株式会社RadiantCoCo

株式会社 RadiantCoCo

小澤明久

エンジニア

私たちの暮らす「社会」という組織を良くしていくには

 《interview 2026.04.16》

文系出身でIT企業に飛び込み、プログラマー、そしてシステムエンジニアとしてキャリアを重ねてきた小澤明久(おざわあきひさ)。
やがて、会社の仕組みに疑問を抱き、介護業界へと転身。
未経験からスタートした重度訪問介護の仕事を経て、現在は土屋の子会社であるRadiantCoCoでエンジニアとして、現場での経験も活かしながら介護業界の新たな価値づくりに挑んでいます。
小澤の根底に今もあるのは「合うととことん突き詰める」というこどもの頃からの気質と、人や社会への尽きない好奇心。
「自分が今持っているものを、次の人たちへどう残していくか」――異なる分野を横断し、歩んできたその軌跡と仕事観に迫ります。

CHAPTER1

凝り性で、合えばとことん突き詰める。そこは今も昔も変わりません

外遊びに誘われれば「はいよ」って行っていたけれど、どちらかと言うとインドア派でした

―小澤さんが生まれ育ったのはどんなところだったんでしょう。

親父は港湾土木に関する仕事――防波堤をつくる会社にいたんですね。それもあって海のそばにずっと住んでました。

生まれたのは宮城県なんですが、転勤族だったので、宮城県内を複数箇所、あと覚えてる限りでは青森と福島に住んでましたね。

―こどもの頃はあちこちに転校したり、住まいも変わったりされていたんですか。

そうですね。幼稚園2つ、小学校3つ通いました。
中学校以降は、親父は単身赴任するようになりましたが。

―小さい頃はどんなことをしてよく遊んでいたんでしょう。

草野球やったり、学校から「行っちゃいけないよ」って言われたところに自転車で行ったり、普通に遊んでましたね(笑)。

ただ――外遊びに誘われれば「はいよ」って行くんですが、どちらかと言うとインドア派だったんです。

家の中で本を読んだり、プラモデルをつくる方がずっと好きでしたね。

―その後、10代の頃になって、熱中したものや新しく出会ったものってありましたか?

それは音楽です。ロックですねー。

―じゃあ、バンドを組んだり、軽音部に入ったり?

部活は中高と剣道部だったので、軽音部には入ってなかったんですが、高校3年生の時、部活を引退した後の学園祭で、一度、バンドはやりましたね。

―その頃、お好きだったのはどんな音楽だったんですか。

洋楽です。

―当時の小澤さんの心に響いたのは……

それはアイアン・メイデンですね(笑)。

―激しい系の音楽ですね。

そうですね。
若いと、うるさい音楽とか悪そうな音楽が好きになるんですよ。

「過激であればあるほどいい」っていう――ハードロック、へビーメタル、パンクロック。もうどんどん悪い方に行きました(笑)。

―(笑)。当時の、小澤さんの風貌の方はいわゆる“普通の中学生”だったんですか?

もちろん、もちろん。
なんせ剣道部だったのでね(笑)。

自分が坊主だから、真逆のものに惹かれたんでしょうね。
「今の俺にはないものがほしい」、と(笑)。

―(笑)。その頃はどんな性格でしたか?もしその頃と変わっていないところがあったら教えていただきたいです。

そうですね――すごく凝り性です。
一方で、飽きやすいところもあるんですが。

「自分の性格に合わないな」と思うとスパッと切り捨てたり。
でも、合えばとことん突き詰める。

そこはずっと変わってないですね。

―その頃、音楽の他にも凝っていたものって何かあったんでしょうか。

何があったかな……。
あぁ、これも今も好きで趣味にしてるんですが、“ミリオタ”です。

―ミリオタ…というと“ミリタリーオタク”ですか?実際にはどういうことをされてるんですか。

そうですね。
単に軍服や戦車、銃に惹かれるだけなんですが――それについてただただ、いろいろ調べたりしてますね。

CHAPTER2

文系からI T企業へ――「あれ、これ、もしかして……俺、向いてる?」

プログラミングは「0と1だけで世の中のことをすべて表せるんだ」っていうところがすごく新鮮だった。そこに気づいて、のめり込みました

―学校を卒業されてからは、どんな道を歩まれてきたんでしょうか。

大学は経済学部でした。
僕は小学校の頃から算数、数学が超苦手で。

自分では「完全に文系の人間だ」と思っていたんです。

でも大学を卒業できる見込みが立って、「じゃあ、何の職に就こうか」となった時に――当時、「コンピューター技術者はこれから引く手あまただ」「今から伸びていく分野だよ」なんて言われていました。

それ以前は日本ではソフトウェア開発企業はそこまで花型産業ではなかったんですが。

その頃のI T企業は――当時はソフトウェア開発企業と言ってたんですが――「文系の人も入社してください」「文系の人にも懇切丁寧に教えます」なんてあちこちの会社で言っていたんです。

それが1990年代バブル真っ盛りの頃で、僕は「あぁ、そうか」と。

「だったら、そこでいちばんが取れれば、文系の俺でも日本一になれるかもしれない」――そんな気持ちで、某コンピューター企業に入社しました(笑)。

―文系から理系へはスッと移れました?それとも――。

割とスッといけましたね。
会社の方が「文系の人、大歓迎」みたいな感じだったので。

入ってみると、やっぱりちゃんと仕事の仕方を教えてくれたんですよ。

その中で「あれ、これ、もしかして……俺、向いてる?」って思いました。すごく面白かったんです。

―どういうところに面白さを感じられたんですか?

まず、プログラミングなんですが――前知識として、「すべての情報は0と1から成り立っている」っていうところからプログラミングは始まるんですね。

そこにまず、「そうなんだ!」って――。
「0と1だけで世の中のことをすべて表せるんだ」っていうところがすごく新鮮だった。

そこに気づいてから、のめり込みましたね。

CHAPTER3

最適解をみつける。システムエンジニアという仕事、その中身の変貌

対話をしながら、最適解を見つける。「システムをつくるだけがSEの仕事じゃないんだな」

―小澤さんがこれまでされてきた、システムエンジニアのお仕事について伺いたいです。

そうですね。
プログラマー時代と、そこから経験を経てシステムエンジニア(SE)時代でちょっと違うんですが――。

まず、プログラマーから始まって、最初の1、2年はお客さんとお話しすることもほぼなく、プログラムとテストに明け暮れてましたね。

たとえば、バグが出ました。
システムが思ってもない動作をしてます。

で、その原因をとことん突き詰めていく――それが謎解きみたいですごく面白かったんですね。

プログラムをつくるよりも、テストをしてバグを出して、バグを直す。もちろん時間はかかったんですが、むしろ好きでした。

3年目ぐらいからかな。
だんだんお客さんとお話しするようになって。

「こういうことできる?」「できますよ」「こういう仕様だったらどうですか」といったやり取りをするようになって初めて、“システムエンジニア”って呼ばれるようになるんです。

5年目ぐらいからは価格交渉もするようになって――SE時代になると、プログラムはあまりつくらなくなっていくんですが、人と喋ったり、交渉したりする仕事が増えて楽しかったですね。

そんな感じでキャリアを積んでいきました。

―SEの仕事というのは……まず、「こういうシステムをつくってほしいです」っていう依頼があるんですか?

そうですね。
もしくは、「こういうところで困ってるんだけど、なんとかならない?」といったご相談があるんです。

最初のうちは自分がプログラムをつくりたいものだから、100メートル先のコンビニに行くだけでいいのに、“トラックみたいな”プログラムをつくっていたんです(笑)。

このたとえ、わかります?

―すみません……全然ついていけなかったです(笑)。

コンビニに行くだけだから機能としては“自転車”くらいのものをつくればいいのに、自分がアメ車に乗りたいから、お客さんにアメ車を勧めちゃう、みたいな(笑)。

―あぁ、なるほど。たとえの乗り物が、小澤さんがつくっていたプログラムってことですね。

そうですそうです。
コンビニにお弁当を買いに行ければいいだけなので、前カゴがついてる自転車があれば、本来はお客さんは十分だったんですよ。

そうやって、求められる機能のサイズと、自分がどれくらいのプログラムをつくればいいかがだんだんわかってきて。

「システムをつくるだけがSEの仕事じゃないんだな」と思うようになりました。

30代後半から40代になると、「それはシステムつくるまでもないですよ」「紙に鉛筆で書いた方が早いですよ」なんてことも平気で言えるようになって(笑)。

そうすると、エンジニアどころか、コンサルティングのような仕事になってくるんですね。

そうやってだんだん仕事の内容が変貌していって――それはそれで面白かったですね。

「最適解を見つける」という仕事になりました。

SEになって最初の頃は、クライアントである企業さんのシステム管理者と、直接お話をするので話が伝わりやすいんですが、年を取るにつれて専務や経理部長といった企業の上層部の人とお話をするようになるんです。

その方たちは、当然ですが、コンピューターに関する知識はほとんどありません。

そうなると今までどおりのお話をしてもなかなか伝わらない。

でもそれも「これまで自分がやってきた伝え方では伝わらないんだな」ということがだんだんわかってきて、伝え方を工夫したり、「どうやったらわかってもらえるかな」って一生懸命考えたり。

そうなって仕事の面白さがだんだんと変わってきました。

―SEという仕事はどんな働き方をされているんですか?もちろん会社には属しながらも、単独で動くような働き方をイメージしてしまうのですが。

僕自身はずっと「自分はサラリーマンだ」と思ってるんです。
上司がいて、同僚がいて、部下がいて、きちんと連携が取れてないと仕事にならないっていうこともわかってる。

社内では割と一匹狼的な仕事や立場だったことが多かったんですが、それでもちゃんと連絡、報告、相談は欠かさずに働いてましたね。

CHAPTER4

「天知る、地知る、人ぞ知る」――親父がよく言っていたこと

「親父がこういうこと言ってたな」と、自分が喋った後にふと思い出したり。「親父に似てきた」と思ったことが何度もありました

―これまでの中で、今の自分をつくってくれたような仕事や人との出会いがあったら聞かせていただきたいです。

そうですね、仕事の上ではあまりない気がします。

インタビュー前の質問表をいただいて考えてはみたんですが、「(先輩や同僚で)この人から影響を受けたな」っていう人があまり思い浮かばなかったんですね。

ただ仕事をするようになってから、「俺はこの人からものすごい影響を受けてたんだ」ってことがわかったのが――親父なんです。

「こどもの頃、親父がこういうこと言ってたな」と、自分が何か喋った後にふと思い出したり。

「やべ、親父に似てきた」と思ったことが何度もありましたね。

―それはいくつぐらいの頃ですか?

20代の時です。

―そんなに早い頃からなんですね。

「サラリーマンとして、やっぱり影響受けてるんだな」、と思いました。

―10代の頃というのは親に反発するような時期もあるのかな、と思います。小澤さんもそういった時期を経て、お父様から影響を受けていたんですか?それとも、元々そういう時期がなかったとか?

親父に限って言うと、反抗したくなる時期に親父は家にいなかったんですよ。

―あぁ、そうでしたね、単身赴任で。

そうですそうです。
親父と言っても、よその人みたいになっていたので(笑)。

なので、あまり――もちろん、こどもの頃に悪さをして叩かれて、なんてことは当然ありましたけれども、「クソ親父!」とかは思ったことはなかったですね。

幸か不幸かはわかりませんが。

―実際には、どんなところに影響を受けてたんでしょうか。お父様とのやり取りで印象に残ってることがあったらぜひ聞かせてください。

この年になっても未だに思い出すことがふたつあって。
ひとつは、親父が「『天知る、地知る、人ぞ知る』だよな」ってよく言っていたんです。

「悪いことをしても、いいことをしても天の神様、地の神様は知ってるし、何より自分がよく知ってる。誰も知らないってことはないんだよ」って――それは何十年経っても覚えてますね。

もうひとつは、「人にお金を貸して、返ってこない時はそいつの友達に愚痴れ」、と(笑)。

―(笑)。

速攻で返ってくる。

―実行したことはあるんですか?

ありますあります。ちゃんと返ってきました。

ただ、お金が返ってくるか、そのまま本人がいなくなるかのどっちかでしたね(笑)。

CHAPTER5

個々人の技術って、会社に持ち帰ってみんなで突き合わせてこそ大きい力になる

人手不足の介護業界へ。「最後に『ありがとう』って、たくさん言われて終わるのもいいよな」って。

―2021年に土屋に入社されたきっかけや流れについて、教えてください。

土屋に入るまで何度か転職はしてきましたが、ずっとIT企業に勤めてきました。

でも、だんだんI T業界自体が「つまらなくなってきたな」と感じるようになってきたんです。

当時、大企業や大企業のシステム部門は別として、独立系のシステム開発会社のほとんどが“各企業へのエンジニア派遣”が主な仕事になっていました。

今でもそういうところは多いと思います。

要は、技術者を必要としている会社に、開発会社からエンジニアを派遣して、エンジニアのスキルに応じて会社から月額をもらう――それがほとんどの独立系システム開発会社の企業体系になってきていたんです。

僕にとってはその体系はすごくつまらなかった。
「これはもうI Tには先がないな」と思うようになって。

――どうしてですか?

なぜかというと、その働き方によって、本人の技術スキルは上がるかもしれないんですが、会社の技術力が全く上がらなくなるからなんです。

たとえば、僕が開発会社の社長で、社員が5人いるとします。
5人全員、別々の会社に派遣されている。

じゃあ、社長の僕のところに何が残るかというと――5人が働いた利益分だけで、技術は残らない。

各会社に派遣されている5人は、基本的にいつまでも行ったっきり。しかも、技術を持ったまま、いつ他の会社に転職してしまうかわからない。

そこで、「週1回は会社に戻って、各々が学んだことを共有する勉強会をしましょう」「自分たちで商品を開発しましょう」なんて動きができればいいんですが、5人ともそれぞれ週5日8時間以上、フルで働いてる。

会社はそれ以上は働かせられない。そうなると、会社にはお金以外残らなくなるんです。

―そこは小澤さんが先ほど仰っていた、「チームで働くこと」の大事さや、「技術職の仕事が受け継がれていく場もすごく必要なのかな」と聞きながら思いました。

そうですね。
「個々人の技術って、会社に持ち帰ってみんなで突き合わせてこそ大きい力になる」って僕は思っているんです。

「派遣で、フルタイムで、お客さんのところに行っていたら、お客さんの役には立つかもしれないけど、自分の会社の役に立ってるとは言えないよな」と思うようになってきたんですね。

それで、「違うことはできないかな」と思って。

―土屋とはどんなふうに出会ったんでしょうか。

まず介護に興味を持ったきっかけのひとつは、年齢が50歳を越していたので、「今から転職するとなったら、人手不足の業界じゃないと難しいかな」という打算的な理由ももちろんありました。

もうひとつは、その頃、自分の仕事観がなんとなく固まってきて、「世の中の役に立たなかったら仕事とは言えない」っていう考え方になっていたんですね。

I T業界で働いていると、ずっと机に座ってPCをカタカタやっているので、自分が世の中のどこの役に立ってるのかがあまりわからないし、見えなくなってくる。

「あまり感謝もされないし、面白くないな」と思うようになって。

でも介護だったら、ずっと「人手が足りない」と言われてる業界だし、「対人だから、いやになるぐらい、『ありがとう』って言われるんじゃないか」なんてことを考えましたね(笑)。

「じゃあ、ここで仕事を終えるのもいいよね」って――。
「最後に『ありがとう』って、たくさん言われて終わるのも悪くないよな」って。

それで求人を探していた時に、土屋の求人をたまたま見つけたんです。

その中でも「土屋に入りたい」と思った理由は――企業理念をちゃんと掲げていたことです。

当時のミッション、ビジョン、バリューがすごく魅力的だったんです。僕にとっては。

―転職の際に、他の会社の企業理念も読まれました?

そうですね。
介護の会社だと、企業理念があったりなかったりします。

あったとしても、通りいっぺんの常套句みたいなものが多い中で、土屋のミッション、ビジョン、バリューってすごく独特じゃないですか。

僕には謎かけみたいに思えたんですよ。

「お前は、どう思う?」「ここで働いてみないと、答え見つからないよ?」って問われてるみたいに思えた(笑)。

あの理念はすごく巧妙だな、って今でも思ってます。

―そうですよね。決して答えをひとつも言ってない。対極するふたつのものの間にすべてがあるっていう――ある面では、「わかりにくい」とも言われますが(笑)。

多分、答えを求めちゃうと、わかりにくいんですよね。
「この理念、何言ってるんだろう?」「介護に関係あるの?」ってなる。

でも、深読みする人や裏読みする人にとってはすっごく好奇心をそそられる言葉なんですよね。

CHAPTER6

はじまりは重度訪問介護の現場から――介護の会社での“システムづくり”

「他の人にできることはいつか俺にもできる」。「いつかはわからないけど、できないはずない」――って現場にいた時は思ってました

―2021年に土屋に入社されてからはどんな仕事をされてきたんでしょうか。

最初はホームケア土屋 仙台に、アテンダントとして入社しました。

真っ先に思ったのは――重度訪問介護を利用している人や利用したいと思ってる人は、僕が思ってた以上に多いんだな、ということでした。

「知らないだけで、近所にいたんだ」「外から見えないだけで、自分が思う10倍、20倍もいるんだ」って。

それがすごく新鮮で。「そうなんだ」っていう驚きがありました。

―実際に、支援の現場に入ってみていかがでした?

未経験で入ったので、他事業所の介護福祉士の資格を持ってる先輩方に比べたら、技術は圧倒的に足りなかったんです。

そこは悔しかったんですが……もう年だからなのかもしれないんですが、焦らなかったですね。自分でもびっくりするぐらい。

もちろん、「今日もクライアントに怒られちゃったな」みたいな日もあるんですが、焦らなかったし、落ち込まなかった。

これは技術屋だった頃はあまり出てこなかった言葉なんですが、「他の人にできることはいつか俺にもできる」――ってその時はすごく思ってました。

「いつかはわからないけど、できないはずない」、って。

―支援現場にはどれくらいいらしたんですか?

1年少し携わりました。
その後、2022年に顧客創業部に異動になって、2023年にマーケティング部に異動しました。

―2025年に、介護・福祉業界の企業を主な対象に、マーケティング分野での支援を行なう土屋のグループ会社「RadiantCoCo」が立ち上がりました。今はこちらに所属されています。

そうですね。設立から1ヶ月ほど後にRadiantCoCoへ転籍しました。それが2025年の12月です。

RadiantCoCoは代表取締役の岡田千秋さん(おかだちあき/兼 (株)土屋 エグゼクティブフェロー)以下、スタッフが4人います。

現在は土屋のWeb関係の仕事に携わっていますが、今後は外部からの委託でマーケティング――特に介護業界に特化したホームページ運営や採用サイトの構築、業務改善のためのシステム構築・運用など――を請け負う会社を目指しているところです。

―今、小澤さんはどんなお仕事に関わられてるんですか。

僕が主に関わっているのは、土屋グループ内で運用しているシステム3つです。

ひとつは「リマインドメールシステム」。
これは現在、ホームケア土屋の近畿、中国、九州のいくつかの事業所で運用しています。

これは現場に入るアテンダントに向けて、「◯◯時から支援が入ってますよ」というメールが、アテンダントの携帯電話に届くシステムです。

リマインドメールシステムについては、入社した当初からホームケア土屋仙台で何度も「こういったシステムをつくれないか」と言われていたんです。

でも、その時は支援現場に入っていたので作る時間がなかったんですが。今のところは便利に使っていただいてると思います。

ふたつめは安否確認システムV’jica ですね。
これは、訓練の時に野上さんも受け取ってるかと思います。

―はい、受け取ってます。小澤さんがつくっていたんですね。

今日まで1週間、東日本の地域の方向けの訓練があったので、そちらの対応をしていました。

あともうひとつが――これは現在進行形のもので、「上司と部下が定期的にミーティングを行なう1 on 1のシステムを社内でつくっていこう」ということで、ブランド創造部とやり取りをしながら進めているところです。

―そういったシステムも、使いながら修正して、それをまた使っては修正して――といった試行錯誤を繰り返しながら運営されているんですか。

そうですね。
どこのシステムもそうですが、バグのないシステムというのはあり得ないんです。

あるシステムを10年運用していて初めて出てくるバグもあるくらいなので。

バグが起こる前にいかに食い止めるか、という対策も必要ですし、起こった時に被害を最小限にとどめるような直し方も必要になりますね。

CHAPTER7

いつでもまわりに興味を持ち続ける。そうすれば人や世界との関連は失われないし、どんどん広がっていく

普段、システムを使っている方たちから「これって便利だね」「これで助かったわ」というお声を聞けた時はすごく嬉しいです

―小澤さんの価値観を伺いたいと思います。人と関わる時に大切にされているのはどんなことですか?

そうですね。
自分の気持ちって、一度では他人に通じない。

通じないというか、伝えることはできないので、小出しにしながら何回も何回もその人と会ってお話をしないと仲良くなれないなっていうことは思います。

アテンダントとして初めてクライアントのお宅に伺う時も、1日目からクライアントやご家族に気に入ってもらえるような方ってあまりいないと思うんです。

いろんなことを教えてもらったり、うまくいかなくて注意もされたり、それでも毎週顔を合わせて、話をして、1ヶ月ぐらい経ってようやく、「あの人いい人ね」って思っていただけると思うんです。

でも僕はそれが自然だ――と思っているので。

コミュニケーションを重ねることで、初めてのものや苦手なこと、わからないものも好きになっていけるんだろうな、と思います。

その時に、人に対する興味とか、ものに対する好奇心を失うと、自分の世界が狭まっちゃう。それはすごく思いますね。

そのためにも人の気持ちやその人がやってること、世の中の仕組みというものにずっと興味を持ち続ける――僕、自分で自分の好きなところって、好奇心が旺盛なところなんです。

―うんうん。

他人に対して、ものすごく興味を持って接するし、世の中の物事に対して、「なんでこういう仕組みなんだろう」ってことにすごく興味を持つ。

それで解き明かしたくなる方なので。

そこを絶やさないでいると、自分の周りにいる人たちや周りの世界との関連が失われないし、どんどん広がっていくのかなって思いますね。

―この仕事に就いてから出会えたもの、見つけたものってありますか?

先ほどもお伝えしたんですが、「他人ができることは、時間はかかるかもしれないけど俺にもできる」――これは土屋に入ってから見つけた言葉です(笑)。

「見つけた」って言うと変かな。

―体感が込もった言葉なんですね、小澤さんにとって。

正直なところ、これまで30年も技術屋をやってきましたから、「できないことはない」「なんでも俺に聞けよ」ぐらいの感じだったんです。

でも介護っていう全然知らないところに入っていった時、できないことだらけで――だけど、「他の人ができるんだから、俺にできないはずない」って。

現場に入らせてもらったからこそ、そう思えたんですね。

―それは――たとえば最初に同行してくれたスタッフの方だったり、その後も支援内容の共有が続いていくと思うんですが、そういう中で実感していったんですか?

そうですそうです。

もちろんそれもあるし、それこそクライアントさんに「なんで他の人たちができるのにお前はできないんだ!」って注意を受けた時に、「えっ、他の人たちできんすか?!」「じゃあ、頑張ります!」って(笑)。

―今は長年されてきたシステムエンジニアとしての仕事に携わっています。どんな時に嬉しさややりがいを感じられているか、教えてください。

そうですね。
普段、システムを使っている方たちから「これって便利だね」「これで助かったわ」というお声を聞けた時はすごく嬉しいですね。

リマインドメールシステムに関しては、だいぶ前になりますが、利用アンケートを取ったことがあったんです。

「実際に支援忘れを防ぐことができた」という回答が何件かあったので、それを聞いた時は「やったな」と思いましたね。

まさにそれを防ぐためのシステムなのでね。

小澤家の住人たち。「ハンス」(左)と、「モネ」(右)。

CHAPTER8

「自分が社会の役に立っている」という実感――仕事って、本来は社会貢献のはず

自分が今持ってるものをRadiant CoCoに、土屋に、どうやって残していくか――今、そこに気持ちがいってます

―最後にこれからのところを伺っていきたいです。Radiant Cocoで、システムエンジニアとして、介護業界の中でこんなことを行なっていけたらいいな、という思いについて聞かせてください。

そうですね。
年齢的に“終わり”が目の前にあるんです(笑)。

「これから、こういう会社にしてくんだ」という思いは正直、あまりないんですが、自分が今持ってるものをRadiant CoCoに、土屋に、どうやって残していくか――今、そこに気持ちがいってますね。

それは技術やつくったシステムのみに関わらず、仕事に対する向き合い方や意識も含めて――現場も多少なりとも経験をしているので、「こんな時、こういう考え方をするといいかもよ」ということも残せたらいいな、と思ってます。

―土屋に入社されて6年。福祉や介護の業界で小澤さんが働き続けている理由、続けている原動力になってるものがあったら教えていただきたいです。

これは間違いなく「社会の役に立っている」という実感ですね。

今は現場に入っていませんが、関わっている仕事を通じて、現場に入っている人たちの役に立っていて――それは広い目で見ると、間接的かもしれないけれど、社会の役に立っているってことだろう、と思うんです。

その感覚を感じられなかったら、多分、続けてないですね。
お金のためだけに仕事をすることになってしまう。

もちろん、仕事をしたらお金をもらわないといけないですし、ある意味、お金をもらって、それを使うことも社会のため――と僕は考えてます。

仕事って、本来は例外なく社会貢献のはず。
介護は、そのことがあからさまに表われている仕事だと思います。

その中で僕にとっては、「現場に立つ人たちの役に立っている」という実感を得ていることが、この仕事を続けていられる理由だと思いますね。

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