コスモス

コスモス

岡本侑生絵

介護ステーション事業 / デイサービス事業 スタッフ

世の人が打算を超えて、「一期一会」と全身で思い、生きていけますように。

 《interview 2024.2.10》

2023年に株式会社 土屋の仲間となった有限会社コスモスで活躍する岡本侑生絵(おかもとゆきえ)。彼女はこれまでも、ゼネラルサポートチームとしてかながわ、関東、習志野の事業所へ内部監査室から各地のデイホームに出向き、その土地や、人、仕事との出会いを重ねてきました。介護職との出会いから10年。今、岡本がいる場所から見えてきた幸せとは――。「出会い」をキーワードに、岡本の旅の軌跡を振り返ります。

CHAPTER1

いつだって明るく前向きな“人生の先輩方”との日々

下町の人情味ある雰囲気が漂うコスモスでーー

東京都足立区にあるコスモスは、介護ステーション事業と、つぼみというデイサービス事業を展開する事業所。
岡本が“土屋からの出向”という形でコスモスで働きはじめ、5ヶ月。現在関わる業務は、多岐にわたっていると言います。

岡本「コスモスでは、今、生活相談員と同時に、訪問介護、重度訪問介護と関わらせて頂いてます。

コスモスでは、60代から101歳を超えたご婦人まで、幅広い方がデイサービスには来所してくださっています。きっと、東京の中でも足立区、そして東綾瀬という場所の地域性もあるかと思うんですが、利用者の皆さんがお年をめしても本当に元気でいらっしゃる。お一人で暮らしてる方も多くて、101歳、デイサービスでも歩行器を使って利用されています。

人生において、先輩方のお話はとても勉強になります。お話を伺っていると、皆さん本当に明るくて素敵な方たちばかり。何を話すにも前向きで、逆に『こうした方がいいわよ』なんて色々教えてくださる。

料理のことも、ちょっと尋ねると家から本を持ってきてくださって、『いいレシピ載ってたから、これよかったら』って。お礼を伝えてお借りするんですが、『これをちょっとアレンジした方がいいわよ』なんて言われて、『そんなふうにできるかな』と尻込みすると、『いや、やるのよ!』なんて返してくださって(笑)。

お一人で暮らしてる方も多いので、『また入院したら大変だから、あんまり勝手に出歩いちゃダメだよ』なんてお話ししちゃったり。もちろん身内ではないのであまり言いすぎてはいけないなと思いながら、『お酒飲み過ぎないでね』とか余計なこと言っちゃったりしてますね(笑)。

コスモスは、そういう下町の人情味ある雰囲気がすごく漂っているところなんです。新しい利用者さんが入ってきても、皆さん快く優しく接してくださるので、違和感なくスッと馴染んでいけます。常々、『いいデイサービスに関わっていけてるんだなぁ』と私も感じているんです」

一方で、介護事業所の現状も、岡本は自身の肌で感じていると言います。

岡本「コスモスで働くようになって感じたのは、やはり経験のある方というのは限られていて――例えば、デイサービスの入浴介助等――限られた人数の中で支援を行わなければいけない、という現状が把握できました。

簡単に言ってしまうと、『人数がいればできるんじゃないか』と思われると思うんですが、人数がいるからと言ってできるわけではないんですよね。数ではどうしてもカバーできない部分があって……。

それが、“人ありき“の仕事の大変なところでもあり、良いところでもあると思うんですが、そこに人件費という経営的な面も関わってきますから、星さん(星敬太郎;有限会社コスモス代表/執行役員・兼・介護事業部長補佐/訪問介護事業課長)や小川さん(小川力信;有限会社コスモス取締役)が一生懸命考えて進めてくださっています。

ただ、今、感じているこの大変さも含めた部分が、自分にとっても“いい経験”として、あるんです。自分も含めてですが『一緒に働いているコスモスのスタッフの方たちが働きやすい環境を』――とそういう思いは強くあるなぁ、と最近、思っています」

CHAPTER2

マナー、ホスピタリティー、仕事への姿勢――“時間の価値“ を提供する仕事

子どもたちを育てながら、ホテルの仕事へ

現在は東京に身を置く岡本ですが、生まれは大阪。

岡本「ただ、大阪にいたのは3歳まででした。父が他界して、埼玉に母の親戚がいたので、『こっちに来れば』なんて呼んでくれて、そこから埼玉に住んでいました。

私自身はあまり母に育てられた記憶はなくて――叔母も一緒に住んでいたので、叔母に育てられた記憶の方があるんですね。保育園に通っていたんですが、そこにも叔母が連れて行ってくれました。兄もいるんですが、7つ離れてましたので、一緒に遊ぶような環境ではなかったですね。

保育園ではお人形さんとかでよく遊んでいたと思います。でもお友達と遊ぶというより――その頃は確か、大阪から関東に来たばっかりで結構孤独だったんですよ。今みたいに大阪弁がすごくウケる時代じゃなかったので、大阪弁で喋ると周りからは『すごく変な喋り方するな』なんて思われて。園で大阪弁を拒否されて、すごく無口な子になっていたと思います」

岡本は20代で結婚。子どもを3人授かります。

岡本「その後、一人身になって子どもを育てることになったんですが、その間、いろんな仕事をして、子どもを養っていたというか――これまではそんな流れできていて、介護職に就く前はホテル業界で10年ほど働かせていただいていました。その過程では結構苦労したかな。自分で苦労っていうのもおかしいと思うんですが」

ホテルでは裏方の仕事がメインだったという岡本。

岡本「アルバイトに来る方々の手配や各宴会場の配置対応、勤怠管理……他にも、人が足りない時は和服サービスや外務省のサービスに入ったり。ホテルにはいろんなお客様がいらっしゃいましたし、その時の業務も幅広かったですね。

働いていたホテルのレストランには、何万円というコース料理を注文される方々がよく見えました。 “特別な時間”を過ごすためにいらっしゃるんです。ですからホテルで提供していたのは、“時間の価値”の部分ですね。レストランで過ごされる時間を、“楽しい時間”として過ごしていただけるように。

また婚礼等で、ある一卓を“自分が担当するテーブル”として任されます。『◯◯の部分をよく見てくださいね』という背景がどのお客様にもあるので、集中してそのテーブルを見ながら『あの方には◯◯が足りていない』とか、『今、◯◯を必要とされている』ということを、お客様から呼ばれなくても先にこちらが気づいて差し出す――いわゆるホスピタリティーと呼ばれるものですね。

その点はとても勉強になりました。人対人の基本的なマナー、仕事に対しての姿勢はホテル業界で鍛えられましたし、今も、その時の経験が役に立っていると思います。

当時、自分にとって喜びになっていたのはやっぱり――お客様の笑顔でした。実際にお客様と関わる中で『ありがとうね』っていう感謝の気持ちを伝えていただいた時はすごく嬉しかったですし、裏方の仕事では、働きに来てくださる方々が『ありがとうございました』と笑顔で帰ってくださったり、最初は不安だった子たちが『仕事ができた!』と満足げな表情で帰ってくれたり――。

そんな表情を見ただけでもすごく安心感がありましたね。そういう日常があったことが、気持ちよく仕事を進めていけた理由のひとつだと思います」

CHAPTER3

「生涯現役で。ずっと続けていける仕事がいい」――介護の仕事との出会い

岡本が介護職を選ぶきっかけとなったのはーー。

その後、介護職への転職を考えるようになった岡本。

岡本「ホテルでずっと働いていればよかったのかもしれないんですけれど、なんだろうな……。私がいた部署は2、3人の少人数だったので、仕事をやればやったで楽しむこともできたし、良いところもたくさんあったんです。

でも、『私がずっとここにいても、この場所での需要はあるんだろうか』とか、『ずっとここにいることで、お局様的な存在になりたくない』なんて思ったり――いろんな意味で自分の先のことが少しずつ考えられるようになってきた頃でした。だから、『ホテルの仕事は、ずっと続けていく仕事ではないんじゃないか』って思っちゃったんですよね。

その頃は、毎日残業するのが通常になっていましたから、帰りはだいたい23時前後――もう少し早い時もありましたが。毎日、長女に3人目の子どもの保育園のお迎えに行ってもらっていました。夜はお風呂にも入れてもらったり。長女には頭があがりません(笑)。

それに、ホテルの仕事は朝も早かったので、保育園の門が開く7時前には門の前で待ってる人でした、私(笑)。そんな中でずっとやっていたんです」

では岡本はなぜ、福祉の仕事を選んだのでしょうか。

岡本「私自身は『一人でやっていこう』と思っていたので、子どもたちと生活ができることを第一に、“ずっと続けていける職種がいい”という思いがありました。あとは経験値というか、勉強というか――『教えていただくことがたくさんありそうだな』と思ったのが介護職や福祉の仕事かな、と思っていたんです。

今だったら、“一人でも多くの困ってる人を助けてあげたい”という思いも理解できるようになったんですが、その頃は本当に3人の子どもと生活していくだけで精一杯で。自分たちのことしか考えられなかった時期でした。

それでも、自分の年齢のことを考えたら『もう時間がない』『今しかない』とも思ったし、働き方次第で何歳になっても現役でいられる仕事――『それなら、福祉の仕事が一番いいんじゃないかな』って飛び込んじゃったんですよ」

その後、岡本は介護保険老人施設(老健)の支援相談員として働き始めます。

岡本「最初の老健で教えていただいたことが本当に多かったんです。その老健は、入所や退所、売上に関してもすごくシビアなところだったんですね。常に経営面とのバランスを求められていたので、それに合わせて毎日、残業の日々が続く――ということがその時もありました。

ただ、すごく面白くて、不思議と苦にはならなかった。そこで働いた2年間がすごくいい経験だったのかな、と今でも思います。

福祉業界でよく言われることですが、その老健にも、現場の方たちとの境界線みたいなもの――“私たちは事務方、現場は現場”というような――がありました。

でも、そのことで現場の方には『もっと現場を理解してほしい』という要望があることを教えていただきましたし、その声の奥には『現場を経験していないんだから、事務方の人にはわかってもらえない』という不安もあったんじゃないかな、と今なら思います。介護職の最初の入口で、『あぁ、奥が深いお仕事なんだな』ということを現場の方からたくさん教わった。

そうやって間に入って、介護のいろいろな面を見せてもらった時に、『自分にも現場の経験がないと、この世界で仕事を続けていくのは難しいかも』と思った。『じゃあ、いろいろ経験してみよう』と思ったんです」

CHAPTER4

「もしかしてこの仕事、天職かも」――介護の現場を経験して

高齢者福祉の相談員から、現場へ。そして重度訪問介護との出会い

老健で2年ほど相談員をした後、岡本は別の老健へ転職。念願の現場へ。

岡本「その老健は、50人の利用者の方を夜間は2人のスタッフで見る――そんなところだったんです。夜中に一人が休憩を取っている間に、もう一人が利用者全員の排泄介助に行く。今から考えれば、『よくやってたなぁ』と思います。でも、“意外とできてしまった”――っていう経験が自分の中にはあって(笑)。

なぜかはよくわからないんですけれど、大きくて体重もあって、身体的にもリスクの高い利用者の方だったんですが、移乗をしたり、パット交換したりが、“なぜかできてしまった”。それで、『自分はこの仕事に向いてるのかも』『もしかして天職なのかな』って単純に思っちゃったんですよね(笑)。でもそこから、自分がうまく操縦されていったのかもしれません。

ただ、2年ほど働いて、無理があったのか、耳の病気をしてしまったんです。その時は、自分でも気がつかなかったし、症状をあまり重たく受け止めてはいなくて――。

というのは、ある意味、その老健は収入面の待遇がよかったんです。ただそれだけにリスクも高くて、早番・遅番・日勤・夜勤……と毎日のスケジュールが変わる中で仕事をしている分、子どもにも、家のことでかなり負担がかかってしまっていました。

その上、自分の体調面でも突発性難聴を起こして、いろんなことがマイナスになって出てきてしまって――。『今が限界かな』『変え時かな』と、他を探していた時に出会ったのが、土屋の前会社である重度訪問介護(重訪)の仕事でした」

「体調を崩されても、介護の仕事を続けられたんですね」と尋ねると、「私はその時々は辛い、と感じたことはなくて、後になって感じるタイプなんです(笑)。経験は無駄にはならないってことですね」とどんな経験も前向きに捉える岡本。

岡本「最初は『現場なんてできない。でも相談員だったらやれるかな』と思って介護の仕事を始めたんですが、続けていくうちに『やっぱり現場も知らなきゃ』ってなった。

それで現場をやりだしたら今度は『もっともっといろんな方たちを知りたい』っていう思いが出てきた。本当にこの仕事は奥が深くて。これだけじゃない、これだけじゃない……みたいなものが、どんどん出てきたんですよね。

でも今また、最初に介護の仕事を始めた相談員――当時勤めていた老健とは違いますが、今度は“デイサービスの相談員”として――をさせていただいてるので、『初心に戻れたんだな』って思っているんです。『そうか、一周まわって、またそういう時期なのかも』なんて感じているんですよ」

CHAPTER5

「そろそろ家族のところへ帰らなきゃ」――東京へ

家族を大切にする山形の人たちに囲まれて気づいたこと

その後、重訪の仕事を始めた岡本は、山形へ転勤となります。

岡本「前会社に入社して2年ぐらい経った頃に、『山形で人が足りない』と聞いて。それで転勤というのか、出向というのか、行かせていただいて1年半ぐらい山形事業所にいました。その間に会社がスピンアウトして、ホームケア土屋山形として再出発したんです。

山形では、行った先々で出会った利用者の皆さんも、スタッフの皆さんも、すごくいい方たちだった。東京に戻ることが決まった時には、泣いてくださる利用者の方がいたり、『あなたが一番好きだったのよ』なんて言ってくれたり。『もう来られないんです』と伝える時には、後ろめたさというんじゃないんだけれど、『なんだか申し訳ないな』って思いながら――。

でもね、山形の方って家族をすごく大事にされるんですよ。そういう姿を見ながら働いていて、『あぁ、私も家族を大事にしなきゃいけないなぁ』ってすごく感じたんです。だから『自分も、そろそろ帰らなきゃ』って思えたのかもしれませんね」

東京に戻った岡本は、ゼネラルサポートチームとして、ホームケア土屋 習志野、関東、かながわへ。その後、本社 内部監査室から全国のデイホームへ出向し、2023年8月からのコスモスに関わるようになります。

CHAPTER6

一期一会ということば――「出会ったことに、きっと何か、意味がある」

目の前の出会いに感謝しながら、一日一日を楽しんで日々を送る

旅をするように、さまざまな土地へ移り、人と、仕事と出会ってきた岡本。彼女が大切にしていることはどんなことなのでしょうか。

岡本「そうですね。自分の中では“一期一会”っていう言葉を大事にしてるところがあるんです。
それと、“人がいると、その人に呼ばれて人って繋がっていくのかな”とも思っています。

私みたいに、出向という立場で、さまざまな場所に行くと、『その時々を大事にしたい』という気持ちが強くなってくるんです。『来月になったら、この人とは会えなくなるかも』という気持ちがあるから、任務に就いたら精一杯、仕事と、その縁で繋がる方たちと向き合うことを大事にしてます。

この仕事に出会ってからは、行く先々、いろんな方と会ってお話させていただいて、『こういう出会いがあることを忘れないようにしなきゃ』と思える方たちばかりだったんです。だからといって、よく連絡を取り合うというわけではないんですよ。その時々で、『会ったことに、きっと何か意味があるんだな』と思いながら仕事をさせていただくというか――。

でも、その一番の基本には、『いつでも楽しんでいたい』とか『幸せでいられたらいいな』という思いがあるんだと思います。仕事をしてる時、していない時に関わらず、その日、その時々で『幸せだな』『楽しいな』と思えれば、『まぁ、いいかな』というか。本当に小さなことに満足して日々を送ってるんですよ。

一方で私は結構、仕事に夢中になって、一心不乱になっちゃうところもあるんですよね(笑)。だからこそ失敗もあったし、それを重ねた上で、今の自分がある。ただ、今は、人に対しては嫌な思いをできるだけさせないで、気持ちよく仕事をしてもらいたいな、と思っています。

周りが見えなくなる面が自分の中にあるからこそ、今は逆に、いろんなことに対して冷静に進めていくことを整えていけるようになったのかなとも思います」

CHAPTER7

幸せは自分一人のものではなくて、一緒に進めていくことで分かち合えたり、つくられていくもの

自分のことだけ考えて生きるなんてできない時代。まわりと一緒に進めていくことで、自分も進んでいける

岡本の日々の基本にある「幸せ」。時代が移り、見えてくるものが変わり、今ふたたび、彼女は「幸せとは何か」を捉え直しているようです。

岡本「自分が若い時は、本当にいい時代だった、と思うんです――その時はその時で、モノも溢れていて、景気も良くて。ある意味で、『自分のことだけやっていればよかった』。そういう時代だったんだな、と今は思います。

でもこれから、高齢者がどんどん増えて、2025年問題や8050問題であったり、いろんな面で対応していかなきゃいけない時代になった時、自分のことだけ考えて生きていくなんて、逆にできない時代になってきたんじゃないか――って。まわりを含めて、一緒に進めていくことで自分も進んでいけるのかなと思うようになりました。

だから、幸せもきっと一緒に進めていくことで分かち合えたり、つくられていく。自分の幸福だけでよかった時代は過ぎてるんじゃないか――そう思うんです」

「だからこそ、自分がいる、できるところの範囲で、協力してやっていくのがいいのかな」と話します。

岡本「私にとっての幸せは――近いところで言うと、このお正月は家族で初詣に行って。娘や母も一緒だったので、『みんなで来れてよかったな』と思うことがありましたね。母もまだ歩けるし、生活できてますし、一緒にご飯を食べて、他愛もない会話をして笑ったり。

その時撮った写真を、あとで送ってもらって見ると『あぁ、なんか良かったなぁ』なんて思えたり。すごく小さいんですけれど、そんな時に自分なりの幸せがあるのかな、と思います」

「最近、子どもや家族といる場が、すごく安心して笑える」――そんなふうに話す岡本ですが、お休みの日の過ごし方からも、彼女の“幸せ”をつくる要素が垣間見えます。

岡本「ずいぶん前に“ポーセラーツ”というクラフトをお友達が教えていたので、月に一回、通っていたことがありました。

白い食器に、自分で好きなように柄をつけて、焼いてもらうんです。それで自分の好きな模様の食器ができる。お友達がお喋りを聞いてくれるので、いろんなおしゃべりをしながらつくるんですが――

今は時間が取れなくなって、縁遠くはなってしまったんですけれど。でもね、自分でつくった食器を使うと、ご飯をつくったり、食べたりが楽しくなるんですよ」

最後に、土屋のこれから、岡本のこれからを尋ねました。

岡本「働く皆さんが幸せな気持ちを持てる。ポジティブな気持ちを持って、自分でやってみることができるーーそんな会社であるといいですね。土屋という会社が、永続的に進んでいける福祉の総合カンパニーであるといいなと思ってます。

私はどこを目指してるのか――。そうですね。実際のところ、『何をやっていきたいか』っていうのはわからない。わからないというか、ないんです。多分、これは逃げだと思うんですが……(笑)。

何かをパンッと出しちゃうと、それに向けてしないといけないし、結構プレッシャーを感じたりするじゃないですか。でも、『わからない』って思っていたら、逆に行動も幅広く取れるし、行動が幅広く取れるとその分成長できる――。

わからないから、前進できると思っています。いろんなことをまだまだたくさん吸収できるんじゃないかなって思うので、あえて『こうしたい』っていうのはつくらないようにしてるのかもしれませんね(笑)。

でも『そうやって導かれているのかな』というものは少し感じてもいます。だから、こうして続けていくことで自分に合うものがだんだんと見えてきて、できてくるのかなぁ、と。今、そんなふうに思えてるんです」


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