介護事業部

介護事業部 ホームケア土屋

成田龍彦

長崎 コーディネーター/管理者

相手の「どう生きたいのか」を聞かせてもらうために払うチケット代は、「自分が自分を受け入れること」かもしれない

 《interview 2026.05.26》

「介護って誰でもできる仕事なんじゃないの?」――かつて、そう思っていたという成田龍彦(なりたたつひこ)。
“モノ”と向き合ってきた製造業を経て、まったく異なる“人”と向き合う仕事へ。
ところが、介護の現場に入ってみるとそこは「外国に来たような」感覚を覚えるほど、これまでの経験が通じない場所でした。
障害当事者と、そうではない自分。
仕事としての“支援”と、“人”としての関わり――埋められないあいだの距離を前に、それでも「どうしたらその距離を縮められるか」を問い続けてきた成田。
ホームケア土屋長崎のコーディネーター/管理者として働く成田の、「できない!」からはじまった物語です。

CHAPTER1

“うまかっちゃん”が朝食だった、あの頃。

山に秘密基地をつくったり、缶蹴りやバドミントンをしたり。昭和ながらの遊びをしていましたね

―成田さんはどんなところで生まれ育ったんですか?

長崎市内の、山の上の町で生まれ育ちました。
市街地からは離れていたので、自分が住んでいる山のあたりを“天界”、平地の方を“下界”なんて他の町の人たちは呼んでて(笑)。

“下界”の平地で雪がチラチラ降ってるくらいだと、私の家のある“天界”のあたりはドカ雪になる――気候がそれくらい違う、場所だったんですよ。

小さい頃は、小児喘息とアトピーを持っていて、かなり体が弱かったんです。

喘息の発作もあるし、風邪もよくひくし、怪我もするし。
喘息のことを考えると、なんでそんな標高の高いところに住んだのかはよくわからないんですが……。

あと――恥ずかしい話なんですが、“うまかっちゃん”って知ってますか?

―九州のインスタントラーメンですよね。先日、福岡の友達からもらって、ちょうど食べました。

それがしょっちゅう、朝食で出る家庭だったんです(笑)。
私はひとりっ子で、他の家のことも知らなかったので、“うまかっちゃん”の朝食があたりまえだと思っていて――。

しょっちゅう、“うまかっちゃん”を食べてたので、小1の時はガリガリだったのが1年後には10キロくらい増えました。

そのせいかはわからないんですが、体力もついて、風邪をひいたりはどんどん少なくなって。“うまかっちゃん”パワーですかね(笑)。

家族も親戚もみんな、私の体格がよくなっていくと「大きくなったな〜」って喜んでくれたんですよね。

それで、「まぁ、このままでいいか」なんて思えて。

とはいえ、喘息はあったので、体育の授業とかではさすがに激しい運動は苦手だったんですが、親に勧められて水泳もやってみたり。

体力もつくし、「ちょっと痩せるかも」なんて思ってたんですが、結局、休み時間にお菓子を交換したり、食べたりが楽しくて、痩せはしなかったですね(笑)。

でも、体力がついたおかげでその後、喘息の薬をやめることはできました。

もともと体格がよかったのもあると思うんですが、威厳もないし、まわりからも「成田なら……」なんて思われたり。

ある意味、いじられ慣れてる、とでもいうか(笑)。
そんな感じで育ってきました。

それと、ボーイスカウトに入ってたので、大人と触れ合う機会がすごく多かったんですよ。

大人がたくさんいる場所でもあまり物おじしない。誰とでも喋れちゃうこどもでした。

―こども時代のエピソードが盛りだくさんですね(笑)。遊びはどんなことをしていましたか?

そうですね。何して遊んでたんだろう……。
住んでいたのが集合住宅だったので、家の近所に友達もいて、山に秘密基地をつくったり、缶蹴りやバドミントンをしたり。

昭和ながらの遊びをしていましたね。

それから小学校の課外活動では、担任の先生から「やりたい人達でドッヂボールしよう」なんて声をかけられると、「やります!」なんて答えて。

中学生では夏にペーロン大会(中国から長崎に伝わった細長い龍のような形の船の競漕)があるのですが、中学校の体育大会が終わって、やる気をどこに向けていいか分からない連中で、平日毎日練習して出場したりと、そういうイベントにはよく参加するような子でした。

遊戯王カードもあった時代だったので、そういった遊びもしていたんですが、山に入って遊ぶとかが多かったかなぁ、と思いますね。

泣き真似 〜旅行先にて〜

CHAPTER2

工業高校から高専、そして重工業メーカーへ

太陽電池や自然エネルギーの研究室での学びを活かして

その後、工業高校に行ったんです。
なんで工業高校に行ったかというと――祖父が重工業メーカーに勤めていて、「そこに入ってほしい」というお願いがあったり、私自身も勉強があまり好きじゃなかった。

「進学校に行って勉強ばかりになるのは嫌だし、工業高校なら公立でお金もそんなにかからないし、祖父の言った道にも行きやすいかな」……進路を決めたのはそれぐらいの感覚でした。

ただ、高校の記憶がほとんどなくて。
この間、同窓会に行ったんですが、みんな過去の話で盛り上がっていたんですが、自分は全然覚えていませんでした。

一生懸命、部活をやっていたのと、あとはひたすら遊んでいた記憶しかないんです。

クラスが同じだった親友と、授業をサボってカラオケ行ったり。

高校を卒業したら、「祖父が言っていた会社に入ろう」と思っていたんですが、私以外にもうひとり、その会社に行きたい人がいて、そいつの方が成績が良かった。

クラスからひとりしか受けられない決まりがあったので、「あぁ、そうなんだ」って――。

「どうしようかな」と思っていたんですが、工業高校から高専(高等専門学校)に編入するルートがあったんですよ。

それで、高校を卒業して、5年制の高専に編入をして、そこから祖父が言っていた大手重工業メーカーに入りました。

高専はものすごく楽しかったですね。

高専というと、ロボコン(全国高等専門学校ロボットコンテスト)のイメージがあったので、「自分に合うかな」と心配もしていたんですが、アクティブで性格もさっぱりしてる人が多くて、まわりとも気が合いました。頭のいい人が多かったので、勉強はやばかったですけどね。最初のテストは11教科中9教科赤点(笑)。

入学して3ヶ月くらいは編入生同士で「どうする?やめる?」なんて言いながら過ごしてました。

―重工業メーカーに入社してからはいかがでしたか?どういった分野に関わられていたか、その辺りも伺いたいです。

高専では、5年生になると研究室に入るんです。
私はそこで太陽電池や自然エネルギーの研究をしていた教授の研究室で学んでいました。

それもあって入社してからは、太陽電池の製造部門に配属されて。

製造スタッフといってホームケアでいうコーディネーター職のような、実際にものをつくる作業員ではなく、働く人たちの安全管理や生産管理、品質管理といった裏方の業務をしていました。

ですが――事業が継続できなくなり、半年後に異動になって。

その後に配属されたのがリチウム電池――家庭/事業用蓄電池およびシステム――をつくる部署だったんですが、そこも2年ぐらいで事業撤退になってしまって。

その後、火力発電の部署に移ったんですが――そもそも高専で研究していた太陽電池は、再生可能な自然エネルギーということもあって興味を持っていたんです。

でも、火力発電は大量の石炭を使ってエネルギーをつくる点等、環境への負担も大きく、入社した時の思いとは真逆の部署で働くことになって。

その部署には6年ほどいたんですが、なかなか合わずに、退職を決めました。

CHAPTER3

介護の仕事へ――「みんな笑顔でめっちゃ喜んでた」っていう場面をふと思い出して

「普段、障害者と出会うこともないし、こどもだからどう接したらいいかもわからないし、行ったところで『何したらいいの?』」――ボーイスカウトの時の記憶

―そこからはどんな道に進まれたんでしょうか。

工業系の学校を出ていたので、製造業の仕事を探したり、転職サイトに登録して他の職種を調べたり――いろいろしていたんです。

義理の弟が大工をしているんですね。
一人親方で、「ちょっと手伝わん?」って言ってもらって、少しの期間大工の仕事を手伝っていたこともありました。

その時に、登録していた転職サイトで、土屋の前身の会社からのオファーが来たんです。

ちょうどプレスリリース等を調べていて見かけた会社だったので、「ああ、あの会社や」と。でも調べてみたら工業系の仕事でもなくて――。

ただ、ボーイスカウトに入っていた時に、障害者施設に訪問する活動をしていたことを思い出したんですよ。

当時は、「普段、障害者と出会うこともないし、こどもだからどう接したらいいかもわからないし、行ったところで『何したらいいの?』」――なんて思ってたと思います。

でも施設に入所されていた方が、なんでかわからないけれど、「みんな笑顔でめっちゃ喜んでた」っていう場面を覚えていたんです。

そのことをふと思い出して、「ちょっとやってみようかな」って。

正直なところ、ボーイスカウトの他の団員の中には、障害者と接することに一歩引いてしまっていた人もいました。

でも自分は全然抵抗がなかった。
「もしかしたら合うかもしれない。まぁ、合わんかったら辞めればいいか」ぐらいの気持ちで、重度訪問介護(重訪)の仕事を始めました。

国東半島にて

CHAPTER4

当事者と、当事者ではない人。埋められないその距離を、どういう手法で支援していけば縮めていけるだろう

介護って、そうやっていろんなクライアントと携わりながら、自分の価値観や人間力を培うことができる仕事なんだ

―未経験から介護の仕事をはじめられて、最初はどんなことを感じましたか?今も覚えているやり取りなどあったら伺いたいです。

私が最初に支援に入らせていただいたクライアントが脳性麻痺の方だったんですが、当初、関係をつくることがなかなか難しかったのは覚えてます。

障害やお体の状況からご自身の思いを伝えづらい、といったところもありましたし、アテンダントが変わったり、クライアントご本人も「体が動かせない」「自分が思ったようにヘルパーが動いてくれない」といったところでイライラや憤りを感じられていたんだと思います。

でも――私自身も未経験だったし、どんな人かも全く知らない他人に介助をしてもらうなんて、そんなすぐに受け入れられなくてあたりまえですよね。

言葉では「お疲れさま」なんて労ってくださったけれど、「本心じゃないなぁ」ということも伝わったので、「どうしたらいいかな」ってずっと考えながら関わっていました。

当事者と、当事者ではない人の感覚ってどうしても埋められない溝があって――でも、「埋められない距離を、どういう手法で支援していけば縮めていけるかな」ってずっと考えて、できる範囲で一生懸命関わりました。

クライアントから初めて、本当の「ありがとう」が聞けた時は「あぁ、良かったな」って思いましたし。

その方法が正解か、間違いかはわからないんです。
でも、そのクライアントに対しては「これで合ってたのかな」って。

そんなことを感じながら関わっていました。

重訪は、クライアントが暮らす家に伺って、その人の生活に入っていくというかたちの介護です。

「信頼関係は絶対に必要だ」という意味でのプレッシャーを感じる一方で、「普段は人の生活って見られないけど、この仕事ではそういうところが見られて面白いな」という個人的な思いもあったり。

いろんな人の生活や価値観を感じることができたのでね。

「介護っていろんなクライアントと携わりながら、自分の価値観や人間力を培うことができる仕事なんだな」ということに早めに気づけたので、自分には合ってる仕事だったし、「楽しいな」と思って続けられたんですよ。

―障害を持ってる方と関わる時、「自分は当事者じゃない」ということを突きつけられる瞬間ってあると思うんです。私自身もそう感じたことが何度もあります。もちろんそれは関係ができてくる中でちょっとずつ変わってくるんですが。成田さんが関係をつくっていく中で感じたこと、どんな変化があったのか――今ももし悩んでいたら「悩んでる」でも全然いいですし――もう少し伺ってみたいです。

そうですね。
たとえば――直接的ではないんですが、「俺だって体が動かせなくてつらいんだ」といった内容をクライアントが仰ったことがありました。

その時に、安易に「そうですね」って同調するのも違うな、と私は思っていて――。

その時は素直に「ごめんなさい。自分はその状況を経験したことがないから、その言葉に同調するのはとても難しいです」とお伝えしたことはありました。その時だけの気休めに、適当に応える――そういう関わりも「違うな」と思ったんです。

ただ、同時に「自分ができることはやりますから、遠慮せずに言ってください」ともお伝えしました。

「その人が、その人らしく生きれるようサポートはしていきます。できないこともありますが、できる範囲内でやっていくので、そういう時は言ってください」、って。

あとは障害あるなしに関係なく、「人対人として関わる」というところは常に意識してますね。
これはいいのか悪いのかはわかりませんが、実際にクライアントと言い合ったこともあります。

クライアントからのある提案に対して、「それは違うんじゃないか」、と。
重訪は在宅での介護で、1対1の関わりという面もあって、その線引きってお互いに間違えやすいんです。

でも自分が素直にそう伝えられたことで、その一件からお互いが言いたいこと言い合える関係性にもなったんですよね。

ケースバイケースなので、「これが正解」ということは一概には言えません。
でも、常に思いや考えを伝え合いながら関係をつくっていく意識がお互いにないと、どちらかに負担がかかってしまうことがある。

クライアントからの要望を安易に全て受け止めることや、こちらが悪くないのに安易に謝ることはちょっと違うんじゃないかな……と支援に入っていると思うところはありますね。

CHAPTER5

対話が、できない!――介護の世界に入った時、外国に来た気分だったんです

「介護って誰でもできる仕事なんじゃないの?」って思っていたけれど、始めてみたら、「これは誰でもできる仕事じゃない」「これは究極のサービス業だ」と感じました

―先ほど、「人対人として関わる」と仰いました。介護の仕事において、それから人として関わる時に、どんなことを大切にしながら関わられてるかを伺ってもいいですか。

そうですね。まず素直さですね。
それと、相手への配慮は大切にしてます。

配慮というのは――さっき言ったように、一方通行だったり、過剰だったり、不足があってはダメだなって思うんです。

「そこ、配慮できるやん」っていうところはちゃんと配慮しないといけない。

これは介護の世界に入ってから、というわけでもないんですが、それでも土屋の現場に入ってからは特に、配慮の大切さを感じてますね。

―成田さんの言う“素直さ”というのは、実は盲点というか――。“素直さ”って、「何かができること」以上に、仕事において大切だなぁ、と思います。でも、最初は頑張ろうとしちゃうじゃないですか、どんな仕事も。でも「なぁんだ、素の自分でよかったのか」みたいに気付ける瞬間があると思うんですね。成田さんが“素直さ”に行き着いたのはどんなところからですか?

自分はB型ひとりっ子で、もともとの性格がわがままというところもあって、どうしてもすぐボロが出るんですよ(笑)。

結局、いろいろ取り繕ったり、猫をかぶって関わっていると、どこかで必ずボロが出るんです。

だったら、はなから着飾るのはやめて、素で接した方がいいのかな、とは思ってます(笑)。

正直なところ、重訪の仕事は「合う、合わない」もあります。

先ほどの話と繋がるところもありますが、双方の関係性の上に成り立つ仕事なので、アテンダント側が無理をしていると、最終的にクライアントにも嫌な思いをさせてしまう、ということが多々あるんです。

支援現場には複数のアテンダントが関わっているので、そうなると現場に関わる人誰もがいい思いをしないんです。

だから自分に限っては、はなから「こういう人間です」っていうスタンスで関わってますね。

それは自分がコーディネーターや管理者になって感じてもいます。

―製造の仕事から、介護の仕事に転職されたことで見えてきたものってありますか?それから、介護の仕事を続けていく中で成田さん自身が変化してきた部分があったら教えてください。

製造業の時はやはり、「モノ」を相手にしていました。

でも、「モノ」も直接つくっていたわけではないし、自分たちがつくり上げた「モノ」を使うエンドユーザーと会うこともなかったので、商品が良かったのか悪かったのかもよくわからない。

「自分がやっている仕事って本当に役に立ってるのかな」っていう疑問がずっとあったんです。

一方で対人の仕事は、実際に現場に行き、クライアントと出会って、帰る時に「ありがとう」って言ってもらえて、すぐに“リターン”がある。

そこはやっぱり嬉しかったし、「自分が役に立ってるんだな」っていう実感を得ることができました。

その喜びは、重訪の仕事をして初めて知りましたね。

それから、変わってきたところは――この仕事に就いて、いろんな人と出会えたんです。

製造業は基本的に理系出身の方が多かったし、仕事のやり方も「根拠をもとに理詰めで話す」ようなことが多かった。

だから、介護の世界に入った時、外国に来た気分だったんですよ。

―外国、ですか…!

「どうコミュニケーション取ったらいいんやろう」「会話が、対話ができない!」って。
それはクライアントだけじゃなく、当時の上司も、アテンダントにもそう感じていました。

目の前で起きてることに「今まで生きてきた経験の中には、答えがない!」感じというか――。

それでも、続けていく中で、表面的な言動だけじゃなく、言葉の裏に隠された思いや深層心理といったところまで――ある程度、それはこちらの憶測にはなってしまうんですが――しっかり考えながらやり取りをしないとトラブルを生むんだな、と考えるようになりました。

クライアントとのやり取りはもちろんですが、重訪は直行直帰の仕事なので、アテンダントの方と直接会って話すことも少ない。

だからこそ、コミュニケーションの幅がとても広くて、使ってきた言語や方法を更新していかないとやり取りにならないことがたくさんありました。

介護の仕事なので、当然、技術や知識から成る“介護力”は必要なんです。でもそれ以上に、「人間力が必要な仕事なんだ」、って。

私は正直なところ、この仕事を始める前は「介護って誰でもできる仕事なんじゃないの?」っていう感覚を持っていました。

ごめんなさい、って感じです。

でも始めてみたら、「これは誰でもできる仕事じゃない」――というか、めっちゃ難しいし、「これは究極のサービス業だ」と感じた。

介護の仕事に対する意識も変わりましたし、人間力に関しては、この仕事においてはもちろんですが、自分自身が今後、どう生きていくかにも繋げていける仕事だな、ということは強く感じましたね。

長崎・夜の旧グラバー邸

CHAPTER6

固定された関係を超えて――同じ目線に立って考える

「介助する、介助される」という役割から、「人対人」として関わること

―アテンダントからスタートして、今はコーディネーター、そしてこの春から管理者になり、関わり方や見えてくるものも変わってきてるのかなと思います。今はどんなところにやりがいや嬉しさを感じられてますか?

そうですね。
アテンダントの時は対クライアントの関わりだったのが、コーディネーターや管理者になってからは、「対クライアントはもうアテンダントのみなさんに任せて、自分たちは対アテンダントでやらんといかん」って思うようになりました。

クライアントはアテンダントが守る。
だからコーディネーターや管理者がアテンダントを守らないといけん、と。

アテンダントの時は、現場で勤務を交代する時とか、同行研修の時ぐらいしか他のスタッフと会う機会がなかったんです。

でも今は、コーディネーターとして、積極的に自分から現場に行って、クライアントと話したり、アテンダントともコミュニケーションを取るよう心がけてますね。

その中で、アテンダントが抱えるそれぞれの思いや支援現場の課題も知りました。

それをどうにか解消していかないと、と思います。

一方で、お給料をもらって働いている以上は、“介護のプロ”としてアテンダントに求めなければならないこともあります。

その折り合いをどうつけるのか――もちろん、それぞれの思いや希望は叶えてはあげたいんです。

でも限られている選択の中で、現場やアテンダントごとに支援や待遇の差が出てしまうのはいけない。

平等性を保ちながら、それぞれの希望は叶えてあげたい――いつもそこで悩んでますね。

限られた情報から何を読み取ってどれだけの配慮をする必要があるのか。そこを考えるのが難しいな、って思います。

―成田さんが書かれたコラムの中に「単に何かを“やってあげる”のではなく、クライアントの意思を尊重し、その人が「どうしたいのか」「どう生きたいのか」を、心に寄り添い共に考えることが重度訪問介護の核心」という言葉があり、とても心に残りました。その感覚を体現したクライアントとのやり取りや支援の場面があったら伺いたいです。

そうですね――クライアントが「本当は◯◯したいけど、難しいよな」って思ってることっていっぱいあるんですよ。

「制度上、◯◯はアテンダントに頼んではいけない」っていうところも理解してくださってるところもあるので。

あるクライアントが、「父の墓参りに行きたい」と言ってくださったことがありました。「どうにかして行けんかな。

もうちょっとで命日さね」みたいな話をしてくださってーー制度上、支援として実現することの難しさもある中で、その方の思いに触れて「どう生きたいのか」「自分は何ができるのか」を考えるきっかけとして印象に残ってます。

実際には、お墓の環境面の事情もあって、クライアントが希望された形での実現は難しい部分もあったんですがーーでも、それが支援として実現できる・できないに関わらず、“人として”、心の部分で話をし合える関係性は大事にしたいですね。

出会えたことってやっぱり縁なので。

そうそう、野上さんはクライアントインタビューでインタビューをされた立野雄三さん(たちのゆうぞう/ホームケア土屋長崎クライアント)を覚えてますか?

クライアントインタビュー 
立野雄三(たちのゆうぞう)さん(ホームケア土屋長崎)
https://homecare-tsuchiya.com/blog/client/13119/

―ええ、覚えてます。やり取りも含め、印象に残るインタビューでした。

私は立野さんの支援に今も入っているんですが、立野さんはボランティア活動をされていて、毎年、イベントをやっているんです。

そこで外部の方を呼んで講演をしてもらったり、話を聞いてもらう機会があって。

ちょうど、先日、イベントで立野さんが「何を話そうかな」ってなった時に、「支えられる側の話だけじゃなくて、支える側の話でもあった方が面白そうだな」って言ってくれて、「成田さん、登壇してくれない?」っていう相談があって、ふたりで話をしました。

立野さんは重訪の制度がまだない頃、障害当事者のところにボランティアに行っていたんです。

だから立野さん自身も支援する立場に立っていた経験があるんですね。

立野さんは、「ヘルパーの研修等で『介助する側は介助される側のことを考えて介助しないといけないよ』っていうことをよく言うけれど、『介助される側も介助する側のことをちゃんと考えないといけないよね』」という考えを持っていて。

介護は――特に重訪は――固定された関係を超えて、対話を重ねながら関わっていかないといけないんじゃないか。

講演ではふたりでそんな話をしました。

だからこそ、クライアントから「難しい」とか「できない」っていう声を聞いた時に、「それは制度上、難しいです」とか「自分はできないです」って言うんじゃなくて、「どうしたらできるかな」を一緒に考えるんです。

「どうしたらいいだろう」って同じ目線に立って考えることで――もしそれが結果としてできなかったとしても――考える過程や時間をともに過ごしたことで、お互いに納得や満足ができるんじゃないかな、とは感じます。

そういったところは意識して関わってましたね。
そのおかげで、(クライアントから)相談やご依頼をいただけることもあったのかな、とも思いますし。

ただ、アテンダントみながそういった要望に積極的に応えられるのかというと、そうではないので――今、管理者になって、自分の関わり方がクライアントにとっては「◯◯さんにはできたけど、△△さんはできない」といった問題も生み出してしまうので、安易にそういうことを引き受けちゃいけないのかな、とも感じてます。

クライアントにも理解していただきながら、でもそこの塩梅は本当に難しいですね。

CHAPTER7

人間として生まれてきた以上、最期まで人間らしく生きていくこと――私はそこを支えていきたい

単純に――私は「面白い」って思ってるんです、この仕事を。

―成田さんは、お休みの日はどんなふうに過ごされていますか?

私も妻も食べることが大好きなので、最近はドライブをしては「ここおいしそうだな」と思うお店に入って、美味しいものを食べて――そんなことばかりしてますね。

アテンダントの時はもう少し余裕があったので、体育館を借りてバドミントンしたり、公園でバレーしたり、運動もしてたんですよ。

でも最近は食べる一方なので……「これはちょっとやばいぞ」っていう話は妻としてます(笑)。

―(笑)。ではこれからのことを伺いたいと思います。ホームケア長崎で「今、こんなことを考えてる」「これからこんなことに関わっていきたい」など聞かせてください。

実は今、ぶち当たってる壁があるんです。
長崎市の方で「重訪の支給時間を100時間に減らす」という動きが出てるんですよ。

そんなことになれば、クライアントはもちろんですが、同時にアテンダントさんの仕事もなくなってしまいます。

ここ1年ぐらいはそこに対してどう動くかをずっと考えています。

アテンダントさんたちはそれぞれの現場で、本当に一生懸命頑張ってくれているので。

やっぱり今後も、仕事を続けてもらえる環境を整えていくというところを考えると、「常に各市町の状況や施策方針とか、各アテンダントさんの働き方の希望やニーズをキャッチしていかないといけないんだな」とは、今、自分が管理者になって必要性を感じているところです。

―成田さんがこうして介護の仕事を続けられている理由についてーー別の言い方をすると、この仕事を続ける原動力になっているようなものはどんなところにあるのか、最後に伺いたいです。

最初にもお伝えしたんですが、単純に――私は「面白い」って思ってるんです、この仕事を。

人と関わる仕事なので、もちろんトラブルもあります。
でも「人間として生まれた以上、常に人間力を上げていかんと」っていう考えが昔からあるんです。

その部分がすごく培われる仕事だなと感じています。
ポジティブな関わりはもちろん、ネガティブなやり取りも含めて、その部分を鍛えてもらってる感覚はありますね。

あとーー時々心がささくれることがあるんですが、そんな時に聴いている曲があるんです。

スターダスト☆レビューの『春キャベツ』って曲があるんですけど、とにかく優しいんです(笑)。

聴くのは、自分自身への慰めの意もあるんですが、周りのどんな人―ー障がいのある方にも、優しい気持ちを持てるように、そんな意も含めて聴いています。

それで気持ちをリセットして、今までお話ししたような気持ちを思い出しながら、日々の仕事に向き合っています。

自分の体が動かない、思うようにできない――障害や難病をお持ちのクライアントが、少しでも安心して在宅での生活を送るための力になれる仕事って、すごく誇らしいな、とも思いますし。

どんな状況や環境だったとしても、人間として生まれてきた以上、最期まで人間らしく生きていくこと――私はそこを支えていきたい。

その思いが自分が働いていく原動力になってると思いますね。

何度踏まれても ちょっと小振りでも 強く芽を伸ばし
まっすぐな碧(あお)で 春がそこに待っている

大丈夫だよ 君は弱くない だってその涙は
強さの証しさ はみ出したら また戻ればいいんだ

人は誰も 完璧じゃない だからみんな補いあって
切なさは僕が埋めていこう
君が君らしくいられるように

時に休みながら 頑張りすぎないように
しっかり 大地を踏みしめながら

――『春キャベツ』 スターダスト☆レビュー(作詞・作曲 根本要)より

記事にも登場されたクライアント・立野雄三さん(真ん中)。ホームケア土屋長崎のスタッフたちと

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