-では、お仕事を始めて以降のことをお聞きできればと思います。土屋に入るまではどんなお仕事を経験されましたか。
大学卒業後は栃木へ戻り、地元に本社を置くドラッグストアチェーンに入社しました。
接客がしたくて店舗勤務を希望していたのですが、3か月で本社勤務になり、店舗開発部というお店をつくる部門で3年間事務をしていました。
そこでは、接客も事務も学ばせてもらったんですが、「やっぱり自分にはずっと座っている仕事は合わないな」と思って次の仕事を探していたところに、3.11東日本大震災が起きたんですね。
栃木も、福島のすぐ南に位置するので、結構揺れて大きい被害がありました。
計画停電と、ガソリンがないのと、いろんなことが起きて大変な時期に看護師をしている友人が人手が足りずに困っていて、「ちょっとバイトでもいいから病院を手伝ってほしい」と声を掛けられました。
最初は「ボランティアでも行くよ」と言っていたんですが、結果的には資格がなくても働ける看護助手として就職することになりました。
私にとっては、これが介護の道への第一歩でしたね。
-看護助手のお仕事はどんなことをされていましたか。
シーツ交換からおむつ交換、食事の配膳や介助、入浴介助、車椅子での移動介助など、全般的な身の回りのお世話を経験しました。
病院だったので検査用検体の発送業務なども含めて、点滴や採血などの医療行為以外のことは、かなりいろんなことを教えてもらいました。
-そうなんですね。その病院もお住まいに近い地域だったんですか。
お隣の茨城県でした。
その病院を運営していた医療グループは、当時トップの方がALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症しながらも経営を続けていて、「24時間対応、365日年中無休、断らない医療」を理念に掲げていました。
私が初めて働いたケアの現場にも、土屋が目指す姿とかなり重なるものがあったんですね。
だから、土屋に入って代表取締役の高浜敏之さんのスピーチを聞いた時にも強くご縁を感じました。
-そうだったんですね。
そこでは、しばらく仲間の看護助手と一緒に楽しく働いたんですが、次のステップアップをしたいと思って転職しました。
どうしても組織の構造として介護職は看護師の下で働く立場で、どんなに頑張ってもそれ以上にはなれないという現実に直面して、「私は何十年もこのままでいいのかな」と思ったんですよね。
そんな頃に知り合いの先輩に「起業するから手伝ってほしい」と言われて、そこで一度介護を離れました。
次の仕事は、企業向けに健康診断を実施する会社でした。
専用の健診車で企業に出向いて、社員さんに健康診断をするんです。
私は会場運営と、営業活動をして回っていました。
-その後、土屋に入社されたきっかけはどんなものだったんでしょう。
老人保健施設で働いた経験が大きなきっかけになったと思います。
健康診断の会社の次に、「老人保健施設」という高齢者の介護施設に勤めました。
「老健」とも呼ぶんですが、病院から退院した直後の高齢者の方が自宅に戻るために、最大6ヶ月間を上限に、リハビリなどをしながら過ごす入所施設ですね。
当時は、自宅に戻るための支援をする仕事だったので、いつも利用者さんから「早く家に帰りたい」という言葉を聞いていましたし、自分でも利用者さんに向けて「できるだけ早く家に帰ろうね」という話をよくしていました。
それだけ「家で過ごせること」を、すごく大事なこととして感じていました。
「その人が自然体で、居たい場所に居られるって魅力的なことだな」と。
ただ、その時は転職までは考えていませんでした。
ある日、自宅でインスタグラムを見ていたら、土屋の広告が流れてきたんです。
第一印象が明るく軽やかで「介護っぽくないな」と思って見ているうちに、「重度訪問介護」という言葉を初めて知りました。
内容を読んでみると、自宅で10時間以上の支援に入るサービスだと知って、衝撃を受けました。
それまで私が知っていた訪問介護は、1時間や1時間半程度が中心だったので、「ずっと家にいて支えられるサービス」があることに驚いたんですね。
施設では、利用者さんから「もう少しゆっくりお風呂に入りたい」「今日は少し夜更かししたい」という希望があっても、どうしても集団生活のための時間割になっているのでお応えできず、部屋へ戻っていただくこともありました。
内心は「もう少しその人のペースに合わせてあげられたらな」と感じることもあったので、その土屋の広告を見て、「お家でその人らしい暮らしを支えられる仕事って、すごくいいな」と思ったんです。
ただ、その時はまだ栃木事業所がなくて、少しがっかりしました。
でもその1〜2か月後に「栃木事業所を開設します」という情報が出てきたんです。
「これは挑戦するしかない」と思い、応募しました。
-入社当時は、どんなことを考えていましたか。
「家でゆったり過ごせるお手伝いがしたい」本当にシンプルにその思いだけでした。
自分にとっても未知の世界だったので、実際どんな仕事なのかは入ってみないと分からないと思っていましたが、「その人がその人らしく過ごせるお手伝いができるなんて最高じゃないか」という気持ちで入社しました。
ところが、ちょっとびっくりしたんですが、私が入社した2022年11月は、栃木事業所が9月に開設されたばかりで、クライアントさんがまだ一人もいなかったんです。
なので、まずは当時の管理者と一緒に営業活動をする日々。
「早く支援に入りたい」「どんな支援なんだろう」と思いながら営業活動をしていたことを覚えています。
-なるほど。本当にこの場所をゼロからつくってこられたということですね。では、実際に支援先ができて重度訪問介護の現場で働き始めた頃、印象に残っていることはありますか。
自分でもちょっと驚いたんですが、「私、この仕事向いているな」と思いました。
すごくすんなり馴染むことができたんですね。
当時、栃木県内にはまだ支援先がなかったので、群馬県や茨城県、埼玉県まで県をまたいで支援に行っていました。
どこへ行っても、本当に楽しかった。そもそも望んだ支援サービスであったとしても、自宅に他人が入るというのは、クライアントさんやそのご家族にとって簡単なことではないと思うんです。
やっぱり、知らない人が長時間家にいることには、緊張感や抵抗感があって当然ですよね。
それでも、皆さん本当に明るく、温かく迎え入れてくださる方ばかりでした。
私たちはサービスを提供する側、クライアントさんは支援を受ける側という立場ではありますが、人と人との温かさを強く感じました。
そういう時間は、施設にはないものでしたね。
それが、今この仕事をできていて良かったと思える理由でもあります。
-そうなんですね。重度訪問介護ならではの良さというと、他にはどんなものでしょう。
「その人のペースで暮らせること」だと思いますね。
誰のペースで生活するか、が施設とは一番違うんです。
施設はどうしてもあらかじめ決まった時間割が基準で、「トイレの時間」「リハビリの時間」「おやつの時間」「夜9時には就寝」といった流れがあります。
でも自宅では、その人のペースが中心になります。
「今日は少し夜更かししたい」そんな日があっても、「いいですよ」と、その人の希望に合わせられる。
こちらも長時間一緒に過ごすからこそ、臨機応変に対応できるんです。
そういう世界観を保てることが、本当に良いところだと思っています。
-ご自身が現場に入られていて、印象に残っているクライアントさんとのエピソードはありますか。
そうですね。
私が他県の事業所へ応援に行っていた時に出会ったクライアントさんのお話です。
ALSの50代の女性の方でした。
ALSは、筋肉が少しずつ動かなくなっていく、呼吸器をつけないと命をつないでいくことが難しい病気です。
でも、その方は呼吸器をつけないという選択をされた方でした。余命宣告も受けていましたが、ご主人や息子さんに「弱っていく姿は見せたくない」と、自身のご実家へ戻られていました。
一般的には、最期の時まで家族と一緒にいたいという方が多いと思うんです。
でもその方は、「夫や息子の生活の重荷にはなりたくない」とおっしゃっていました。
私はその方が亡くなるまで支援に入り、会話ができる最後まで、いろんなお話をしながら一緒に過ごさせていただきました。
私はこの仕事に入ったばかりの頃は、重度訪問介護は「生きていくためのサービス」だと思っていたんです。
それは、命を延ばしていくためという意味です。
でも、その方と出会って、考えが大きく変わりました。
その方は呼吸器はつけませんでしたが、自ら進んで死に向かっていったわけではなく、最期の瞬間まで精いっぱい生きておられました。
最期まで自分の生き方をご自身で選ばれたんです。
その選んだ生き方を支えるために私たち支援者がいる。
重度訪問介護は「生き方に寄り添うサービス」でもあるんだと、その方に教えていただきました。
その方から学んだ「命の尊さ」と「毎日があることは当たり前じゃない」ということは、それ以降の私に大きく影響を与えています。
ほかのクライアントさんにも、それまでよりもさらに優しく丁寧に接することができるようになりましたし、「自分らしく、より楽しく生きましょう」という思いで支援ができるようになりました。
-すごく大切なお話ですね。強い意思と、周囲への思いやりを持ち続けられた立派な方に出会った経験が、今の福田さんの背中を押してくれているように感じました。