あぐり工房

あぐり工房 土屋

井上早織

管理者 / (株)アグリー創業及び開所者

『生きることは食べること』、そして、1%の笑いがあれば生きていける。

 《interview 2023.3.30》

2022年1月に自身が創業及び開所した(株)アグリーと就労継続支援B型事業所「あぐり工房」をM&Aにて(株)土屋に譲渡し、現在は(株)土屋の社員として「あぐり工房 土屋で働く井上早織。彼女の父親も起業しており、生まれた時から、「経営者の娘」という環境で育ち、さまざまな経験を通して痛みと喜びを感じ経験し生きてきました。「いいことも悪いことも、自分の経験が誰かの役に立てばありがたい」ーーそう語る井上のインタビューです。

CHAPTER1

小さい時からお金好き!?

愛媛で生まれた井上。

父親はアパレルやグッズなど多くの商品を取り扱う通信販売の会社を経営していたと言います。

井上「両親が商売をしていたので、小さい頃は、あまり構ってもらえなくて寂しかったという記憶があります。そのせいか物心ついた時から、やたらと人前で目立つようなことばかりしていました。
私は従業員のみなさんのことを『お兄ちゃん』と呼んでいて、みなさんにおしめを変えてもらいながら育ちました。大人ばかりの中で育ったので、生意気でわがまま、大人に構ってもらえない時は一人で遊んでいたので団体行動が苦手。幼少期愛媛に住んでいた頃は、後ろが山で前が海という自然豊かな環境で自由奔放に育ちました」

父の会社は「全国27カ所に支店があり、毎月開催される店長会議には全国から店長が集まってくる」といった全国展開規模。創業から年商200億円に成長するまで、井上は父親が起業した会社をずっと見て、育ちました。

そんな環境からか、小さな頃から非常に商売が好きだった井上。「一回50円の肩揉み券をつくったり、何か頼まれたらそれをお金に変えることをよくやっていた」と言います。

CHAPTER2

留学によって広がった視野

その後、会社の規模が大きくなるにつれ、本社が愛媛→岡山→大阪へと移転、家族もそれに合わせてお引っ越し。

京都の短期大学卒業後には、2年ほどアイルランドに留学。その視野を世界に向けて広げていきます。

井上「アイルランドを拠点に、イギリス、エジプト、ギリシャ、アメリカにも旅をしました。行く先々で、様々な考えを持った、様々な人種の人たちと出会ったことで視野が広がり、自分が何をしたいのか、どんな生き方をしたいのかーー将来のことを見つめ直すいい機会になりました。
文化、価値観、常識etc……世界にはもっともっと多様な『生き方』や『考え方』があって、これまで自分が生まれ育ってきた文化は、その中の一つに過ぎない。様々な文化や価値観に触れることで、時に『自分』や『日本』を俯瞰し、もっと自由に『自分らしさ』を見出していきたい、と思ったんです」

「いろんなものを見たい、知りたい、体験したい、という思いが強く、危ない目にもたくさん遭いました(笑)」と若かりし頃の“やんちゃぶり”を笑う井上。

井上が留学していたのは1989年。ヨーロッパがECからEUへと進化する過渡期で、欧州経済が盛んに動いていた頃。アイルランドという小さな国に世界の先進国から多額の資本が投資され様々なビジネスがはじまるのを“肌で感じ”、学んだと言います。

CHAPTER3

親の会社で身につけたスキル

幼稚園の時から親の会社を継ぐのが私の夢だった

井上「幼稚園の時から親の会社を継ぐのが私の夢だったんです。経営者の父を見ていて、『社長というのは10時ぐらいから出勤してよくて、めっちゃいい車に乗って、たくさん買い物もできて、何もかも自分の思い通りにできるんだ!』って思ったんです。無知だった私は、そんな父を見て『社長になりたい』『社長って呼ばれたい』と思いました(笑)」

帰国後は、就職活動が面倒だったということもあり、“とりあえず”父親の会社に就職。
父親の会社で井上はマーケティング部に所属し、セールスプロモーターとして仕事に従事。何十億という単位の予算を使い、大手広告代理店と一緒に「カタログの企画制作からコピーライティングまで、いかにその商品を魅力的に魅せ売り上げに繋げるか、また商品チラシを新聞に折り込み、顧客の購入レスポンス率をはじき出し、次のカタログ制作に活かすマーケティング分析を行うなど、通販の核となる仕事をさせてもらって培ったスキルが、後に経営者となってから、かなり役に立った」と語ります。

CHAPTER4

人生の“重石”そして“肥やし”にもなった「母親の自殺」

人生で味わった様々な痛み・苦しみがすべて肥やしとなって今の自分がある

「私は、人生で味わった様々な痛み・苦しみがすべて肥やしとなって今の自分があると思っています。なので訊かれればすべてオープンに話します」と話す井上。

井上「私が28歳の時、父の会社が倒産して私達家族は住む家を失いました。でも、年金までは奪われないので、両親はその後も十分に暮らしていけるお金は補償されていました。
にもかかわらず、母は倒産して数年後自殺。『なんで自殺を・・・?』――母が自ら命を絶った『理由さがし』はそこからはじまりました。いくら考えても本当のことはわかりませんが、この『理由さがし』は、私が生きていく上で、時に重石となり、深く生きるための肥やしにもなりました」

CHAPTER5

生きることは食べること

人生いろいろ。1%の笑いがあれば生きていける。

井上「母は背が低くぽっちゃりしていました。亡くなった後、山ほどあった母しか着れそうにないブランドの服を、泣きながらポリ袋に入れて、ぐっと口を閉めて、ゴミ箱に捨てて・・・…。本人が大切に保管していた高価な服も、死んだらぜーんぶゴミ。虚しいものです。これまでどう生きるかということは考えたことありましたが、母の自殺によって『どう死ぬか』を考えるようになりました。

『人はなぜ生きるのか?』『自分はどんな死に方をしたいか?』といった死生観。考えれば考えるほどわからなくなった時期もありました。ただ言えことは、人が生きるためには食べなければならないということ。『人は食べるために生きる』『生きるために食べる』。どっちにしても『食が生きる原点』と思うようになりました。

人生いろいろありますが、『生きることは食べること』、そして、1%の笑いがあれば生きていける気がします」

CHAPTER6

「生きる原点「食」と、直接関わっていきたい」

――(株)アグリーとNPO法人あぐりの杜の設立――

2003年に井上は結婚。
大阪に住み、専業主婦となります。

井上「結婚をして専業主婦になってからは、食にこだわり、食材にもこだわって、多少高くても安心・安全なものを買うようにしていました。でも年を重ねていくうちに、都会で買う『安心安全』に不振を抱くようになり、お金のかかる都会での豊かな暮らしに関しても、これが持続可能かどうか不安を抱くようになりました。そんな時、テレビの番組(『人生の楽園』『笑ってこらえて!』『ダッシュ村』など)を観て、田舎暮らしや農業に興味を抱くようになりました。

一方、偶然にも夫が勤めていた会社で水耕栽培による農業事業をすることになり、夫が社長になる予定で話が進んでいました。が、会長が自殺したことでその話が流れ、諸事情により夫も退職を余儀なくされました。
本来ならばそこで終わる話ですが、田舎に移住して農業を生業として暮らしたいという想いが募っていた私は、夫と相談し、会社を設立。銀行から資金を調達して三重県名張に移住し、水耕栽培による葉物野菜の生産販売をスタートいたしました。それが、株式会社アグリーのはじまりです。

会社の社名は私が考えました。『あ』からはじまって『―(ハイフン)』で終わる名前にしたかったんです。いろいろ考えて思いついた名前が『アグリー』。よくagriculture(農業)から名前をとったように思われがちですが、実は“I agree with you”の『アグリー』なんです。『agree』とは、訳すると『賛同する』といった意味。『何事も受け入れて流れに抗うことなく生きていきたい』。いつしかそう思うようになっていた私は『アグリー』という言葉にそんな想いを乗せて社名を『アグリー』と名付けました」

2011年、井上は夫婦で大阪から三重県名張市に移住。
そこで、農業生産法人 株式会社アグリーを設立します。その年は奇しくも、東北大震災が起こった年でもありました。
新天地で創業した会社に、「アグリー」と名前をつけた井上。その時、どんな景色が見えていたのでしょうか。

井上「その時の気持ちを色で表すとしたら、不安も少し混じった希望色、“ちょっとよどんだ虹色”が近いかもしれません。季節は芽吹く肌寒い2月か3月ごろ、少し梅の香りがする季節。長年住み慣れた大阪の地を後に、はじめて三重県の地に降り立った時のイメージはそんな感じでした」

設立当初は、井上の夫が代表となり、自身はサポートとして関わります。

井上「父親の会社倒産で、多くの人にご迷惑をおかけし、自らも逃げ隠れしなければならない悲惨な経験をしたことから、いつしか経営者にだけはなりたくないと思うようになっていたので、株式会社アグリーの経営は夫に任せ、私はあくまでサポートとして関わりたいと思っていました。ですが、いざはじめてみたら何もかもが大変で、描いていた田舎暮らしとは程遠く、テレビ番組『笑ってこらえて!』で出てくる田舎の優しそうな爺さん・婆さんにも出会うことなく、心身ともに疲れ果てる日々の連続でした。

実際に農家になって身を持って知ったのは、葉物野菜の生産には365日休みがなく、野菜(命)を育てるって大変なわりには『薄利』。農業は意外と閉鎖的等々……。
たまたま農地を貸してくれる人がいたというだけで移住した三重県名張には、当初頼れる人もなく、孤独で八方塞がりの状況に陥ったこともありました」

「時間的にも経済的にも精神的にも余裕がなくなり、経営のやり方も夫と意見が合わず、徐々に喧嘩が増えていった」と当時を振り返る井上。

その後、いろいろ話し合った結果、ダメもとで井上が株式会社アグリーの代表に就任。

井上「就任した初めのころは、周囲から『女性のくせに…』とか『生意気』とか、『素人がちゃんと野菜を作れるもんか』とか、いろいろ言われましたが、むしろ、そんな言葉をヒントに『女性だからできる新しい農業のかたち』というキャッチフレーズで、どんどん女性であることを前面に出し、コアターゲットである地元の主婦層に様々な形で『アグリー農園®』のお野菜をPR(アグリー農園®とは、株式会社アグリーが商標登録したブランドネームです)。

野菜を売るというより『井上 早織』を前面に押し出し『アグリー農園®』をブランディングしていきました。昔、父親の会社で培ったセールスプロモーターのスキルは、経営者になった時、本当に役に立ったと思います。父親の会社が倒産した時は、すべてを失ったと思いましたが、『経験とスキル』という一生使える財産は残っていたんだと思うと心から両親に感謝です」

CHAPTER7

農福連携をはじめたきっかけは「笑顔」

水耕栽培による小松菜や水菜などの葉物野菜の生産からスタートした株式会社アグリーは、徐々に売り上げを伸ばし規模も拡大。

井上は、ある障害のある女性との出会いから2013年、N P O法人 あぐりの杜を設立。就労継続支援B型事業所「あぐり工房」を開所し、農福連携による障がい者就労支援事業をスタートします。
そのきっかけとなったのは……

井上「農園の近くに、特別支援学校があって、ある日その学校の進路指導の先生から『水耕栽培は障がい者の就労訓練に向いているように思うので、うちの生徒を研修させてもらえないか』というお話をいただき、一人の女の子と出会いました。

彼女には身体の麻痺があり、思うように手が動かせませんでした。穴の開いたパネルに苗を入れていく簡単な作業ではあったんですが、彼女にとっては難しく、夏40度以上するハウスの中で、汗だくになりながら必死で苗を植えていました。時間はかかりましたがなんとか作業が終わったので、一言『どうだった?』と声をかけてみたら、満面の笑みを浮かべて『楽しかったぁ!!!』と答えてくれました。

ちょうどその頃、『こんなきつい仕事で、この時給ではやってられない』というようなことをパートさんから言われたばかりだった私は、『お金を払うのなら、あんな捨て台詞を言って辞められる人より、こんな素敵な笑顔で答えてくれる彼女のような人にお金を支払いたい』と思いました。

しかし現実は厳しく、作業スピードが遅い彼女を雇用する力は、株式会社アグリーにはありませんでした。進路指導の先生からも『彼女を雇用して欲しい』と言われましたが、それは無理だと言って、一旦断りました。けれど、あの彼女の笑顔が忘れられず、何か方法がないか模索し始め、インターネットの検索から『障害者就労支援』というキーワードを見つけました。

そこから糸を手繰り寄せるように『就労継続支援B型事業所』に辿り着き(当時株式会社アグリーでは認可が取れないということだったので)、NPO法人を立ち上げ、2013年県の認可をとって就労継続支援B型事業所『あぐり工房』を開所。あの笑顔の素敵な彼女を利用者として迎え入れ、株式会社アグリー(農業)×NPO法人あぐりの杜(福祉)の農福連携事業をスタートさせました」

CHAPTER8

「お商売」とは「ときめきの等価交換」

専業主婦から経営者になった井上にとって、お商売(ビジネス)とはどんなものなのでしょうか。

井上「『夢を実現する手段』『困っていることを解決する手段』『人を幸せにする手段』だと思います。もちろんお商売はお金儲けだとも思いますが、大切なのは、その設けたお金を何に使うかだと思います。私は、結構浪費家だと思います(笑)。
我慢してお金を貯めるより、何かにときめいたらすぐにそれが欲しくなる、やりたくなる性分なので、あまりお金が貯まるタイプではないですが、お金と引き換えに自分のやりたいことを実現してきたように思います。そういった意味では、私にとってお商売(ビジネス)とは『ときめきの等価交換』と言えるかもしれません」

「小さい頃からお金が好きだった」と話す井上。そこには、井上ならではの“お金”というエネルギーとの付き合い方がありました。

井上「お金というのは、とてもエネルギーの強い物質だと思います。エネルギーが強いだけに人を惹きつける。いい人も悪い人も惹きつける。そして使う人によって『汚いもの』になったり、『きれいなもの』になったりする。つまり益にも害にもなるのが『お金』だと思います。

『お金が大好き!』というと、誤解を生んだり、ちょっと引く人が多いかもしれませんが、(これは私の持論ですが)お金を好きにならないとお金は入ってこないと思います。変な例えですが、好みの男性(女性)をゲットする手段と似てると思います。

自分の好きなタイプの男性がどこに生息しているか、何を好むのかを研究して、そこに近づき、いろいろな手段を講じてハートを射止める。お金も、欲しいならそれがどこにあって、どうすればゲットできるのか、いろいろな手段を講じてゲットする。ね、似てると思いませんか(笑)。どちらも、まずは“好きになる(興味を持つ)”ことが大事だと。

私はお金が入ってきたらすぐに何かに使っていました。利用者さんが『トイレが狭い』と言ったらトイレをつくり、スタッフの人たちが寒いといったら、冷房機器を設置して環境を整えたり、スタッフや利用者さんに美味しいお昼ごはんを食べさせたいと思ったら、すぐに厨房をつくったり……。

特に見返りを意識してやっているわけではないですが、結果的に人が喜んでくれたら、その『喜び』が、何らかの形で返ってくるんです。それは、時にお金というエネルギーではないですが、何かしら『喜び』のエネルギーが戻ってくる。経済も自然も人も、この世の中はいろんなエネルギーが循環して成り立っているように思います」

CHAPTER9

M&Aという選択

農業を生業として12年。農福連携事業をスタートして10年。

井上「知名度や会社の信用が高まり、社員や利用者の数が増えることに比例して、そのリスクや責任の重さを感じるようになりました。一緒に働いてくださっているスタッフや利用者さんのことを想うと、『私達夫婦に何かあっても大丈夫なようにしておかなければならない』という思いが強くなっていきました。

そんなある日、1通のDMに目が留まりました。それは福祉業界に特化したM&Aの仲介をする会社からのDMでした。若いころ、父親の会社倒産という経験から、後継者がとても大事だということを、身をもって知っていました。

なので起業して2~3年経った頃から、すでにM&Aも視野に入れ、将来のことをいろいろ考えてはいました。夫婦だけで農業をやっていれば、ただ畳むだけで終えられるますが、雇用をしてしまうと夫婦だけの問題ではなくなります。雇用した方の将来も考えてあげなければなりません。特に農福連携事業をはじめてからは、利用者さんの将来のことも考え、後継に関してもっと悩むようになりました。

時代の流れから、後継者を探すというよりM&Aが望ましいと思うようになってはいたものの、まだまだ早いと思っていたので、ほんと軽い気持ちでそのDMに書いてあった先に電話をかけてみました。その仲介業者から紹介されたのが株式会社 土屋だったんです。

あっという間にM&Aのお話がまとまり、2022年1月にM&Aを実行。突然のことだったので、いろんな方が驚いていましたが、誰より一番驚いていたのは、実行した私自身でした(笑)。『人生は運と縁とタイミング』とは私がよく言う言葉なんですが、株式会社 土屋との出会いは、まさに『運と縁とタイミング』でした。そしてこのM&Aは、私にとってガラッと人生が変わる大きなターニングポイントにもなりました」

そうして、2022年1月から、株式会社アグリーは土屋の仲間となり、NPO法人あぐりの杜が運営していた就労継続支援B型事業所「あぐり工房」は株式会社土屋が運営することとなり、「あぐり工房 土屋」に名称を変え新たなスタートを切りました。

CHAPTER10

立ち位置がかわると見える景色が違う

株式会社土屋との出会いによって変わった「見る景色」

井上「M&A後、ありがたいことに、私も夫も土屋の社員にしていただき、私は『あぐり工房 土屋』の管理者という立場でお仕事をさせていただいております。今は経営者ではないですが、これまでと似たような環境でお仕事をさせていただけてることに、心から感謝しております。

仕事内容的には、今までとあまり変わってない気がしているのですが、気持ちの面で全然違うというか、見える景色が違うというか、私の中で全然違うんです、何もかもが。とっても新鮮です!これまで当たり前だと思っていたことが実はそうではないと気づかされたり、周囲の私を見る目も変わったように思います。組織全体において、これまでの文化に新しい文化が入り、リフレッシュした気がいたします。全く戸惑いがないといったら嘘になりますが、私は今、のこの“立ち位置”をとても楽しんでいます。

縁あって入社させていただいた株式会社土屋。たくさんの感謝の気持ちを込めて、今までの経験を活かしてお役に立ちたいと思う井上早織54歳です」


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