訪問看護

訪問看護ナーシングプラス 土屋

名越逸美

岡山 管理者

やめよう、やめようと思っていた看護師の仕事。そんな私が「私の看護」を見
つけるまでの運命。

 《interview 2026.04.24》

「普通に仕事に行って、普通にお給料をもらいたいだけなのに、なんで毎日がこんなに修行みたいなんだろう」――こどもの頃に描いた看護師の夢を叶え、ナーシングプラス土屋岡山の管理者として働く名越逸美(なごしいつみ)。
結婚、子育て、介護、体調の変化といったライフステージの変化の中でも、握りしめて離さなかった看護師という仕事への思い、ままならない現状、そして家族と患者さんへのまなざし――さまざまな選択肢を突きつけられる中で「もう二度と看護師にはなるまい」と一度は決めた名越が、ふたたび今、看護師の仕事と出会うまで。
人の中で“寄り添う”ことを問い続けてきた彼女の思いに伴走します。

CHAPTER1

夏は海水浴とキャンプへ、冬はスキーへ――いきものが大好きなこどもでした

久しぶりに会った友達に「やっぱり全然変わらないね」って言われる。明るい雰囲気はこどもの頃からずっとあったのかな

あの、インタビューの前に――私、話をしてると、当時の感情が思い出されて、昨日も質問の答えを考えてるだけで涙が出てきちゃって(笑)。

今日、ぜったい泣くと思うんですが、それは気にせず……。

―お話し伺っていると、泣いてしまうことが私もよくあるので(笑)。今日は泣くのをO Kにしてお話しましょうか。

そうですね。
もう恥ずかしいくらい涙が出るので、この間、chat GPTに聞いてみたんです。

「感情が高ぶると涙が出るのはなんで?」って。
そしたら、交感神経と副交感神経がバランスを取ろうとして、“涙”っていう形であらわれるらしいです。

「感情豊かな人に多い」と書いてありました。
なので、これは褒め言葉だと捉えようと思って――きっと感受性が豊かなんですね、私たち(笑)。

―私もそう思うようにします(笑)。ではインタビュー始めさせていただきますね。小さい頃のお話から伺ってるんですが、どんなところで生まれ育ったか、どんなお子さんだったかを聞かせてください。

私はずっと生まれも育ちも岡山で、岡山から出たことがないんです。

岡山市の中心部近くで育ったんですが、父がアウトドアが好きだったので、父の釣りに牛窓の方までついていったり、毎年夏は家族で鳥取に海水浴とキャンプをしに行ったり、冬は鳥取の大山までスキーへ行ったり。

そんな家庭で育ったので、すごく自然が好きなんです。
川を見れば、「魚はいないかな」って探しちゃうような、生き物が大好きなこどもでした。

―小学校や幼稚園に通う中ではいかがでしたか?お友達と、でもいいですし、ひとりでこんなことをしてた、などもしあったら。

友達と運動場で遊んでいた思い出しかないですね(笑)。
外で遊ぶのが好きだったので、鬼ごっこをしたり、鉄棒をしたり、学校の遊具で遊んだり。

家だったら漫画を読んだり、リカちゃん人形で遊んだりしてました。
小学校に入ってからは、ピアノを習い始めて。

ひとりで何もすることない時はピアノを弾くのが好きでしたね。

―その後、中学生や高校生になると関心も変わってくるのかな、なんて思います。当時、熱中していたことがあったら教えてください。

そうですね。
中学校はソフトテニス部、高校で硬式テニス部に入部していたので、部活の友達と遊ぶのが基本でしたね。

何に熱中してたかな――ひとりでする趣味があったとか、そういうのはあまり覚えがないんですが、人が好き、友達と遊ぶのが好きな子でした。

―「こどもの頃の自分って、こんな性格だったな」とかありますか?

小学生の頃は、結構、負けん気が強い子だったんですよね。
兄が2人いたので――その兄には力では勝てないので、口喧嘩で勝てるように、とすごく口が立つようになりました。

どんな子だったんだろう……活発は活発だったんですけどね。
でも小学校高学年になってくると、友達関係で悩むことも増えて。

でも、中学校に入ってからは自分と合わない友達との付き合い方もわかってきて、「楽しく遊べる友達と遊べばいい」って思えるようになって。

仲のいい子と遊んでましたね。

―今も変わらないところってありますか?好きなものや、もちろん性格とかでも。

自分ではあまりわからないんですが、久しぶりに会った友達に「やっぱり全然変わらないね」って言われるんです(笑)。

明るい雰囲気はこどもの頃からずっとあったのかなって思いますね。

CHAPTER2

「私は看護師になる」――小学校の卒業アルバムに書いた夢を叶えて

「病院って楽しいところなんだ」と思っていた小さな頃。それがきっかけで看護師を目指すように

―その後、看護学校に進まれたと伺ってます。

そうですね。
看護学校に行くことになったきっかけが――小学生の時から、私は皆勤賞を狙うぐらい元気な子だったんですよ。

滅多に体調を崩さない子だったんですが、たまに風邪をひいて珍しく熱を出すと、母が看護師だったので、働いていた病院に私を連れていったんですよね。

そうすると、まわりの大人がみんな「誰々さんの娘さん、かわいい」なんて言ってくれてすごく可愛がってくれて。

「病院って楽しいところなんだ」って思ってしまってたんです(笑)。たぶん、それが直接的なきっかけで看護師を目指すようになりました。

小学校の卒業アルバムには、「私は看護師になる」って堂々と書いてましたね。

―早い段階で夢を決められたんですね。

決めてましたね。小学校何年生の頃っていう自覚はあまりないんですが。

―その思いを持って、進学をされたんですか?

そうですね。
高校も「看護師になるにはどこの高校行けばいい?」って聞いて、「とりあえず高校は普通科に行きなさい」と言われたので、普通科の高校に進んで。

ただ、私は――やっぱり看護学校に行きたかったんです。

親からは「大学を出た方がいろいろと有利だから」とも言われ、大学も一応受験はしたんですが――見事、私の希望通り、看護学校に進学できました(笑)。

学校に入ってからです、「看護師ってこんなに大変なのか」って気づいたのは。

1年生か、2年生の頃、もうあとに引く道はない時でした(笑)。

―どういったところが大変だったんでしょう。

記録物が多かったんですね。
事前の課題も多かったし、実際に患者さんおひとりにつかせてもらって実習をする中で看護過程というものを展開していかないといけないんです。

アセスメントを通して「病気からくる問題はこういうこと」「生活背景からくる問題はこういうこと」といった点を“看護問題”としてあげていくんですね。

そこから、図に起こして関連図を書いたり、実際に計画を立てて実施していったり――日々の患者さんとのやり取りの実習記録もものすごい量がありました。

それが毎回毎回、全部の実習についてくるんです。
実習そのものも緊張しながらやってましたし、家に帰ってくると、もうへとへとでした。

―学校で学んだあと、看護師として働き始めてからはいかがでしたか?

看護学校を卒業して、そのままその学校に隣接する病院に就職をしました。

その頃は母もその病院で働いていたので、母が定年するまでの10年間一緒に働きました。

就職してみて……たとえば勤務体系に関しても、当時は3交代でした。

「日勤」「深夜」と言って、夕方の18時、19時に帰ってきて、また夜中の23時頃に出て行って深夜勤務する――今じゃちょっとありえないような体系があったんです。

でもそれも看護師として働く母を見ていたので、「働いて初めて知って驚いた」っていうこともなかったかな。

そうそう――「夜の病院って怖い」とずっと思ってましたね。

こどもの頃から、怖い映画を見ると、夜、家の階段をひとりでのぼれないぐらい怖がりだったので。

「夜勤なんか絶対無理だ」って思ってました。
でも、初めて仕事に就いて思ったのは、「夜勤って怖がる暇なんかないんだ」「全然怖くないじゃないか、忙しすぎる!」って(笑)。

患者のみなさんも寝ないし(笑)。感じたのはそこぐらいですね。

仁淀川で、S U Pをした時。

CHAPTER3

結婚と妊娠。病院から、施設へ。

「看護師と介護職の間には埋まらない溝はある」なんて思ってたけれど――転職した入所施設は、立場は関係なく利用者さんに対してきちんと向き合ってる職場だった

その後、病院で働いてちょうど10年のタイミングで、結婚と妊娠が重なって。

妊娠を機に一旦、退職をしました。
それでも――出産して、娘が8ヶ月ぐらいの時かな。

すでに社会との繋がりがほしくなって、パートに出始めて。
それが整形外科のクリニックでした。

そこは託児所がついてたんですよね。
そこで2年半ほど働いて、重症心身障害児者施設のある社会福祉法人の、入所施設と付属する病院の外来で看護師として働いていました。

そこが3年ぐらいかな。

―そちらで働くきっかけは、どんなところにあったんでしょう。

そうですね。
病院で働いていた時に小児麻痺を持つ方が入院されてきたことがあったんです。

大きな総合病院だったんですが、当時は小児麻痺を持っておられる方が入院された時にはご家族に付き添いをお願いしてたんですね。

でも、そのことに私自身がすごく違和感を持った覚えがあって――。
「なんで看護師が十分な配置されてるのに、小児麻痺を持つ人は家族の付き添いをしてもらわないとダメなのかな?」って。

そこから障害者看護に興味を持って。
それと、その施設が通勤しやすいところにあったのもあって、転職を決めました。

―どんな施設・病院だったんですか?

重度障害児者の方の施設なので、児童も、お年を召した方もいらっしゃるんですよ。

できたのが昭和31年で、その頃にこどもだった方が大きくなって、入院や入所をされていました。

重症心身障害児者の入所施設を中心に、乳児院があったり、18歳未満の肢体不自由のお子さんを対象にした療育園があったり、高齢者向けのグループホームがあとからできたり――いろんな方がいらっしゃいましたね。

―病院から、施設へ移られて、見え方が変わってきた部分はありましたか。

そうですね。

やっぱり専門とする分野が違うこと――同じ“看護師”といえど、急性期医療に特化している病院・看護師と、慢性疾患や障害をお持ちの方に対する障害者看護っていうのは、そもそも場所の目的や性質が違うんだな、とは思いました。

その施設では家族の付き添いはしてなかったですしね。
障害特性を知っている人たちがまわりにいて、ちゃんとケアができていたので。

一方で私がいた病院は、「急性期の疾病を治す」という点に特化していたので、日常のケアまでは手が回らない。

そういう違いがあったんだな、っていうことは実際に働いてみて納得しましたね。

それから――時間の流れ方が違いました。
やっぱり急性期医療に特化した病院は、入院する方と退院する方の出入りが多くありましたし、特有の慌ただしさもあって。

でも、重症心身障害児者施設は、時間の流れがすごくゆったりしていたんです。そこがみなさんの生活の場なので。

本当に必要な看護処置や医療処置はするんですが、午後からはレクリエーションの時間があったり、みんなで薄暗い部屋でリラックスできるように、スヌーズレンという活動(光や音、香りなどの感覚刺激を用いた心地よい空間や活動)をしたり。

その時間の流れにすごく癒されてました、私は。

―名越さんがいらした施設だと、看護と介護の人たちが一緒に関わっていくこともあるのかな、と思いました。そのあたりの連携はいかがでしたか?

そうですね。
施設には、看護師の他に、支援課の方、保育士さん、介護福祉士さん、生活支援員もいらして。

みなさんが何の資格を持っていたのかはちょっとわからないんですが、医療行為はできないけど、日常のケアをする人たちはたくさんいらっしゃって、連携がしっかり取れていました。

私は勝手に、「看護師と介護職の間には、埋まらない溝はある」なんて思ってたんですが、そういう感じはなかったですね。

利用者さん、入所者さんに対して、ひとりひとりがきちんと向き合ってる――そんな感じの職場でした。

水族館の展望台から、瀬戸内海と。

CHAPTER4

「普通に仕事に行って、普通にお給料をもらいたいだけなのに。なんでこんなに修行みたいなんだろう」――子育てと仕事のあいだで

「マネジメント能力を身につけたら、仕事と子育てとの両立の悩みの解決の糸口になるかもしれない」――キャリアアップを目指して

その施設で働いていた時――仕事と子育ての両立で行き詰まった時期があったんです。

ちょうど上の子が小学校に上がる前ぐらいのタイミングでした。

主人の両親と同居していたんですが、義理の母に病気が見つかって治療に専念する――となった時に、今まで義理の母が負担してくれていた家事を、全部、私がやることになったんです。

その時に「正社員として働くのはとても無理だな」「パートで働けないかな」といった話を主人と相談していたんですね。

その後、長女が小学校に上がった年の5月に母娘でコロナに感染して、半月近く自宅療養をしていた時期がありました。

その療養明けから、長女の行き渋りが始まりました。

娘をなだめながら、半日だけ学校に行って給食が終わったら私が迎えに行く――当初はそんなふうにしていたんですが、そうすると私が毎日仕事を早退しないといけなくて、職場に迷惑をかけていて。

「一旦、退職を」っていう形を取らせてもらって、看護師を辞めたんです。

「もう二度と看護師にはなるまい」――その時はそんな思いでした。

でも、そうは言っても収入を得ないといけないわけで、そのあと、友達からエステの仕事を教えてもらって、個人事業をしていたんです。

それが2022年から25年の、3年間ぐらいでした。

その間に、当時小学校1年生だった娘も3年生の後半になって、安定して毎日学校にも行けるようになって。

次女は――施設で働いていた時に二人目を出産したんですが――その時、保育園の4歳児クラスだったかな。

「だいぶしっかりしてきたな」っていうこともあって、あらためて自分のキャリアアップについて考えるようになったんですね。

それまでずっと――出産してから子育てとの両立に悩んでいたのは、悩んでいたんです。

「ただ普通に正社員として働きたいだけなのに、こどもを預ける場所がない」とか――。

こどもを預けられたとしても、「熱が出ました」となった時に呼び出されるのは毎回、私。

「旦那さんと同じように毎日仕事に行って、普通にお給料をもらいたいだけなのに、なんでこんなに毎日が修行みたいなんだろう」ってすごく思ってた。

当時はコロナ禍の状況もあって、在宅勤務がだいぶ増えてきていた時期でした。

ただ、看護師って現場の仕事だから、なかなか在宅勤務ができないのはわかってはいたんです。
それで他職種も含めて、在宅勤務ができる仕事を探していたんですね。

そうするとやっぱりマネジメントの職種になってくる。

看護師でも、「医療安全のマネジメント部門/100パーセント在宅勤務可能」みたいな募集もあったんですよね。

それで、「そっか、マネジメント能力を身につけたら、仕事と子育てとの両立の悩みの解決の糸口になるかもしれない」と思うようになって、「キャリアアップを目指してみよう」って。

転職活動を始めていた時に出会ったのが土屋の定期巡回サービスの管理者候補の求人でした。

エステの個人事業をしていた時。

CHAPTER5

土屋へ、そして一度は離れた看護師の仕事へふたたび

「もう二度と看護師になるまい」――辞めたはずの看護の仕事が、このタイミングでまた話がきたことの意味をおもう

―土屋に入られてからのところを伺えたらな、と思います。定期巡回からスタートされて、すぐに訪問看護に異動をされてると伺いました。

定期巡回サービスに入社したのは2025年の3月1日なんですが、訪問看護の話を聞いたのが入社して5日ぐらいで(笑)。

「訪問看護を立ち上げてもらえないか」って声をかけていただいたんですね。

―名越さん自身が立ち上げに関わられたんですね。

そうなんです、「管理者として異動してくれないか」と言っていただいて――。

ただ、その時は私はすでに看護師は辞めたつもりでいたので、1度はお断りをしたんです。

でも、新川勝美(しんかわかつみ/取締役 兼 土屋ケアサービスカンパニー医療看護部長)さんに、「キャリアアップを目指して入社をしてきたのに、どうして経験のある看護の分野でそれを目指さないの?」と聞かれて、「たしかに」と――。

でも、やっぱりお話をいただいた時はすごく悩みました……すみません(涙)。

振り返ってみると、自分が看護師を辞める前の状態ってすごく良くなかったんです。

向上心のかけらもなかったし、「出勤して給料がもらえていればそれでいい」って思ってたところも正直、ありました。

「そんな私がまた看護師をやっていいのか」っていう思いがいちばんにあって――。

でも、そうやって考えた時に、「辞めたはずの看護の仕事が、このタイミングでまた話がきたことは、何か意味があるんじゃないか」って。

今までの自分を振り返ってみると、本当は看護が嫌になったんじゃなくって、子育てをしながらだと自分が納得できるまで仕事ができない。

そこが悔しくって、でもどうにもできなくて、そういう自分や環境から目を背けてただけだったんだ――っていうことにその時、気づけたんです。

幸い、主人に相談したら「やってみれば」「できることはするから」って言ってくれた。

だったら「自分が今できる限りの力で、もう一度取り組んでみようかな」って思えたので、引き受けることにしたんです。

―在宅医療、訪問看護に携わるようになって見えてきた部分や、病院での医療との違いを感じるところはありますか?

そうですね。いちばんは「病院での看護と在宅で行なう看護は全く別物なんだな」ということでした。

病院で働いていた時からずっと――身体拘束、抑制帯を使うことへの違和感をずっと持っていたんです。

ただ、たとえば「人工呼吸器をつけてる人が呼吸器をはずしてしまう」といった命のリスクがある中で、せざるを得なくて抑制帯を使ってはいたんですが――それがあたり前にまかり通る状況に違和感をずっと持っていました。

でも、定期巡回や在宅介護、在宅医療、在宅福祉の仕事をはじめて、いろいろ勉強しているうちに、その違和感の正体に気づいたんです。

病院というのは、患者さんの側も「自分は患者っていう役割を果たします」って納得して入ってきてくださるところなんですよね。

だから「医療が優先」が前提なんです。

でも、在宅介護ではクライアントは「病気や疾患を持った人」っていう面だけじゃなく、それまでの社会的な背景も、これまで歩んできた人生も、全部を持ち合わせたまま人として関わる――「それが在宅の現場なんだ」って本に書いてあって、すごく腑に落ちたんですよ。

「あぁ、そっか。今まで病院に来てくれてた人は、社会での役割を置いて、『私は患者になりますよ。だから先生、病気を治してください』って言って病院に入ってきてくれてただけだったんだ」って。

でも、在宅医療になった時――その人が “その人らしく” ご自宅で過ごすことを支えていくためには、ご本人の意思がいちばんに尊重されないといけない。

じゃないと意味がない。
ご本人とご家族が暮らしてきた家で、安心して過ごせること。

そのことを今、すごく強く感じてます。

ファジアーノ岡山F Cの応援に、家族と。

CHAPTER6

「あなたの声が聞こえた時から、しんどかった呼吸がスッと楽になったよ」

「寄り添う」こと。それは見せかけの寄り添いじゃなくて、ご本人が心から「安心する」「気持ちが少し楽になる」って感じてもらえること。

―これまで出会ってきた方の中で、「この方との出会いが今の自分をつくってくれたな」とか、今も心に残ってるやり取りがあったら伺ってもいいですか。

ずっと忘れられない患者さんっていうのは何人かいらっしゃるんです。

その中で、私の看護の土台となるものをつくった時期は、間違いなく新卒で入った1年間でした。

そこで出会った患者さんで、今でも覚えてる人は――勤務が交代する度に、毎回、「今日の担当は名越です」って言って大部屋にいらっしゃる方たちに順番に挨拶して回るんです。

最後、その人に「◯◯さん、今日の担当、名越に代わりました。よろしくお願いします」って挨拶すると、「名越さんが部屋に入ってきてすぐ、声が聞こえた時から、しんどかった呼吸がスッと楽になったよ」って言ってくれた方がいらして。

当時、私は呼吸器内科に配属されていたんです。

呼吸のしんどさや呼吸困難感っていうのは精神的な面が大きく影響していて、それで症状が良くなったり悪化したりっていうこともあるので、その言葉はすごく嬉しかった。

自分がやってる看護が患者さんに対して安心を与えてる実感ができたことが嬉しくて、そう言っていただいたことは今でも覚えてます。

肺がんの末期の方で、治療を繰り返して、何回も入院されてる患者さんがいらっしゃいました。

病状が進行していく中で、主治医の先生から「今回は退院することはできないかもしれない」っていうお話を聞いて――。

ずっと継続して受け持たせていただいた患者さんだったので、インフォームドコンセントに私も同席していたんですが、その話を聞きながら泣いてしまったんです。

あとで先生に「一緒になって泣いてしまってすみません」って話をしたら、主治医の先生が「そういうあなただから、一緒に話を聞いてもらってよかったんだと思うよ」っていう言葉をいただいたのも自分の看護を肯定された気がして、すごく嬉しかったです。

私が大切にしてる看護観は――「寄り添う」っていうことがあるんです。

でもそれってただ見せかけの寄り添いじゃなくって、ただ話を聞いてるだけじゃなくて、その患者さんご本人が心から「安心する」「気持ちが少し楽になる」って感じてもらえること。

「あなただから聞いてもらってよかった」って――。
結果を伴ってないと意味がないって思うんです。

最初の1年間は、そういう看護観が培われた時期だったな、と思います。

―すみません、私まで(涙)。2人して(笑)。

涙出ちゃうんですよね(涙)。
新卒の時期って本当にきつかったんですよ。

それで言えば、今の私がいるのは同期のおかげと言っても過言ではないんです。

みんな同じ看護学校で、そのまま同じ病院に就職したので同じ部署に4人いたんですよね、同級生が。

最初の1年間は、4人で励まし合いながらやってきました。
今でも同窓会を開いてるくらい。

20年経っても、会いたくなる友達ばっかりです。

看護学校の同級生たちと。

CHAPTER7

大きな苦しみの中にいる時も、ひとりじゃない

「自分に何かできることないのかな」って無力感を感じることもあるけれど、でも、ただ、そばにいるだけで。

―「人に寄り添う」ことを大事にされてると仰っていました。もう少し詳しく伺えたらと思います。名越さんにとって、「寄り添う」というのは具体的にはどんなことなんでしょうか。

そうですね。

中には、寄り添って欲しくない方もいらっしゃるっていうのは重々承知はしているんですが――「大きな苦しみの中にいる時も、ひとりじゃない」っていうことは大切にしてます。

私の看護の原点は――最初に配属された呼吸器内科なんです。

たとえば「呼吸がしんどい」と言ってナースコールをしてきた人には、何もできることはなくても、そばにいてあげたい。

背中をさすったり、手をさすりながら話を聞いてあげたい。

それから癌の末期の患者さんがいらして、病院に付き添っておられるご家族がいらしたら、やっぱり私にできることはないんだけれど、ご家族の話を伺ったり、ご家族への声かけをしたり。

「意識はなくなっても、耳は最後まで聞こえてるので、しっかり話しかけてあげてくださいね」とか――。

患者さんが亡くなったあとのエンジェルケアは、極力、ご家族と一緒にするようにもしていました。

患者さんがしんどい思いをされている時に、主治医の先生のように直接薬を投与したり、助けてあげることは私にはできない。

「自分に何かできることないのかな」って無力感を感じることもあるんですが、でも、そうやって、ただそばにいるだけで――。

そういう悲しみや苦しみの先に、ご家族が亡くなってしまったことは本当に悲しいことなんだけれど、でも「ここで最期を迎えられてよかった」なんて言っていただけた時は、「そこにいた甲斐があったな」と思います。

―今は訪問看護として、現場と、マネジメントにも関わってらっしゃいます。どんなところに名越さんは喜びとか、やりがいを感じていますか。

基本的に、「人が好き」っていうところが私にはあるんです。

なので、訪問で伺って利用者さんと関わること自体、好きなんです。

自分が行なってる看護の結果が目に見えてわかるので。

でも、「マネジメントに興味が出たのはなんでだろう」って考えてみると、「仕事と子育てを両立したかった」だけじゃなくて、「スタッフが成長している姿を見たい」という思いもあったんですよね。

これまで、なかなかそんな役職に就くような経験はなかったんですが、それでも大きな病院に10年もいれば、毎年毎年、一緒に働くスタッフは増えていきます。

そこではチームリーダーをしていたので、新人さんだった看護師さんたちが、3年、4年経って、頼もしくなっていく姿を見ることはすごく嬉しかったし、後輩指導そのものもすごく楽しかった。

管理者になってからは自分のそういう部分を発揮できるのかな、って。

そこはしっかり楽しみながらやっていきたいな、と思ってますね。

娘たち。水族館でマナティーを見てます

CHAPTER8

今。看護師をあきらめなくて、よかった

「私は看護の仕事が好きなんです」――そんな思いを持っている人がいた時に、精神的にも支えていけるような管理者になりたい

―お休みの日はいかがですか?どんなふうに過ごしてるんでしょうか。

今は意識的に土日を休んで、平日に仕事するようにしてます。

休日はほとんどこどもと、家族と過ごすばっかりです。
たまに平日にお休みが取れると、買い物に行ってブラブラしたり。

マッサージに行ったりするのも楽しみですね。

なかなか今、趣味らしい趣味の活動はできてはないんですが――実は結婚する前はロードバイクに乗るのが趣味だったんですよ。

―じゃあ、バイクであちこち遠くまで行かれたり?

40キロ50キロぐらいだったら、1日で走ってました。
隣の総社市のパン屋さんまで行ったり、海沿いの道を通って、玉野市まで行ったり。

ロードバイクを通じて主人とも知り合ってるので、結婚直前ぐらいの時期はよく乗っていました。

きっと体を動かすのが好きなんですね。

―最後に、これからのところを伺っていきたいなと思います。

そうですね。

「今、自分たちにできることって何なのか」――私たちも探りながらやってるところが正直なところで、「将来、こんなことができたらいいな」っていうところまでは具体的には描けていないんです。

でも――「看護師に来てほしい」って思ってる家で暮らす人のところにはすべて行きたい。

小児の方でも「施設に入った方がいい」ってご家族が思ってるようなおじいちゃん、おばあちゃんでも。

「家で過ごしたいんだ」「最期は家で死にたいんだ」っていう人がいたら駆けつける。

そんな訪問看護ステーションになりたいなっていう、ざっくりした夢はあります。

あと、そういう夢を叶えるために、「ちょっとずつ大規模ステーションに成長していきたい」とも思ってます。

というのは、私自身が看護師の仕事と、プライベートとの両立にずっと悩んできた過去があるので。

妊娠、出産、子育て、介護――女性がライフステージの変化で仕事を諦めることなく、「普通に働いて、普通に給料を得たい」――そういう思いを支えていけるステーションにしたいんですよね。

公には子育て支援はどんどん進んでいますが、制度面だけを整えても、それを実行するにはなかなか難しいところがある、と感じていました。

「仕事に没頭したい」と思ったら、家族や同僚、周りにもそれを伝える術も知らないと叶えられない――そう感じたんですよね。

それは、自分の過去を振り返ってみて思うんです。

もちろん、いろんなバランスで両立されている方がいるので一概には言えないのですが、でも「そこそこ両立できていたらいいわ」って本当の自分の思いを諦めてしまったら、そこで夢は止まってしまう。

でも、「私は看護の仕事が好きなんです」「正社員で働いて、ずっと利用者さんと関わっていきたい」――そんな思いを持っている人がいた時に、精神的にも支えていけるような管理者になりたい。

そういう思いはありますね。

―看護師の仕事は、名越さんにとって――もちろん自分で選んだ部分もあるし、気づいたら続いてたっていう部分もあると思うのですが――どんな理由だったとしても、「今、続いている」っていう事実が私はすごく大事だと思うんです。振り返った時に、名越さんがこの仕事をずっと続けられてきたその理由を、最後にお聞きしたいです。

私は「看護師を辞めたい」と思ったことは――娘のことがあった1回だけじゃないんですね。

新卒の頃から、「いつ辞めようか」って思うことが何度もありました。

それこそ「自分はキャリアアップとは一生無縁だ」なんて、最初は思ってたぐらいだったんです。

たとえば、ちょっとした気の緩みや、自分が「よかれ」と思ってしたことが患者さんの命につながってしまう――そういうインシデントを私はこれまで何度も経験しています。

新卒で入ったばかりの頃は、「患者さんを傷つけてしまう前に、私は看護師を辞めた方がいいんじゃないか」。

そんなふうに思って、抑うつ状態になって、お薬が出るぐらいまで落ち込んだことがありました。

退職も表立っては「妊娠を理由に辞めました」と言っているんですが、実際は看護師になって8年目くらいですごく落ち込んで、休職をした時期があって。

その後、復帰をした時に丁寧にサポートしてくれてた師長さんが異動になる、と聞いたのも理由にあって――。

でも……「じゃあ、なんで私は看護師を続けてるんだろう」って、今、改めて考えると、そのタイミング、タイミングで、その時所属していた直属の上司や師長さんがいつも支えてくれてた。

だから――「私は出会いに恵まれてたんだな」って。

今、私が看護師を辞めずにいられているのは――新川さんもそうなんですよ。

「もう二度と看護師になるまい」って決意したあとに、ものすごい力で(笑)、グイッと私を看護師の方に引っ張り戻してくれた。

それは、間違いなく新川さんだと思ってるので。

本当に今は感謝してます。
「看護師を諦めなくてよかったな」って。

だから私は何にもしてないんです。
自分の力だけだったらとっくに看護師を辞めてただろうな、と思うので。

この春、次女が卒園しました

TOP
TOP