介護事業部

介護事業部 ホームケア土屋

福田真規

栃木 管理者/コーディネーター

重度訪問介護を通して知った「その人が選んだ生き方」に寄り添う福祉

 《interview 2026.07.17》

重度訪問介護をおこなうホームケア土屋栃木で、管理者兼コーディネーターとして事業所運営を担いながら、現場にも立ち続けている福田真規(ふくだまき)。
自然豊かな栃木で育ち、たくさんの人との関わりのなかでバレーボールに打ち込んだ子ども時代が、「人が好き」という彼女の原点だと語ります。
介護の現場で経験を重ねるなかで、「その人らしい暮らしを支えたい」という思いを強めていった彼女を、更に後押ししたのは、自分の生き方を貫く一人のクライアントとの出会いでした。
人生に寄り添う支援への思い、仲間とともに未来をつくる仕事の魅力について聞きました。

CHAPTER1

困っている人は見過ごせない性格。休日は自由が何より心地いい

管理者として奔走する日々も、ここは自分の頑張りどころ。

-ホームケア土屋栃木はどちらにあるんでしょうか。お住まいもお近くですか。

この事業所は小山(おやま)市というところにあります。
私が住んでいるのはその隣の栃木市というところで、生まれも育ちも栃木市です。

-入社されたのはいつ頃でしょうか。

土屋には2022年11月に入社しました。
今だいたい3年半経ったところです。

-そうなんですね。普段はどんなお仕事をされていますか。

今は管理者兼コーディネーターという形で、事業所運営と、支援先のご家族とのやり取り、アテンダントとのやり取りなどの管理業務をしています。

バックヤード的な業務全般を担っている感じです。
社外に対しても社内に対しても、自分が情報を整理して状況を動かしていく立場なので、仕事内容は結構多岐に渡っていますね。

-人数で言うと、事業所の規模はどのくらいなんですか。

クライアントは10名、アテンダントは15名ほど所属しています。その10名の方のご自宅に、アテンダント15名でローテーションで訪問しているイメージですね。

業務の特性上、アテンダントは直行直帰なので事業所に皆が集まることはなかなかないので、電話やZoomが主な連絡手段ですね。

私がアテンダントと顔を見て話したいなと思ったら、私がそのアテンダントの訪問先へ行って、お話ししています。

-それは飛び回るような、物理的にもなかなか過酷な立場ですね。

そうですね。
でも、まだ人数も少ないですし、ここは自分の頑張りどころかなと思っています。

-訪問先は小山市が多いですか。

クライアントさんも、働いているアテンダントも半分以上が宇都宮市在住ですね。

宇都宮市は、県庁所在地で人口も多いですし、行政の福祉サービスも充実していて、「お手伝いできる人はいませんか」という声が多いです。

小山市と宇都宮市はそんなに距離が近いわけではないんですが、ニーズがあるなら、なるべく行けるところはお応えしています。

栃木県は、私が入社した頃は重度訪問介護の事業所は多くなかったのですが、今は少しずつ増えてきていますね。
ただ、他県や都市部と比べるとまだ少ないのかなと感じています。

-そうなんですね。お忙しい日々だと思いますが、ご自身の習慣やリフレッシュ方法はありますか。

猫と一緒に暮らしているので、毎日その子から癒やしをもらっていますね。

あと、リフレッシュ方法は、自分の時間を存分に自由に過ごすこと。

休みの日は、のんびり家に籠ることも好きですし、外に出ることも好きなので、その時に疲れていたら休むし、遊びたかったら遊ぶし、その日の気分に従って自由に過ごしています。

-猫ちゃんはどんな子なんですか。

これを言うと「大丈夫?」と言われるんですけど、実は私、猫アレルギーなんですよ。

-それはびっくり!

でも、うちで飼っている14歳の猫は、ツンデレでいうところの「ツン」しかない子なんです。

「デレ」がなくて (笑)。もとは野良だったところを拾った子なので、「ご飯と水さえあればいいよ」という感じの猫なんですね。

だから、猫には猫の、私には私のリズムがあるのをお互い尊重しながら暮らしていて、うまくいっているんです。

ただ見ているだけでも癒やしになります。私の相棒です。

-相棒、素敵な関係ですね。お出かけでお気に入りの場所はありますか。

海外旅行が好きですね。
コロナ禍前は2〜3か月に1回はどこかに行っていました。

あちこち行って楽しかったですね。

最近の過ごし方でいうと、特別なお気に入りの場所というのはなくて、その日の気分に従うことが何より心地いいなと思っていますね。

「今日はここへ行きたいな」「ショッピングモールへ行きたいな」「海を見に行こうかな」という感じで、その日の気持ちを大事に過ごしています。

-いいですね。ご自身の性格で好きなところや、昔から変わらないところはどんなところでしょう。

好きなところは、「困っている人を見るとついすぐ助けたくなってしまうところ」ですね。

先日もコインパーキングで、お札が使えないところに小銭を持っていない方がいて、近くにコンビニも自販機もなくて「どうしよう、どうしよう」と困っていたので、100円玉を差し上げるということがあったり、道端で座り込んでいるおばあちゃんがいると、「よかったら乗っていってください」って車で送ることもあります。

お節介でもあると思うんですけど、そんな場面を見過ごせないのは、自分のいいところかなと思います。

昔から変わらないのは、スポーツをやってきたので、「負けず嫌い」なところですね。

癒しをくれる14年来の相棒「みん」

CHAPTER2

家族で目指した大きな夢ーいつでもそばにはバレーボール

自然が好き、動物が好き、人が好き。東京へ出たこと、栃木へ戻ったことが人生の転機に。

-これまでのお話を少し伺えればと思います。子ども時代は、どんな風景のなかで過ごされましたか。

すごく田舎で育ちました。
家の裏に、大平山という山があって、ぶどう農園が軒を連ねる「ぶどう団地」という場所もあって、本当に自然が豊かな場所で育ちました。

地元は、今も毎年ぶどう狩りのシーズンにはバスで来た観光客で賑わっていますね。
大平山はハイキングコースでもあって、桜もきれいなところです。

-どんなお子さんだったんでしょう。

外で遊ぶのが大好きでしたね。
当時はテレビゲーム全盛期だったんですが、うちはゲームを一切買わない方針の家だったので、とにかく毎日自然の中で遊んでいました。

家の周りには、田んぼや畑もたくさんあって、おたまじゃくしを捕ったり、ザリガニを捕ったり、レンゲ畑で遊んだり。

ぶどう団地にはぶどう棚がずっと続いている場所があって、本当は入っちゃいけなかったと思うんですが、当時はぶどうの木の下を走り回っていましたね。

おおらかな田舎だったので、隣の家に子犬が生まれたと聞けば、勝手に庭に入って子犬を触ったりしていた思い出もあります。

とにかくいつも動物と自然に触れ合っていましたね。

-そうなんですね。子どもたちが駆け回るいい風景が目に浮かびます。特に夢中になったことはありますか。

物心ついた小学校1〜2年生頃から高校3年生まで、ずっとバレーボールをやっていました。
両親もバレーボールをやっていて、父は高校教師でバレーボール部の監督だったんですね。

なので、もうとにかくバレーボール漬けの日々で、その合間に野山で遊んでいたんですが、けっこう多忙な子ども時代だったかもしれないです。

特に、高校は、父が監督をしていた高校に進学したんですが、全国大会に行くのは当たり前、常に目指すのは全国優勝という環境でした。

上下関係にも厳しくて、見た目も髪をベリーショートにして刈り上げて、まさに世に言う「女子バレー部」という世界を過ごしましたね。

-それはすごく頑張られましたね。今振り返って、ご自身にとってバレーボールはどんな存在でしたか。

父は私が生まれる前から監督をしていたし、母も長年バレーボールをしている人だったので、とにかくいつもすぐそばにバレーボールがありました。

春の高校バレー、インターハイ、国体(現 国スポ)という3大全国大会があるんですけれど、当時父は「親子で全国大会に行く」という目標を掲げていました。

そして、私は三姉妹の真ん中なんですが、三姉妹全員がその高校へ進学して、全員が父と一緒に全国大会へ出場しました。

今となっては本当にすごいことだったなと思います。

当時は父が監督という重圧もありつつ、ただ何も考えずにバレーボールに打ち込む毎日でした。

大晦日以外はほとんど休みがなくて、18歳まで、本当にバレーボール一色でしたね。

家族全体がバレーボールのためのワンチームみたいなところがあったかなと思います。

-なかなか他の方にはない経験ですよね。子ども時代の将来の夢はありましたか。

子ども時代の夢はいっぱいありましたね。

もちろん「バレーボール選手になりたい」というのもありましたし、英語とか塾とかいろいろ習い事をさせてもらうなかで、水泳も習っていて、やっぱりスポーツが好きだから「水泳選手もいいな」と思っていました。

動物も大好きだったので、猫アレルギーだと分かるまでは、トリマーや動物病院で働く動物看護師にも憧れていました。

夢はいっぱい、本当にいろいろありました。

-では、これまでで、人生のターニングポイントと呼ぶような出来事は何かあったでしょうか。

バレーボールは身長がものを言う競技なんですが、高校生になって私は160センチしかなかったのでだんだん限界を感じてきていました。

なので、もう高校までで終わろうと決めたんですが、その時に、これまであまりにもバレーボール一色の日々だったので、「私、何もなくなってしまうな」と思ったんです。

親はバレーボールのことには口を出すんですけれど、進路ややりたいことについてはいつも見守ってくれるスタンスでした。

そこで、当時の私からしたらちょっと逃げもあったんですが「東京へ行かせてほしい」とお願いして、大学進学で東京へ出ました。

とにかく「何もないところから自分で何か探したい」という思いで地元を出たこと、それが一つ目のターニングポイントだったと思っています。

東京では、物心ついて以降初めてのバレーボールのない日々で、しかもひとりで家族もいない、まったく新しい環境。

見るもの聞くもの全てが新鮮で、とにかく毎日吸収するしかないところに自ら行ったことは、とても大きな出来事でしたね。

-なるほど。

高校では勉強も頑張っていたおかげで、行きたかった大学の文学部へ進むことができました。

で、大学卒業後を考えた時に、私立大学で一人暮らしをさせてもらっていたので、何か恩返しがしたくて、父と同じ教員の道に進むのもいいかな、と思って教員免許を取りました。

でも、教育実習などをいろいろ経験してみて「私は教員には合ってないかも」と気づいたんですね。

実家はもともと帰っても帰らなくてもいいという自由な雰囲気だったので、「じゃあ、しばらく東京に住んでみよう」と決めて、東京で就職の内定をもらったんですが、最終的には、東京では就職せず、自分で決めて地元の栃木に戻りました。

それが二つ目のターニングポイントですね。

就職のタイミングに、母が病気をしてしまって、姉は短大卒業後すぐアメリカへ渡っていたし、妹しかいない状況だったので、「私が戻らなきゃ」と思い、東京の内定を辞退して栃木で就職活動をやり直しました。

東京へ出たこと、そして栃木へ戻ったこと。
この二つが大きなターニングポイントだったと思います。

-そうだったんですね。東京ではどんな体験をされましたか。

本当に楽しかったですね。
知らないことが多すぎて、吸収することばかりでした。

ただ、実はすぐに完全にバレーボールから離れたわけではありませんでした。

学業以外はアルバイトと遊びに邁進したい気持ちもあったんですが、いつの間にか強豪校出身の人がいるという噂が立ってしまい…。

なので、大学1年生の時は再びバレー部に入り、きっちりやりました。

でもその部は4年生が多くて、私が2年生に上がる時に先輩が引退すると部員が3人になってしまって解散になってしまって、その後、今度はまたちょっと違うところからスカウトをいただいたんです。

ある日、すごい身長の大きい男の方たちが来て、「バレーボール部の強い高校でやっていたのはあなたですか」と。

「男子バスケットボール部のマネージャーにならないか」と声を掛けられました。強化部だったんですが、マネージャーがなかなか定着しないということで、「しっかり動ける人を探している」と言われたんです。

大学ではインターカレッジの大会があって、その全国大会で上位を目指している男子バスケットボール部でした。

週6から7の毎日の練習と合宿や試合、春と秋のリーグ戦の運営、そういったスポーツの世界を知っている人が欲しかったみたいで。

正直、最初はいよいよバレーボールから離れて今度こそ遊べるかなと思っていたのでちょっと渋ってはいたんですけれど、ちょうど『SLAM DUNK』がすごく流行っていて、私もちょっとミーハー心が湧きました(笑)。

でも何より、真剣に「マネージャーをやってみたい」と思ったのは、体育館での本気の練習を見た時ですね。

そこから大学2年生から4年生まで、男子バスケットボール部のマネージャーをしていました。

-楽しそうですね。誰かをサポートする、マネージャーの経験は、今のお仕事にもつながっているでしょうか。

そうですね。
大学時代、マネージャーをやれてよかったと思うのが、人と人の間に入って動く経験を積めたことかなと思います。

人と人をつないだり、段取りを組んだり、電話で調整したり、監督のお世話もしますし、選手のお世話もする、すごく幅の広い役割なんですよね。

今ホームケア土屋の管理者としてやっているマネジメントとは少し違うかもしれませんが、人と人の間に入って動くというところでは、通じるものが多いと感じています。

選手が安心してプレーに集中するためには、マネジメントがしっかりしていることはとても大切ですね。

-なるほど。スポーツに打ち込んだことが、福田さんの人生を前に押し進めていったのかなと感じました。振り返ってみて、大きな影響を受けた方は、やはりお父様でしょうか。

やっぱり父の影響は大きいですね。
私も大晦日以外ほとんど休みがなかったとお話ししましたが、父も家にほとんどいませんでした。

私の誕生日は祝日なので、必ず合宿や練習試合でした。
高校3年間だけは選手と監督として一緒に過ごしましたが、それ以外は誕生日を一緒に過ごしたことがありません。

72歳の父は今でも現役の監督です。
私は今42歳で転職も何回かしていますが、一つのことを何十年も続けることがどれだけすごいことなのか、今になってわかりました。

何か一つに打ち込める人は本当にすごいなと思っています。

あと、小さい頃からいつも父の教え子の皆さんや、その保護者の方に囲まれて育ったので、とにかく人が好きになりました。

誰かと話すことや、みんなでワイワイすることが好きになりましたね。

おかげで、どの職場へ行ってもいつも気の合う友人ができて、今でも親しくしています。

これまで出会った人、本当にいろんな人からの影響を受けて、今の自分があるんだなと思いますね。

大人になってもできる時はバレーボールを続けたい

CHAPTER3

介護の仕事との出会いー「家で過ごしたい」素朴な願いを叶えるには

重度訪問介護だからできることがある。仕事の意味が広がったあるクライアントとの出会い。

-では、お仕事を始めて以降のことをお聞きできればと思います。土屋に入るまではどんなお仕事を経験されましたか。

大学卒業後は栃木へ戻り、地元に本社を置くドラッグストアチェーンに入社しました。

接客がしたくて店舗勤務を希望していたのですが、3か月で本社勤務になり、店舗開発部というお店をつくる部門で3年間事務をしていました。

そこでは、接客も事務も学ばせてもらったんですが、「やっぱり自分にはずっと座っている仕事は合わないな」と思って次の仕事を探していたところに、3.11東日本大震災が起きたんですね。

栃木も、福島のすぐ南に位置するので、結構揺れて大きい被害がありました。

計画停電と、ガソリンがないのと、いろんなことが起きて大変な時期に看護師をしている友人が人手が足りずに困っていて、「ちょっとバイトでもいいから病院を手伝ってほしい」と声を掛けられました。

最初は「ボランティアでも行くよ」と言っていたんですが、結果的には資格がなくても働ける看護助手として就職することになりました。

私にとっては、これが介護の道への第一歩でしたね。

-看護助手のお仕事はどんなことをされていましたか。

シーツ交換からおむつ交換、食事の配膳や介助、入浴介助、車椅子での移動介助など、全般的な身の回りのお世話を経験しました。

病院だったので検査用検体の発送業務なども含めて、点滴や採血などの医療行為以外のことは、かなりいろんなことを教えてもらいました。

-そうなんですね。その病院もお住まいに近い地域だったんですか。

お隣の茨城県でした。

その病院を運営していた医療グループは、当時トップの方がALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症しながらも経営を続けていて、「24時間対応、365日年中無休、断らない医療」を理念に掲げていました。

私が初めて働いたケアの現場にも、土屋が目指す姿とかなり重なるものがあったんですね。

だから、土屋に入って代表取締役の高浜敏之さんのスピーチを聞いた時にも強くご縁を感じました。

-そうだったんですね。

そこでは、しばらく仲間の看護助手と一緒に楽しく働いたんですが、次のステップアップをしたいと思って転職しました。

どうしても組織の構造として介護職は看護師の下で働く立場で、どんなに頑張ってもそれ以上にはなれないという現実に直面して、「私は何十年もこのままでいいのかな」と思ったんですよね。

そんな頃に知り合いの先輩に「起業するから手伝ってほしい」と言われて、そこで一度介護を離れました。

次の仕事は、企業向けに健康診断を実施する会社でした。
専用の健診車で企業に出向いて、社員さんに健康診断をするんです。

私は会場運営と、営業活動をして回っていました。

-その後、土屋に入社されたきっかけはどんなものだったんでしょう。

老人保健施設で働いた経験が大きなきっかけになったと思います。
健康診断の会社の次に、「老人保健施設」という高齢者の介護施設に勤めました。

「老健」とも呼ぶんですが、病院から退院した直後の高齢者の方が自宅に戻るために、最大6ヶ月間を上限に、リハビリなどをしながら過ごす入所施設ですね。

当時は、自宅に戻るための支援をする仕事だったので、いつも利用者さんから「早く家に帰りたい」という言葉を聞いていましたし、自分でも利用者さんに向けて「できるだけ早く家に帰ろうね」という話をよくしていました。

それだけ「家で過ごせること」を、すごく大事なこととして感じていました。

「その人が自然体で、居たい場所に居られるって魅力的なことだな」と。

ただ、その時は転職までは考えていませんでした。
ある日、自宅でインスタグラムを見ていたら、土屋の広告が流れてきたんです。

第一印象が明るく軽やかで「介護っぽくないな」と思って見ているうちに、「重度訪問介護」という言葉を初めて知りました。

内容を読んでみると、自宅で10時間以上の支援に入るサービスだと知って、衝撃を受けました。

それまで私が知っていた訪問介護は、1時間や1時間半程度が中心だったので、「ずっと家にいて支えられるサービス」があることに驚いたんですね。

施設では、利用者さんから「もう少しゆっくりお風呂に入りたい」「今日は少し夜更かししたい」という希望があっても、どうしても集団生活のための時間割になっているのでお応えできず、部屋へ戻っていただくこともありました。

内心は「もう少しその人のペースに合わせてあげられたらな」と感じることもあったので、その土屋の広告を見て、「お家でその人らしい暮らしを支えられる仕事って、すごくいいな」と思ったんです。

ただ、その時はまだ栃木事業所がなくて、少しがっかりしました。

でもその1〜2か月後に「栃木事業所を開設します」という情報が出てきたんです。

「これは挑戦するしかない」と思い、応募しました。

-入社当時は、どんなことを考えていましたか。

「家でゆったり過ごせるお手伝いがしたい」本当にシンプルにその思いだけでした。

自分にとっても未知の世界だったので、実際どんな仕事なのかは入ってみないと分からないと思っていましたが、「その人がその人らしく過ごせるお手伝いができるなんて最高じゃないか」という気持ちで入社しました。

ところが、ちょっとびっくりしたんですが、私が入社した2022年11月は、栃木事業所が9月に開設されたばかりで、クライアントさんがまだ一人もいなかったんです。

なので、まずは当時の管理者と一緒に営業活動をする日々。
「早く支援に入りたい」「どんな支援なんだろう」と思いながら営業活動をしていたことを覚えています。

-なるほど。本当にこの場所をゼロからつくってこられたということですね。では、実際に支援先ができて重度訪問介護の現場で働き始めた頃、印象に残っていることはありますか。

自分でもちょっと驚いたんですが、「私、この仕事向いているな」と思いました。

すごくすんなり馴染むことができたんですね。

当時、栃木県内にはまだ支援先がなかったので、群馬県や茨城県、埼玉県まで県をまたいで支援に行っていました。

どこへ行っても、本当に楽しかった。そもそも望んだ支援サービスであったとしても、自宅に他人が入るというのは、クライアントさんやそのご家族にとって簡単なことではないと思うんです。

やっぱり、知らない人が長時間家にいることには、緊張感や抵抗感があって当然ですよね。

それでも、皆さん本当に明るく、温かく迎え入れてくださる方ばかりでした。

私たちはサービスを提供する側、クライアントさんは支援を受ける側という立場ではありますが、人と人との温かさを強く感じました。

そういう時間は、施設にはないものでしたね。
それが、今この仕事をできていて良かったと思える理由でもあります。

-そうなんですね。重度訪問介護ならではの良さというと、他にはどんなものでしょう。

「その人のペースで暮らせること」だと思いますね。
誰のペースで生活するか、が施設とは一番違うんです。

施設はどうしてもあらかじめ決まった時間割が基準で、「トイレの時間」「リハビリの時間」「おやつの時間」「夜9時には就寝」といった流れがあります。

でも自宅では、その人のペースが中心になります。
「今日は少し夜更かししたい」そんな日があっても、「いいですよ」と、その人の希望に合わせられる。

こちらも長時間一緒に過ごすからこそ、臨機応変に対応できるんです。

そういう世界観を保てることが、本当に良いところだと思っています。

-ご自身が現場に入られていて、印象に残っているクライアントさんとのエピソードはありますか。

そうですね。
私が他県の事業所へ応援に行っていた時に出会ったクライアントさんのお話です。

ALSの50代の女性の方でした。
ALSは、筋肉が少しずつ動かなくなっていく、呼吸器をつけないと命をつないでいくことが難しい病気です。

でも、その方は呼吸器をつけないという選択をされた方でした。余命宣告も受けていましたが、ご主人や息子さんに「弱っていく姿は見せたくない」と、自身のご実家へ戻られていました。

一般的には、最期の時まで家族と一緒にいたいという方が多いと思うんです。

でもその方は、「夫や息子の生活の重荷にはなりたくない」とおっしゃっていました。

私はその方が亡くなるまで支援に入り、会話ができる最後まで、いろんなお話をしながら一緒に過ごさせていただきました。

私はこの仕事に入ったばかりの頃は、重度訪問介護は「生きていくためのサービス」だと思っていたんです。

それは、命を延ばしていくためという意味です。
でも、その方と出会って、考えが大きく変わりました。

その方は呼吸器はつけませんでしたが、自ら進んで死に向かっていったわけではなく、最期の瞬間まで精いっぱい生きておられました。

最期まで自分の生き方をご自身で選ばれたんです。
その選んだ生き方を支えるために私たち支援者がいる。

重度訪問介護は「生き方に寄り添うサービス」でもあるんだと、その方に教えていただきました。

その方から学んだ「命の尊さ」と「毎日があることは当たり前じゃない」ということは、それ以降の私に大きく影響を与えています。

ほかのクライアントさんにも、それまでよりもさらに優しく丁寧に接することができるようになりましたし、「自分らしく、より楽しく生きましょう」という思いで支援ができるようになりました。

-すごく大切なお話ですね。強い意思と、周囲への思いやりを持ち続けられた立派な方に出会った経験が、今の福田さんの背中を押してくれているように感じました。

CHAPTER4

やっぱり現場が好き。この喜びを仲間へつなぎたい

人の個性に触れる仕事。いつでも大事なのはマッチング。

-この重度訪問介護の仕事に就いて、ご自身が変わったところはあるでしょうか。

せかせかしなくなりましたね。
以前勤めていた病院や施設は、「いかに早く歩いてもらうか」「いかに早くおむつ交換をするか」「いかに時間内に食事をしていただくか」という世界でした。

私はもともとせっかちな性格ではないんですが、「介護とはそういうもの」という感覚が身についてしまっていたんです。

でもこの仕事を始めた頃に、「そんなに急ぐ必要はないよ」と言われて、「ああ、そうか」となりました。

もちろん、早くしてほしいというクライアントさんもいらっしゃるので、それぞれのニーズに合わせるんですが、今はその方の希望に合った動き方を調整しながらできるようになりましたね。

-なるほど。お一人ずつ全員違いますものね。今、仕事のなかで一番喜びを感じるのはどんな時ですか。

管理者という立場ではありますが、実を言うと、私が一番喜びを感じるのはやっぱり現場なんです。

この栃木の事業所はまだ小さいので、管理者をしながら、今でも月100時間前後は現場支援に入っています。

その度にいつも「クライアントさんに直接会える、現場っていいな」と思います。

楽しさも、やりがいも現場が一番です。

だからこそ、今は管理者として、その楽しさをアテンダントの皆さんにも感じ続けてもらえる環境をつくりたいですね。

自分が現場でやってきた経験を活かして、現場の楽しさを他のアテンダントにも感じてもらうこと。

それが今の私の仕事だと思っています。

-その環境づくりのために、特に大切にしていることは何でしょうか。

アテンダントの個性とクライアントさんのニーズのマッチングかなと思います。

人それぞれ幸せを感じることや好きなこと、やりたいことは違うので、まずはそれをアテンダント一人ひとりから引き出して、クライアントさんの要望とつなげることを大切にしています。

やっぱり「自分には合わないな」と感じると仕事を続けること自体が難しくなってしまうと思うので。

例えば、外出が好きなアテンダントなら外出支援が多いクライアントさんへ。

お話が好きなアテンダントなら、お話好きなクライアントさんへ。

読書好きのクライアントさんには、そっと静かに見守ることが得意なアテンダントに行ってもらうなど、双方がより一緒に過ごしやすくなるような工夫をすることもあります。

まだまだできることはありますが、今はそのマッチングに一番重きを置いていますね。

-そうなんですね。いろんな方の個性に触れる立場でもいらっしゃいますよね。福田さんが、人と関わる時に大切にしていることはどんなことですか。

ずっと大切にしていることが2つあって、それが「挨拶と笑顔」です。

社会人になってから、これはずっと意識しています。

入室するときもそうですし、今はZoomなど画面越しで会うことも多いですが、「お疲れさまです」と笑顔で入る。

お部屋に入る時も「お邪魔します」「お久しぶりです。元気ですか」と声をかけます。それだけで最初の一歩の距離がぐっと縮まると思うんです。

笑顔で挨拶されて嫌な気持ちになる人はいないと思うので、自分ができる第一歩として、挨拶と笑顔はずっと大切にしています。

-たしかに、安心できますし、エネルギーを受け取る感じがしますね。ありがとうございます。では、先ほどお話をうかがったお父様や他のご家族とは、福田さんのお仕事についてお話することはありますか。

そうですね。
父には、私から自分の仕事の話をすることはあまりないんですけど、私自身のことについて相談することはありますね。

例えば、私はあまり緊張するタイプには見られないんですけど、実際はすごく緊張しやすいんですよ。

管理者として、これからさらにいろんな責任が増えていくにつれて、人前で話す機会も増えていくと思うので、「どうやったら人の気持ちをつかめるかな」とか「どうしたら緊張せずに話せるかな」といったことを相談することがあります。

父は監督の経験を講演会などで話す機会も多くて、そういうことは得意な方なので、アドバイスをもらって助けてもらっていますね。

-すばらしいですね。お父様にとってもきっと嬉しいことなのではないでしょうか。

私は三姉妹の真ん中でみんな仲が良いんですが、仕事については、とくに姉と電話やLINEで話をすることが多いですね。

姉は今、アメリカで通訳の仕事をしています。

通訳も人と人をつなぐ仕事で、その人のことをよく知って、口癖や考え方まで分からないと、本当の意味で通訳はできないみたいなんですね。

だからお互いにそれぞれの現場について「やっぱり、人と関わる仕事って奥が深くて難しいね」という話をしますね。

組織で働くことについてや、女性が活躍するにはどうしたらいいだろうという話もしています。

アメリカは日本より男女平等が進んでいて、人種もさまざまなので、姉の上司はインドの方なんです。

そういう国どうしの文化の違いや、男女の考え方、これからの社会のあり方について話すこともあります。

-場所は違えど、人に向き合う職業としての共通点をお話できる、刺激を与え合える関係なんですね。

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CHAPTER5

まずは踏み出してみることー福祉は自分の全部を活かせる仕事

働く人にとっても「次の変化」への可能性があるところが土屋の魅力。未来を語り合える仲間と進む。

-では最後に、「これから」のことをうかがえたらと思います。ご自身がこれからおこないたいこと、思い描いている未来のイメージについて教えてください。

これはとてもありがたいことなんですが、私は3年半をこの土屋で過ごしてきて、今社内で、私にとって新しい挑戦となるお話もいただけるようになってきました。

今までは、「現場から離れた立場には行きません。現場が大好きなので」と言っていて、今回のこのインタビューのお話も、前の私だったらたぶん断っていたと思うんです。

写真も表に出したくないし、ただただ「現場が一番」と思っていたので。

でも、ここ半年くらいの間で、前向きに「いただけるお話は挑戦してみよう」と思えるようになってきました。

父や姉、それから看護師をしている友人たちと話している中で、「できないと思う人には、そもそも話は来ないんだから、いただける話は受けたほうがいいよ」と言われたことがきっかけでした。

それで「新しい世界を見てみるのもいいんじゃないか。
やれることをどんどんやってみよう」と思うようになりました。

私の周りにいてくれる方々のおかげでもあり、マネージャーの皆さんのお話を聞いたり、背中を見たりするなかで、自分の内側で起こってきた大変化です。

なので、今、自分は会社の中ではやっと新しい一歩を踏み出したところかな、と思っています。

私は人が好きで、楽しいことが好きで、いろいろ吸収することが好きな性格なんです。

だから今こそ、そんな自分を思い切り使って今いるところから「新しい世界」を見つけていきたいと思っています。

そして、そんな挑戦の仕方や前向きなイメージを持つことができるのも、この土屋の強みだと思います。

この会社では、ひとつの場所からちょっと視線を移した先に、障害者福祉も、高齢者福祉もそれぞれにさまざまな業態を展開していますし、教育事業やこのインタビューのような社会への発信をおこなう事業もありますよね。

本当にいろいろな仕事があります。

例えば10年後、私はこの土屋にはいたいと思っていますが、今と同じ重度訪問介護のホームケアにいるとは限らないと思います。

時代の変化に合わせて土屋は変わっていくし、私自身も変わっていく。

せっかくならいろいろ挑戦していきたいです。
働く人にとっても「次の変化」への可能性があるところが、この土屋の魅力で、私が土屋を好きなところです。

-ありがとうございます。これから福祉業界を目指す方や就職を考えている方へメッセージをお願いします。

福祉には、無資格・未経験でも入れる分野がたくさんあります。それは、今の私と一緒で、入ってから自分ができることや、やりたいことを見つければいいということだと思うんです。

そして、福祉はすごく総合的な仕事なんです。
私自身もこれまで、接客業、事務職、営業職、介護職を経験してきましたが、今その全部が役に立っていると感じています。

これまで経験してきたことはどんなことでも無駄になりません。
福祉という仕事は、会話も、社会スキルも、人柄も、今まで身につけてきたすべてを使える仕事だと思っています。

だから、ぜひ一歩踏み出してもらいたいです。
入れば必ず何かに出会って、そこから見える新しい世界がたくさんあると思います。

福祉は「まずは踏み出してみる世界」です。

-では最後に、福田さんご自身が福祉・介護の仕事を続ける原動力は何でしょうか。

やっぱり根本には、「困っている人を助けたい」という思いがあります。

それは土屋の会社理念の「探し求める小さな声を」という考え方にもつながっていると思っています。

もちろん職業としてクライアントさんとそのご家族を支えるという意味もありますし、社内でも「ここ手伝ってほしい」「一緒にプロジェクトをやろう」と声をかけてもらった時、いつでも「私でよければやりますよ」という気持ちがあって、そんな行動力を忘れないでいたいんです。

社内でも社外でも、「助け合うこと」が私の原動力なのかなと思います。

-ありがとうございます。たしかに、人がいないところに福祉はないですもんね。

そうですね。
「同じ志を持つ仲間に出会えたこと」「会社の未来について一緒に語れる仲間に出会えたこと」。

それが今、この福祉の世界に入って一番よかったと思っていることです。

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