《interview 2024.9.25》
2024年から定期巡回サービス土屋広島で管理者として働く、三ツ橋直人(みつはしなおと)。
地元・香川からひとり、大阪、そして東京へ。その後、“ふたり”となった三ツ橋は福岡、広島へ――。生きる土地を移りながら、仕事を変え、今、土屋の中でも急成長している定期巡回にたどり着いた三ツ橋。勢いよく流れ、移りゆく景色を、彼が歩いてきた道とともに振り返ります。
定期巡回サービス
土屋広島 管理者
定期巡回サービス
土屋広島 管理者
2024年から定期巡回サービス土屋広島で管理者として働く、三ツ橋直人(みつはしなおと)。
地元・香川からひとり、大阪、そして東京へ。その後、“ふたり”となった三ツ橋は福岡、広島へ――。生きる土地を移りながら、仕事を変え、今、土屋の中でも急成長している定期巡回にたどり着いた三ツ橋。勢いよく流れ、移りゆく景色を、彼が歩いてきた道とともに振り返ります。
CHAPTER1
育った土地を離れて、“世間知らず”の自分に出会う
―生まれ育ったのはどちらですか?
生まれたのは香川です。歩いて5分ぐらいのところに瀬戸内の海があって、反対側は山。
超田舎で育ちました。子どもの頃は、めちゃくちゃ泣き虫だったことを覚えてますね。
兄がいるんですが、その兄にひたすらひっついていました。兄ちゃんの友達と混ざって、いっしょに遊んでもらうことで、“ちょっと大人になったような感じ”を味わっていたんだと思います。
その後、中学・高校では部活でバレーボールをやっていました。
小学校5年か6年生の時にバレーボールのワールドカップがあって、「うわ、かっこいいな」と思って始めたんですが、どれだけ努力してもジャンプ力が全然伸びなかった。
バレーボールには、リベロという守備に特化したポジションがあったので、「そこを頑張ろう」と、リベロのポジションでレギュラーを獲得しました。
決してバレーボールが強い中学や高校ではなかったんですが、すごく好きで――当時は、のめり込んでいた記憶があります。
―バレーボールはチーム競技ですよね。
そうですね。小学校の頃は水泳をやっとってですね。
水泳は個人スポーツやったんですが、チームでやる方が自分には向いとったんですかね。バレーボールを続けていくうちに、達成感ややりがいを感じていました。
―その後もずっと香川で育ったんでしょうか。
高校までです。高校を卒業した後、大阪に出て自動車整備の専門学校に入りました。
高校の最後、18歳で免許を取って、バイクや車に乗るのが「こんなに面白いんだ」と思ったのがきっかけです。その時は「将来、自動車整備の仕事に就きたい」と思って入ったんですが、通い始めたら「自動車整備は自分には向いてないな」と思って結局、卒業後も就職せず。
そのまま東京に行って、自分探しが始まって――まぁ、親不孝ものなんです(笑)。
地元から大阪に出た時は、すごく打ちのめされた記憶があって――「自分がどれだけ田舎もんやったか」とめちゃくちゃ思いました。
都会や、世間っていうものを知らなかったのもあったんでしょうね。
ひとりになって初めて、自分は「兄ちゃんに依存していた」ということも知りました(笑)。
それで「あ、こらいかん」と思って。
―そこから、東京へ?
そうですね。より可能性のある都会がいいのかな、という思いで東京に出ました。
でもお金もないし、就職先が決まっていたわけでもなかったので、住み込みで新聞配達のバイトをしていました。
直接、「雇ってほしい」と言いに行って、ゼロからのスタートでしたね。
ただ、新聞配達をしに東京に行ったわけではなかったので、「何かいい仕事ないかな」と思いながら日雇いや飲食店のバイトもしていて。
日雇いのバイトは建築系の、資材を運ぶ仕事がすごく多かった。
その時に“大工さん”っていう職業が、ものすごく偉そうにしてたんです(笑)。「偉そうにしてるってことは、それだけ技術もあって、儲かる仕事なんだな」と思って、すぐに工務店に行って、「弟子にさせてほしい」と大工さんの門を叩きました。
CHAPTER2
その頃、“コミュニケーションが苦手だった”私は職人になった
―大工さんの仕事はどんな思いで始められたんですか。
若い頃の私は、コミュニケーションがすごく苦手だったんです。
苦手というか、プライドが高かったんでしょうね――。世間知らずもあって、当時はとにかく人と関わらない仕事がしたかった。
職人っぽい働き方や仕事が自分に合ってるんじゃないかなと思って、大工を始めました。大工の世界は厳しかったですね。
今、「もう1回やれ」と言われてもできないなと思います。でも、3年ほど修行をしたのち、ひとり親方になれた時は嬉しかったですし、技術が認められて、直接、施主さんから仕事を任せてもらえる達成感はもちろんありました。
でも同時に孤独感もある仕事だったな、と振り返ると感じます。
施主さんとたまに会う以外は、1人でひたすら家を建てるので、途中の相談も、施主さんからの感謝の言葉もないというか――自分の中で完結しなきゃいけない仕事でした。
そういった意味で、介護職に就いてからは「人と関わるのってこんなに楽しいんだ」って思ったんですよ。
―そうだったんですね。一方で、職人さんの仕事には形ができていく喜びもあったのでは……なんて思います。
ありました、ありました。
難しい間取りの家というのがどうしてもあるので、うまくいった時は「やったな」と思えましたね。
―そこから介護の仕事に移られたのはどんなきっかけがあったんでしょうか。
大工の仕事はそこから8年ほど続けました。
28歳の時に東日本大震災が起こって、大工の仕事が激減したんです。施主さん側の自粛があったり、「これから新築の家を建てるなんてとんでもない」と言われた時期があったんですね。
その時、給料が0の状態が何ヶ月も続いて、「こらいかん」と。
そこから、「安定した仕事を」という思いと、大工の仕事では孤独を感じてもいたので、「人と関わる仕事に」というところにフォーカスして仕事を探しました。
でも実は――「これから介護の仕事で頑張っていくんだ」というよりも、「とりあえずやってみようかな」っていう本当に軽い気持ちで始めたんです。
一生懸命仕事を探したというよりは、「これかな」ぐらいの感じで有料老人ホーム(有老)で働き始めました。
CHAPTER3
介護の仕事をはじめて――有料老人ホームの玄関でふと、並んで眺めた雪景色
―仕事を変えた時というのは、見える世界が広がったり変わったり――があると思います。有老で働き始めた時の印象はいかがでしたか?
高齢者からこんなに「ありがとう」って言ってもらえるんや――と思ったのと、「こんなに感謝されていいのかな」と思ってしまうぐらい、そのことが気持ちよかったですね。
私は正直なところ、「介護って誰でもできる仕事だろう」と思っとったんです。
「生活の延長ぐらいの仕事だろう」とナメていたところがあったんでしょうね。実際に働き始めた時も、細かい部分の指導や指示を受けても、最初は「そんなに細かいところは気にせんでいいのにな」なんて思っていました。
でもその指示に「なぜそうするのか」という根拠が付け加わってくると、「確かに、利用者の方にとってはそうした方がいい」――と見え方がどんどん変わっていった。
「介護の仕事って深いんやな」と思うようになったんです。
―それまでの職人的な仕事から、人に囲まれ、働く環境が大きく変わったのでは、と思います。介護の仕事には最初から馴染めましたんでしょうか。
いやいや、最初はやっぱり職人気質が残っていました。
でも、働き続けながら自己分析していくと、「やっぱり自分は、1人よりチームでする仕事が合ってるんだな」と明確にわかってきましたね。
「人とコミュニケーションを取ってる方が、仕事もプライベートも充実してるな」、と。
―有料老人ホームで働かれていく中で、今も心に残る記憶はありますか。
利用者さんに関してはお1人、私が依存してる方がおって――認知症の女性の方なんですけれども、まわりのご家族も、スタッフも含めて、「三ツ橋さん、またあの人にばっかり」とよく言われていました。
自分では微笑ましい感じに思ってましたが、今思うと、やりすぎだったかもしれません(笑)。
その方は重度の認知症だったんですが――何の忖度もなく、“思ったことを思った通りに言う姿”が、私にとってはものすごく純粋に見えました。
もちろん、めちゃくちゃ大変な時もあったんですよ――よく非常ベルを押して、消防隊を呼ぶ人だったので(笑)。
「なんで押したんですか」と聞いたら、「横に赤い電気がついとったから、電気を消そうと思って」と仰っていましたね(笑)。
でも当時は、「こういう世界があるんだな」って素直に思えました。
「こういう認知機能の低下の仕方もあるんだな」って。昔の同僚に会うと、今でもその方の話になります。
―その方と過ごした時間の中で、印象的だったことはありますか?
いちばん覚えてるのは……。その方はものすごく帰宅願望が強い方だったんです。
老人ホームの自動ドア――もちろん自動では開かないんですが――をドンドンドンドン叩いて、「帰る帰る」って言っとった時に「じゃあ、一緒に外に出ましょうか」って私が言ったんです。
で、ふたりで外に出た時、たまたま雪が降っとったんですよ。
そしたらその方がハッと我にかえって、「綺麗だね」って言って。
私も「綺麗ですね」って返して――。「寒い」「寒いですね」って。「あたたかいところに行きますか?」「うん、そうしようか」って言ったのが、すごく――。「あぁ、今、お元気な頃のその方なんかな」って。
そんな表情が、スーッと降りてきたシーンを今でも鮮明に思い出せます。
別に、なんてないことない瞬間なんですが――。
CHAPTER4
A L S疾患がある方との出会いを次の仕事へつなぐ
―その後、土屋へはどんな流れで入社されたんでしょう。
もともと、私が働いていた有老で妻と出会って、結婚をしたんです。
妻はそこで看護師をしていたんですね。当時、私たちは東京で働いていたんですが、私の実家は香川県で、妻は宮崎県の出身でした。
その後、コロナが始まって――当時は「県を跨いで移動するのはいけない」なんて要請もあって、「全然(実家に)帰れんね」「じゃあもう、2人で移住する?」っていう話になったんですよ。
そこからは、「妻の実家に車で帰れる福岡はどうだろう」「福岡やったら都会やし、仕事もあるだろうし、香川の実家にも帰れる距離だし」となって、「福岡に移住しよう」と。
当初、私は全国に施設がある会社で働いていたので、福岡に異動ができるか聞いたんですが、「福岡の施設は充足していて、異動ができません」ということで、有老を退職することになりました。
そこから、福岡に移住するのと、土屋への転職が同時進行で進んでいった感じです。
―土屋で働こうと思われたきっかけは?
土屋を選んだ理由というのは――これもひとつ、エピソードがあるんです。
以前の施設で働いている時に、A L S疾患がある方が入居されたんですね。その時、私は相談員をしとったんですが、A L Sについて詳しい知識を持っていなかったので、受け入れる前に色々調べていたんですよ。
でも、その施設は、日中しか看護師さんがおらんくて、夜間帯の医療的ケアはできない。
当時の私には、「症状が進行したら退去です」というご案内しかできなかった。重度訪問介護(重訪)っていう制度を全く知らなかったんです――。
その方は進行が早い方で、すぐに退去のご案内になってしまいました。その後、療養型病院に移り、「最期は自宅で過ごしたい」という希望から、気管切開も何もせず、ご逝去されました。
「重訪という選択肢を提示できていたら、あの方は違かったのかな」と、後悔に近い思いをその後も抱えていて。
相談員なのに、その選択肢を伝えられなかったことがすごく悔やまれて――。
土屋が、その重訪を事業のひとつにしている会社であることを知って、「じゃあ、自分が体感して広めていったらどうかな」と思ったのがきっかけなんです。
CHAPTER5
クライアントの思いを叶えられる一方で、常に葛藤があるという現実も見てきました
―仕事や日々の中での価値観についてお聞きしたいです。三ツ橋さんが人と関わる時に大事にしているのは、どんなところですか?
人との関わりについては――クライアントもアテンダントも上司部下みなさん含めてなんですが、基本的に「誰に対しても態度を変えない」を自分の中のモットーにしてます。
あたり前かもしれませんが、どの職員、年齢、介護経験あるなしに関わらず、敬語はマストですし、“さん付け”も絶対です。
というのも、以前の施設にいた時の上司がそうしていて、スマートで「かっこいいな」と思っていたんです。
例えば若い人を「何々くん」って呼んでみたり、障害や認知症があったら、幼く接してみたり――人によって態度を変える人っていると思うんです。
でも「自分はそうはしない」ということは、強く意識して仕事をしてますね。
―介護の仕事を続けられてきて11年になります。介護と出会ったことで変わってきたところはありますか?
介護の仕事を始めてから、「よく笑うようになったね」「全然怒らんくなったね」と周りから言われます。
「なんでやろうな」って自己分析してみると――私は高齢者介護の経験が長いので、ご高齢の方のフェイスシートや生活歴を見ることが多かったんです。
それを読むと、1人1人に生きてきた歴史があるのが見えてくる。
実際、その方の面会に、お子さんやお孫さん、ひ孫さんがいらしているのを目にしていると、自分の生きてきた時間がすごくちっぽけに思うというか――。
「自分はこう思う」なんて意見も、「この人が生きてきた時間や経験に比べたら、大きな池の中のちっぽけなもんやなぁ」なんて思い始めて。
ご高齢の方との出会いから、そういう考えが生まれてきたのかな、と思ってます。
―逆に以前は、怒りっぽかったり、笑わなかったりっていうところもあったんですか?あまり想像ができないんですが……。
職人さんの時は「技術が高い人が偉い」「寡黙で、とにかくいい仕事をする人がかっこいいんだ」っていう考え方があったと思うので、すごく凝り固まった考えをしていたかもしれないですね。
―障害福祉という分野に携わったことで、また新たな視点を持ったのでは、と思います。実際に重訪の現場に入られた時、どんなこと思われましたか?
まずは私は今まで施設の経験しかなかったので、訪問介護の経験そのものが自分の中では大きかったですね。
今までは“施設ルール”で関わっていたのが、「これからはご自宅ルールで支援するんだな」と思いましたし、介護保険と障害福祉サービスの自立支援の考え方が大きく違うところに衝撃を受けました。
入社して2年ほど、ホームケアに所属して、ALS疾患をお持ちの方の支援に入っていました。
「在宅で過ごす」というクライアントの思いを叶えられる反面、「痛みであったり、コミュニケーションのもどかしさについては常に葛藤があるんだな」という現実も見てきました。
でも、クライアントの自己実現のために、重訪という制度があるんだなとも感じました。
―クライアントとの関わりについては、ご自身の中で変化した部分というのはありますか?
「クライアントが自己実現をする」という、障害福祉における自立支援の考え方を知ったことで、より「支援や関わりにもっと多様性があっていいんだな」と思えるようになったきっかけでもあります。
高齢者介護に携わっていただけでは、その考えには行きつかなかったでしょうね。
介護保険の自立支援には「有する能力に応じ日常生活を営むことができるよう」また、「ADLが下がらないようできることはその人がやりましょう」という考え方が基本にあるんですが、
「じゃあ、要介護4や5の方に同じことを求めていいのか」というと、きっとそうではないのかな、と。
私たちが手足となってクライアントの自己実現のために動くという関わりは、要介護4や5の方にも実は当てはまるんじゃないか――障害福祉の考えを知ったことで、より選択肢が広がったかなと思ってます。
CHAPTER6
定期巡回でなら、“在宅限界”を伸ばせる。その可能性
―2024年から定期巡回サービス土屋広島に移り、これまでとはまた違う側面で、介護の仕事に関わられているのではと思います。
そうですね。介護保険でいう、“在宅限界”を伸ばせるのが定期巡回だと思っています。
利用者さんから「病院から自宅に戻るのはもう無理よ」「もう施設に行くしかないね」っていう方の受け入れを「定期巡回だったらできますよ」とお伝えした上で、
ご自宅に戻られた時に「本当にありがとう」って言われたことがあって――「このサービスを続けていきたいな」と思いました。
―広島でいっしょに働くスタッフの方はどんな方たちですか?
定期巡回サービス広島のスタッフは全員で6人です。
みなさんに共通して言えるのは――どうしても管理者としての目線が強くなってしまうんですが――「こういう風になっていこう」というビジョンを明確に伝えると、
「じゃあ、自分はこういう風に頑張って、ここを伸ばしていけばいいんだ」と考えて動いてくださるんです。
管理者として、目指すべきところを明確に伝えるのは大事だなと常日頃思ってます。
広島のみなさんは特に、“探し求める小さな声を”という理念の実現をしてくださってるなと本当に思います。
私たち定期巡回では、特に周知活動に力を入れていて、定期巡回の責任者の高浜将之さん(株式会社土屋常務取締役 兼 定期巡回サービス代表)が常日頃言われているのが、
「今の時代は“待ちの姿勢”では利用者さんはご相談に来ないんだよ」、と。
本来、ヘルパーは介護をすることが仕事なんですけれども、そもそも”小さな声を探す“という仕事をしなければ、介護そのものもできない。
だからお困りの声を自分たちから探していくんだ――そういう前提を理解してくれた上で、みなさん周知活動をしてくれてます。
そこは広島事業所のスタッフのみなさんに感謝してます。
―今、三ツ橋さんが仕事の中で喜びや幸せを感じるのはどんな時ですか?
それは――利用者さんからの「ありがとう」も、スタッフからの「ありがとう」もそうなんですが、私自身が「ありがとう」って伝えられた時もすごく幸せを感じます。
幸せを感じるっていうとちょっと大袈裟ですが――。
関係がギスギスしているような環境は管理者としてつくってはいけないので、私の役目は“みんなが素直に「ありがとう」と言える環境をつくること”だと思ってます。
今、定期巡回の広島ではできてると思うんです。だから幸せを感じていますね。
―逆に――今、ここで困ってるとか、こんなことをよく考えてるというところはありますか。
広島で、“認知症カフェ”という認知症に関わる人があつまれる場所を立ち上げたんです。
広島では大型のショッピングモールで開催ということで、私が着任してる間にはじめられたら良かったんですが、
ちょうど私が新しい定期巡回事業所の立ち上げで、9月に岡山へ異動が決まっていて――「うまくやっていけるかな」って思ってます。
これは、困ってるというより、心配事かもしれません。
困ってることは……そうですね。単身赴任の期間が長くなっているので、「家族の時間を大切にしてあげたいな」とは常に思っていますね。
CHAPTER7
「マネージャーになってしんどい」じゃなくて、「なれてよかったね」と思ってもらえるように
―お休みの日はどんなことをして過ごされていますか。
基本的に休みの時は妻のいる福岡に帰るようにしてますね。
おいしいもの巡りが好きなので、妻と一緒に行くのを楽しみにしてるのと、あとはスーパー銭湯が好きなんです。“サウナで整う”のがいちばん至福の時間ですね。
―サウナ歴は長いんですか?
長いですね。ベテランです(笑)
―温泉ではなく……
温泉よりも、サウナなんです。水風呂で整うのが好きなんですよ。
―サウナもやはり奥様と一緒に?
行きます行きます。
―美味しいものを食べて、スーパー銭湯に行って――休日は、リラックスコースですね。
そうです。福岡でどこに住むか決める時も、「スーパー銭湯まで歩けるところ」っていう条件を出したこともありました(笑)。
―住まいはお2人で決めたんですか?
「決めたきっかけは、梅山さん(梅山真一郎;定期巡回サービス土屋 サブGM)なんです(笑)。
入社時に、梅山さんが私の面接をしてくれて、「福岡の○○に住む予定です」って言ってたら、「あそこはいかんいかん」って言われて(笑)。
いくつか候補に上がっとったところを「△△はどうですか」って聞いたら、「そこがいい」と。
妻とも、「上司もそう言ってるし、△△にする?」って言って。プラス、「スーパー銭湯の近くね」っていう私の希望を伝えました(笑)」
―そんなアドバイスがあったんですね(笑)。最後に、三ツ橋さんが定期巡回でこれからやっていきたいこと、「これからこんなふうに生きていきたいな」っていうところを聞かせてください。
定期巡回サービスはまだまだ始まったばかりで、土屋の中でも歴史も浅いので、しっかりルールづくりをしていきたいと思ってます。
できることというのは、その職位ごとに変わると思うんですが、これから管理者になる人が「管理者ってしんどいな」と思わなくて済むようなルールづくりをしたり、
エリアマネージャーだったら、「エリアマネージャーの仕事ってこういうこと」という業務の見える化をしっかりしていって、「自分も管理者やマネージャーになりたい」という人が増えたらいいなと思ってます。
その最初のルールのところを、定期巡回サービス土屋福岡の長谷川伸さんや横浜港北の志賀和弥さんという仲間と今も話し合ってつくっているところです。
「マネージャーになってしんどい」じゃなくて、「なれてよかったね」と思ってもらえるように――入社された方にとっても、
上を目指そうと思う方にとっても働きやすい、そんな定期巡回が目指せたらなと思ってます。
プライベートもそれに付随するんですが、ON OFFがしっかりできるような環境を目指しています。
今、チャットワークやSNSが普及して、いつでも人とコミュニケーションが取れる反面、
切り替えがしづらい面もあると思うので――仕事とプライベートをしっかり切り替えられるようなルールづくりをしてプライベートも充実させたいなと思ってます。
―三ツ橋さんは介護の仕事をなぜ続けていると思われますか?
そうですね。介護の仕事は「ありがとう」が飛び交っていて、自分自身を成長させてくれますし、いろんな人の生きている歴史に触れられることで、常に勉強ができる。
だから続けてるんだなと強く思います。
最近、職位によって幸せにできる範囲が変わってくるな、と思っているんです。アテンダントだったら現場のクライアントを、コーディネーターだったらアテンダントたちを幸せにできる。
管理者だったらその事業所を幸せにできるし、エリアマネージャーだったら複数の事業所を幸せにできる裁量や権限がある――。
今の自分が幸せにできる範囲を重要視して、自分が任された任務を果たしていきたいなと思っています。