あぐり工房

あぐり工房 土屋

山田寛

農業部門 生産管理責任者

野菜も人も、“育っていく過程を見守り続けている誰かがいる“

 《interview 2023.3.7》

就労継続支援B型事業所 あぐり工房土屋で、現在、農業部門の生産管理責任者を務める山田寛。システムエンジニアという仕事を離れた後、あぐり工房での仕事を通して、土と、人と出会ってきました。その過程を通して、山田が見つめてきたものとは。農業と福祉の可能性を尋ねます。

CHAPTER1

利用者の成長する姿を見ること、生産物をお客様から評価していただけること

三重県名張市ののどかな田園地帯に位置するあぐり工房 土屋には、「農業部門」「クリエイト部門」「調理部門」「パソコン部門」の4つの部門があり、利用者さんは、その中から一番働きたいと思う部門で日々就労の訓練をされています。

山田「私が携わっている農業部門は、施設外就労です。(※施設外就労とは、利用者さんと共に施設外の会社に出向き、よりリアルな就労環境で就労の訓練を行うことをいいます)あぐり工房土屋の農業部門(施設外就労)では、土屋の子会社である株式会社アグリー(農業生産法人)に出向き、農作業を請け負うことで収益を得、利用者さんの工賃としてお支払いしております。

一方、株式会社アグリーでは、小松菜、水菜、レタスといった葉物野菜を水耕栽培にて生産販売しており、名張市以外にも津市や松阪市にも農園があります。週に2~3日は農業生産技術者として名張以外の農園も巡回し、若手スタッフ(農業の担い手)の育成にも力を入れております。」

就労継続支援B型事業所 あぐり工房土屋の利用者さんは現在31名。知的・発達・精神など障害を持たれる方(20代〜50代)が事業所を利用し就労の訓練をされています。

農業部門で生活支援員や職業指導員として働くスタッフは5名。中には80代の男性も現役で働かれているそうです。

山田「皆さん、とにかく明るくて賑やかで。休憩時間も昼寝ができるような状態ではないですね(笑)。昼休みも利用者さんと一緒にトランプをしたり、バトミントンをしたりして、一緒に過ごしています。仕事中も賑やかな会話が途絶えない職場です」

農業と福祉の連携を掲げるあぐり工房土屋では、利用者さんが自身の可能性を模索しながら、就労訓練を行なっています。
「利用者さんの成長する姿を見るのがいちばんのやりがい」と話す山田。農業と就労支援という2つの仕事は、どんな利点で重なっているのでしょうか。

山田「作業内容として、野菜を植えるところから出荷するまでの工程が非常に幅広いんです。デスクワークのような座り作業もありますし、力作業で動き回ったり、重たいものを運んだり、野菜を入れる袋をきっちり詰めるといった作業もあります。

一つ一つの工程はシンプルで、役割が明確になっている仕事ばかり。ですので、どんな障害をお持ちの方も、まずは作業に挑戦してみて、その中で得意な作業をスタッフが見極め、担当をしてもらっています。そして作業が終わった後には、必ず感謝を伝えるようにし、『自分は、ここで役に立ってるんだ』という実感を持っていただくようにしていますね。

このような過程を繰り返しているうちに、週2日しか勤務されていなかった方が毎日働けるようになった、というようなことが今までもたくさんありました」

あぐり工房という場そのものが、利用者さんにとって「自分の居場所を『自分で築ける』」場となっています。

山田「“居場所”という面では、農業という仕事なので、作業する敷地が非常に広いんです。水耕栽培をしているビニールハウス内も長さ60m×幅21mほどの広い空間。作業中、息苦しくなったら歩いたり、野菜を見ながら散歩したりもできます。ハウス・作業所の周りは田んぼなので、休憩時間は、コミュニケーションが得意な方は得意な方同士で集まったり、『一人がいい』という方は好きな場所に行って休んだり。リフレッシュできる場所がたくさんあり、居心地が良いですね」

「『おいしかった、また買いたいです』と生産物を地元のお客様からダイレクトに評価していただけること」がそのまま、やりがいにつながっていると言う山田。

山田「農薬を最小限に抑え品質にこだわって生産したお野菜は、アグリー農園®という商標登録名で地元に親しまれており、マックスバリューやイオン等の大型店、レストランやカフェ等の飲食店等に卸しています。市内の小学校の学校給食で使われている小松菜は全て、アグリー農園®で育てた小松菜なんですよ。

葉物野菜は、なかなか輸入ができないものなので、僕らがつくるのを辞めてしまうと、地物の葉物野菜が減ってしまう。『この土地で、価値のあるものをつくっているんだな』と実感できます」

CHAPTER2

思わぬところからも「笑い」の起こるあぐり工房 土屋

いつも笑いに溢れているというあぐり工房 土屋。

最近、笑ってしまったことはどんなことですか?と尋ねると、「日常的にあるんですが……」と、笑いながら山田が印象に残った“微妙な笑い”のエピソードを聞かせてくれました。

山田「昨年の年末、仕事納めの日にみんなで集まって終礼をしたんですね。その中で私も、管理者として、リーダーとして、皆さんに一言挨拶をさせてもらったんです。
その時は“いつも皆さんに元気をもらって働いている”ということをお伝えしたくて、『僕が仕事を続けてこられたのは、皆さんのおかげです、ありがとうございます』とお話をしたんですが、私は普段からそういうことを素直に伝えるキャラではなかったので、湿っぽい空気が流れてしまって……『なんか、山田さん、どうしたん?急に』という空気になってしまいました(笑)。

この空気をどうしようかなと思った時に、ある利用者さんが私の横で『どういたしまして』と仰ったんですよ。その受け応えが非常に面白くてーー。空気が和みましたね。あぐりでは、こういうことで助けられることが度々あるんです。
そのあと、その利用者さんは、何を思ったのかモノマネを始めました。しかもマイナーな野球選手のスイングのモノマネで、誰もわからず結局、すべったという(笑)。そして、すべったことに対して、残念ながら僕は何もできなかった(笑)。
でもその“フォローしてもらったのに、返せなかった”という空気さえも、その時は笑いになったんです。微妙な雰囲気ではあったんですが、“笑い”と聞かれた時に、ふと思い返しました」

CHAPTER3

病を「得て」出会った考え方―― できないことに囚われるのではなく、できない中でやれることを探す

奈良県で生まれ育った山田。

「なんの変哲もない、無難な子でした」と幼少期を振り返りますが、「小学校ではサッカーを、中学からは器械体操をやっていた」という抜群の運動神経の持ち主です。

山田「20代の頃はバク転や宙返りを特技として、人前でよく披露していましたね。始めた理由ですか?単純にモテたかったんです(笑)」

その後、定時制の高校に通いながら、専門学校に通い、美容師を目指します。免許を取得したものの、「美容師には向いていない」ことに気づき、その道を断念した山田。

さまざまな仕事に関わる中で、20歳の時、突発性の心臓の病気を発症します。

山田「20歳から22歳くらいのあいだは、入院治療や自宅療養の期間もあって、2年ほどブランクがありました。その時は、階段を登ってはいけない、重いものを持ってはいけない、走ってはいけない……等、心臓に負担がかからない生活を強いられました。体力を使う動作がほぼできなくなったので仕事を探すことも難しく、そこから職業訓練校で情報処理の資格を取り、電材商社の社内システムエンジニア(S E)として社内ネットワークを管理する仕事に就きました。

自分で言うのもなんですが、それまでの私はいろいろなことをそつなく、それなりにできるタイプだったんです。それが突然、仕事や生活を大幅に制限されることになり、『自分はなぜこんなことになったんだろう』と、病気になった当初は自分を受け入れられませんでした。でも、病気を受け入れてからですね。今までの自分になかった考え方――できないことに囚われるのではなく、できない中でやれることを探すというようなーーに変わりましたね。その考え方は、今携わっている福祉にも活かされているのかなと思います」

その後、病状の悪化もあり、社内S Eの仕事を3年ほどで退職。
治療を続けていく中で、山田の体は、徐々に回復に向かっていきます。

山田「26歳の時に、三重県名張市に移住をしました。そのタイミングで母親と私は仕事を辞めていたので、名張では職業を探すところから始まりました。
ちょうどその時、設立されたばかりの株式会社アグリー(当時)が事業所のサービス管理責任者を探していたんです。母親がたまたまその求人に応募し、アグリーの代表・井上早織さんと出会いました。最終的に、母は違う会社で働くことにはなったんですが、『非常に素敵な人と出会った』と私に紹介をしてくれたんです。

そこで初めてお会いして、何より早織さんご夫婦の人柄に惹かれました。ご夫婦は大阪から三重県名張市に移住し農業を生業とするために会社を立ち上げ、福祉も取り入れた経営をされてきた。農福連携という視点と、その行動力が素晴らしいなと思ったのが一つです。

そして、早織さんは若者に対して夢や希望を持たせてくれる存在でした。『今、小松菜をブランド化させるために頑張っているんだ』『自分は農福連携のスペシャリストになりたい』等、将来の夢をたくさん語っていただいて、その考え方に僕自身も共感しました。『そんな夢のある会社で働きたい』と直感で思わせてくれるような方で、話をした翌日には農園で働きはじめていたんです」

CHAPTER4

S Eから福祉職への転職。“これまでつくってきた自分”という皮を一枚ずつ剥いでもらっているような感覚“を知る

現在は病も完治し、活き活きと自身の仕事を語る山田にとって、「電材商社でS Eをやっていた頃は、コミュニケーションを自分が最も苦手なことと感じて、非常にストレスを感じていた」時期だったと言います。

山田「こういった言い方をして良いのかわかりませんが、福祉の仕事に携わってからは、正に人間と直に関わる仕事なのに、ストレスを感じることが少なくなりました。もちろん、全くないわけではないのですが、逆に、ダイレクトに、人として純粋に関われることが自分にとっては有難かった。これが福祉という仕事の魅力なんだな、と思いましたね。人間関係が苦手でもできるんだ、と」

山田が抱えていた“人間関係”とは。
かつての仕事との違いは、どんなところにあるのでしょうか。

山田「電材商社にいた頃の上司は非常に厳しく、『上司が言ったことは絶対』というような方でした。上司に呼び出されたらどんなに忙しくても駆けつけなきゃいけない、上司より早く帰ってはいけない、早く出社しなきゃいけないーー直接言われたわけではないんですが、そういう空気感を持っていた方で、私は常に息苦しさを感じていました。

仕事内容も、社員一人一人に『ちゃんと管理をしてください』と厳しく言う情報セキュリティーの部署。電材商社の社員の大半は営業部の方です。営業部はお金を稼いでくる部署で、私のいる管理部はお金を稼いでこない部署――社内にはそんな構図があって、入社して1、2年の新人が『○○をしないでください』なんて言うと、いろんな部署の方から怒られるんですよ。それを上司に報告すると『なんで上手くやれないんだ』と板挟みになるのがほぼ毎日でした。

私自身にもう少し交渉力があったら違ったと思いますが、結局そういったやり取りが上手くできなかった。その上、自分がいた部署はコミュニケーションもほとんどなく、事務所もシーンとしていてパソコンを叩く音しか聞こえない。そんな状況を常にストレスと感じていて、病気が悪化してしまったんだと思います」

そして、井上との出会いにより、まさに“飛び込むように”アグリーで働き始めた山田。

山田「こんなにも気持ちのよい空間で、皆さんが楽しそうに仕事をしているーー何より、若い方も年配の方も、障害がある方もない方も、いろんな人が混ざり合って一つの空間で働いているーーという環境が衝撃的でした。

そう考えると、電材商社で働いていた頃の自分というのは、自分をつくっていたんですよね。会社での自分とプライベートの自分がはっきりと分かれていた。そうやって“自分をつくること”を当たり前にしてきたんですが、あぐり工房という空間で働きはじめた時は、“これまでつくってきた自分”という皮を一枚ずつ剥いでもらっているような感覚がありました。

コミュニケーションが苦手な人間というのは、自分から話しかけるのが苦手なんです。でもあぐり工房の皆さんは私にすごく興味を持ってくれて、ガンガン話しかけてくれて。だから有難さしかなかったですね(笑)。
聞かれたことに答える、笑ってくれる、駆け引きではない会話ーーそれは、今考えれば人間として当たり前の行為なんですが、当時の自分はその部分に不足を感じていたんだと思います。そうやって、皆さんがすぐに自分を受け入れてくれたことに非常に居心地の良さを感じて、『ありのままの自分でいいんだ』と自然に溶け込めました」

「つくっていた自分」と「ありのままの自分」。以前と今では、仕事における“自分”に大きな違いがあると言います。

山田「サラリーマン時代は、人の機嫌を伺って、相手に合わせるような自分のつくり方をしていたんでしょうね。でも、福祉という仕事においては、社会的に当たり前のことーー例えば、言葉遣いに気をつける、挨拶やお礼をする、やり取りを続けていく等ーーをきっちりやる。つまり、相手を認めるための礼儀として自分をつくっていくんです。

利用者の方は、本当に素直で純粋な方が多い。だからこそ、働く私たちの姿を見てそのまま育つという、鏡のような一面があります。鏡であるということは、『私がちゃんとしていなければ、いいことも悪いこともみんな利用者の方が真似をしますよ』ということでもあるんです。ですから、その点は逆に“ありのまま”ではダメなんです。人間関係は“ありのまま”であっていいんですが。見られていることを常に意識するという意味で、この仕事は奮い立たせられるという面があります」

CHAPTER5

土屋という大きな舞台のひとつに立ってーー「育つ・育てる」は循環する

(株)アグリーの設立から12年。そして、山田が(株)アグリーの農福連携事業で働き始めて12年。

2022年、(株)アグリー及び農福連携事業(あぐり工房)は、M&Aにより、土屋の傘下に入りました。

山田「明らかに変わったのは、大きな会議が増えたこと。一つの事業所ではなくなり、大きな会社の一員になったことで、報告と情報共有は細かくするようになりました。現場の雰囲気や作業内容、一日の流れはほとんど変わっていませんが、スタッフ一人一人のモチベーションが上がっていることは明らかです。今までは『拡大していくんだろうか、現状のままなのだろうか』という先の見えない部分がありました。それが土屋という大きな舞台のひとつに立てたことで、今まで持てなかった希望を持てるようになりました。だから、より一層雰囲気は良くなったかな。

それぞれが自分の仕事に責任感を持つようになったことも個人的には大きな変化です。僕にとっては責任感=プレッシャーでもあって、どちらかというと、プレッシャーの方が大きいのですが(笑)」

農業、そして福祉という仕事に強い思いを抱いてきた山田にとって、「仕事」とはどんなものなのか。そして、働き続けていくことの軸には、何があるのでしょうか。

山田「僕が今までもこれからもずっと持ち続けている思いというのは、仕事を通して、自分の人間性を磨いていくことです。この先、土屋の中で違う部門になったとしても、もしくは何かが原因で仕事を辞めて他の職業に転職することになったとしても、自分磨きは常に続けていく。それがいちばんの軸としてあります。

僕の中には『自分がなりたい人物像』があります。それは、土屋のバリューにも含まれていますが、どんな時も優しくーー。そして早織さんのように、人に希望を与えられる存在でありたいですね。『この人に相談したい』と思ってもらえたり、人から頼ってもらえる存在であること。僕は、外側の環境や自分の内面の状況に左右されないことが強い人間であるということだと思っていて、『心の中が常に平和である人間になる』というのが理想です。そう思って日々訓練はしていますが、なかなかできませんね(笑)」

農業、そして就労支援B型事業所という仕事の中で、山田は日々、ちいさくとも確かな成長を目にしています。
育つこと、そして、育てること。このふたつは、山田にとってどのように在るのでしょうか。

山田「育つこと、育てることは、双方向に作用するものだと僕は考えています。自分が育つことで人を育てることができますし、人を育てることで自分も育つ。自分がただ育つだけでもダメだし、ただ育てるだけでもいけない。互いに作用されて、育てることで育つという相互関係でないといけないのかなと思っています。

野菜というのは、基本的に何もしなくても育つんです。肥料と水があれば。ただ、『いい野菜をつくろう』と思えば、いろんなことをしなきゃいけない。手をかければかけた分だけ、いい野菜ができます。それが明確なので、やりがいにも繋がります。日々、成長する命をしっかり観察し続けていくことも『育てる』という行為の中に入ってくると思いますから」

D I Yを得意とする山田。あぐり工房には、山田が工夫し、手作りしてきたD I Yの作品が溢れていると言います。
12年という歳月、農福連携を通して出会った仲間たちと「アグリー農園®というブランド野菜」の圃場(ほじょう)と、「自分」という内なる畑を耕し続けてきた山田。

山田「この仕事は、常に野菜が育っていく過程を見続けられます。あぐり工房を利用される方も、『自分の手でちゃんと野菜をつくってるんだ、それが食べる人の元に届いて、ちゃんとお金に変わっていくんだ』という一連の流れを見ながら、自分が植えたものが商品として巣立っていくまでを見届けられる。その実感が持てるという面で、農業という仕事は素晴らしいと思いますし、育つ・育てるという相互作用の面でも農業と福祉は相性がいいんだな、と感じていますね」

野菜も人も、“育っていく過程を見守り続けている誰かがいる“ということ。
それと同じように、山田が「病」や「人付き合いの苦手さ」の中から立ち上がる姿を“名張の自然”や“共に働くダイバーシティな仲間たち”は、見守り続けてきました。

彼らの有機的で確実な変化は今、さらに大きな「土屋」という土壌を得て、一層のびのびと、根を張り、葉を茂らせ、育っていくことになるでしょう。そしてそれはまた、“まだ見ぬ誰か”と、育ち、育てられていくことでしょう。


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