訪問看護

訪問看護ステーション

新川勝美

ゼネラルマネージャー

日々勉強。だからこそ知っていく「楽しみ」がある

 《interview 2022.05.25》

現職就任後、早くも四カ所の訪問看護ステーションを立ち上げ、社内研修を通じて後進の指導にもあたる新川 勝美の、そのエネルギッシュな半生について尋ねました。

CHAPTER1

ソフトボール少女に告げられた「お前も手に職をつけろ」という言葉

株式会社土屋 訪問看護ステーションのゼネラルマネージャーを務める新川 勝美。福岡で暮らして25年になる新川も、もともとは和歌山県御坊市生まれ。海と山に囲まれた土地で過ごした学生時代は、新川のその後を決定づけるものとなったようです。

新川 「幼少期はいつも外で遊ぶ活発な子どもでした。中・高はソフトボール一色。強豪校だったので、朝練から夜遅くまで部活に明け暮れました。合宿や全国大会もあり、のめり込んでいましたね」

ポジションはキャッチャー。キャプテンも務めていた新川は、部員をまとめるのにも苦労したとのこと。

新川 「部員数が多く、大変でしたね。へまをすると、監督からは真っ先に怒られますし(笑)。私は昭和40年生まれで、当時は当たり前のように、バットでお尻を叩かれたり、ボールで頭を小突かれたりしていました(笑)」

その懸命さの源は、勝負への意識でした。

新川 「試合に勝つのが何よりの喜びでした。そのために頑張れました。監督も熱心で、必ず朝練に出てこられていたので、練習も必死に。それが当たり前でした。

定期試験の前でも部活をしていたので、周りから文句が出ないように、部員の成績を落とさないようにしたり、部費集めに奔走したり。人をまとめるという事が常に課題でした」

日々、土まみれで過ごす新川。思春期でもおしゃれや恋愛には見向きもしなかったそう。

新川 「夏は日焼けで真っ黒。高校2年の修学旅行では、皮が三回くらいむけた後で、顔は茶と黒のまだら、髪は短くてつんつん。男子の弱小野球部をからかってました(笑)」

スポーツ三昧の日々を送る一方、新川には将来に対して、揺るぎない思いがありました。

新川 「中2の時、父とは離れて暮らすことになって、実質、母子家庭でした。そんな時、担任に言われました。『今からの時代は女性が絶対に活躍する。お前も手に職を付けろ。看護士になれ』って。

当時、先生の言葉は正しいと思うことが多かったんです。なので私は、それを本当に真面目に聞いて、『そうなんだ。私は看護師にならないといけないんだ』と思ったんです」

そこから新川は何の迷いもなく、看護師を目指すことに。卒業後、ソフトボールからは離れ、看護学校へと入学します。

新川 「勉強漬けの日々で、国家試験の前は参考書を頭の下に敷いて寝ていました。大変でしたが、頑張っているという感覚ではなく、当たり前。その先生と出会ってなかったら、私はこの道に進んでいなかったと思います。だから、それについて感謝しているかどうかはさておき、確実にその先生が私の人生を決めた一人ですね」

そうして新川は晴れて看護師の道を歩み始めます。

CHAPTER2

仕事子育て、怒涛の毎日に、一息つけるのは仕事の昼休みだけ

看護師となった新川は、大阪の大病院で勤務することに。しかし、看護師の仕事は信じられないくらいハードなものでした。

新川 「当時、看護師は日勤・夜勤・準夜勤の3交代制。8時から17時まで勤務して、勉強後、20時に帰宅。1時間の仮眠の後、24時から朝9時まで勤務。次は16時から23時まで準夜勤で、帰宅は夜中の2時。それをずっと繰り返していました。ほとんど寝てないですが、看護師って以前はそんな感じ。過酷でしたね」

仕事中もずっと走り回っていたという新川。

新川 「私は外科にいましたので、手術や急患が運ばれてきたときはばたばたです。なので、よく『走らないで!』って怒られてました(笑)。廊下で滑って、採尿したものをひっくり返したことも。それで報告書を書きました(笑)。一度は、夜勤明けで家でぐっすり寝てしまい、気づいたら夕方。ただ、次の日の夕方でした。毎日が慌ただしかったですね」

驚くべき激務の中、休みの日はスキューバダイビングに行っていたと言う新川。

新川 「沖縄で体験ダイビングをしてから、すっかりはまってしまって。ライセンスを取って、沖縄や白浜、グアムやモルディブ、セブ島にも行きました。冬はスキーと、じっとしていることはなかったです。元気でしたね」

そんな中、新川は20代半ばで結婚、そして出産。

新川 「さあ、仕事をするぞ、という時でした。当時は育休制度もなく、出産2か月後から仕事に復帰。子育てしながら働くことで周りに文句を言われるのが嫌だったので、日勤は皆と同じように無理を押してやっていましたね。1年後からは夜勤にも入りました。そしたら家庭が上手くいかなくなっちゃって。子どもにもすごくかわいそうな思いをさせましたね」

仕事が命だったという新川。結婚3年後にご主人と離婚します。

新川 「結局主人とは、やっぱり一緒がいいねと、しばらくしてよりを戻しました(笑)」

新川は32歳で、10年働いた大阪の病院を退職し、ご主人の転勤で福岡へと移住します。早速仕事に就きますが、二人目の妊娠が発覚。そして、怒涛の子育てが始まります。

新川 「新しい土地で、周りに親兄弟もいないので、出産後は一人で子どもをずっと見ていました。主人も『昭和の人間』で、全く子育ても家事もしないので本当に大変で。

下の子は哺乳瓶を嫌がって、ベッドでも寝てくれないので、私は夜も眠れず、ずっと抱っこしっぱなしだったんです。泣き出すと、主人に迷惑を掛けないようにドライブに行ったり。肩は凝るは、頭は痛いはで、ノイローゼになる一歩手前。休息が必要でした」

新川の休息は、仕事の時間。その理由は「昼休み」があるから。

新川 「子育てには休みがありません。働いていなかったら保育園も預かってくれないし、上の子のお弁当作りや宿題も見ていたので、安らぎの場は仕事だと思ったんです。仕事には昼休みがありますから。それだけを頼りに仕事を探し回りました」

そうして新川は、「子どもがいると休むから」という理由で面接にことごとく落ちながらも、最終的に福岡市内の大病院で、パートとして働き始めます。

CHAPTER3

走り続けるスタイルではない「働く」に出会った衝撃

病院での仕事に復帰した新川ですが、配属されたのはなんと病院併設のデイケア(通所リハビリテーション)。

新川 「驚きましたね。ここは何なんだ?と。病院しか経験がなかったので、在宅看護や老人福祉について全く知識がなくて」

医療から介護へと働く場を移した新川ですが、持ち前の勤勉さで介護の世界に馴染んでいきます。

新川 「送迎もしましたし、入浴介助も。勤務時間もどんどん増えていって、3年後に介護保険も始まり、その説明も。気が付けば、そこの主任になっていました(笑)」

管理者となった新川はその後、各病棟や、新規に設置された老健(介護老人保健施設)に配属。グループホームやデイサービスなどの立ち上げも行います。

新川 「管理者であっても、必ず現場に入りました。ヘルパー業務、看護業務もしながら、そこの仕組みを勉強し、部署を一から創っていきました」

数々の部署の管理業務を経て、新川は当医療法人のグループ企業の代表に昇格。その約3年後、病院食や介護食を作る工場の代表取締役に就任します。

新川 「病院と介護施設で約1000床もあるところだったので、利用者の食事を1日3000食、出さなければいけない。けれど、調理師さんが揃わない。そこで食品工場を建てることに。私が社長に任命され、土地や建物を買い取って改修し、採算性も考えて、一般流通向けにも冷凍や冷蔵食品の製造を始めました」

二か所の食品工場を建て、経営に奮闘した新川。1日当たり約1万食を作る工場だったということですが、ここでも一から学ぶ日々だったと言います。

新川 「HACCPの認証から始まり、工場も稼働後数か月で毎月1億くらい売上げが伸び、物流関係やコストの面から、黒字を出すための対策をずっと検討していました。

キャッシュフローを見るために経理を学んだり、併せて不動産関係の勉強も。仕入れや大手企業、銀行との取引、人材の面でも就業規則、給与・賞与の見直しと、大変でしたね。毎月東京や中国、ミャンマー、ベトナムにも出張しました。現場を知っておかないと話ができないし、信用を失うと会社が飛んでしまうので、常に勉強していました」

パートの看護師から、グループ企業の代表取締役へ。25年間にわたり、怒涛の日々を送った新川。50代に入り、任期満了で代表取締役を退任。

新型コロナウイルス感染症が日本に暗い影を落とし始める中、新川は退任後、1か月も経たないうちにひょんなことから重度訪問介護の仕事に出会い、2020年10月に株式会社土屋に入社します。

新川 「会社の1部門である、訪問看護ステーションに関わる仕事をしています。福岡を皮切りに、今はゼネラルマネージャーとして、大分、沖縄、愛知の4事業所を立ち上げました。この後、仙台にも開設します」

一からの立ち上げ。様々な困難もある中、新川はFaxの送り方から、営業やあいさつ回り、管理・請求業務やリスクマネジメント委員会の設置等、数多くの業務を一手に引き受けます。

CHAPTER4

緩急のついたリード役として、土屋の成長エネルギーを牽引

現在、それぞれの事業所に3~4名の看護師が所属する訪問看護ステーション土屋。利用者(クライアント)宅に訪問し、褥瘡の処置や点滴など医療ケアを主業務に、ホームケア土屋から依頼があれば実地研修もします。

新川 「訪問看護は1日に複数のクライアント宅に伺い、それぞれの傷や病気の状態に合った処置をします。病院と違って、そのお宅にあるもので臨機応変に看護することも求められますし、基礎疾患はもちろん、合併症についても考える必要があるので、様々な面で看護師の力量が問われます」

そうした中で、新川には確たる思いがあると言います。

新川 「看護師によってレベルや経験値、看護観も違います。資格があればできる、と思ったら大変なことになる。これは看護だけの話ではありません。介護だって同じです。クライアントの側から見ると、病院であろうが、施設であろうが、自分らしい生活は、看護師や介護士によって大きく違っていくんです。

さらに言えば、知識があって、柔軟性のある相談員やケアマネに当たれば、色々な選択肢をもらえるし、生活も良くなっていく。結局、誰に出会うかが一番、重要だなと思います」

そのためにも、福祉に携わる者にとって必要なのは、学びだと言います。

新川 「学び、経験、研鑽。私は常にそれを思っています。物事は人から与えられるものじゃなく、自分で学ぶもの。私も常にそうしてきました」

そして、新川が管理者として大切にしていることは、仕事を楽しむこと。

新川 「仕事って楽しんでするもんだと思うんです。だから苦しい時はどうしたら楽しさ、やりがいが出てくるかを考えながら仕事をしようと常に言っています。そうすることで、クライアントや地域に認めてもらえるようになろうよと。小さくてもいいから楽しみを見つけたいですね」

そのために、新川が気を配っているのは部下のステップアップです。

新川 「やっぱりずっと働いていたら、誰でも飽きてくるんです。なので、前職では3年ごとに改革を行っていました。カレッジも立てたりして、スキルアップを図りました。そしたら積極性が出てきて、成長していくんですよね」

多くの事業所が悩む離職率についてはこう語ります。

新川 「管理者や主任の考え方がぶれる事業所は離職率が高いですね。あとは、相談に対しての誠実さ。相談しても話をはぐらかされたり、一向に問題を解決しようとしない場合、この人に言ったって無理よね、ついていけない、となると離職率は高くなります。

相談事には二種類あります。一つは聞いてもらいたい、もう一つが解決してもらいたいというもの。そこを上司はしっかりと見極めて、適切に対処することが重要です」

そうした新川が土屋で実現したいこととは。

新川 「前職で、企業内託児所を3か所立てたんです。女性の働きやすさは、教育などで世の中の意識が変わるのが必要だとは思いますが、会社では産休・育休が取れる雰囲気を作る事です。困った時はお互い様という意識改革が大事なんだと思います」

最後に、新川からメッセージです。

新川 「私は決して病院や施設が悪いとは思っていません。家庭環境や、預かってもらえないと生活が成り立たない人もいます。その場合、施設に任せるのは仕方がないですね。

ただ、私たちは場所はどこであれ、介護や看護の立場から、『寄り添う』とはどういうことなのかを常に考えなければならない。その中で何ができるかを模索するのが私たちの使命じゃないかなと、いつも思ってるんです。

介護の仕事って、これがという正解がないんですね。クライアントの方によって、またその時々の気持ちによっても接し方やケアの仕方も変わってきます。なので日々勉強ですし、だからこそ知っていく楽しみがあると思うんです。やりがいも見出していけますし、ぜひ私たちの仲間になっていただけたらと思います」

全速力で走っていると、どこかに支障をきたすこともあります。新川の全速力のスピードに一見避けがたいブレーキのように現れた、出産子育て、そして、意図しない介護との出会い。それらは図らずも彼女の人生に緩急を生じさせ、ますます新川のエネルギーを増幅させていったように見えます。

新川のエネルギーは周りの人を巻き込み、会社を巻き込み、そして社会を巻き込んで、私たちの社会がより良いものになるための、明るい大きなうねりを生んでいくことでしょう。


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