《interview 2023.1.10》
東京・東小金井にあるグループホームのがわで主任を務める渡邊亜希。個性的なメンバーが集まるのがわには、スタッフ同士学び合いながら、入居者から教わりながら進む日常があります。日々、奮闘する渡邊に尋ねました。みんなで考える、「幸せってなんだろう」。
グループホームのがわ
主任
グループホームのがわ
主任
東京・東小金井にあるグループホームのがわで主任を務める渡邊亜希。個性的なメンバーが集まるのがわには、スタッフ同士学び合いながら、入居者から教わりながら進む日常があります。日々、奮闘する渡邊に尋ねました。みんなで考える、「幸せってなんだろう」。
CHAPTER1
東小金井駅から15分ほど歩いたのどかな住宅街。
畑や栗林が並ぶ地区に、認知症対応型共同生活介護 グループホームのがわ(以下、のがわ)があります。
渡邊「のがわは北と南のユニットに分かれていて、入居者は合わせて現在18名。各ユニットは、9名定員で、下は60歳、一番上は97歳の方が集まって暮らしています。
のがわの入居者の方はみんなのびのびしてますね。凄く個性的だな、って思います(笑)。よくこんなに個性のある方たちが集まったなぁ、っていうぐらい、みんなそれぞれなんですよ」
なんでも、“個性的な”入居者の中には、「200日間お風呂に入らなかった」というエピソードを持つ方もいるのだとか。
渡邊「最初にその話を聞いた時は、『それを許しちゃう施設もすごいなぁ』と思いました。私がのがわに入職した時も、1ヶ月くらいお風呂に入っていない入居者の方がいて。『どうやったら◯◯さんがお風呂に行けるかな?』ってみんなで考えました。
ある時、スタッフと散歩に行って、帰ってきたら普通にお風呂に入ったんです。その流れが今も継続されています。今は必ずしも散歩とセットでなくてもお風呂に行くこともあって」
「無理矢理入れようとしないで、その方がお風呂に入れる道をみんなで探す。スタッフ側の入居者への思いや行動力は凄いなぁと思う」と話す渡邊。だからこそ、のがわに集まるスタッフも「個性が強いです(笑)」と笑います。
渡邊「スタッフみんなそれぞれ個性的なんだけれど、その個性を殺さない職場ですね。『この人のここがいいから、そこを伸ばしてあげようよ』っていう考えが根っこにあるかな。キャラが被ることもないから、『私にはその発想がなかった。なるほど、こうすればいいのか』ってスタッフから教わることもいっぱいあるんです。
例えば、入居者の細かい変化に気づけて、すぐに行動に移せるスタッフがいます。よだれが垂れていたら『気持ち悪いよね』ってサッと着替えさせてあげられる。『こういうふうにやったんだけど、どうですか?』『痛そうなんだけど、なんで痛そうにしてるんだろう?』って常に疑問を持ってスタッフに尋ねてくれる。
それでいて、やるべきことをちゃんと終わらせて、時間通りに勤務が終了できる。『なんだろう、この私に足りないところは……』っていつも考えさせてもらえるんです(笑)」
<施設>という支援の場を共有することで、スタッフ同士学び合う機会も多いのがわ。
渡邊にとって「のがわのいいところ」とはどんなところなのでしょうか。
渡邊「一番いいなと思うのは、『入居者にとって何が一番?』『入居者がしたいことを、どうやったら叶えられる?』をみんなが考えていること。そして、何か感じたら、ちゃんと上にぶつけて、それを上もちゃんと受け止めてくれるところ。
たとえば、歩くと危ない車椅子の入居者の方が一人で立って歩いていたとしても、スタッフは止めない。『転んじゃうかも』って安全だけを考えたら、歩くこと・立つことをスタッフ側が止めちゃいますよね。でも、その人が自分の足で、安全に、その人の気持ちを損ねずに歩くために、スタッフはどう関わったらいいかをみんながちゃんと考えてる。それってすごく素敵だなぁって思います」
CHAPTER2
渡邊は、広島で生まれます。
「どんぐりを拾ったり、秘密基地をつくったりして」遊んでいた幼少時代を経て、父親の転勤で東京へ。その後は東京で育ちました。
渡邊「仕事を考えたときに、私は本当に勉強ができなかったんですよ(笑)。
母はずっと専業主婦で、資格も何も持ってなかった。それで父が亡くなって働かなきゃいけなくなった時に、資格がないので働く場所に困ったらしくて『勉強ができないんだったら、資格を取りなさい』と母から言われていました。中学校の時に父が入院していて、母が家にいなかったので、家のご飯を私がつくっていたんですね。中学の先生にそんな話や『料理をしたいんです』なんて相談をしていたら、調理師免許が取れる高校を薦めてもらいました」
高校では調理師免許を、専門学校で栄養士の資格を取得した渡邊は、卒業後、研修施設の厨房に就職します。
渡邊「厨房の仕事は、男性の職人の方ばかり。『見て覚えるんだよ』という世界でした。丁寧に教えてもらえて楽しかったですね。ありがたいことに、私はそこで包丁のフルセットを買ってもらいました。今はたんすの肥やしになってるんですけど(笑)。
加えて、職人の世界は『食べて覚えろ』。私は食べるのが大好きで、『味見してないもの、お客さんに出せないだろ』なんて、家ではとても買えない高価なものをいっぱい食べさせてもらったんです。日本産の松茸とか、白エビとか。美味しいに決まってるじゃないですか(笑)。その点では最高に幸せでした」
昔気質の職人の世界に、一人飛び込んだ20代の渡邊。
当初は忙しかった研修施設も、その後、90年代初頭のバブル崩壊の煽りを受け、規模を縮小していきます。
その頃、渡邊は「お客さんのために調理をしているのに、お客さんの顔が見えない」厨房の仕事に疑問を持ち始めます。時々、巡ってくる配膳の仕事を通して「人っていいな」と感じたそう。
渡邊「一緒に働いていた人が、介護施設の厨房で働いていて。『厨房には、毎日のように、おいしかったよ、ってあいさつに来てくれるおじいちゃんがいて、色々話をして、じゃあな、またよろしく、と言って帰っていく。そのおじいちゃんを介護している人が金髪の若い男性で、ものすごく優しいんだよ』という話を聞いたんです。
当時の私は、男性の外見と中身に素直にギャップを感じて。『介護の仕事っていろんな人がいるんだ、人に会うのって面白いかも』と思ったんです」
渡邊の中に「人と関わる仕事への興味」が芽生えます。
渡邊「ある時、『子どもと関わる仕事もいいな』と思って、仕事をしながら、障害がある子どもと関わっていた時期もあります。クリスマス会と夏の合宿の付き添いというボランティアでした。一回しか会ったことないのに、その後、お手紙をもらって、『私、何にもしてないけど……でも嬉しい!』って」
人と関わる歓びを胸に、その後、児童福祉に携わる仕事を探し始めますが、資格の壁に阻まれた渡邊。
「同じ人間と触れ合う仕事なら、おじいちゃん、おばあちゃんの温もりもいいかも」と思い始めた渡邊は、8年ほど務めた厨房を退職し、介護老人保健施設(老健)に転職します。
CHAPTER3
2002年、渡邊が入職した老健は、ワンフロア50人という大所帯でした。
「今から思えば、入居者一人一人とじっくり関われる時間が取れなかった」と当時を振り返りますが、ある時、介護福祉士の講習で、別の角度からの高齢者との関わり方と出会います。
渡邊「講習では、たまたま私の班にグループホーム(G H)に勤めてる人が多くいたんです。その中の一人が『入居者の方が外に出て行ったら、スタッフはそれに着いて行く。休みたいからって外でごろんと寝たら、危なくないように見守ってる』なんて話をしてくれたんですよ。
当時、勤めていた老健では、入居者の方が一人で外に行ってしまわないように、特に認知症の棟ではオートロックの鍵がかかっていました。入居者が一人で外へ出てしまったら、大問題になっちゃう。でもそのGHでは違った。『その人の思いが尊重されるんだ』と思ったんです」
そして渡邊は、40歳になるタイミングで一念発起。G Hに転職します。
渡邊「初めてG Hに勤めて、『入居者とこんなに話ができるんだ!』と思って。全部ではないけれど、望みを叶えてあげられる。家族の話もゆっくり聞ける。もちろん、だからこそいい面もあれば、悪い面もあるんですけど(笑)
でも、段々、上の立場の人が辞めていって、なる人がいなかったので、そのG Hで管理者になりました。ただ、私は誰かに教えたり、人をまとめたりすることがとても苦手だった。自分の仕事がキツくなってきた上に、コロナ禍になって。入居者の『こうしたい』を叶えてもあげられなくなって上ともぶつかって。その時、『私に何ができるのかな』って考えたんですよ」
そこには、入居者だけでなく、働く側の命と向き合う場面がありました。
渡邊「そのG Hで、急に亡くなってしまった職員がいたんです。仕事の途中で帰ったり、仕事中もできないことが続いていました。当時は、コロナ禍で急に環境が変わって、誰もが余裕がなかった。私自身も『その方、もうちょっとできるんじゃないかな』って思ってしまったところもあるんです。でもその方は本当に具合が悪くて、突然死のような感じで亡くなってしまった。そういうのも私は気づいてあげられなかった。
入居者の願いも叶えてあげられない、職員も守ってあげられない。できない、できない、ばかりを伝えなきゃいけなくて、『どうすりゃいいんだー』って。自分の不甲斐なさにどんどん気づいちゃって『もう無理だー』ってなりました」
そんな思いの中で出かけた地域のG H連絡会。そこで、以前から知り合いだったG Hのがわのホーム長、大岩謙介に話をします。
渡邊「大岩さんに『仕事を辞めるんだ』と話をしたら『うちに来ない?』って言ってくれて。後から聞いたところによると、当時、のがわは危機的に職員がいなかったらしいです(笑)。それでも、『自由に入居者の方と楽しんでくれたらいいよ』って言ってくれたんですよね」
そして2021年6月、渡邊はのがわへ転職。
コロナ禍は続いていたものの、同じGHという環境下。場を変えたことで「できること」は見つかったのでしょうか。
渡邊「うーん、なんだろう…。『何が私にできるかな』っていうのを、導いてくれる人がいるかもしれないですね、のがわには。
入居者やスタッフの『こういうことがしたい』という要望があって、たとえそれができなくても、全部が全部、ダメとは言わない。『今はできないけど、次はできるかもよ』とか、前向きなところがある。上の人が、そういう兆しを示してくれる。光を灯してくれる。だから、頑張ろうかなって」
CHAPTER4
GHに勤めた最初の頃は『利用者さんの幸せが私の幸せだ』って思っていたんです。
渡邊「でも、同僚とそんな話をした時に『でも、あなたが幸せじゃなかったら利用者さんも幸せじゃないんじゃない?』と言われて、『そうかもしれない』って。みんな、順繰り順繰り、時間差はあってもwin-winの関係なのかも」
今、渡邊は「みんなハッピーという言葉が好き」と言います。
渡邊「誰もが幸せじゃないと、成立しないと思っていて。働く人もそうだし、G Hで生活する入居者の方も、家族も、みんな幸せでないと意味がない。誰かのどこかが一個欠けていたら、私もどこかで欠けたものを感じるのかもしれません。
ただ、幸せってそれぞれだから、こっちが良かれと思ってすることも、相手がそう思わないこともある。だから相手がどう思っているのかも感じ取らないといけないし、それが一致した時は『わー!なんて嬉しいんだろう』って思います。
だから相手をどう理解するかは大事にしてます。もちろん、うまくいかない時も、自分の家族をハッピーにさせてないところもありますよ(笑)。でも『この人ってどんな人なんだろう』『どんな時がこの人は幸せなのかな』っていうのはいつも考えてるかな」
渡邊の話を聞く中で気になったのは、40歳という時期の転職です。
介護職を担う人の多くが直面する体力の変化。その時期に大規模施設から小規模介護施設へと移った渡邊に、自身の変化を尋ねました。
渡邊「若い頃は、今よりもずっとピリピリしてたんですよ、私。瞬間湯沸かし器だったから(笑)、すぐカッとなっちゃうし、人に負けたくないという思いも強くて。当時は同僚にも結構、きついことを言っていたと思います。
でも、だんだん『いろんな考えがあるんだから、言ってもしょうがない』、伝えるにしても『もう少し違う言い方をしなきゃいけないな』と思ってきました。でも言っちゃう時もある。反省することもいっぱいある。それでも、段々歳と共に『いろんな考えがあるんだな』ってことを受け入れられるようになってきました。そうならなきゃいけないとも思うし、『負けるもんか』ってやっても体がついていかないから(笑)。
老健ではワンフロア50人いる入居者を、夜間帯はスタッフ2人で観るんです。で、一人が仮眠に入っていたら、一人で観る。それがGHでは9人になった。『あぁ、9人でいいんだ』ってどこか安心がありました」
支援の現場では、入居者の幸せを願うからこそ、働く側が無理を強いやすいという現状もあります。
渡邊「追い込まれてくると人って、ストレスを溜めて、だんだんイライラします。でも、職場を変えたことで、その追い込まれ度が少しずつ減りました。そうするとイライラも減ってくるんです。
あとはやっぱり、40歳を超えると、正社員としての働き口が減ってくるんですね。体のこともあるし、現実的なことも考えての転職だったかな」
CHAPTER5
高齢者介護に携わって20年になる渡邊。彼女に、高齢者福祉の魅力を尋ねました。
渡邊「そうですね。『生きた教科書が目の前にいる』って思います。おじいちゃん、おばあちゃんから教えてもらえることってたくさんあるんですよ。
以前、関わった利用者さんに『戦争が終わって、天皇陛下の言葉を聞いた時、やった、やっと自由になった、私の時代が来る!というふうに感じた』という話を聞いたことがあります。戦争の中でも悲しむ人ばかりじゃなくて、『今からだ!』って思う人がいたんだ。こういう人になりたい、って思ったんです」
入居者と生活を共にしていると、彼女たちの身体に刻まれた記憶――料理の味付けや脱ぎ着した衣類を畳む所作――に惚れ惚れすることがある、と言います。
渡邊「昨日、入居者の方とも話をしたばかりなんですが、『歳をとったら、みんなに迷惑をかけちゃう』ってみんな思っちゃう。でもそうではなくて、『みんなが一緒に暮らしていければ、歳をとったっていいじゃない、認知症になったっていいじゃない』って言えるのが介護の仕事なのかなって思います。
認知症の勉強会の講師が言っていたんですが、認知症になったら『やったね、年取ったね、いっぱい長生きできたね!』って言えるように。『認知症になっても怖くないよ、一緒に生きていけるんだよ』って介護職の人たちが伝えられたらいいですよね」
歳月を積み重ねた、歴史ある人への敬意。
高齢者との関わりの中には、成長や速さ、できることだけに目を向けている私たちが忘れてしまったものや、「忘れようと感情の奥に押し込めたもの」がちゃんと存在しています。
渡邊「介護の仕事は、確かに大変な部分もあるし、私自身も大変だなと思った時期もあります。この仕事って人間関係だから。ぶつかることもあるし、どんな時だって大変。でも最終的には、関係そのものから救われるんですよね」
最後に、渡邊に「福祉ってなんだと思いますか」という問いを投げかけてみました。
渡邊「この質問を考えるのに、福祉っていう言葉の意味を調べました(笑)。でも、福祉って『幸せ』だから。普通にね。
人って『一人で生きてけるわい』って言いながらも、何かしら誰かの助けを受けて生きてる。買い物に行けば、そこで必ず誰かの助けを受けてるわけですよね。スーパーに行けば、レジの人がいるから食べ物を買えるんだし、その食べ物だってつくってる人がいるから買える。だから、みんなが誰かと手をとって生きていくような感じかな。『なーんだ、きっとみんな、幸せになるために生きてるんだ』って。それがどんな形であれ。
だから、介護という仕事があるのは、助けがいっぱいいるかいらないかだけの話で。助けがあって生きていけるんだったら、それでいい。そうでありたいし、誰かの足りない部分を他の誰かが助けてくれる世の中であってほしい。そんなふうにみんなが思えたらいいし、のがわがそういう場所になれたらいいなって。それが福祉、というか幸せなのかな、と思う」
自身の幸せや、好きなところを尋ねると「あんまりないんですよ(笑)」とはにかむ表情を見せる渡邊。
渡邊「ただ、振り返ってみて、自分がドンと落ち込んだ時には、必ず手を差し伸べてくれる人、光を照らしてくれる人に出会うんです。その時、その時で。そういう意味で言うと、私は人に恵まれてます」
2021年、株式会社 土屋と共に歩み始めたグループホームのがわ。
そこには、時間という目に見えないものをその体に内包する入居者と同じように、営みを続けてきた時間――2004年の開設から18年という歴史――があります。
のがわの入居者、家族、そしてスタッフたちは、今日も東小金井という地で生き、それぞれの「ハッピー」を互いに手を取り、編みながら、共に暮らしています。