研修事業部

土屋ケアカレッジ

香山里美

講師 / 品質管理

まず、自分を愛する。そこから家族、患者さん、ご利用者さんへの愛情に枝分かれしていくーー
人と、命と触れあう場としての介護や看護は、この流れがあってこそ成り立つ仕事。

 《interview 2023.6.7》

土屋ケアカレッジで講師を務めながら、全国の研修の「品質管理」を担当する香山里美。
20歳の時から看護職を続けてきたという香山は、“なんだかわからない”違和感をずっと心の中に持っていたと言います。「これからは、自分の好きなこと、自分の気持ちに正直になろう」――ある時、そう決めた香山が選んだのは約40年務めた医療現場を離れ、講師という仕事に就くことでした。不安もある中での選択。「好きなことを仕事にできるって、幸せなことなんじゃないか」と話す香山が想う、自身の幸せとは。

CHAPTER1

「なんだかわからない違和感」が運んできた講師の仕事ーー“できない自分”を見つけるってなんだか楽しい

岡山県・倉敷で生まれ育った香山。
「3歳離れた兄は危ないことは絶対しないタイプ。兄と反対になったらいい、って言われるぐらい、私はお転婆でした」と幼少期を笑って振り返ります。

香山の前で、看護師への道がひらいたのは15歳の時。“幼馴染のお姉ちゃん”が、倉敷市内の看護科へ入学したことがきっかけでした。

香山「兄は優等生で、高校は進学校に進んでいたのですが、その姿を見ていて『あんなふうに勉強しないといけないのはしんどそうだな』というイメージがあったんです。
看護学校へ進学したそのお姉ちゃんは、色白ですごく可愛いくて、学校の制服がすごくよく似合っていました。そんな姿を見て、下校途中に学校での話を聞いているうちに『看護や医療を学ぶのも楽しそうだなぁ』と思い始めたんです。よく遊んでいたお姉ちゃんだったので、憧れもあって『よし、私もそこへ行くぞ』と決めました。

それから高校に入学して、看護科目を学び始めた時、生まれて初めて『勉強が楽しい』と思ったんですね。もちろん、それまでも受験のために勉強はしてきましたけれども、看護を学び始めた時に感じた、この『知りたい』っていう探求心。それが初めて自分の中に芽生えて、自らの意思で勉強し始めたのが15歳。この時に『私は大人になったな』と感じました」

そして香山は看護学校を卒業し、20歳で市内の総合病院に勤務します。
その後も助産院、医療療養型病院等、場を移しながら、約40年間、看護師として仕事を続けてきました。

香山「私は、現状維持とか、平穏っていうことが幸せとは感じない変わり者でして(笑)、少しぐらい波風がたっても、夢中になれるものに向かっている時の方が幸せなんです。
長年、看護師として働いてきましたけれども、その間ずっと、得体の知れない違和感がありました。何がどう違うのか、言葉では言い表せなかったんですが『なんか違う、これだけじゃないような気がする』っていう違和感を持ち続けていたんです。

2011年の東日本大震災の時に、岡山県医師会から医療ボランティアの募集があって、私は迷わず手を挙げました。震災があって一ヶ月後ぐらい、まだ余震が続く時期だったのですが、家族の承諾も得ず『行きます!』と。夫からは『向こうで死んだらどうするの?』なんて言われましたけど、『その時はごめんなさい』って言いましたね(笑)。

ボランティアから帰ってきた時、『やっぱり自分は、病院ナースだけでは収まりきれない』ということを漠然と自覚したんです。でも、この時点では何がしたいかがまだわからなかった。災害看護がしたいのかというと、そうでもない。でも、収まりきれない自分を自覚はしたんですね。
じゃあ、その後、何か行動ができるかーーとなった時にちょうど、病院で役職がついてしまって。部長職の業務が忙しくなってきたので、当時は自分の気持ちを抑えておとなしくしていました。

でも、その仕事でスタッフの教育に大きく関わりました。その時、『人を教えるって、人の行動や言動を変化させることなんだ』と気づいてから、『それって楽しいことなのかもしれない』と感じたんです。その気持ちがおそらく芽になって、今に繋がっているんだと思います」

その後、香山は病院で看護師を続けながら、2016年、ダブルワークで民間の福祉教育研修機関での講師業をスタートさせます。そして、時はコロナ禍へ。

香山「若い頃から感じていた違和感が何なのか、ずっとわからなかったんですけれども、毎日同じ時間に出勤して、決められたルーティンワークをして、帰宅してーーという日々を続けていました。そんな中でのコロナ禍。忙しさのあまり、毎日、コマのような動きーーあれしてこれして終わったらあれして、コロナに罹患された方がいらしたらこれしてあれしてーーそんな短調なパフォーマンスしかできなかったんです。
でも、私は看護師歴が長いので、ある程度のことはなんとなくできちゃうんですよ。それを誰かに注意されたり、咎められることももうないですし。自分がどう動いても、できることをやっていれば一日が過ぎていく。そういう自分自身にストレスを感じていたんですね。

その頃は、ダブルワークで講師を始めていたので、そんな日常の中でも夢中になれるもの、自分が知らないものを追いかけられるのが、私にとっては講師という仕事でした。
言ってしまえば、病院での仕事は、必死で自己研鑽しなくてもできてしまう業務だった。でも私は現状維持があまり好きではないので、同じことやっていたら飽きてしまうんです。前向き人間みたいに捉えられちゃうかもしれませんが(笑)。

結局、そこから脱却をしたくて講師を始めたんですが、講師業では、できない自分を自覚できました。『なんだ、私って40年も看護師やってるのに下手くそだなぁ』『言葉を大事にしてます、なんて言ってるのに、全然生徒さんに伝わってないじゃない』って(笑)。

そのギャップが、看護師のルーティンワークと絶妙にバランスが取れていたんだと思います。できない自分だけだったらおそらく凹むと思うんですけれど(笑)、病院ではある程度、いろんなことができる、でも講師になったら『ちょっと待てよ、うまくいかないぞ』と。この緩急が良かった。この年齢になって、“できない自分”を発見するのってなんだか楽しかったですね」

CHAPTER2

子育てを振り返ってーー今、「教える」ということ、「育てる」ということ

現在、香山は土屋ケアカレッジ 岡山の講師として、受講生の前に立ちながら、全国のケアカレッジの研修内容の質をバージョンアップしていく「研修品質管理」という業務を進めています。

重度訪問介護従業者養成研修や介護職員初任者研修、介護福祉士実務者研修等、さまざまな研修を行なうケアカレッジは、全国30ヶ所、80名ほどの講師がおり、各地で研修が行われています。業務は新人講師のサポート、講師のお悩み相談等、多岐にわたります。
その中でも香山は、日本全国、どこで受けても安定した質の授業が進められるよう、「研修のシラバスづくり」に尽力してきました。

「人を育てる」という場に立つ香山は今、自身の「3人の男の子を育てた」経験と記憶をそこに重ねていると言います。

香山「子育てをしてきて、今更ながらわかったことなんですが、親の視点で『この子はこうだろう』と決めつけて私は育てていたんですね。『この子は○○だから、こういう道がいいんじゃないか』なんて進路にも口を出していました。
でも人間って表面的にわからない個性がたくさんあって、親には計り知れない能力があって、隠れているものがたくさんあるんだなって。私はそれに気づかず、子どもたちを育ててしまったんです。

受講生にも、最初の印象だけで『大人しい子だな、人と接するのが苦手なのかしら』と思ってしまうことがあるんですが、実はそうじゃない。会話を始めると、言葉は少ないけれど、ずしんと心に響くような言葉をちゃんと伝えてきてくれる。『この子、すごい。私が勘違いしてただけなんだ』と気づかせてくれた受講生さんや看護師さんが今までも何人もいました」

重度訪問介護は、医療と介護の領域の重なる部分でクライアントと関わる仕事でもあり、研修では、喀痰吸引や経管栄養と言われる医療的ケアの実技も学びます。

香山「統合課程の研修では、『人の体の中にチューブを入れたり、流したりするのが怖い』と手が震える子もいるんです。その姿を見て、『苦手意識が強すぎて消極的だな』なんて考えがちなんですが、医療的ケアを怖いと感じないと、それは逆に怖いことなんですよ。だから私は『あなたのその、怖いと感じる感覚は人間としてまともな感覚なんですよ』って伝えるんです。

私も未だに注射の針を刺す時、多少の緊張感があります。人の体に何かを施す時の恐怖心というのは、ずっと持っていないと逆に事故が起こるんです。もちろん演習ですし、研修ですから、するする上手にできることは望ましいですよ。でも『その怖いと思う感覚や、手が震えてしまう感覚は、これからもどこかでずっと持ち続けて』と伝えるんです。

そうすると、『私のこの感覚は、決してマイナスではないんだ』と感じてくれる方もいらっしゃる。『怖くてもいいんですね』と言われた方もいました。みんながみんな、そんなふうに伝わるわけではないんですけれど、視点を変えれば、欠点が実はとても重要な要素になるんです。
私がうまくできなかった部分に、目に見えないその人の個性がたくさんあるーーそれはやはり、自分自身の子育てから学んだことですね」

CHAPTER3

「自分らしく、最後まで生きていたい」――死にゆく母が最後まで望み続けたこと

長年、看護師として、命とともにあり、命を見つめてきた香山。
看護師という職業から、香山は「介護」という仕事や人をどのように見てきたのでしょうか。

香山「私は病院勤務だったので、患者さんという言い方をしますけれども、『実は患者さんにとっていちばん近い存在というのは、看護師ではなくて、介護職さんだ』というふうに感じているんです。もちろん、医学的な面では看護師の方が知識を持ってはいるんですが、排泄や食事等の身体介助――人間が生きていく上でベースとなる支援は介護職さんがされているので、第六感で感じる“感覚”の力といいましょうか。

ある時、病院で『○○さん、今日、いつもとちょっと違います』と報告に来られた介護職さんがいらっしゃったんです。でも、何がどう違うかっていう根拠が示せないんですよ。そのことを現場で伝えたら『何がどう違うのか、きちんと言えないなら私たちにはわからない』と返した看護師さんがいたらしく、その介護職さんが『○○さん、何がどうとは言えないんですが、いつもとちょっと違うように思います』って私のところにも伝えに来てくれたんですね。私はこれまでの経験から、その感覚って非常に大事だなと思っていましたし、信頼している介護職さんだったので『わかった。よくわからんけど、看護師さんたちにちょっと注意してみとって、ってお願いしとくね』と伝えました。

それから看護師さんたちに『○○さん、いつもとちょっと違うっていう報告があったから、熱を頻繁に測って、食事量や排泄時の便や尿の様子をいつもより注意して観ててね』っておふれを出したんです。そうしたらやはり、その患者さん、お昼から熱が出たんです。

熱は、尿路感染症が原因だったんですが、本当に看護師が気づかないような、言葉にできない、そして根拠もわからない、けれども何かを感じ取れる力が、日々接している介護職さんにはあるんだなぁと思いました。だからその時は、その方を呼んで、もうべたべたに褒めましたね(笑)。『あんた、すごいー!』『その力、私たちも欲しいわー!』って。
そういった意味で、介護職の方には、私たち看護師には計り知れない能力がある。患者さんの様子を日々、いちばん近くで感じ取ってくれている、本当に心強いパートナーだな、と思っています」

人と、命と触れあう場としての介護、そして看護。
香山はこれまでの時間の中で、生と死と、どのように出会ってきたのでしょうか。

香山「看護師の現場ではもちろん生も死も経験をしてきたんですが、なんとなく業務の中で行なっていて、ずっとピンと来てなかったんです。
今回、このご質問を受けて振り返ると、やはり母の死で初めて、死というものを本当に間近で感じ、死に向かってゆく人というのはこういう気持ちなんだーーと母が亡くなった46歳の時にやっとわかったという感じでした。

母は癌だったのですが、告知をされた時には余命2ヶ月でした。本当にお恥ずかしい話ですけれど、病院に勤めてる時はどこか他人事だったんです、死というものが。その時は悲しいけれども、何日かすれば回復していた。やはりどこかで仕事として受け取っていたんでしょうね。母の死を通して知ったのはーー2ヶ月わずかに残る命で今を生きるために、母が一生懸命望み続けたのが、やはり自分らしさだったんです。

母には痛みが強くあったのですが、自分で喋ることができました。その中で母が望んだのは「痛みを取って欲しい、ほかの治療は一切しなくていい」――いわゆる緩和ケアでした。
それから自分が死んだ後の、残された家族のあり方まで望んでいたんです。

というのも兄と私は仲は良かったんですが、母の病気をきっかけに少し考え方がずれたんです。私はもともと、意見をはっきり言う性格でして、母はそれをわかっていました。だから、兄と仲違いをするようなことを言ってはダメ、少し我慢をしなさい、と母から言われましたね。
それから終活です。『この音楽をお葬式でかけて欲しい』『この着物を着て棺に入れて欲しい』とか。後から振り返るとそういうのが全て、母らしかったな、って。

私はこれまで、死にゆく人というのは、死を恐れる気持ちがずっとメインにあるんだと勝手に思っていました。でも、もちろん恐れはあるんですけれども、残された時間を自分らしく生きたいという気持ちーーこんな言い方は変ですけれど、物質的に存在する最後の力を振り絞って母は生きているんだな、ということを感じて。

その時、『自分らしく最後まで生きていたい』という気持ちは、これまで出会った方たちもそうだったんじゃないかって。病院では意識のないまま亡くなられた方もたくさんいました。でも、意識がないとは言え、本当に望んでいたのは自分らしく最後を迎えたいっていうことだったんじゃないかーー。母の死が初めてそのことを教えてくれたんです」

CHAPTER4

「言葉は魔法」――自分を信じて愛することから、人の心に届く言葉ははじまる

2022年、香山はこれまで看護師とのダブルワークで続けてきた講師の仕事を一本に絞り、土屋ケアカレッジの正社員となります。

講師として、これから介護現場へ向かう人たちへ、日々、言葉を届ける香山。そんな彼女の心には、ある人の姿があると言います。

香山「28歳から11年間勤務した助産院の先生なんです。私は看護師として、誕生から老いていく人までさまざまな方と関わってきたんですが、その先生は、お一人で助産院をされていて、『24時間働いて、いつ寝てるんだろう』と思うくらい、元気玉の名物先生だったんですね。

地域でも有名な方で、講演会にもよく呼ばれていて、お忙しい中でも人前で講話をされていました。ある時、講演の前に、本を読んだり、勉強されたり、事前の準備をものすごくされてる姿がちらっと見えたんです。その時、『だから、この先生の話は奥が深いんだ』――っていう根拠と、そのベースがあるからこそ話ができるんだということを知って。人前に立ってお話する人の自己研鑽の必要性を感じました。

今、私自身も講師として仕事をする上で、まずは自らが学ぶこと。それから人に伝えるための言葉選び。ここをしっかり準備していないと、人の心には届かないことをその先生から教わったような気がしています。

言葉を大切に扱うというのは、日本人の大好きな『言霊』にも通じます。例えば病院で、患者さんが痛みを感じている時。実際、痛みは治療で治ってはいくんですけれども、『痛いこと』に対して言葉かけをすることで、痛みが和らいでいくこともあるんです。どんな風に言葉をかけたら、この方はちょっと頑張れるかなとか、そんなことを想像しながら言葉を選んでいましたね。本当に言葉っていうのは魔法だなと思っています」

「あなたが大切にしてるものを、大切にしながら介護職になって欲しい」。そう語る香山自身に、大切にしていることを尋ねました。

香山「私の人生の最大のテーマは、本当にベタなんですが(笑)、愛だと思っています。
その中でも、大切にして欲しいのは自己愛なんです。自己愛というと、あまり聞こえが良くない言い方なんですが、私は『自分自身への愛情』というものはとても大事だと思っています。それこそ私が今、講師という道を選択をしたのも『自分の思いを大切にすること』から始まっているんですね。

今、本当に楽しくお仕事をさせてもらっているんですが、自分を信じて、自分の心に素直になって、自分を大切にすること。これって今の時代に本当に大事なことなんだと思います。まず、自分を愛する。そこから家族に対する愛情や、患者さんへの愛情だとか、ご利用者さんへの愛情に枝分かれしていくーーそんなふうに思うんです」

活き活きと仕事に熱中し、夢中になれるものを追いかけ続ける香山。今、夢中になっているものはなんですか?

香山「私は年齢を重ねて、ますますインドア派になってしまって(笑)。今、仕事の次に熱中していることが、学生時代にしてこなかった歴史の学び直しなんです。
日本史が面白くて、特に戦国から幕末にかけて明治維新辺りの歴史が、非常に今の仕事の考え方にも通じてる部分があるんですね。それぞれの戦国武将の考え方や戦略、その時代に翻弄されながら武士を支えていく女性の生き方。戦いなので、どうやったら勝てるか。その時代の考え方や策略を本で読んだり、調べ直しをしています。問題の解決策を探るために勉強しているわけではないんですが、『日本って、昔こうだったんだ』という過去の中に、今の時代の問題解決のヒントがいっぱいある。

私はいわゆる強い女性、中でも天璋院さん(篤姫さん)と井伊直虎さん、この二人の『どう立ち振る舞ったらみんなを守れるか、切り抜けられるか』という考え方が好きですね。
去年、鹿児島に旅行をしたんですが、歴史探訪をしてきて、篤姫さんの銅像にも触ってきました(笑)」

過去から学び、目に見えない時代に想像を巡らせながら、今を生きる香山。
活き活きと過ごす秘訣をこう語ります。

香山「自分にとっての心地よさを選択して、行動すること。私の得意とする行動ですね(笑)。自分が嫌だと思うものにはあまり手を出さずに、『これやっていて楽しいな』っていうことをしたり、場所にいったり。できないからやってみたいし、できないこともたくさんあるんですが、できる限り自分の感覚を信じるということです」

そんな香山に、これからやってみたいことを尋ねると「したいことは……執筆です(笑)」という応えが。もしかして、自叙伝ですか?

香山「いえいえ、自叙伝ではなくて(笑)。例えば『幕末の女子たちが、時代を越えてお茶会をしたらどんな風になるんだろう』――そんなファンタジーを描きたいんです。『篤姫さん、実はあの時ね……』なんて、井伊直虎さんが、隣にいる篤姫さんに打ち明け話をするとか(笑)。そういうファンタジーが描けたら、すっごく楽しいなぁと想像しています」


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