介護事業部

介護事業部 ホームケア土屋

宮里清瑚

沖縄 オフィスマネージャー

介護職の誇らしさと、日々もらう『ありがとう』。
それが『重度訪問介護』の喜び。

 《interview 2022.11.28》

ホームケア土屋 沖縄で働く宮里 清瑚は、病院や施設での勤務を経て、重度訪問介護の世界に足を踏み入れました。ケアに触れる場でもあった家庭環境、看護や介護を背景にさまざまな環境で命を支えてきた宮里が、重訪という仕事の魅力を紹介します。

CHAPTER1

1.<見守り>の必然性と、支援という空間で立ち上がる「あなた」と「私」

海の見える港まで歩いて15分という場所に事業所を構えるホームケア土屋 沖縄。

2022年から沖縄事業所のオフィスマネージャーを務める宮里は現在、27名のアテンダントたちを束ねています。

宮里「アテンダントのみなさんは本当に明るいですし、現場にご挨拶に伺うと、どのアテンダントの方もクライアントと愛嬌よく接していらっしゃるので、クライアントやご家族との信頼関係が豊かなことが見えて僕も安心して現場をお任せしています。

担当するクライアントは11名。沖縄は離島で、本土とも離れていますし、島の住人の意識というか、『みんな家族だ』と思ってくれている方もいらっしゃるんですよ」

クライアントの支援現場を支え合う他事業所間でも、沖縄らしい風景が垣間見えます。

宮里「沖縄は重度訪問介護(重訪)の事業所がさほど多いわけではないので、担当者会議や支援現場の合間の引き継ぎで、他事業所の同じ方と顔を合わせることが多々あります。

以前、土屋のアテンダントの夜勤支援中に転倒事故が起きてしまい、クライアントが緊急搬送されたことがありました。

早急に病院に行くことができて、幸い大事には至らなかったのですが、支援内容を見つめ直すきっかけになり、すぐに他事業所の方と支援の統一に向けて相談をしました。そういった面では相談しやすい環境が整っているんじゃないのかなと思っています」

数ある介護職の中でも、一対一、長時間の支援を特徴とする重訪。

採用面接にやってくるアテンダントの中には、その業務内容や時間に驚かれる人も多いと言います。

宮里「重度訪問介護という名前のせいもあると思うのですが、この仕事に興味を持たれる方は、高齢者を対象とした訪問介護のイメージを持たれている方が多いんです。

ですからまず最初に、『重訪は、重度の障害をお持ちの方を対象とした、長時間での支援を行なう仕事なんですよ』という説明をしています。障害福祉サービスの一環であることをお伝えした上で、長時間支援に含まれている『見守り』という支援内容がいかに重要か、なぜ私たちアテンダントが必要なのかをお伝えしているんです」

重度の障害や難病を持つ方の24時間、365日の在宅生活を支える重訪の支援現場では、クライアントの体調の変化にいち早く気づくこと、何かあった時にはすぐに医療関係者と連携が取れる体制が整っていることが必要になります。

「そのためにもクライアントとじっくりコミュニケーションを取り、信頼関係を築くことが大事なんです」と話す宮里。

宮里「『見守り』と聞くと、一見、『それって仕事なの?』と感じられるかもしれないのですが、クライアントからは『何かあった時にすぐに対応ができる、そのために近くにいてくれる時間はすごくありがたい』という声をよくお聞きします。

これから現場に向かうアテンダントには『この見守り支援が、重訪の良さなんですよ』とお伝えしています。

とはいえ、私自身も支援現場に入りたての頃は、仕事だから、とか良心的に、と思って『あれやりましょうか、これやりましょうか』と話しかけていた時期もあったんです。

その時にはクライアントから苦い顔をされました。『勝手にこんなことをしないでほしい』と言われたこともあります。
でもその後、『いるだけでいいんだ』と言ってくださったんです。

『いるだけで安心感が違うんだ』と。それからは、これでいいんだ、と思えて仕事に入ることができましたね」

CHAPTER2

家族の中で培われたケアという仕事へのまなざし

沖縄那覇市に生まれた宮里。
印象的な「清瑚(しょうご)」という名前の由来を尋ねると、「『清』の字は、父方の祖父からいただき、『瑚』という字は、『珊瑚のように心が綺麗な人間になれるように』という両親の思いが込められている」と言います。

宮里「休日はよく(母方の)おじいちゃん、おばあちゃんの家へ遊びに行っていたのですが、おじいちゃんが病気で、自宅で介護をしていたんですね。

幼稚園の頃は、薬を持ってくるとかちょっとしたお手伝いが不思議と楽しくて、『今日は僕がする!』と兄弟でよく取り合いをしていました。その姿をおばあちゃんが見て、喜んでいたのを今も覚えています。

カーテンで仕切っていましたが、同じ部屋でおむつ交換もしていたんです。そのことが全く嫌ではなくて。『子どもたちは入ってこないで』と言われていたので入れなかったのですが、おじいちゃんと接することそのものが楽しかったという記憶が強くあります」

幼少期に遡り、周りを見渡すと。

宮里「叔母は看護師をしていて、『看護師ってどんな仕事をするの?』とよく聞いていました。インフルエンザの時期になると、叔母が勤める小児科に注射を打ちに行っていたのですが、叔母の働く姿がすごく楽しそうに映ったんです。

『いずれは看護の仕事をしたい』と思ったのは中学校の時です。ただ、きっかけというものはなくて、当時は興味を持っている感覚もない。

なぜか『ケアに関わる仕事をするんだろうな』ぐらいの感覚で、病院の求人をたまたま見つけて、そこに勤めました」

高校を卒業した宮里は、県立病院に看護助手として就職。

宮里「18歳で入ったので、とにかくみなさんから孫のように可愛がってもらえて嬉しかったですね。

看護助手の仕事は排泄や入浴、介護が中心にあったので、日々の『ありがとう』という言葉がすごく響きました。

その時に『看護じゃなくても、介護でもこの仕事が続けられるのであればいいのかもしれない』と考え方が変わって。病院を退職して、介護の学校へ行くと決めました」

その後、2年間、専門学校で介護を学び、24歳で特別養護老人ホーム(特養)に転職。介護の仕事をスタートさせます。

CHAPTER3

自分のやり方を手放し、クライアントの視点に立つ。支援現場でのブレイクスルー

高齢者の方との関わりに楽しさもある中で、『これ以上、利用者の思いに応えることができない』というもどかしさがあった

宮里「特養には3年間勤めましたが、高齢者の方との関わりに楽しさもある中で、『これ以上、利用者の思いに応えることができない』というもどかしさもありました。

僕自身も施設の目的や流れに逆らうことなく、本人の思いにもできるだけ寄り添ってきたつもりではあったのですが、限界があることも知ったんです。

利用者からは『本当は家に帰りたい』という言葉をかけられたことがありました。『行く場所がなくて仕方なく施設にいる。本当は家族と一緒に食卓を囲んで食事をしたい』と泣きながら訴えられても、話を聞くことしかできなかった。

当時は、恥ずかしながら重訪の制度も知らず、選択肢も病院か施設かぐらいの知識しかなかったんです」

そんな時、中学校の同級生であり、現在、沖縄・南九州のエリアマネージャーを務める川田貴之から声をかけられます。

宮里「ある日、川田さんから土屋の事業や重訪の話を聞いて『本人の思いに沿った介護はこれだ!』と強く感じました。長時間支援には、正直ためらいもあったのですが、どうしても興味があるという思いの方が強く、やってみよう、と」

中学では共に野球部の仲間だった二人。川田の話を聞いていくうちに「重訪に段々惹かれていった」という宮里は、2021年1月に土屋に入社します。

宮里「最初は、A L Sの方の支援に入りました。とにかく先輩アテンダントの話を聞いて目の前のことに着いていくのに必死で、支援の全体像はなかなか見えなかったですね。

それでも、クライアントが自宅で生活できていることに大きな衝撃を感じたのを今でも覚えています。本人の好きな時間に、好きなことができる。バタバタとしたルーティンがなく、クライアントのペースで支援提供ができる。

施設勤務しか経験のなかった私は、これまでの自分の考え方が180度ひっくり返りました」

「こんなにクライアントの意思を尊重して、こんなにクライアントの意見を聞き入れて、100%を提供できる環境があるという点に魅力を感じた」と語る宮里。支援現場では、自身のブレイクスルーがあったと言います。

宮里「私自身も『介護とはこうするものだ』という今までの自分のやり方で支援を提供していた時期があったんです。でもある日、それはあくまで僕だけの考えで、クライアントの考えを聞いていないということに気づいて。

これでは相手も心を開いてくれないし、信頼関係も築けない。見守り支援の話の時と一緒ですよね。自分の方法ではなくて、その人にとってのやりやすい方法を探る。とにかくクライアントの意見だけを聞いてその通りにやっていたら、なんとか受け入れてもらえたんです。

クライアント視点に切り替えた支援を行なえるようになると、『ありがとう』という声もかけてもらえましたし、僕自身がやっていた方法に対して『こうすると過ごしやすい』という言葉もいただけるようになって。

それからは、他の現場でも一つ一つクライアントに確認しながら、本人が希望するライフスタイルと支援提供をしていく、という考え方に変わりました」

CHAPTER4

「あの人を重訪で支えたかった」。介護職の喜びと誇らしさを胸に、心残りを未来へ

土屋に入社し、まもなく3年目を迎える宮里。
これまでの経歴を振り返る中で、今も思い出す利用者の姿があると言います。

宮里「以前働いていた特養の利用者の方の中に、ALSをお持ちの方がいらっしゃいました。

土屋で仕事を始めてから、重訪のお話をお伝えするために施設を訪れたのですが、既にご逝去されたと伺いました。その話を聞いた時には申し訳なく、今でもどこか心残りがあります」

「多分、この心残りは一生続くと思う」と話す宮里。

施設という場だけでなく、ケアに関わったことのある誰もが持つ「もっとできたことがあったのではないか」という思い。この思いを持ち続けて仕事に向かうことが、介護の未来をつくる原動力になるのでしょう。

「10年後、20年後には重訪が誰でも知っている制度になり、障害当事者の方が何不自由なく利用できる制度になっていると嬉しい」と宮里は続けます。

宮里「日本は特に高齢化社会ということもあって、介護というと、どうしても高齢者にスポットが当たりがちです。その中で土屋は、障害者に特化した障害福祉サービスに焦点を当てているところに僕自身は魅力を感じています。

現在は、重訪のみならず、障害者や高齢者、そのご家族に対しての総合的な福祉事業を幅広く行なっていますが、今後もそういった方々のサポートの一部になっていきたいです」

これまで看護や介護という、ダイレクトに命を支える仕事を選んできた宮里。それぞれの場所で、小さな声を聞き逃すことなく歩んできた彼が考える、重訪の魅力とは。

宮里「土屋のミッションでもある『探し求める小さな声を、ありったけの誇らしさと共に』という言葉には、介護職を続けてきた者として誇らしさを感じています。

介護職には施設や訪問、高齢者支援や障害者支援などさまざまな業種があり、それぞれに特色がありますが、これから介護職に就くことを考えている方には『これだけ長い時間で支援ができて、クライアントの思いに沿った介護ができる“重度訪問介護”という仕事があるんだよ』ということはお伝えしたいですね。

土屋に入職したら、クライアントが求めている生活を、1日を、本人のペースで支援することができるんです」

オフィスマネージャーとなった今も、支援現場に入ることがあるという宮里。そこには働き始めた当初から変わらない、介護職としての喜びがあると言います。

宮里「クライアントやご家族から話を聞いて、その思いに対して動いて調整をして。できた時の『ありがとう、よかった、宮里さんのおかげです』という言葉には、心から『あぁ、やってよかったな』と感じます。

オフィスマネージャーになった今も、やっぱり『ありがとう』という言葉は、僕にとっては一番響く言葉なんです。最初はただの言葉だけでも、深く関わっていくと心から『ありがとう』と言ってくれてる、とわかる瞬間があるんですね」

「この仕事が好きなんです」。重訪と出会い、「本人の思いに100%沿った支援ができる」と心から言える宮里からは今、介護職としての喜びと誇らしさが滲み出ています。

「現場を支えてくれているアテンダントを誰一人置いていくことなく、チーム全員で協力しながら、誰でも意見を言える事業所にしていきたい」とこれからの沖縄事業所の姿を描く宮里は今年、3児のお父さんになりました。

クライアントを支えるチームとして、そして家族というチームとして、誰もがいきいきと暮らし、働ける未来のためにーー

喜びと誇らしさを持って進む仲間を、土屋は求めています。


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