介護事業部

介護事業部 ホームケア土屋

熊谷真代

札幌 コーディネーター

クライアントによいケアを、アテンダントには笑顔で終われる1日を

 《interview 2021.11.12》

北の大地、札幌で生まれ育ち、小さいころからバスケットボールに明け暮れる毎日を送っていた熊谷真代。彼女はそこで培った行動力をもとに、介護の仕事や子育てに奔走してきました。信頼を大切にし、人の想いに寄り添う熊谷の、物事を見抜く観察力、そして生きる原動力をお伝えします。

 

CHAPTER1

人生の土台を作ったバスケと祖母

ホームケア土屋札幌で、2021年11月現在、コーディネーターを任されている熊谷真代。アテンダント(介護者)とコミュニケーションを取りながら、新規クライアント(利用者)の現場構築に、忙しい日々を送っています。駒沢大学看護福祉専門学校への入学以来、介護畑一筋でやってきた彼女ですが、きっかけは大好きな祖母にあったといいます。

熊谷 「もともと福祉の道に進もうという考えはなくって。裕福な家庭ではなかったので、高校卒業後は働こうかと思っていたんです。けれど両親は、やりたいことを見つけて、進学しなさいと。

そして、考えに考えて思い至ったのが介護。小学生の頃、高齢で腰も曲がっていた祖母を母が毎週、買い物に連れて行っていて、私も必ず付いて行ったんです。私がいつも手を引いて歩きました。高校まで、時間があれば一緒に出かけました。そういう中で、おじいちゃんやおばあちゃんが好きだし、ちょっと介護の道に進んでみようかなと、そんな感じでした」

何気なく進んだ介護の世界。けれど、そこで役立ったのが、熊谷が幼いころからしていたバスケットボール。厳しい練習の中で培われた集中力や努力、折れない心です。

熊谷 「小学1年の時、近所のおじさんがコーチをしているミニバスをよく見に行ってたんですが、そこの監督に声を掛けられ、少年団に。学校が終わると、平日は3日ほどバスケの練習をして、土日に練習試合や大会に出ていました。

中学、高校でもバスケの部活に入って、毎日暗くなるまで練習していました。強いチームではなかったんですけど、バスケがすごく好きなので、休まずに頑張って」

高校まで身長が低かったという熊谷。苦労も多かったといいます。

熊谷 「ポジションはポイントガードで、ボール運びです。背の高さが周りと頭一個分くらい違っていた当時、大きい人にはかなわない。そういうつらさがありました。でも、負けん気だけで、なんとかやってましたね」

バスケに明け暮れた青春時代。熊谷には今も心に残っているコーチの言葉があるといいます。

熊谷 「高1の時、先輩の引退試合があったんです。けれどなかなか点数が入らず、負けが込んでいて。その時、コーチに『あなたが出たら、チームの流れが変わる』って言われて、大事な試合に出してもらいました。すごく嬉しくて、今でも私の中に残っています」

熊谷は小学校から高校までの12年間、つらさや挫折を乗り越えながら、辞めることも休むこともなくバスケに打ち込みます。その日々があったから、今の自分がいる、と話す熊谷。培った精神力や仲間と汗を流した思い出を携え、彼女は高校卒業後、駒沢大学看護福祉専門学校に進学します。

CHAPTER2

病院での介護、そして息子との日々

看護福祉専門学校へ進学した熊谷は介護技術を学び、卒業と同時に介護福祉士の資格を取得。医療法人渓仁会 札幌西円山病院に入社します。当時、当病院は介護の質を上げようと介護福祉士を募集、熊谷はその第一期生として働き始めました。

熊谷 「看護士に指導を受けて、病気や患者について学びました。病院の介護の質を上げるのが私たちの役割でもあったので、介護福祉士として一生懸命取り組みました。

といっても、学校で勉強したのはあくまでも基礎。それが実践で通用するわけもなく。一人一人状態が違う患者さんに合ったケア方法を見つけるには、やはり時間がかかりましたね」

熊谷はそこで働くうち、介護の仕事にどんどん惹かれていきます。

熊谷 「病院での介護はほんとに大変で、夜勤だと2人で大勢の患者を受け持つんです。トイレ介助では転倒の危険もあるし、すべてが時間との闘いでした。でも時間に追われた業務だと、患者さんと交流する暇もなくなってしまう。私はたくさんお話がしたかったので、どうしたら仕事の効率を上げられるか、常に考えていました。その『考える』という部分がとても楽しかったんです」

2年余りたった頃、熊谷は結婚。その後、息子を出産しますが、院内保育はすでに満杯。熊谷は悩んだ末、退社を決意します。

熊谷 「夜勤の仕事では、子どもをその間、預けなければなりません。すると無認可保育園になってしまい、お金がかかります。生活のために働くのに、高い保育料でかえって生活を圧迫されて、働く意味も分からなくなってくる。それで退職しました」

退社はしたものの、熊谷は生活のため、またすぐに働くことに。息子はまだ6、7か月でした。

熊谷 「息子が23時くらいに授乳した後、朝まで寝てるような手がかからない子だったので、夜間のパート勤務で訪問介護をしました。2、3件回って朝、当時の夫と交代という感じでした。けれど、息子が成長するにつれて活発になって、昼寝の時間も短くなってきて、私の方がつらくなってきたんです」

息子が2歳になろうとする頃、熊谷は院内保育のできる病院に移ります。しかし、給与面で困難を感じて退社。折しも、以前勤めていた札幌西円山病院で院内保育が使えるということを耳にして、熊谷は古巣に舞い戻ります。

忙しい日々を送るうち、5年の歳月が過ぎ、8歳になった息子はバスケを始め、熊谷も審判を務めるように。

熊谷 「ずっと息子にバスケをしてほしかったので、『ちょっとやってみようかな』と言われた時は嬉しかったです。練習や試合に付いて行ったり、送り迎えをする中で、かなり負けず嫌いなんだなとか、今まで分からなかった彼の側面に気づけましたね。

私自身も、子どもを産んでから、なかなか新しいことに踏み出せなかったんですけど、ミニバスの審判を始めました。審判と選手は全く別物で、見る目線が違うので不安ではあったんですけど、やってみたいと思って」

選手と一緒に走り、ルール違反に笛を鳴らしながら、心地よい疲れを味わっていた熊谷ですが、病院での夜勤が増えるにつれ、息子と過ごす時間が減っていきます。

熊谷 「息子がバスケを始めてからは、遅勤と夜勤が続くと、丸二日くらいほとんど話ができなくて。そういうことが増えてきて、息子が怒りっぽくなったり、感情が不安定になってきたんです。寂しい思いをさせてるんだろうなと思って、仕事を辞める決断をしました」

熊谷は札幌西円山病院を退社、しばらく息子との時間を過ごした後、リハビリ特化型のデイサービスでパート勤務を始めました。

CHAPTER3

重度訪問介護の世界へ、見守りの大切さに気付く日々

さまざまな形態の介護を経験してきた中で、熊谷は忙しかった日々を懐かしく振り返ります。

熊谷 「認知症の方は何も分からないという認識で介護にあたる人が多いんですが、それは違います。しっかり関わると顔を覚えてもらえたり、『また来たのかい』ってニコニコしてくれます。だから、満面の笑みをもらったときは、関わり方が間違ってなかったんだと、嬉しかったです」

それまでの勤務でも、熊谷は困り果てたという経験はないそう。リハビリ特化型デイサービスにいる間にママさんバスケットボールも始めました。

熊谷 「縁あって、バスケに戻ることになって、コロナ禍までは毎土曜日に練習や試合に行ってました。結構疲れますけど、私、自分を追い込むのが好きなんです(笑)。手を抜くのが嫌で、夢中になっちゃうんです」

そうして2019年、熊谷は重度訪問介護(重訪)の世界に足を踏み入れました。

熊谷 「実はこの頃、離婚を決意していて、息子を一人で育てていこうと。だから給与面は一番重視していました。介護以外の仕事も考えてみましたが、求人広告を見ても、気づけば介護に目がいってるんです。

重訪については、長年介護をしていても聞いたことがなくって。何だろうと思いましたね。HPを見ても、実際にどんな支援なのかイメージがつかめず。医療的ケアについても、自分にできるかなという不安もありました。でも、知らない分野が気になって応募したんです」

初めての障害者介護。熊谷は自分の可能性を現場で見極めようと、まずは非常勤で働き始めます。最初に向かったのはALS(筋萎縮性側索硬化症)の女性のお宅。人工呼吸器を付け、喀痰吸引・経管栄養の医療的ケアを必要とする方でした。

熊谷 「支援初日の見学ではクライアントの性格や接し方を考え、2回目にはコミュニケーションを取って、ケアをさせてもらいました。3回目には自信がついて、翌月から正社員にしてもらいました」

支援を始めた熊谷ですが、病院とは違う1対1の長時間のケア。重訪特有の「見守り」に、初めは戸惑いを覚えたといいます。

熊谷 「私、ここに座ってていいのかしら、と。サボってるようで、そわそわして。でも、次第に見守りという時間の大切さに気付きました。常に誰かが側にいて話しかけられたら本人もつらいだろうし、ぼーっとしたり、パソコンや携帯を見る時間も欲しいだろうなと。

だから、一人でいる雰囲気を作るために、視界から消えて、いい距離感で見守れるよう考えましたね」

また重訪は、クライアントの意思を最大限に尊重する当事者本位の介護で、介護者主導の病院のやり方とは大きく違います。熊谷はその面からも、重訪が性に合っていたよう。

しかし、1年後、夜勤が多くなり、息子が一人で朝に起き、学校に行くことが増え、過敏になってしまったことから退社。熊谷は日勤勤務のある重度訪問介護事業所に移り、その後、2021年4月にホームケア土屋札幌に入社します。

CHAPTER4

コーディネーターとしての苦労や喜び、そしてバイク

2021年11月現在、熊谷真代はホームケア土屋札幌にて、現場を管理するコーディネーターとして日々、奮闘しています。

熊谷 「コーディネーターの仕事はクライアントとアテンダント両方の管理です。そのため、現場の支援内容を詳しく把握することから始めます。また重訪の場合、長時間、同じ空間にいるので、関係性がこじれることもあり、たまに現場に様子を見に行ってます」

その中で熊谷が大事にしているのは、コミュニケーションを丁寧に取ること。

熊谷 「コミュニケーションがしっかり取れていると、何か突発的なことが起こった時や、お願いをするときにも、相手の対応が全然違うと思うんです。信頼関係があれば多少の不手際があっても、大目に見てもらえますからね(笑)」

それでもコーディネーターとしての苦労は、やはりあるようです。

熊谷 「人対人の仕事なので、どうしてもアテンダントとクライアントが合わないことが出てきます。その時に、どう対応しようかは、いつも迷います。アテンダントに支援から外れてもらうことは簡単です。けれど、イレギュラーなことが起こった時のバックアップ体制を考えると、そうも言っておられず、悩みどころです」

苦労もある中、喜びも同じくあるとのこと。

熊谷 「私自身が現場に入る時間は短くなりましたが、それでもクライアントとコミュニケーションが取れてるなと実感できた時は嬉しいです。それに今、アテンダントとの関係も良好で、上司も分からないことがあればすぐに対応してくれますし、雰囲気もすごく良くて。ミーティングや意見交換も頻繁にできて、今、とても働きやすいです」

新規の現場も立ち上げていくなど、充実しているという熊谷。一から現場を作り上げることに緊張感はあるものの、楽しみだと話します。そんな熊谷が考える自身の今後とは。

熊谷 「まだまだ知識不足ですし、自信も十分ではありません。これからもっといろんなことを勉強して、何を聞かれても、どんな場合でもきちんと対応できるようになりたいです。成長していきたいですね」

念願の中型自動二輪免許を取り、最近、アメリカンタイプのバイクを購入した熊谷。塗装にもこだわった愛車で、来年は風を切って海辺を走りたいと目を輝かせます。

熊谷 「景色を見るのがすごく好きなんです。高校卒業後からバイクの免許がずっと取りたかったんですが、チャンスがなくて。それにバイクを趣味にすれば、息子から手が離れても寂しくないかなと思うところもあって」

最後に熊谷は、介護を目指す人にこんなメッセージを送ります。

熊谷 「介護の仕事は大変なこともあるけれど、その分、やりがいもあるし、コミュニケーションや信頼関係を作ることで、1日1日がとても楽しいものになります。土屋では技術は後からいくらでも身に付けられるので、未経験でも心配はありません」

クライアントによいケアを届け、アテンダントには笑顔で終われる1日を作ろうと、今日も熊谷は、バイクで北海道の大地を走り抜ける日を夢見ながら、仕事に向かっています。


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