――「こんなもの食べられるか」って、私がつくった料理を目の前でバッと捨てられたんです。

それにはさすがに傷つきましたね。「私、この仕事向いてないのかしら」って。

もちろん、体が不自由で思うように動かない方も多いからこそ、ヘルパーを呼ぶのはあたりまえですし、手がまわらずにお家が綺麗になってないお家もあったんですが、

その中ですごくびっくりしたのは――ある方が新聞を取ってらっしゃったんですが、新聞をどんどんどんどん、どれぐらい取っちゃったんでしょうね……本当に部屋の真ん中に山のように。

新聞だけじゃないんですよ、いろんなものが積み上がっていて――今でいうところの“ゴミ屋敷”とでもいうんでしょうか。
山のように積み上がったその上で、寝られていました。

そういうお家で生活してらっしゃって、毎回、私が支援に入るたびに大きなゴミ袋を10袋以上捨てていたんですが、それでもどんどんどんどんいろんなものが溜まっていくんです。

それにはびっくりしましたね。

―これまで介護の仕事を続けてきた中で、山崎さんにとって転機になった出来事、時期はありましたか?

そうですね。
祖母が認知症になった時のことなんですが、私が老健に勤めていた頃に徐々に症状が進んでいきました。

当時、一緒に住んでいたわけではなかったんですが、その祖母の介護をしていたんです。

祖母は本当にいつも買い物に行ってましたね。それでいつも同じものを買ってきて――。

祖母は会社に勤めてたことがあって、デイサービスに行くようになった時も、毎朝「仕事に行ってきます」って歩いて行く。

とにかく同じ話を繰り返すし、私も若かったので「認知症になると、なんでこんなふうに同じことをするようになるんだろう」って考えさせられる部分が、その時はたくさんありました。

その当時、父も体調が悪くて入退院を繰り返していたり、私の子どもも小さかったり。

私は母親を若くして亡くしていて、妹たちにもそれぞれ家庭があって――いろんなことが重なって、手が回らず、大変な時期でした。

祖母はその時、要介護認定2だったんですが、要介護2ではなかなか施設にも入れないんです。

でも私がたまたま訪問介護の仕事をやっていたおかげで、ケアマネージャーさんたちとも訪問看護師さんとも仲良くなれて――

家の状況を相談したら、祖母が施設に入れるようすぐに手配してくださったんですよ。

それから父の要支援認定がおりる時も、同じケアマネージャーさんが「私が担当になってあげる」ってすぐに言ってくださった。

訪問看護師さんも同じ方が「私が見に行ってあげる」って担当になってくださって――。

実はその訪問看護師さんは、定期巡回サービス広島でも連携していて、今も関わりが続いているんですよ。

―同じ地域の中で、ケアをする側だったり、逆にケアを受ける側だったり。役割も循環しているんですね。

そうですね。そういうところは本当に運がよかったなって思います。

CHAPTER5

いろんな意味で“思いやり”が大事な仕事なんだな、と思う

あの時の、あのひとの、存在は今も大きく

―山崎さんが、仕事や日々の中で人と関わる時、大切にされてることを聞かせてください。

思いやりです――なんて今言ってますけれど、若い頃はもう、本当に何も考えてなかったと言いますか、言いたい放題、やりたい放題やってきたんです。

本当ですよ(笑)。思いやりも何もない。
思ったことはすぐ口に出しちゃう――そんなことばかりでした。

―介護の仕事に関わっていく中で、ご自身が変わってきたところもあったんでしょうか。

そうですね。

本当に何も考えずに自分の思うがままに、なんでも言いたい放題やってきたんですけれども――いろんな方を見ていく中で気づいたのが“思いやり”っていうことでしたね。

「あぁ、私たちヘルパーは、思いやりをもって(クライアントと)接しないといけないんだな」っていうことをただただ感じる場面があるんですよ。

今ももちろんそうですけれど。

―そういうことを感じさせられたクライアントがいらしたんですか。

いますね。すごく印象に残っている方が――。
その方は、すごくプライドの高い方だったんですよね。

私自身もあまり深い事情はわからなかったんですが、ひとり娘さんがいらして、でも娘さんとのあいだに親子関係が全然なくてですね。

1階が仕事場で、2階がその方のお宅、3階が娘さんのお宅で。

家の中にエレベーターがついているんですが、娘さんは家に帰ってきても必ず2階を通り過ぎていく。「私は母とは関係ありません」――そんな感じの状況だったんです。

クライアントの方は要求が多かったこともあって、ヘルパーさんも何人も変わっていましたし、ケアマネージャーさんも何人も変わっていました。

そんな状態の中、私が行くことになって――私はこれまでも負けず嫌いっていう性格もあったのでね(笑)。

「絶対頑張るわ」って。私ひとりで2年ほど、毎日、1日3回ほど通いましたね。

でも、その方が亡くなる時――身内の方が誰も来なかったんですよ。
もちろん、それぞれのご事情や背景があったんだと察します。

でも、その時の私はどうしても「同じ建物に住んでいるのに、もうお母さんが亡くなるっていうのに、なんでご家族のみなさんは誰も会いに来ないのかな」って感じてしまって――。

結局、その方のお孫さんが唯一おひとり、しょうがなしにみたいな感じで来られて、亡くなりました。
あの時のことはやっぱりどこかでかわいそうだなって――強く印象に残ってます。

私の中では今も、その時の、その方の存在はかなり大きいんです。

だから先ほどお伝えした“思いやり”という言葉は――いろんな意味でね、大事なんだな、と思うんです。

CHAPTER6

定期巡回サービスで働きはじめて

私の場合は「訪問介護より、絶対定期巡回」でした

―その後、2024年3月に土屋の定期巡回サービスに転職されます。今はどんなお仕事をされてらっしゃるんでしょうか。

定期巡回のアテンダントから始まりまして、9月からコーディネーターになりました。

11月から名称が変わって、定期巡回サービスの中では“プレイングマネージャー”という名称になっています。

いろんな方のご自宅を訪問しつつ、スタッフのシフトの管理をしたり、あとは営業ですね。

―以前は営業のお仕事もされてたので、山崎さんは営業は――

いえいえ、全然慣れてません(笑)。

―そうでしたか(笑)。定期巡回で働き始めて、感じられたことを聞かせてください。

私、本当に定期巡回については全く知らなくて、最初は全然わからなかったですね。
でも、今思うと「早く知っとけばよかったな」って。

私の場合は「訪問介護より、絶対定期巡回よね」って思ってますね。

―どんなところがよかったですか?

訪問介護の場合だと、制度を利用する上で時間などの制限が多いんですね。
例えば、「支援に行くのに最低でも30分〜1時間単位から」とか、「同じクライアントを訪問する場合は2時間あけてから」とか。

一方で定期巡回は――極端な話ですが、ご自宅にお伺いして、「体調どうですか?お変わりないですか?」「お薬飲まれましたか」「じゃ、また来ます」。

そうやってお一人で暮らしているクライアントの体調を確認する。
それくらいの短時間でも、気軽なサービスとして使ってもらえるんですね。

訪問介護と違うのは、定期巡回は24時間365日、緊急コールはすぐに対応します。

一方で緊急以外の訪問時間の設定は割と緩やかなところもあって、軸になっているのは「その方に必要なサービスを、必要な分だけ、きっちり行なうこと」。

そういった面から自分が働く側として定期巡回の仕事を見た時も、「絶対、自分には定期巡回が合っていたな」って思いましたね。

CHAPTER7

この仕事を続けさせてくれたのは――“困ってる人がいたら助ける”っていう、それだけの思い

介護の世界で、こうやって長いこと仕事してきたことが――謎なんです

―お休みの日はどんな風に過ごされてますか。

休みは、本当にたまにですが――息子も成人して、3年ぐらい前からゴルフをかじるようになったので、一緒に打ちっぱなしに行ったりしてますね。

―ゴルフは、ずっとされていたんですか?

ええ、20歳の頃からゴルフをやっていたんですよ。
最近は全然、行けてないですけどね(笑)。

あとはウィンドウショッピングが好きなので――ちょろちょろ買い物に行ってます。

―定期巡回で、「これからこうなっていきたい」「地域がこんなふうになっていったらいい」というところを聞かせてください。

私を含め、定期巡回サービス広島のスタッフは8人いるんですが、みんな明るくていい方ばっかりですね。
和気藹々とみんなでやっています。

私自身は、認知症の当事者家族としての経験もあるので、その面からもそうだし、介護者として関わっていても、「定期巡回、もっと早く知っていればよかった!」って思うぐらいいいサービスだなと思うんです。

でも現状では、定期巡回っていうサービスそのものをご存知ないケアマネージャーさんもまだまだいらっしゃいますし、

「金額的にも定期巡回って高いんだろうな」っていうイメージを持ってらっしゃる方も結構いらっしゃるのではないかと思います。

でも実はそうではないんですよね。

もちろんご本人の状況やご希望にもよりますが、「もっと気軽に利用できるんだよ」という部分をどんどんアピールしていって――これは、たぶん他のスタッフも思いは一緒だと思うんですが、

「定期巡回だったら絶対、土屋!」って言ってもらえるように頑張りたいです。

うん、頑張りたい。頑張ります。

―山崎さんご自身はいかがですか。「これからこんなふうに生きていきたい」「働いていきたい」という思いがありましたら。

そうですね、私ももう年も年ですので――本当にもう、この土屋が最後のつもりで精一杯がんばりたいですね。

あとは本当に、定期巡回が広島にもっともっと浸透していってですね、それこそ「土屋じゃないとダメだよな」って言ってもらえるように――絶対なります。

―では最後に――山崎さんはなぜ介護の仕事をずっと続けられてると思われますか?

私もそこは謎なんですよね、実は――(笑)。
自分で言うのもなんですが、潔癖症までいかないんですが、それに近いような部分が私にはあるんです。

そう思うと、自分以外の人のお世話や排泄介助をするなんて、本当は苦手なはずなんですけれど……。

今までの人生を振り返ってみても、きらびやかな、華やかな世界が好きなはずなのに(笑)。

なんでこの介護の世界で、こうやって長いこと仕事してきたのかが、謎といえば謎なんですよ。

でも、介護をしてる中で――うーん、そうですね。

困ってる人を見て、「助かった」「ありがとう」って言ってもらったらやっぱり「よかったな」ってどこかで思うんでしょうね。

そう、そこなんだと思うんですよ、結局は――。

だからやっぱり、“困ってる人がいたら助ける”っていう、それだけの思いでこの仕事を続けてきたのかな。


TOP
TOP